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2013年10月26日

木製仁丹設置時期の裏付け発見 2/2

前回の続きです。

木製仁丹の設置時期について、基礎講座に加え、前回ご紹介の『京都ダイレクトリー』に収録されている写真の画像から察するに、ピーク期を1,2年早めて、

  ① 始 期    明治43年かその直後
  ② ピーク期  大正3,4年頃まで
  ③ 終 期    大正7,8年

というところまで分かってきました。

さて、ここでもうひとつ、木製仁丹設置時期を裏付ける資料を発見しました。
当時の京都新聞(京都日出新聞)です。
京都で起きている町名表示板の設置ですから、御当地の新聞に載らないはずはないだろう!との期待的観測のもと、樂會で新聞記事を少しずつ読んでいく作業を始めました。

すると、やはり、設置時期をうかがわせる記事に出会うことができました。
これ ↓ がその新聞です。大正元年9月2日の京都日出新聞です。


~京都日出新聞 大正元年9月2日 4面より~


記事とは言っても、仁丹町名表示板に関わる直接的なものではなく、読者からの投稿欄である「落しふみ」というコーナーでした。ここに仁丹町名表示板に対する、京都市民の率直な意見が交わされていたのでありました。
赤い四角で囲った部分が、仁丹に関わる記事ですが、これでは読めないのでしょうから、以下、発見した投稿欄の記事を順番に御紹介します。


(1)大正元年9月2日 4面



●「仁丹」の広告兼用町名札は中々行届いて大層喜ばしい事であるがどうも私は「仁丹」の字が目障りになるも普通の広告方法に窮した結果こんな所にまで及ぼしたといふやうでもしこれに広告の意を現さず公共利便の為のみにせられたならば見る度にその札の奥にはそゞろ森下氏その人の人格がしのばれてそして又自と「仁丹」その物も思ひ出されて来て暗に可い広告になつたであろーに(蕗の葉)


(2)大正元年10月22日 5面



●此頃仁丹の広告を町名の上に書て町内の承諾も得ず前の札を剥取て張つたのは横暴だ然るに彼は警察が許したのだと云ふ人があるが正か其様な事は有まい(大正の浪人)


(3)大正元年11月4日 4面



●仁丹商標付の町名札は成程一挙両得的の好趣向だが何等の実用上功の無い町名其物を大書して何通何町何入の指示名を却つて小さく割書にしたのは字配の都合からかは知らぬが何だか間が抜けてゐるよ(穴さが士)


(4)大正元年11月5日 5面



●仁丹広告附の町名札に反感を持つ薬屋さん達は一ツ仁丹君の向ふを張つて各町々に広告用の街灯を点じては如何だ之れは装飾電灯よりも実用的で夜間通行者に何れだけ便利を与へるか知れないよ(世話焼爺)


(5)大正2年1月22日 4面



●(略)△仁丹の町名札を俗悪だとか何とか一概にケナシて仕舞ふた人も有つた様だが我輩は屡々利便を得た事少なからずだ王辰爾の知恵でヤツト読み得る様な古札は真ツ平だ(志賀の里人)


(6)大正2年3月13日 4面



●近頃でも無いが各辻々に仁丹の町名入り(所々間違つて居るが)広告が出来たのでどれだけ吾々の様な地理を知らない者が喜ぶか知れません尚此の頃喜ばしく思つたのは上京塔之段大正座があのいやな月夜でも暗らい〱相国寺の内に十本程街灯をたてゝくれたので夜る通行する人は非常によろこんで居ます同じ広告でも此の様なのは沢山の人がよろこんでいやみの無い広告法の様に思ひます(マイナス史)

※     ※     ※


大正元年の9月から翌3月あたりにかけ、投稿欄で再三、仁丹の町名表示板に関する投稿が見られたのです。

まず(1)です。大正元年の9月の投稿を見てみると、「中々行届いて大層喜ばしい事である」との文面があります。この時点で、市内には既に相当数の町名表示板が設置されていたことをうかがわせます。(6)の大正2年3月の投稿でも、「近頃でも無いが各辻々に仁丹の町名入り広告が出来たので…」との記載から、それ以前に相当数の設置があったことがうかがえます。


そのうえで、この木製仁丹の設置に対して、賛否両論があることがうかがえるのです。

例えば(2)です。大正元年10月の投稿では、既にあった町名表示の上に、承諾もえないまま木製仁丹を貼りつけた、と抗議しています。しかもこれを警察が許した云々…ということから、設置に当り警察の認可が必要であった可能性を示唆しています。
(5)のように利便を得たもので、やっと読むことのできる古札はまっぴら、と書いているものから見ても、木製仁丹以前から、京都の辻々もしくは各町内に、なんらかの表示板は設置されていたようです。

他方、木製仁丹に好意的な反応も見られます。
(1)のように大層喜ばしい、だとか、(4)のように、反感を持つのは仁丹とライバル関係にある薬屋だとか、(6)のように、どれだけ地理を知らない者が喜ぶか知れない、というような評価です。

興味深かったのが、木製仁丹の表記法に対する注文です。
(3)の投書では、「町名其物を大書して何通何町何入の指示名を却つて小さく割書にしたのは字配の都合からかは知らぬが何だか間が抜けてゐるよ」との指摘があります。確かに、現存している木製仁丹を見てみると、その後に設置された琺瑯仁丹とは表記法に明らかな違いがあるのです。




『基礎講座 3.表記方法 ②標準仕様』『基礎講座 3.表記方法 ⑥木製仕様』でも説明しましたが、琺瑯仁丹は通り名が大きいフォント、その下に町名が小さいフォントで記載されているのに対し、木製仁丹は通り名が小さいフォントで2行、その下に町名が大きいフォント1行で記載されている場合が多く見られます。ほぼ同じ位置に設置されている(いた)上の木製と琺瑯の対比画像でも、このことは指摘できます(残念ながら木製は既に消滅)。

おそらく、このことを(3)の投書は指しているものだと思われます。これら京都市民からの指摘を受け、琺瑯仁丹に貼り替える際には表記方法の改善が行われたのかもしれません。

※     ※     ※


以上、賛否両論、様々な意見が交わされました。それだけ木製仁丹が目立ち始めてきたということでしょう。
この頃、すでに木製仁丹の設置ピーク期を迎えていたとまで言えないのかもしれませんが、少なくとも始期は大正元年と言えるまでに絞り込めました。もう少しで明治に突入ですが、果たしてそこまでの資料が出現するかどうかですね。

また、大正3~4年とするピーク期についても、もう1,2年早めてもよいのかもしれません。

ということで、始期、ピーク期、終期の最新考察は次のようになりました。

  ① 始 期    明治43年かその直後  少なくとも大正元年は確実
  ② ピーク期  大正2,3年頃まで
  ③ 終 期    大正7,8年

~おわり~

京都仁丹樂會 idecchi & shimo-chan

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 21:58Comments(1)設置時期

2013年10月14日

木製仁丹設置時期の裏付け発見 1/2

木製仁丹の設置時期については、基礎講座で次のように推察しました。

   ① 始   期  明治43年かその直後
   ② ピーク期  大正一桁の前半(大正4,5年頃まで)
   ③ 終   期  大正7,8年

それぞれの根拠ですが、①始期については森下仁丹100年史、②ピーク期については京都府立総合資料館「京の記憶ライブラリ」で公開されている「石井行昌撮影写真資料」に写し込まれた木製仁丹と市電開通年月日などから、③終期は大正7年の市域拡大エリアの木製仁丹発見からです。さらなる詳細については、次の記事をご参照ください。

    基礎講座六 「設置時期」 ⑤木製の始期
    基礎講座六 「設置時期」 ⑦木製のピーク

さて、本題です。
これらの推測を裏付ける資料が、このほど2件立て続けに発見されました。
ひとつはピーク期を裏付けるもの、そしてもうひとつは始期に関わるものです。

※     ※     ※


先ずはピーク期を裏付ける資料をご紹介しましょう。

みなさんは「京都ダイレクトリー」なる書籍をご存知でしょうか?
私たちは誰も知らなかったのですが、この夏、京都歴史資料館の資料室で見慣れないこの書籍を手にしました。どのような性質のものかと言うと、その前書きを今風の表現で要約すると次のようになろうかと思います。

京都は千有余年の都であり、日本の文化、芸術、技術などの根源は京都にある。だから日本の文明を究めようとするには、先ず京都を知らなければならない。しかしながら、京都について記したものは数は多いものの、名勝案内だけのものや商工名鑑だけのものなど、いずれも一局面のみしか紹介しておらず、包括的に京都全体を記録したものがなく遺憾であった。大礼も行われ、京都の地位はますます向上している。そこで、名付けて「京都ダイレクトリー」を編集し、地理歴史を始めとし、政治、宗教、教育、実業その他全般、さらには古来の沿革から現状、市街および勝地案内、商工業者名鑑、各種統計などをまとめ、京都を知るとともに日本の文明の源泉を窺う資料とした。
大正4年11月


と言うことで、大正4年とありますので、ここで言う大礼とは大正の御大典のことですね。
奥付は次のようになっています。

   大正4年11月25日印刷
   大正4年12月4日発行
   発行元 京都市西三本木中切通下ル真町 京都ダイレクトリー発行所

750ページにも及ぶ超大作で、私たちの興味のあるところでは、上京区、下京区の通り名や町名の説明をはじめとして河川や橋梁、交通機関に至るまで解説されており、まさに大正4年当時の京都のまちの姿をすべて記録した“京都百科”、あるいは当時の京都を知るための“バイブル”と言えそうです。
各種業界の商店や製作所などを紹介した要覧は、凡例に”大正3年末或いは大正4年7月現在”とあるのでこの期間に取材したものと考えられます。

※     ※     ※


この要覧の中の商店の写真に木製仁丹が何枚か写っているのです。
画像が鮮明ではないのですが、明らかに木製仁丹であると言える写真に次のようなものがありました。


↑ 左端中央に木製仁丹



↑ 右端中央に木製仁丹


解説によれば上の写真は「松原通室町西入中野之町」、下の写真は「松原通烏丸東入俊成町」のはずであり、確かに原版ではそのように読み取れそうです。仁丹の商標は上にあり、通り名を小さく2行書き、そして最後に町名を大きくという木製仁丹のルールどおりの表記です。
これらの他にも、おそらくは木製仁丹だろうと思えるものも数枚あったのですが、原版ですらその程度ですので割愛します。


京都府立総合資料館「京の記憶ライブラリ」の写真は撮影年月日が明確ではなかったのですが、今回は“大正3年末或いは大正4年7月現在”であろうこと、少なくとも出版された大正4年11月以前の撮影であることは間違いありません。

したがって、木製仁丹設置のピーク期を大正一桁の前半としたのを、これを大正3,4年よりも以前であろうと、わずかではありますが、その前倒しと明確化ができたのではないでしょうか?

   ② ピーク期  大正一桁の前半(大正4,5年頃まで)
                    ↓
   ② ピーク期  大正3,4年頃まで


※「京都ダイレクトリー」は国会図書館の近代デジタルライブラリーでも見ることができます。

~つづく~
京都仁丹樂會 shimo-chan

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 07:36Comments(0)設置時期

2012年06月23日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」 ⑬まとめ



~ 設置時期のまとめ ~


以上、基礎講座六は、設置時期にテーマを絞って考えてみました。分かっている事実のみを淡々と、というのが基礎講座シリーズのスタンスではありましたが、このテーマだけはどうしても推察が多分に入ってしまいました。そういう意味では「基礎研究」と言うべきかもしれません。

さて、設置時期を順にまとめると次のようになります。

【木製の始期】 明治43年かその直後
                         ⇒ ⑤木製仁丹の始期参照
【木製のピーク】 大正一桁の前半
                         ⇒ ⑦木製仁丹のピーク参照
【木製の終期】 大正7、8年頃
                         ⇒ ⑦木製仁丹のピーク参照
【琺瑯製の始期】 大正末期(遅くとも大正14)
                         ⇒ ⑨琺瑯仁丹の始期参照
【琺瑯製のピーク】 昭和 3年まで
                         ⇒ ⑧琺瑯仁丹と昭和の御大典参照
【伏見市の時期】 昭和 4年頃
                         ⇒ ⑩京都の次は伏見参照
【右京・左京の追加】 昭和 6年頃
                         ⇒ ⑪京都への設置再び参照
【琺瑯製の終期】 昭和10年頃
                         ⇒ ⑫琺瑯仁丹の終期参照

ただし、現時点で得られるヒントを組み立てることによって得られた推察であり、今後のフィールドワークや各種文献・資料調査などにより、これらの境界がよりシャープになるかもしれませんし、見直しの結果連動してシフトするかもしれません。みなさんも何か新たな情報がございましたらぜひお寄せください。

ところで、昭和10年ぐらいには設置を終了したとして、以降はどのようになったのでしょうか。第2次世界大戦に突入、次第に鉄材不足に陥り、仁丹だけではありませんが琺瑯看板自体が製作できなくなって戦前期の終焉を迎えました。ここで、森下仁丹80年史に興味深い記述がありました。
社員が鉄材の代わりに竹を割って使うことを提案したところ、森下博は
『竹というものはすぐ腐り、長持ちしない。そんなもので仁丹の広告をするという考えには賛成でけん。仁丹は後退せんのや、前進あるのみや』
                              ~森下仁丹80年史より~
と3時間も説教したそうです。木製の町名表示板を設置し終えたにも係らず、そう期間を空けずに琺瑯製で設置し直したと考えられるのですが、いつまでも美しく輝いて退化しない琺瑯製町名表示板に、この森下博の熱い思いが重なって見えるようです。

*   *   *

さらに時がうんと流れて平成。琺瑯製仁丹町名表示板が京都に復活しました。これについては設置時期が明確に分かっており、平成23年2月10日13時30分なのでありました。



~おわり~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 17:35Comments(0)設置時期

2012年06月16日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」⑫琺瑯仁丹の終期



~ 琺瑯仁丹の終期は昭和10年か? ~


京都市における琺瑯製仁丹町名表示板の設置は、ヨンヨンイチ(昭和4年4月1日)までにピークを迎え、ロクヨンイチ(昭和6年4月1日)で周辺部の追加を行って、これで設置は基本的にはすべて終了したと考えられます。だから終期は昭和6年もしくは7年かと言いたくなるのですが、そうではなかろうという非常に興味深い表示板を2点ご紹介します。

先ずは、 東山区 一橋宮ノ内町 です。



ヨンヨンイチでは京都市のエリアはそのままに、分区という形で中京・左京・東山の各区が誕生しました。東山区の場合は旧下京区域からの分区でしたので、すでに「下京区」の行政区名で設置済みでした。

しかし、一橋宮ノ内町は 『 東 山 区 』 で表示されているのです。

最初は、「②注目の上京下京時代」でご紹介しました「堺町通竹屋町上ル橘町」の中京区と同じく巧みに改変されたものだろうと思ったのですが、接近してじっくりと観察してもそのような痕跡は一切なく、最初から「東山区」と書かれているのです。



調べてみると、一橋宮ノ内町は元々は「下京区柳原宮ノ内町」だったのが、昭和8年5月1日に「一橋宮ノ内町」へと町名変更されていました。隣の野本町も同様の経過で町名変更がされており、この宮ノ内町と同じく東山区表示の琺瑯仁丹が存在していたことも確認できています。

従来、行政区名や町名が変わっても森下仁丹としては対処してこなかったところを見ると、これらは町内からの要望があってのことではなかろうかと想像します。
となると、設置時期も町名変更早々であるとするのが自然でしょうから、昭和8年設置ではと推定できます。

ところで、この2町については「下京区柳原宮ノ内町」や「下京区柳原野本町」と表記された琺瑯仁丹が当然ながら存在していたのではないかと考えられるのですが、果たして真相はいかに?ですね。

* * * * * * * * * * * * * * * * * *

次に、もうひとつ、琺瑯仁丹の設置終期を考えるうえで貴重な個体があります。同時に非常に難解な表示板でもあるのですが。これです。




上賀茂 南野々神町 俗稱 北山町一丁目  です。

何とも不可解な表示板ではありませんか。
行政区名は上京区かと思いきや“上賀茂”となっています。おまけに”俗称 北山町一丁目”?

この表示板はすでに消滅してしまいましたが、設置されていたのは北山通の府立資料館とノートルダムの間の南側でした。現在で言えば左京区下鴨南野々神町です。

左京区下鴨南野々神町は、昭和24年2月末日までは上京区上賀茂南野々神町でした。さらに遡れば上賀茂村となります。上賀茂村はエリアを2つに分けて、大正7年4月1日と昭和6年4月1日にそれぞれ京都市上京区へ編入されており、南野々神町は前者の大正7年組でした。

では、当時の地図を順次見ていきましょう。
これらの地図は京都市の都市計画地図ですから、タイムラグが少なく当時の状況をほぼ正確に反映していたと考えて間違いないでしょう。

先ずは大正11年測図です。
印が、まさにこの表示板が設置されていたポイントとなるのですが、大正11年当時はまだ田畑ばかりであり、京都市と言えどもとても市街地ではなかったことが分かります。左に植物園があり、北山通はまだ開通していません。そして右下には明治23年開通の琵琶湖疏水分線が見られます。


都市計画京都地方委員会 大正11年測図 「上賀茂」 より抜粋


次は昭和4年修正測図です。
突如として整然な道路網を配したエリアが出現しました。周囲は従前のまま変化がありませんので、この区域のみ区画整理が施工されたことが分かります。北山通は予定地が点線で示されているのみでまだ存在せず、また仁丹を設置しようにも家が建っていません。また、現在の町名と同じ名称の地名が見られますが、その町界は従前のままであり、整然な道路網に合致させるような町界の整理はまだ行われていません。


都市計画京都地方委員会 昭和4年修正測図 「上賀茂」 より抜粋


現在、このエリアの真ん中に位置する萩ヶ垣内町の萩児童公園内に次のような石碑があります。洛北土地区画整理竣工記念碑です。



裏面には漢字でぎっしりと事の成り行きが記されており、これと昭和10年発行「京都土地区画整理事業概要」の内容とをまとめると、洛北土地区画整理組合は昭和2年11月に設立、事業の範囲は東は泉川、西は鞍馬街道(下鴨中通)、南は疏水分線、北は松ヶ崎街道の76,000坪余りであり、昭和3年6月着工、昭和5年4月竣工、そして残務整理の後昭和9年4月3日に竣工祝賀式を迎えて記念に石碑を建立した、となります。また、昭和9年には北大路通に市電が開通し、上下水道やガスなどインフラ整備も完了していたようです。

そして、次の地図は昭和10年修正測図です。


京都市土木局都市計画課修正 昭和10年修正測図 「上賀茂」 より抜粋

家も立ち並び、この頃ともなれば仁丹の設置も可能だったであろうと推察できます。したがって、問題の「上賀茂 南野々神町 俗稱 北山町一丁目」の表示板の設置時期は、どうやら昭和10年頃かそれ以降というひとつの手掛かりが得られました。

また、北山通は全通していないものの本格的に姿を見せ始め、区画整理は昭和4年の地図と比べると南下し、”文化村”と称されたエリアとも連続性を持つようになっています。

下鴨神社から北大路にかけてのエリアは先に「郊外」として発展し、多くの学者や芸術家が好んで居住したことから”学者村”とか”文化村”などと呼ばれたそうです。町家が並ぶような旧市街と明らかに一線を画した街並みと雰囲気が形成され、そのような態様がそのまま北部へと膨らむことが想定されたのでしょう、先の「京都土地区画整理事業概要」では、洛北土地区画整理事業の項で、京都市における区画整理区域では随一の高級住宅街として発展していくだろうと、その期待が込められています。

そのとおり、確かに現地は高級住宅街に発展しました。ほとんどの家屋はすでに建て替えられていますが、それでも昭和ひと桁の匂いが色濃く残る外構などから当時の地域の様子が伝わってきます。ただ、仁丹が設置されていたとはとても思える雰囲気ではないのですが。

さて、再び、「俗稱 北山町一丁目」なる表現のことです。
俗称と言うからには、公称ではなかったことを意味するわけですが、以上のような背景を考えると、今までの京都ではない新京都という自負も込めて、ちょっと洒落た呼称を地元が望んだのでしょうか? あるいは開発業者が先導したネーミングだったのでしょうか? 想像は色々と浮びます。真相解明のため、思いつく様々な文献や資料をあさってみましたが、もう一歩ということろで今のところ手が届いていません。

  * * * * *

しかしながら、求めている答を示唆するような資料には2つ出会うことができました。

そのひとつは、昭和6年11月発行の「京都の都市計画に就いて」です。
これは区画整理施工後の地域について、改めて町名や町界を見直そうと当時の各界第一人者を集めた「町界町名地番設定調査委員会」の議論をまとめたものです。今で言う審議会の答申のようなものなのでしょう。確かに整然とした街並みが出現しても町界がぐちゃぐちゃでは区画整理が完成したとは言えません。新名称の選定には伝統を保持しつつ新京都に相応しいものであり、町界や住所表示は新たな道路網を生かすことが当然ながらスタンスとなっていました。
その中に、次のような非常に興味深い下りがあったのです。

三、町界町名地番の標示

町界及各辻角に町界町名地番の標示をなす

(理由)
旧市街に於いても既に各町の要所々々に仁丹製薬会社の町名標示板を用ひつつあるも、本案の如く新市街がブロックの中心線より町界を定むる場合に於いては斯くの如き標示方法は特に必要なりとす

これは北大路通の北、鴨川の西エリアに関する項での記述ではあったのですが、仁丹町名表示板が公的な文書に登場していたということもさることながら、同時に仁丹町名表示板がすでに市民権を得ていたこと、調査委員会が町名の表示方法として選択肢のひとつであるかのように例示していたということは非常に重要なポイントとなります。つまり、宣伝活動として森下仁丹側から積極的に設置したというよりも、地元からからのオファーもあり得たとも考えられるのではないでしょうか。

そして、もうひとつの資料は、京都府立資料館の「京の記憶ライブラリ」にて公開されている「京都市明細図」です。
これは大日本聯合火災保険協会京都地方会が昭和2年に作成した住宅地図のようなもので、その後の変化を加えながら昭和25年頃までの状況が記録されています。一昨年に公開され、五条通や堀川通の建物疎開前の状況が分かるというので新聞やテレビなどでも話題になり、記憶に新しいところです。

この一連の資料群の中の「京都市明細図NE25」では下鴨北園町の様子が記録されているのですが、東西の通りが北部より順に北園町一丁目、二丁目と続き六丁目まで名称が付けられているのです。ちなみに、この二丁目が今で言う北泉通です。

となれば、北山通を北山町一丁目として、東西の通りを南へ順に北山町二丁目、北山町三丁目と呼ばれていたということが十分に考えられます。

それを確認するには京都市明細図NE25のもう1枚北側の明細図を見たら分かるのでしょうが、これがあいにく欠落しているのであります。Webで公開がされていないだけで実は存在しているのかもと問い合わせたのですが、やはりないとの返事でした。もう一歩ということろまで迫ったのですが残念です。
どうやら上賀茂や松ヶ崎とのラインが北限のようですね。

実は、先の「京都の都市計画に就いて」では、町割は新たな街路で作られるいくつかのブロックで構成し、その中央を通る道路に「公称名」を与え、その1本北の通りは例えば○○北通、南は○○南通りなどといった「通称名」を使用させ、しかも通り名と町名を同じにするべし、などとの提案もしているのです。そして、新町名が続々と登場するだろうとも言っています。

これは旧市街における通り名を組み合わせた上に町名を付けるという表示方法は非常に煩雑で非効率的であるが、特定しやすいというメリットもあると認め、新市街ではそれらの良いとこ取りを行おうとしていたようです。ただ、これは昭和6年の時点でのことですから、その後どのように推移したかは研究不足で分かりません。紫竹界隈ではなるほどと思える節もあるのですが、やはり地域によって様々な事情があったのではないでしょうか。

ということで、断片的な資料からあまり想像を膨らませては確度が下がるのですが、もしかしたら洛北土地区画整理エリアのうち、南部は北園町で、北部は数個の小字を”北山町”に統合しようという動きがあったのでは?と連想してしまいます。結果は、北山通以南では町名の統廃合をせず、町界をすっきりと街路に合うように見直しただけとなったようですが。

  * * * * *

以上、まだまだ解明不足ではあるのですが、この「上賀茂南野々神町 俗稱北山町一丁目」なる個体は、様々な課題を与えてくれました。現在のところ最後の琺瑯仁丹の設置になるのではないかと考えられます。そして、それは昭和10年頃であろうと。
また、”俗稱北山町一丁目”については今一歩というところで未解決のままですが、地元からの要望に応じたものであろうと現在のところ考えられます。
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 18:30Comments(4)設置時期

2012年05月27日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」⑪京都への設置再び



~ロクヨンイチの追加設置~


琺瑯仁丹で表記されている行政区名には上京区と下京区の他にも、「左京区」と「右京区」があります。その数は、私たちが確認した中ではわずか1.6%にしかすぎませんが。
また、厳密に言えば実は東山区もあるのですが、この話は次回にさせていただきます。

「左京区」と最初から表記されているものは、現在・過去において確認できたものは次の16枚でした。
松ヶ崎・・・6枚 , 上高野・・・4枚 , 一乗寺・・・2枚 , 修学院・・・2枚 , 山端・・・2枚

「右京区」と最初から表記されているものは、同じく次の5枚でした。
花園・・・1枚 , 太秦・・・1枚 ,  嵯峨野・・・3枚



つまりいずれもが昭和6年4月1日に京都市に編入された愛宕(おたぎ)郡修学院村、松ヶ崎村、葛野(かどの)郡花園村、太秦村などのエリアです。

これは、ヨンヨンイチすなわち昭和4年4月1日までに当時の京都市域に完璧に設置を終えていたところに、ロクヨンイチすなわち昭和6年4月1日の市域拡大に対応して、追加設置したものと考えられます。

このロクヨンイチで編入された周辺部の自治体にはこれらの他にも、上賀茂村、大宮村、鷹峰村、西院村、梅ケ畑村、嵯峨町、梅津村、京極村、松尾村、桂村、川岡村、吉祥院村、上鳥羽村、竹田村、深草町、堀内村、下鳥羽村、横大路村、納所村、向島村、山科町、醍醐村など数多くあるのですが、しかしながら現時点では設置が確認されていません。

嵯峨町は旧太秦村大字嵯峨野ではなく、こちらは天龍寺から釈迦堂などにかけてのエリアです。すぐ西の嵐電沿線の嵯峨野界隈で複数枚確認されているのですから、当時から観光地であることも考えれば設置されて当然でしょう。深草村にしてみても京都と伏見を結ぶ本町通り(伏見街道)沿いであり、さらに第十六師団もあったことからこれまた設置されていたとしても何ら不思議ではありません。また山科町も東海道沿いにと思います。それでも、やはり見つかっていません。考えれば考えるほど、様々な想像が湧いてきます。

  ・数は少ないものの律儀にすべてに設置されたが消滅している。
  ・桂川や京都盆地や広大な田畑などによる街の不連続性が原因している。
  ・飛び地を作らずに中心部から順次拡大設置していく途上で終焉を迎えた。
  ・広告益世なる判断基準の結果から、周辺部は設置されなかった。
  ・拡大していく「大京都市」に付いていけなくなった。

ロクヨンイチで大京都市の面積は一気に広がりましたが、設置対象となる家屋は少なかったはずです。森下仁丹のエネルギーを考えれば大京都市エリア全体に設置もできたであろうと想像するのですが、ここはやはり広告益世の判断結果が出ているのではという印象を強く持ちます。さて、真相はいかに?

いずれにせよ、ロクヨンイチで京都市に編入された地域のうちの一部で追加設置がなされたことは間違いなく、それはそう時間をおかず、昭和6年中にすみやかになされたと考えてはいかがでしょうか。

  【右京区・左京区表示の追加設置】 昭和6年中に?
     (答は昭和6年4月1日以降にあり。おそらくは誕生早々に。)
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 10:53Comments(2)設置時期

2012年05月21日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」⑩京都の次は伏見



~ 伏見市の設置は昭和4年か? ~


ヨンヨンイチ、すなわち昭和4年4月1日までには京都への設置を一段落した琺瑯製仁丹町名表示板は、次に伏見へ移ったと考えられます。

「基礎講座 2.伏見市の場合」でご紹介したように、現在の伏見区中心地には「伏見市」と表記された仁丹がまだ10枚強現役で頑張っています。伏見市が存在したのはほんの短期間、「昭和4年5月1日~昭和6年3月31日」のわずか1年と11ヶ月のことです。したがって、この間に設置されたことには疑問をはさむ余地がありません。

しかし、もともと京都市との合併が予定されているのに、わざわざ伏見市の名前で設置されるとは不思議ですよねぇ?

でも、紀伊郡伏見町と京都市との合併問題が取り沙汰されるようになってからは、対等な合併を目論み、その一環として市へ昇格した背景を考えれば、伏見市が誕生した早々にこれ見よがしに華々しく設置されたと考えるのが自然ではないでしょうか。

ということで、昭和4年5月1日~昭和6年3月31日の期間のうちでもできるだけ早い時期と推定し、昭和4年には設置されたと考えてはいかがでしょうか。古写真や資料などによる今後の裏付けが待たれます。



【伏見市の設置時期】 昭和4年5月以降早々に
              答は昭和4年5月1日~昭和6年3月31日の間にあり。
              伏見市誕生の背景やエリアから考え早々に。
  


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2012年05月20日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」 ⑨琺瑯仁丹の始期



~大正時代にすでに設置されていた~


昭和4年までに何千、もしかしたら万に達するかもしれない数が設置されたであろう京都の琺瑯製仁丹町名表示板。この大きなエネルギーと昭和の御大典とを結び付けて考えたくなるものですが、琺瑯仁丹の設置は実は昭和の御大典を動機としたものではなく、大正時代にまで遡ることが確認されました。

2010年10月21日に「京都ずんずん」でも紹介しましたが、京都府立総合資料館に『写真集 京の町並み ~田中泰彦編・京を語る会~』なる資料が所蔵されています。これは京都の草分け的な民族学者田中緑紅が撮影した写真をまとめたもので、その中に清水産寧坂の様子を記録したものがありました。撮影は大正14年2月18日とあります。次の写真です。


いかがでしょう。私たちが瞬時に反応してしまう白い長細い物体が写っているではありませんか。近づいてよく見てみると紛れもない琺瑯製仁丹町名表示板です。
町名は「清水二町目」と読み取れます。そして、小さな文字が数個続き最後にあの商標が確認できるのです。

「基礎講座 3.表記方法 ④併記仕様」でご紹介しました
   【併記仕様】 行政区名+町名+通り名1+通り名2+方向+商標
のパターンのようです。

残念ながら、小さな文字までは判読できないのですが、おそらくは
   「下京區 清水二町目 産寧坂通松原上ル」
であったであろうと思われます。

さて、この大正14年撮影とされる写真に、はたして琺瑯仁丹が写り込む可能性はあるのでしょうか?念のため検証してみました。

琺瑯仁丹に使われている「仁丹」なるデフォルメされた文字は、先の基礎講座六「設置時期」⑥木製仁丹の終期で紹介した大正11年撮影の広告塔が示すとおり、早くとも大正11年以降ならばその出現は可能でした。

一方、技術面実用面からはどうでしょう。
日本琺瑯工業連合会発行「日本琺瑯工業史」によると、琺瑯看板としては大阪では研究の末に大正5年に製造開始され、その後は技術進歩とコストダウンが図られて大正14年には数か所の工場が存在したとされていますので、こちらも大正後期からならば十分に可能であったと言えそうです。しかも森下仁丹のお膝元である大阪本社のすぐ近くにも工場が複数存在していたことが分かりました。

ということで、何ら矛盾はないことが確認できました。またさらに、田中緑紅は古写真の資料化にも力を注いでいたとのことですから、撮影年を記録するという重要性を十分に理解していたであろうし、信ぴょう性は高いと思います。

以上のことから、琺瑯仁丹の始期はマックスで大正11年頃から昭和4年4月1日までの間に存在すると考えられるものの、現時点で発見できている資料からすると、その始期は少なくとも大正14年2月となります。
そして、動機が昭和の御大典ではなかったものの、どうせなら御大典の昭和3年11月、いやもう少し突っ込んで博覧会の始まる昭和3年9月までにはひととおり設置を終えていたと推測するのが自然ではないでしょうか。

【琺瑯製の設置始期】   遅くとも大正14年2月
【琺瑯製の設置ピーク】  遅くとも昭和3年9月までか?

写真を根拠とするときは、常に撮影年月日が間違いないのかという問題が付きまといます。始期の補強および明確化もしくは更新のため、今後もさらなる資料や古写真を探求しなければなりません。


※2012.7.22誤記訂正  【琺瑯製の設置ピーク】 遅くとも昭和3年6月までか? → 9月に 
  


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2012年05月19日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」⑧琺瑯仁丹と御大典



~ 昭和の御大典との関連は? ~


ヨンヨンイチ、すなわち昭和4年4月1日までに旧上京・下京エリアの全域に隈なく設置されたと考えられる琺瑯仁丹。それでは、一体どれほどの数が設置されたのでしょうか?試みに考えてみました。

戦争による建物疎開や戦後の大規模開発により、現在と昭和初期とでは随分と様子も違っているでしょうが、現在の行政区の中では上京区が最も当時の姿に近いのではないでしょうか。その上京区を例にあげると、町名が約580町あります。そのうち現在過去において琺瑯仁丹の設置が確認できたのは、そのうちの約45%にあたる260町です。しかもひとつの町名に対して1枚の表示板とは限りません。2枚、3枚と複数枚設置されたケースも数多くあります。
ちなみに、2枚設置は60町、3枚設置は20町、4枚設置は7町、5枚設置は3町、そして下丸屋町は6枚設置、仁和学区の北町は7枚設置でした。残りのおよそ160余りの町は1枚しか確認できていませんが、複数枚設置されていたとしても何ら不思議なことではありません。そして、リストを整理していくと、すべての町に設置されたであろうと確信が強まるばかりです。

それは他の区も同様だったはずです。旧上京・下京エリアにあった町名の数はおよそ2,000です。複数枚の設置を考えたら、2,000の2倍3倍といった枚数の表示板が設置されていたのかもしれません。幻の“八枚ヶ辻”なる都市伝説!?も考えれば、もっと行くかもしれませんね。



これは森下仁丹が京都に対してとてつもないエネルギーを投入したことを示しているのではないでしょうか。広告益世の思想で設置された仁丹町名表示板ですから、京都は広告をする上でも価値があり、公共の役に立つということでも大きな意味があったということになります。
では、当時の京都の位置づけとはいったいどのようなものだったのでしょうか?

ちょうどその頃の京都はと言えば、三大事業や土地区画整理事業の進捗によりまちの骨格が完成に近づき、観光客の誘致にも大いに力を注いでいました。そして何と言っても昭和の御大典とその記念事業としての博覧会を抜きには考えられません。

御大典は昭和3年11月10日、京都御所にて執り行われた昭和天皇の即位の礼です。日本全国から関係者のみならず、非常に多くの国民も京都を目指したことが記録されています。当時の京都日出新聞を紐解くと、その何日も前からカウントダウンするかのうように、皇室、政府、海外からの来賓の動きはもちろんのこと、京都の町の様子や市民の様子などを様々な角度から詳細に伝えています。

~前日である昭和3年11月9日の京都日出新聞夕刊第一面~

記念事業の博覧会は京都市が主催し、岡崎公園の東会場、上京区の主税町界隈の西会場、国立博物館の南会場などをパビリオンとして9月20日から約3か月間開催されました。来場者は339万人を上回ったとされています。右京中央図書館に所蔵されている昭和3年6月発行の『御大典と京見物』なる書籍は、地方からの来訪者に対して博覧会会場への交通を懇切丁寧に説明し、ついでに京見物もしてくださいといったスタンスで執筆されています。まさしく当時のニーズに沿ったガイドブックだったのであろうと思われますし、また今読む者を当時の京都にワープさせてくれます。

また、京都を目指したのは人だけではありませんでした。新京阪鉄道(現在の阪急京都線)や奈良電気鉄道(現在の近鉄京都線)も御大典に間に合わせるべく突貫工事を行ってどうにかこうにか開業したのでした。

以上、例を挙げればきりがありませんが、都(みやこ)が東京に移って60年も経つというのに、当時の京都はまだまだ物や人を集める大きな力を持っていたことが分かります。

当時の国民の精神面については、それを窺える非常に興味深い記録を見つけました。民族学者宮本常一の『私の日本地図14 京都』の中の「関東人の京参り」という次のような一文です。

昭和21年であったと思うが、東海道線湯河原駅の近くに鍛冶屋という所在があり、そこへいったことがある。ムラの70歳から上の老人たち7、8人に集まってもらって話を聞いたのだが、その折、どこまで旅をしたかについてきいてみると、「京は京参りといって必ず参ったものだ」という。たいていは伊勢参りを掛けた旅であった。さて東京は、ときいてみると、「ハァ江戸かね、江戸は見物じゃ。江戸へはまだ行ったことがないね」という老人がほとんどであった。この言葉におどろいてしまった。江戸が東京になって80年もたっているのに、感覚的にはまだ江戸としてうけとめている。そしてその江戸には、いったことがないという。それで私はこの話を何回も方々で話してみた。関東平野に住むものでも、これに近い感覚も持っていた百姓の老人は少なくなかった。つまり日本の一般民衆は意外なほど京都を聖なる地として強く印象していたのである
~宮本常一『私の日本地図14 京都』 関東人の京参り より~

いかがでしょう。京都から湯河原を見たらもうほとんど東京といった感覚ですが、当の湯河原から見たらまだまだ心の中の中心は京都だったのですね。また、御大典当日の京都の様子を伝える昭和3年11月11日の京都日出新聞では、一般民衆の次のような行動も紹介しています。

鉄道市電でも 一斉万歳を叫ぶ
赤誠と喜悦を胸に籠め
轟く皇礼砲を合図に

10日午後3時!京都駅では…(省略)…待合室で列車を待ち合わせていた紳士も田舎びたお上りさんも老いも若きも男も女も皆同時刻前となるや胸にあふれた赤誠と喜悦がそうさせたのであろう、誰の指図も受けず三々五々駅前広場に集まり一団となって遥か御所を拝みながら声高らかに天皇陛下万歳を斉唱した。…(省略)…一方市電車内では同時刻に出雲橋畔の号砲合図に車掌の発声で乗客全部が起立万歳を斉唱し今日の佳き日を寿ほいだ
~京都日出新聞 昭和3年11月11日 より 旧字体は現行のものに変更~

このような当時の国民感情、西日本は広島県出身の森下博にしてみても、森下仁丹の社員にしてみても、同じであったことでしょう。

「仁丹町名表示板」と「御大典」、昭和4年4月1日直前に京都に注がれたこの2つの大きなエネルギーを結び付けて、琺瑯製は御大典に間に合わせるべく昭和元年から3年11月までの間に一気に設置された、と考えたくなるものです。御大典と博覧会のために多くの人が京都を訪れることになり、京都独特の住所表現を分かりやすく伝える、まさしく広告益世です。本来は行政が行うべきインフラ整備のひとつかもしれませんが、森下仁丹が買って出た、もしくは良い表現ではありませんが行政が利用した一面もあるのかもしれません。私たちも当初、そのように考えていました。

が、しかし、詳しくは次回にご紹介しますが、新たな資料の出現により琺瑯仁丹の設置が大正時代まで遡ることが判明したのです。御大典の話をここまで引っ張っておきながら恐縮ですが、琺瑯仁丹の設置は御大典が直接の契機となったのではなく、それよりももっと以前から行われていたのです。もちろん、あくまでもそれは琺瑯製設置の始期であって、昭和に入ってから御大典を意識して爆発的に増えた、という見方もできるかもしれません。引き続き新たな資料を探し求め、より精度を高めたいと思います。

最後に、御大典当日の京都日出新聞朝刊に掲載された森下仁丹の広告です。なんと、見開き2ページという力の入れようです。右の細かい文字は皇族の系譜を表したものです。


~京都日出新聞 昭和3年11月10日 より~
  


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2012年05月12日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」 ⑦木製のピーク


~ 大正ひと桁前半では? ~


木製仁丹の設置時期を考える上で、非常に興味深い写真を見つけました。

先ずは「石井行昌撮影写真資料147」です。
これは石井行昌氏が明治20年代から大正10年頃までに撮影された京都における様々なシーンの写真資料群であり、現在は京都府立総合資料館に寄託され、「京の記憶ライブラリ」として公開されているものです。
その中の1枚である№147「市電」がこれからご紹介する写真です。利用と掲載の許可を正式に得ました。


『石井行昌撮影写真資料147 市電』  原資料:京都府立総合資料館寄託
※ 赤の矢印は当方で付けたものです


写真は“烏丸通今出川下る”から交差点を北に向かって撮ったものです。
右の石垣が御所で、市電が左側(西)からやってきて手前(南)へと進み、出町方面や北大路方面へはまだ敷設されていないどころか、烏丸通の拡築がまだ北側では実施されていません。

そして、赤い矢印の部分をご覧ください。ここに木製仁丹が3枚も写し込まれているのです。
拡大すると左から順にこうです。


現物でないと確認し辛いのですが、それでも左端は明らかに仁丹であることがお分かりいただけると思います。「今出川通烏丸西入 今出川町」です。

さらに右2枚は「玄武町」です。
通り名は読み取り難いのですが、おそらく「今出川通烏丸東入」とあるのでしょう。

市電の敷設状況から撮影時期を絞り込めそうです。烏丸今出川から各方面への敷設時期を調べてみました。
   ① 西方面 大正 元年12月25日  今出川大宮まで開通
   ② 南方面 大正 2年 5月26日  烏丸丸太町まで開通
   ③ 東方面 大正 6年10月31日  今出川寺町まで開通
   ④ 北方面 大正12年10月21日  烏丸車庫まで開通

写真は①と②の開通後であり、③の開通前の状況ですから、したがって、マックスで撮影期間は大正2年5月26日~大正6年10月31日までの間と限定されます。
ただ、おそらく同じ日に撮影されたのであろうと思われる他の烏丸今出川の複数のカットからは、今出川通や烏丸通の拡築部分の地面がなんだかまだ十分に落ち着いていないように見えることから、撮影日はマックスの期間のうち結構早い時期かなという印象を持ちます。

そして、ここに木製仁丹が至近距離に3枚も写っているのです。

このことは、前回の基礎講座で紹介した「森下仁丹80年史」の記述から印象付けられる設置のスピード感を確信できるものであり、大正ひと桁前半にはすでに木製仁丹の設置をひととおり終えていたのではなかろうかということを裏付けるひとつの資料となります。



以上のことから、木製仁丹の設置時期については次のようにまとめられそうです。

 始 期 ・・・ 明治43年直後
 ピーク ・・・ 大正ひと桁の前半
 終 期 ・・・ 大正7,8年


今後の新たな資料の出現で、よりシャープになるかもしれませんし、逆に変更を余儀なくされるかもしれませんが、とりあえず現時点では以上のように想定できます。

(2014.3.12 一部修正)
  


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2012年05月05日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」 ⑥木製の終期



~木製仁丹の終期は大正7,8年?~


木製仁丹が明治43年直後から設置が始まったと仮定して、さて、いつまで木製で続けられたのでしょうか?

木製仁丹の終期、それは当然ながら琺瑯仁丹の始期よりも以前のはずです。
これらはお互いにリンクしあっているはずなので、そのいずれかが分かれば他方のヒントになるでしょう。

そのアプローチとして、先ずはトレードマークに含まれる「仁丹」の文字フォントの違いに注目してみました。



木製はまるで真面目な習字のお手本のような書体ですが、琺瑯製ではデフォルメされてデザイン性が強くなっています。

このデフォルメされたデザインは社史によれば昭和2年からの商標とされています。


森下仁丹100周年記念誌「仁丹からJINTANへ」より


しかし、80年史の中の大正11年とされる広告塔の写真にはすでにこの新デザインが登場しているのです。

「森下仁丹80年史」より

写真のキャプションは「大正11年 当時東洋随一の高さ地上33メートルの東京上野大広告塔」とあります。
この”大正11年”というのは通常撮影年を表すものと思われますが、昭和2年からの商標が大正11年に既に使用されていたのでしょうか? そのようなことはあり得るのでしょうか?

次にこの疑問を解くため、当時の新聞の広告ではどのようになっているか探索してみました。
すると大正15年4月1日を境に毛筆書体からこのデフォルメされた書体に変わっていることを発見しました。


当時の広告は、「仁丹」「仁丹のハミガキ」「仁丹の体温計」を“三大名物”として常に3点セットで宣伝しているのですが、それぞれの商品名毎に異なるデザインが採用されており、それらすべてを融合したようなものが昭和2年からとされている新商標のデザインに結びついているような気がします。

様々な広告媒体を見ていると、「仁丹」の文字部分のみならず髭の長さやカーリング、勲章などなど厳格に商標どおりというわけではなく、適宜デザインされていることが分かるのです。

昭和2年からとされる商標ではありますが、実は広告におけるデザインが先行していたのかもしれません。
と考えると、先の広告塔も大正11年撮影としてもおかしくないわけです。

したがって、デザイン上のみで言えば琺瑯仁丹は少なくとも大正11年以降は出現可能であり、それがすなわち現段階における琺瑯仁丹の始期の上限であり、同時に木製仁丹の下限でもあると言えます。


ところで、80年史には終期を考えるうえでヒントになる次のような記述がありました。
宣伝に対する並々ならぬ熱の入れようを窺わせます。

・発売と同時に突出し看板を全国の薬店の店頭に取り付けていった。全従業員は宣伝員であるという一貫した考え方で、彼らは全国の薬店をくまなく訪問して回った。かくて突出し看板は、数年のうちに全国津々浦々の薬店にゆきわたり(以下省略)

・突出し看板とともに、鉄道沿線の野立看板、そのほか人目につくあらゆる空間を利用して屋外看板を設置していった。そしてその際、これらの屋外看板の取り付けは、業者まかせではなく、すべて従業員が自分たちの手で実施するものであった。

・発売3年目の明治40年に開設された東京倉庫の仕事のほとんどは宣伝広告の仕事であり、特に看板の取り付けという業務であった。
「森下仁丹80年史」より

いかがでしょうか。
これらの記述は、設置はだらだらと長い期間をかけてなされたのではなく、スピード感をうかがわせます。
きっと京都もこの調子で毎日毎日来る日も来る日も取り付けられていったことでしょう。
そして、数年もあれば京都の町中に行きわたったのではないでしょうか。

これらのことから、木製仁丹の始期を明治43年頃としたら、せいぜい大正5,6年までには一段落していたのではないのでしょうか。
これを裏付ける非常に興味深い資料も見つかりました。次回にご紹介します。

ただ、木製仁丹の終期となると、4月9日付け「琺瑯の下から木製が!」でご紹介したとおり、大正7年4月1日に京都市に編入された上京区紫野上柏野町の例がありますので、追加的に大正7,8年頃となるのではと考えられます。

            
 2012.5.12 一部修正 詳しくはコメントをご覧ください
  


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2012年05月04日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」 ⑤木製の始期



~ 明治43年か、その直後? ~


琺瑯製設置の一大ピークがヨンヨンイチ、昭和4年4月1日よりも以前にあったとして、さらにそれ以前には木製の設置があったはずです。

木製の設置を進めている過程で琺瑯製の方が優秀とばかりに途中から変更されたとも考えられますが、木製仁丹の存在が確認できたのは今で言うところの上京区、中京区、下京区のみならず、北区の柏野や東山区は本町通りの本町十七丁目など琺瑯製に負けず劣らない広い範囲をカバーしていた節があることや、木製の上に琺瑯製を上張りしているケースも複数確認できていることから、もしかしたら琺瑯製の設置が始まる前にすでに木製の設置が一段落していたとも考えられそうです。




さて、木製の設置がいつから始まったか、つまり始期を考えるときに重要となるキーワードは100周年記念誌にある“1910年(明治43年)”、“郵便配達人”、そして基本的なことですが『仁丹』なるネーミングとビスマルク似のトレードマーク(商標)の誕生時期です。木製にはすでに仁丹とその商標が描かれているのですから。

80年史によれば「仁丹」なるネーミングが商標登録されたのが1900年(明治33年)であり、製品として発売されたのが1905年(明治38年)2月11日、ビスマルク似の肖像の中に仁丹とう文字が描かれたトレードマークは仁丹発売の前年には誕生していたであろうとされています。
現実に仁丹が発売された明治38年の広告には、すでにこの形のトレードマークが登場しています。
ちなみに郵便制度は明治初期に始まっていますので問題ありません。

これらのことから100年史にある「1910年(明治43年)から」というのは何ら矛盾するものではなく、今のところこれ以外によりどころもないことから木製の設置時期は京都にそのままあてはまるのかどうかわからないものの、とりあえず明治43年頃と推定したいと思います。
ただし、デザイン上からは明治38年まで遡ることは可能でしょうが。
  


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2012年04月27日

仁丹町名表示板 「設置時期」 ④ヨンヨンイチの検証 道路編



~道路名の変遷から~


「上京区」「下京区」と表示されているものはヨンヨンイチ、すなわち昭和4年4月1日までに設置されていた として矛盾する表示板はないでしょうか?

今回は通り名からの検証です。
仁丹の表示板では、町名のみならず通り名についても時折疑問を持つことがあります。

でも、通り名すなわち道路名の変遷を調べるのはかなり苦労しました。
なぜならば道路はまさに生きているからです。都市計画の進捗により新たに生まれることもあれば消滅することもある。また、既存の道路を飲み込みながら名称や起点終点を時期によって変えることもある。しかも通称も発生しやすい。
調べれば調べるほど混乱するばかりでした。

そこで、いっそのこととばかりに京都市建設局道路明示課へ私たちのメンバーがお邪魔して尋ねてみました。すると、昭和初期のことならとご教示いただいたのが『昭和3年5月24日付け 京都市公報』の存在でした。以降、公報にはお世話になりました。やはり一次資料が確実です。

京都市告示第二百五十二號 本市道路ノ路線名左ノ通定ム 昭和三年五月二十四日

この”左ノ通”とはなんと160本あまりもの道路でした。新路線名、旧名、起点、終点が一覧表になって示されています。まさにバイブルに見えました。
それにしてもヨンヨンイチの直前、昭和の御大典の直前という微妙な時期です。この告示内容も大いに参考にしつつ、ヨンヨンイチまでに設置されていたとして矛盾しないかを、以下に検討してみます。

先ずは次の2枚です。いずれも上七軒に設置されているものです。


同じ真盛町ですが、ひとつは上七軒の東の入口である七本松通から西入、もうひとつは西の入口である御前通から東入です。そしてルールから言えばいずれも今出川通に面していなければいけません。でも、今出川通は上七軒よりも一本南側ですよね。

さらにこのようなものもあります。


これも同じく真盛町ですが設置されている場所は、先ほどの上七軒の通りの南側に入り込んだところであり、なおかつ現在の今出川通よりは北側です。今なら御前通今出川上ル東入でなければいけません。

これら3枚から、上七軒の通りが”元祖今出川通”だったのか?という疑問が湧き起こるのです。

次の地図をご覧ください。昭和4年当時を表した都市計画京都地方委員会による都市計画基本図です。


都市計画基本図 都市計画京都地方委員会 昭和4年修正測図 「船岡山」より

右の赤い丸が千本今出川の交差点です。
市電が三方に分岐していて、そこよりも西側は市電はおろか今出川通自体がまだ拡幅されておらず、そのまま上七軒を斜めに通って北野天満宮の東門へと通じています。上七軒の南側の現在の今出川通はまだ計画路線として点線で示されているのみです。

先の告示によれば今出川通の西端は、「七本松通西上善寺町179」とありますので、少なくとも告示以降は上七軒は今出川通には含まれてはいなかったと正式には言えますが、当時の地図を見る限り、上七軒は今出川通の延長線上にあり、表示板の表現のとおりで導くことができたわけです。

ちなみに千本今出川から紙屋川まで市電が敷設されたのは昭和32年なので、その前に現在の今出川通ができたことになります。


また、今出川通と言えば、鴨川の東側の「東今出川通」も同様に気になっていました。




百万遍の交差点から叡電の出町柳駅、さらに高野川と加茂川のデルタを経て、河原町通へと抜けられる、京都としては不自然なあの斜めの通りに面して設置されています。
でも、この区間もまた上七軒と同様に、現在の東今出川通よりも1本北とも言えます。

昭和3年の告示には「東今出川通」とおまけに疑問を持っていなかった「鞠小路」についても記されていました。

東今出川通は旧名を「出町橋通」といい、「河原町通大宮町318」~「法然院通浄土寺銀閣寺町120」を結ぶとありました。
河原町通大宮町318は前述の今出川通の東端と同一ポイントなのです。ただし、現在の加茂大橋はまだ架設されていませんから、東今出川通は河原町今出川の交差点で今出川通と接続し、出町橋、デルタ、出町柳駅、百万遍を経て銀閣寺へと至るルートだったのです。

当時の様子は次の地図で一目瞭然です。


都市計画基本図 都市計画京都地方委員会 昭和4年修正測図  「田中」「相国寺」より

ちなみに昭和6年7月9日の告示によれば、加茂大橋は昭和5年4月15日起工、昭和6年5月15日竣工とあり、これにともなって、さらに昭和6年10月15日の告示で現在のルートを東今出川通と称することにし、従前の出町柳経由の東今出川通を「柳通」と改称するとしました。それにしても柳通って耳慣れないですね。昭和10年修正測図の都市計画地図を見るとその変化がよく分かります。


都市計画基本図 都市計画京都地方委員会 昭和10年修正測図  「田中」「相国寺」より

また、鞠小路通ですが、告示では旧名として「萬里小路」となっています。
でも、仁丹では萬里小路なる表現は今のところ発見されておらず、すべてが昭和3年5月24日告示後の鞠小路が使用されています。
そして、ヨンヨンイチで行政区名が上京区から左京区に変わりました。
ということは、“昭和3年5月24日~昭和4年4月1日の間に設置された”と言ってよいのでしょうか?

同様に昭和3年5月24日の告示後の道路名が使用されていて、昭和4年4月1日に行政区名が変わった表示板はほんの一例ですが、次のようなものがあります。


   岡崎通   →  旧名 「廣道」
   黒谷通   →  旧名 「黒谷西道」
   春日北通  →  旧名 「春日通」
   鹿ケ谷通  →  旧名 「永観堂前通」
   渋谷通   →  旧名 「馬町通」
   醍醐道   →  旧名 「滑石超道」

といった具合です。そして、現在のところ旧名称を使った表示板は1枚も見つかっていません。

したがって、通称の発生しやすい通り名のことではありますが、公称の表示に拘っていた節のある仁丹町名表示板のことですから、少なくともここに例示したものは昭和3年5月24日~昭和4年4月1日の間に設置された可能性が極めて高いと言って間違いないのではないでしょうか。

ヨンヨンイチで行政区名が変わらなかった上京区、下京区エリアでも、次のような通り名の変更が昭和3年の告示で確認できました。
   
   衣棚通    →   旧名 「木ノ下通」
   若宮通    →   旧名 「佛屋町通」
   下ノ森通   →   旧名 「相合圖子通」
   花屋町通   →   旧名 「萬年寺通」

これらも旧名称の通り名による表示板は現在のところ1枚も確認できていません。

しかし、告示前の旧名が使われた表示板が全くないのかと言えば、実はそうでもないのです。
この「新シ町通」です。


この表示板は、四条大宮の少し北東、今で言うところの錦小路通黒門西入にあります。
ちなみに、この表示板はとっくに消滅していたはずなのですが、つい最近復活したようです。
大切に埋蔵されていたのでしょう。嬉しいですね。

他に『新シ町通錦小路下ル藤岡町』なる表示板も埋蔵仁丹として確認しています。

それにしても新シ町通って耳にしませんが、なるほど昭和3年の告示で「黒門通」に名称変更されておりました。

これらは、もしかしたら告示前に設置されていた可能性が大きいと言えるのかもしれません。


そして最後は非常に難解な『東山線通』です。


設置されていた場所は東大路三条上るで、左より順に北門前町、東門前町、南門前町です。

東大路は東山通と呼ぶことも多くどちらが本当と思いますが、正式には東大路であり、先の昭和3年告示で「東山通」から名称変更されていました。ということは、それまでは東山通が公称であり、さらに調べると大正2年3月に東山通の告示があるようです。さらにその前はというと、次の明治42年当時を表す地図が示すように、この近辺の南北の通りは、祇園石段下から白川までの「小堀(こっぽり)通」と、古川町通しかありませんでした。


二万分の一 地形図 「京都北部」 明治42年測図 大正元年発行 大日本帝国陸地測量部

この地図が物語るように、東山通は三大事業により立ち退きと既存道路の拡幅で誕生したことが分かります。この区間における市電東山線の開通も、東山通と命名されたのと同じ大正2年3月でした。

”東山線”なる語句は市電の計画段階である明治40年頃から登場していますので、地元では新設道路が開通して東山通と命名されるよりも先に、”東山線の通”といったインパクトが強かったのかもしれません。
かくして「東山線通」とはこのエリアにおける通称だったと考えられ、仁丹町名表示板もこればかりは受け入れざるを得なかったのではと想像します。

またこのエリアでは仁丹の商標が上にあるタイプが散見されます。
上か下かによる設置時期との関係がまだ明らかになっていないのですが、東山線通のものはすべて上タイプなので、今後何らかの手がかりになるかもしれませんね。


随分と長くなりましたが、以上より道路名から考察してもも”ヨンヨンイチまでに設置された”という見解は矛盾はなさそうです。
それよりも、昭和3年5月24日~昭和4年4月1日の間に設置されたと考えられる表示板も多数見受けられるという結果を導けたように思います。

<参考文献>
  京都市公報
  京都市都市計画基本図(都市計画京都地方委員会)
  近代都市の衛生環境(京都編)33巻 京都市三大事業概要(近現代資料刊行会)
  近代都市の衛生環境(京都編)36巻 京都の都市計画に就いて(近現代資料刊行会)
  京・まちづくり史(高橋康夫・中川理・まちづくりセンター)
  83年のあゆみ さよなら京都市電(京都市交通局)
  京都市の地名(平凡社)
   


Posted by 京都仁丹樂會 at 21:14Comments(6)設置時期

2012年04月21日

仁丹町名表示板 「設置時期」 ③ヨンヨンイチの検証 地名編



~地名の変遷から~


さて、行政区名が「上京区」「下京区」と表示されているものはヨンヨンイチ、すなわち昭和4年4月1日までに設置されていたとして矛盾する表示板はないでしょうか?
大字や小字に相当する地名、そして通り名などの表示が現状と一致しなくなっている表示板について、思いつくままですが検討を加えてみました。

先ずは地名についてです。

以下はいずれもヨンヨンイチまでには表示行政区に存在した公称の地名です。




「下京区八條小坂町」など八條を冠するものは、南区は別として下京区においては、今はそのまま単に「下京区小坂町」などとなっています。
八條を付けなくなったのは昭和36年4月1日からのことでした。








「下京区梅小路日影町」は昭和35年3月29日に区画整理の関連で「下京区梅小路本町」に変わりました。








「上京区鷹野十二坊町」は昭和16年に紫野十二坊町に変わり、さらに昭和30年9月1日に北区へと分区となり、現在は「北区紫野十二坊町」となっています。







「上京区大宮上野町」は昭和30年9月1日に北区になった後、昭和35年3月29日に「北区紫野上野町」に変更となっています。








「上京区下鴨松之木町」は元々大正7年に上京区に編入された下鴨村でしたが、ヨンヨンイチの分区により左京区となって「左京区下鴨松之木町」と変わります。








「上京区鹿ケ谷宮ノ前町」のこの表示板は現在の左京区鹿ケ谷宮ノ前町に設置されているものですが、大正7年には公称として存在しており、ヨンヨンイチで左京区に変更、さらに昭和33年6月27日に鹿ケ谷宮ノ前町から分かれて現在は「左京区鹿ケ谷下宮ノ前町」になっています。







これは現在でいう東山区の「慈法院庵町」です。いつ庵町から慈法院庵町に変わったのかと調べていたところ、どうやら明治22年の市制が始まった当初から「慈法院庵町」であったようです。
公称表示を頑なに尊重している仁丹ではありますが、これは長い町名を省略したのか、はたまた誤認があったのかもしれません。









以上のことからは、行政区名が「上京区」「下京区」と書かれているものはヨンヨンイチ以前の設置と言っても今のところ矛盾は発生しないようです。
ただし、ヨンヨンイチの前後で行政区名の変わらなかった現在の「上京区」「下京区」エリアで、ヨンヨンイチ以降に設置があったとしても見分けが付かないわけですが、もしそのようなものがあったとしたら正真正銘「中京区」表示のものも1枚や2枚出現してもよさそうなものです。

なお、地名のみならず通り名の変遷による検討も加える必要がありますので、次回は道路編です。


<参考資料>  京都市地名・町名の沿革 1994年8月 京都市発行
           角川日本地図大辞典 26京都府上巻  


Posted by 京都仁丹樂會 at 08:53Comments(0)設置時期

2012年04月14日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」②注目の上京下京時代



~ 突破口はヨンヨンイチ ~


設置時期を考えるとき、誰もが先ず着目するのが上京・下京時代です。
かつての京都市、すなわち明治22年の市制施行からおよそ40年の間、大まかに言って三条通よりも北が上京区、南が下京区という2つの行政区しか存在しませんでした。

そして、昭和4年4月1日、京都市としてのエリアはそのままに、分区という形で真ん中に中京区が、東部に左京区と東山区がそれぞれ新たに誕生しました。
そしてさらに、昭和6年4月1日からは周辺地域を吸収し、京都市エリアは広がります。

「基礎講座 五」で表示板の地域別分布状況を紹介しましたが、現時点で確認しているデータ数1,300件弱のうち、なんと98%強もの表示板が、昭和6年4月1日以前の旧京都市エリアに設置されており、しかもいずれも「上京区」か「下京区」の表示なのです。旧京都市エリアの中では中京区とか左京区とか東山区とか表示されたものは今のところ1枚も出現していないという事実があるのです。(厳格に言えば東山区と表示された2点の例外があるのですが、これについては後述。)

したがって、この昭和4年4月1日、  “ヨンヨンイチ” が京都の琺瑯製仁丹町名表示板の設置時期を考えるうえで突破口になるのではないでしょうか。
琺瑯仁丹の始期でも終期でもありませんが、このヨンヨンイチまでに少なくとも京都への設置のピークが終了していたと考えて間違いないでしょう。


ところで、かの泉麻人さんと町田忍さんの共著『ホーローの旅』にちょっと面白い記事がありました。
主に広告看板を取り上げているのですが、「戦前に張られたホーロー看板」の章に、「仁丹ホーロー看板に新事実」なるセンセーショナルなタイトルの記事があります。

内容を要約すると、地元の研究家(水谷憲司氏のこと)が数年かけて1200枚も確認しているが中京区と表示されたものが1枚もないと結論付けていることに対し、中京区のものを1枚発見したので、まだまだ新たな事実が発見できるかもしれない興味深い研究対象だというお話です。だからヨンヨンイチ以降にも設置があったから新事実だというわけです。

この新事実として紹介された表示板は次のものでした。


確かにごもっとも。紛れもなく中京区です。
しかし、そんなはずはない、上京区でないとおかしいとばかりに近づいてじっくり観察するとご覧のとおり、上京区とあったものを上から修正されているのでした。



設置後に行政区名が変更されたことによる同様の改変(更正というべきかもしれませんね)は、東山区でその努力の跡が非常に多く見られるのですが、いかんせんバレバレのレベルでした。
しかし、この中京区の表示板に限っては書体もペンキの濃さも褪色の度合いも完璧に一致しており改変を成功させた数少ない例ではないでしょうか。
ヨンヨンイチの後に制作されたものと見誤るのも当然かもしれません。
実は私も最初は見抜けず、ヨンヨンイチとの関連で悩み、再び見に行って発見した次第です。

以上より、、「上京区」「下京区」表示の琺瑯仁丹はヨンヨンイチすなわち昭和4年4月1日までに、設置されたものと言って間違いはなさそうですが、次回はもう少し検証を加えてみたいと思います。  


Posted by 京都仁丹樂會 at 08:59Comments(0)設置時期

2012年04月08日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」 ①社史によれば



~ 古写真の探索を ~

 基礎講座第六のテーマは、いよいよ設置時期です。仁丹ファンのみなさんがもっとも関心を寄せておられる事柄ではないでしょうか。

 基礎講座シリーズでは個人の推察は極力排除、事実を淡々と並べるだけとし、明らかになっていないことはコメントでああでもないこうでもないとみんなで推理を楽しめたらという思いで書いてきましたが、この設置時期なるテーマについては記録が残っていない以上、必要最小限に留めたもののどうしても推察・想像が入ってしまうことをご了承ください。

 さて、大阪市にあった森下仁丹株式会社の本社は昭和20年7月24日の空襲で焼失してしまい、資料が残っていないと度々説明されてきたところです。ただ、1995年6月発行の森下仁丹100周年記念誌「仁丹からJINTANへ」には次のような記述があります。


『町名の表示がないため、来訪者や郵便配達人が家を捜すのに苦労しているという当時の人々の悩みに応え、1910年(明治43年)からは、大礼服マークの入った町名看板を辻々に揚げ始めた。当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり、今日でも戦災に焼け残った街角では、昔ながらの仁丹町名看板を見ることができる』


 そして、このフレーズは何度も何度も様々なものに引用され、いささか一人歩きをしている感がぬぐえません。ちなみに、1974年発行の「森下仁丹80年史」には町名看板のことには一切触れられていません。それが100周年記念誌にこのように具体的に明記されたからには退職者からの聞き取りなど何らかの根拠があってのことだったのでしょう。でも、一字一句このとおりに鵜呑みにしても間違いないのか、いささか疑問な点もあります。

と言うのは、京都で多数残っているからには当然にお膝元の大阪は真っ先に取り組まれた事業かもしれません。首都の東京も、大都市の名古屋も無視できないでしょう。でも、これらの街における明らかに戦前である古い写真で仁丹の町名表示板は確認されたことはあるのでしょうか? しかも“全国津々浦々”であれば、琺瑯看板ブームになって久しい今日、もう少しそのような情報に接してもよさそうなものです。各地の古写真に触れたときは探索が必要でしょう。もし御存じの方がおられましたらぜひご教示いただきたく思います。

*   *   *

 
 さて、本題である私たちが常日頃見ている京都の仁丹町名表示板の検討です。
 直接的な記録は残っていなくても、私たちは多くのヒントに取り囲まれているのかもしれません。これらを注意深く拾い集め、じっくり向かい合うことで、設置時期を考えていきたいと思います。最初はぼんやりでも方向性は間違えず、そして今後の研究で次第にピントがシャープになることを期待しています。

 木製と琺瑯製が確認できていますが、当然ながら木製の方が先だったはずです。そこで、明らかにするべき時期は次の4ポイントではないでしょうか。

   ① いつから木製で設置が始まったのか?   ・・・ 木製の始期
   ② いつまで木製で設置されたのか?      ・・・ 木製の終期 
   ③ そして、いつから琺瑯製に変わったのか? ・・・ 琺瑯製の始期
   ④ さらに、いつまで設置され続けたのか?   ・・・ 琺瑯製の終期

 以降、これらを考察していきたいと思います。みなさんもご一緒に推理を楽しんでいただければ幸いです。  


Posted by 京都仁丹樂會 at 09:32Comments(0)設置時期