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2022年06月10日

東京の木製仁丹 保存へ

この度、東京都文京区は根津神社の近くにこのような木製仁丹町名表示板のレプリカを設置させていただきました。大正時代に9万枚設置されたという東京市の木製仁丹町名表示板、本来の姿です。



当ブログでは2015年3月から1年間、「全国津々浦々の考証」なる記事を9回に分けて発表しました。これは1995年に発行された森下仁丹株式会社100周年記念誌「総合保健薬仁丹から総合保健産業JINTANへ」に記述されている『明治43年からは、大礼服マークの入った町名看板を次々に掲げ始めた。当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり』という有名な一文について根本的に検証しようとしたものです。

結果、琺瑯看板が普及する以前のことなので、これらは木製のことを言っているのだと結論付けました。そして、ここに挙げられた都市の中でその存在が当時確認できていたのは京都と東京のみでした。京都は現物と古写真で、東京は古写真でのみ確認していました。ちなみにここでは例示されていませんが、大津市でも実物と古写真で、さらに舞鶴市でも古写真で確認できています。大阪は戦後の琺瑯製は現存していますが木製は未確認、名古屋は木製も琺瑯製も未だ確認できていません。

ところで特筆すべきは東京でした。東京都公文書館から大正7~9年におよそ9万枚を設置したと当の森下仁丹(当時は森下博薬房)が回答している文書が見つかったのです。

その詳細は次のブログ記事をご参照ください。
  全国津々浦々の考証(その4)~東京で仁丹発見!!!②~
  2015年04月08日 https://jintan.kyo2.jp/e464515.html

9万枚という驚くべき大きな数字、1枚ぐらい残っていないものかと誰しも考えるでしょう。しかし、直後の大正12年には関東大震災が発生し、戦時中は東京大空襲、戦後は戦後で住居表示の実施やバブル経済の到来と、旧来の町名表示板としては壊滅的な打撃の連続でした。仮に、万が一残っていたとしても所詮は木製、判別できないほどに劣化していて見つけることはできないだろう、などと話していました。


ところがです!
ブログ「東京あるけあるけ」や「歩・探・見・感」の主宰者さんから、「これ、もしかして東京の木製仁丹の可能性はないだろうか?」との問い合わせがありました。根津神社の近くの木造家屋に付いている、パッと見“板切れ”でした。

早速、京都仁丹樂會東京支部(会員は基本的に京都市近辺なのですが、一人だけ東京に居住しているので、こう呼んでいます)が現地調査、次のような写真が得られました。雨戸の戸袋の一部としか見えませんが。



正確には、この写真は2度目の訪問時のものです。以前は、この上に金属製の他の看板が被さっていて木製仁丹の上部と下部、ほんの少ししか見えていなかったのです。詳細は知りませんが、覆っていた金属製の看板が取れているとの知らせがあり、改めて訪問すると明らかに町名らしき黒い文字が姿を現していたのでした。

最上部には行政区名として左横書きで「區郷本」とかろうじて読み取れます。東京市本郷区は昭和22年まで存在し、現在の文京区の東部のエリアでした。



次は中央部です。縦書きで「根津須賀町」と今度は明確に読み取ることができます。長年、金属の看板で保護されていたためでしょう。根津須賀町は昭和40年4月1日の住居表示の実施で、文京区根津一丁目の一部となりました。



次に地番として「四番地」が現れました。国会図書館のデジタルライブラリで閲覧できる大正元年の「地籍地図」によれば当該地はまさに四番地でした。



そして、最下段ですが金属製看板に守られていなかった部分なので劣化は進んでいるものの、かろうじて仁丹の商標の凹凸が見えます。


いかがでしょう、見えるでしょうか? こんな感じでうっすらといらっしゃいます。



町名部分などに凹凸が付いているのは、墨で書かれた部分とそうでない部分との木の瘦せ方の違いからだと推察できます。

このように東京の古写真で見た木製仁丹と書式も同じ、これはもう奇跡的に生き残った9万枚のうちの1枚と考えるべきだろうとなりました。


さて、次にどうするか?です。ここまで分かったのであれば然るべき施設で保存しなければ朽ち果てるだけです。今のうちに救い出さなくてはと、しばらく悶々とした日々が続きましたが、今年2022年5月初旬、仕事で東京へ出張することになった京都在住の会員が、”東京支部”と共に現地を訪れました。すると、本体が割れてしまって地面に落下していたそうです。確かに設置されていた当時の写真を見ると、すでに木目に沿って縦に3分割になっているようにも見えます。

これはほっとけないとばかりに、家の方とお会いし、事情を説明するとともに保存に向けての提案をさせていただきました。とは言っても、見ず知らずの者が突然訪れて頂戴するわけにはいきません。とりあえず修繕するために預からせていただき、一か月後に返却することを約束して、承諾を得たうえでお預かりしました。

このように、あれよあれよという間に展開してしまい、その日のうちにその東京の木製仁丹は新幹線に乗って京都にやってきたのでした。早速、臨時例会を招集、実物を見分するとともに今後について話し合いました。



次の写真は臨時例会で披露された修復後の姿です。裏から木を当て3つに割れていたものを合体させました。京都仁丹樂會には様々な年齢や職業の者が集まっているので、職業柄このようなことが得意な会員により細心の注意を払って修復させていただきました。



大きさは、実寸で縦785mm、横177mm、厚み8.5mmでした。木材は乾燥や経年によって縮みますが、それは木目の向きにより割合も変わってきます。さらに節目部分は元々堅く縮みはほとんど無いと思われます。今回の場合、横の縮みは大、縦の縮みは小のはずです。このようなことから、元々の大きさは、尺基準で縦2尺6寸(787.87mm)、横6寸(181.81mm)、厚み3分(9.09mm)だったのではと推察できます。

次は、左より順に京都の木製、今回の東京の木製、そしてそのレプリカ(製作中)です。京都のものよりは縦が短いことが分かります。商標の位置は、京都、大津、舞鶴ではすべて上にありましたが、東京は複数の古写真でいずれも下にあります。



レプリカですが、白地に赤の枠と随分と派手に見えるでしょうが、京都の木製も元々はこの配色であり、東京の場合も同様の配色であったであろうと現時点では考えています。ちなみに、先の東京都の関連公文書の中に「町名札製作仕様書」というのがあり、『白ペンキ三遍塗ニシテ(略)黒色ペンキニテ町名ヲ楷書体ニテ記入スル事』とあります。

興奮しながら、ひととおりの見分を終えると、これからどうするのかという議論になりました。当然のことながら約束どおりにお返しすることが大前提ですが、しかし現状復帰すると劣化がますます進むことは明白です。そして、盗難の危険も気になります。この機会に保存する方向で具体的に話を進められないものかと熱く議論しました。保存するにしても個人が持つわけには行かず、やはり地元の公的な施設または森下仁丹株式会社であろうとなり、お返しにあがった時にはある程度具体的に提案できるようにしたいなとなりました。



さて、1カ月後の6月5日、約束どおりに返却にうかがいました。その時はレプリカも持参し、そもそもはこのようなものであったことを説明、そしてとても貴重なものなのでぜひとも保存させていただきたいとお願いしたところ、ご理解いただき、快諾していただきました。本当に感謝です。そして、現物は再び京都入り、代わりに現地にはレプリカを設置させていただきました。家の方のお話しでは、以前はその周囲に結構あったのだそうです。

そして、保存先ですが、地元の施設にも当たってみましたが、結果としては森下仁丹株式会社が受け入れてくださることになりました。現物だけでは何なのか分かりにくいので、レプリカをもう1枚作成し、セットで寄贈させていただく段取りで進めております。同社には他にも様々な資料が全国から寄せられており、イベントなど機会あるたびに展示もされていますので、今回の東京の木製仁丹も公開されることもあるだろうと期待しております。

以上のような経緯でした。関心を持っておられた東京の方々にはご心配をおかけしました。町名表示板は本来の場所にあってこその価値だと常日頃言っている私たちですが、今回は非常に貴重な1枚であり、なおかつこのまま劣化の一途を辿るので、保存するべきと判断した次第です。ご理解いただきますようお願いします。

それにしても9万分の1の奇跡が起こりました。関東大震災、空襲、高度経済成長と激動の東京を目の当たりにしてきた“大礼服姿のカイゼル髭のおじさん”は最新鋭の新幹線に3度も乗って、東京~京都間を行き来しました。その光景を想像するだけでも不思議な出来事でした。

~京都仁丹樂會~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 17:49Comments(6)現況報告

2022年06月08日

現存枚数、ただ今545枚!

私たち、京都仁丹樂會が活動を始めた2012年当時、京都市内には728枚の仁丹町名表示板が現存していました。そして、10年後の今、545枚にまで減ってしまったことが分かりました。

この現存枚数とは、まちかどに掲げられて町名表示板として現役で活躍している枚数です。中には退色して読めない木製9枚と、平成になってからの復活バージョン21枚を含みますが、残り515枚は昭和初期に設置された琺瑯製の仁丹町名表示板です。



さて、私たちは謎多き仁丹町名表示板を研究する一方で、「京都の文化財」としての保全活動にも努めてきました。そして、“ローラー作戦”と名付けて会員で手分けし、現存しているかどうかのチェックも時折行っています。今回の「545枚」は2022年4~5月にかけて実施した第4回ローラー作戦の結果です。

現存枚数の推移は、次のとおりです。

2012年8月 728枚 (初めて公表した現存枚数)
2013年4月 740枚 (第1回ローラー作戦)
2016年7月 672枚 (第2回ローラー作戦)
2018年7月 621枚 (第3回ローラー作戦)
2022年6月 545枚 (第4回ローラー作戦)

初めて発表した現存枚数は2012年8月の728枚でした。そして、その半年後には740枚と12枚増加しています。年々減少する一方とは言うものの、これは新製された復活バーションの設置が寄与しました。しかし、3年経過した2016年7月は68枚減少して672枚に、さらにその2年後の2018年7月には51枚減少して621枚となりました。ただ、この第3回ローラー作戦の結果については発表しないままとなってしまいました。

そして、この度、4年ぶりにローラー作戦を実施し、「現存数545枚」という結果が得られました。第3回と第4回を比較すると、表面的には76枚の減少となりますが、実際は減少する一方で増加もあっての数値です。この4年間の変化を詳細に見ると以下のようになります。



消滅した仁丹町名表示板 95枚

実際に消滅した枚数は95枚ありました。その内訳は次のとおりです。


<解体による消滅>
やはり、最も多い消滅理由は設置家屋の解体です。42件ありました。琺瑯仁丹の設置時期を昭和2~3年と絞り込みましたが、当時の家屋の築年数から言えば自然な成り行きでしょう。同じ敷地内で建て替わるケース、更地となって売りに出るケース、駐車場になったケース、周辺の町家とともに解体されてマンション建設中のケースなど、その様相は様々です。

長年空き家になっていていずれは解体されるだろうと思われていた場所もありますが、安泰だと安心していたところが更地になっていたのを発見した時のショックは大きなものです。そのひとつが四条烏丸のすぐ近く、元悪王子町でした。いかにも京都らしい佇まいの京料理のお店でしたが、突如、更地になってしまいました。お店の看板同様に大切にされていた仁丹町名表示板だけに落胆しました。四条通のわずか1本南の綾小路通には多くの仁丹町名表示板が見られ、いつも好んで歩いていたのですが、一瞬、道を間違えたのかとさえ思いました。現在、コインパーキングになっています。



そして、左京町もショックでした。中京区なのに上京区と表記され、そして町名は左京町。仁丹町名表示板の面白さを存分に発揮していた美しい個体でしたが、残念です。ここでは医療機関の新築工事が進んでいます。


他にも、元々設置されていた家屋の解体に伴い移設されたものの、その移設先も解体されて消滅してしまったこともありました。一度は難を逃れたものの、二度は無理だったようです。

<改修工事による消滅>
また、解体ではなく家屋の全面的、あるいは外壁だけの改修工事にともない消滅したケースも15件確認されました。これもまた自然な成り行きでしょうが、今回は町家をリノベーションして民泊に生まれ変わった際に消滅したケースが目立ちました。町家の一部ともなっていた仁丹町名表示板もそのまま引き継いで欲しかったところです。

<仁丹町名表示板のみの消滅>
解体に次いで多かったのが、設置家屋に何ら変化はないのに仁丹町名表示板だけが忽然と姿を消してしまうという不可解なケースです。35件もありました。空き家になったケースもあれば、そのまま居住しておられることもあります。可能な限り聞き取り調査を行っていますが、中には家の方も気付いておられなかったケースもありました。

<その他>
上記の分類に属さなかったケースです。電柱に括り付けられていて所有者が判然としていなかったものがなくなっていたとか、慈眼庵町の木製のように本物は大切に地元で保管され、代わりにレプリカが設置されたようなケースです。後者は本物と変わらないような精緻なものなので、消滅にカウントするのは疑問かもしれませんが。

ちなみに、今回消滅した95枚のうち、少なくとも5枚は関係者が保管しておられることを確認しています。もっと多いのかもしれませんが、いつの日にか環境が整ったら復活することを願っています。



増加した仁丹町名表示板 12枚


実は、消滅するばかりではないのです。ごくわずかではありますが、正反対に増加したものもありました。12枚です。嬉しいことです。内訳は次のとおりです。


<復活バージョン>
一時期のような勢いではありませんが、復活バージョンも4枚新製され、現役に仲間
入りしました。写真は西陣の町家に設置された美しい復活バージョンです。



<消滅から復活へ>
消滅したと落胆していたものが、見事、現役に復活したケースが8枚もありました。これは嬉しい限りです。かつて存在していた仁丹町名表示板が、家屋が新築された際に復活するようなケースです。中には私たちが全く知らなかったものが突如として掲げられていて驚いたこともあります。結構、捨てられずに温存されていることが分かります。いずれも設置することの価値をご理解いただいてのこと、今までの保全活動が実を結んてきたのあればとても嬉しいことです。ちなみに、盗難に遭ってネットオークションに出品されたものを所有者と共に取り返したのも、この消滅からの復活でカウントされています。



プラスマイナスゼロの場合も


以上が、第3回と第4回ローラー作戦の結果リストを比較しての変化ですが、この数字には表れなかった変化もありました。この間に、建て替え工事や改修工事で一旦消滅したものの、工事終了後には元どおりに復活しているとプラスマイナスゼロとなります。逆に2019.11.26の当ブログ記事で紹介したように久々に復活して貴重なプラス1となったかと思いきや、1年後にはその家屋が解体予定となって取り外され、これまたプラスマイナスゼロもありました。

また、町内で移設された結果、より良い光景が生まれたこともありました。次の場所です。左側の「楊梅通醒ヶ井東入佐女牛井町」が移設されてこの場所へとやってきました。そして、その真正面には「楊梅通醒ヶ井東入泉水町」が以前からありました。写真は楊梅通から西を望んだ光景です。左右を貫く南北の広い道路は堀川通です。にもかかわらず仁丹町名表示板の表記は堀川東入ではなく、醒ヶ井東入。実はこの付近では、堀川通の歩道が醒ヶ井通だったのです。戦時中の建物疎開と戦後の堀川通の整備という近代史を今の私たちに教えてくれるスポットになりました。






以上が第4回ローラー作戦のまとめです。調査のためにまちを歩いていると、仁丹町名表示板の変化の数だけ物語があったであろうことに気付かされます。空き家問題、相続問題もさることながら、今回はコロナ禍の影響が仁丹町名表示板にも及んだのであろうというケースも散見されました。設置されていた飲食店や旅館の突然の廃業はきっとそうなのでしょう。

様々な社会情勢ではあるものの、とにかく現地にあってこそ価値のある仁丹町名表示板、100年近く続いてきた京都の景観の一部分でもある仁丹町名表示板、本来あるべき姿で守っていくことができればと願っています。


~京都仁丹樂會~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 11:43Comments(1)現況報告統計

2017年09月10日

京都仁丹樂會・大人の遠足 奈良市内探索編 ~古市町の巻~



大人の遠足第二部・仁丹町名表示板奈良探索行のはじまりです。

無事、森下仁丹・第二工場跡地を見学し、その規模や現状を実見することができました。
実際に現地に赴き、五感(それとも六感?)のすべてを使って、体感・体験するというのは大切なことですね。瞬時に受ける印象もあれば、何日もたってから、頭の中で醸成されて受け入れる印象もあります。
一同、それぞれに込み上げる感動と満足感を手に、奈良を目指します。

さて、そもそも、なぜ奈良の仁丹町名表示板を探訪することになったのか、その経緯をお話しておきましょう。

当會では、以前より仁丹町名表示板データベースを作成してきました。これは、京都はもとより、伏見・大津・大阪・奈良まで網羅した、仁丹町名表示板の総合アーカイブスと呼ぶべきものです。
つまり、仁丹一枚一枚についての履歴書を集めて一冊の本にしたようなもので、時間の経過に伴って変化していく状況をも克明に記録し、関連する情報データなども含めて記述しているものです。ですので、完結することはなく、日々、更新が行われ続けています。
その内の“奈良”仁丹町名表示板の情報を、隣接地の加茂町まで足を運ぶことになるのなら、是非この機に現状確認をして、データベースの一括更新したいと考えたのです。


ではでは、獲らぬ狸のなんとやらになりません様にと念じつつ、筆を進めてまいりたいと思います。


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ここであらためて、奈良仁丹行脚の顔ぶれを、ずんずんの独断目線でご紹介いたします。

★リーダーは“滋ちゃん”
一見温厚な出で立ちながら、その情熱たるやアッチアッチのアクティブスピリッツを武器に、現地での飛び込み聞き込みは常套手段。みんなを巻き込む求心力は、人並みはずれたタイフーン特攻隊長です。

★按針は“ゆりかもめさん”
風貌は好々爺然。、“爺”というのはちょっと失礼ですね・・・とにかく、京滋はもちろん、大阪・奈良などの仁丹町名表示板の探索を幾度となく重ねる、仁丹町名表示板フリーク・猛者中の猛者、人呼んで“歩く仁丹アーカイブス”。

★企画マンは“たけさん”
「大人の遠足」できればいい~なぁ的空気を、スケジュール立案から実施まで、一気に漕ぎつけたスピード感。さらに、体力勝負の強行軍をペースメークしてくれた持久力。内実、日頃から鍛えたアスリート魂を感じました。そうそう、自宅にレプリカ仁丹を掲げるほどの、好きモノから見ても真の好きモノですね。

★現場進行役を終始務めてくれた"idecchiさん"
学術的で冷静な分析力とマニアックでベリーhotな視線とを併せ持つ、当會随一の探求人です。今回、あまりの暑さでダレ気味だった初っ端の古市から、詰めの一枚・佐紀まで、グイグイ引っ張ってくれました。
さすが若手!・・・(笑)

★殿(しんがり)役は“masajinさん”
列の最後尾で、じっくり町並みを観察しながら、興味の赴くままに仁丹経験値を益々アップさせました。静かな面持ちに反して、好奇心旺盛な万年青年です。猛暑で負荷過多ぎみの隊長をサポートしながら、隊列が途切れてはぐれない様に気を配ってくれました。ナイスフォローです。仁丹第一艦隊・後方支援艦『將仁』と呼びたい!

そして、わたくし“ずんずん”こと、お調子者の六名でございます。


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今回の目標となるのは、現役仁丹の14枚に次いで、現在消滅&埋蔵なれども過去に設置確認がされていた9箇所。
また、これらの現状確認と撮影記録を目的といたします。

さらに、仁丹町名表示板の探索途中に、新たな表示板を発見できれば幸いと目論んでおります。

先人曰く、一石二鳥、濡れ手で粟、棚からぼた餅、二兎を追う者は一兎をも得ず・・・・う~ん、がんばりましょう!

現役のはずの14枚
         
 ・奈良市古市町
 ・奈良市八軒町
 ・奈良市芝辻中町
 ・奈良市納院町
 ・奈良市多門町
 ・奈良市佐紀東町
 ・奈良市南袋町
 ・奈良市上久保町
 ・奈良市西新屋町
 ・奈良市南新町
 ・奈良市三条池町
 ・奈良市白毫寺尾上町
 ・奈良市鳴川町
 ・奈良市細川町

過去設置確認9箇所
         
 ・奈良市東木辻町
 ・奈良市高御門町
 ・奈良市北京終本町
 ・奈良市北半田東町
 ・奈良市井上町
 ・奈良市田中町
 ・奈良市鍋屋町
 ・奈良市芝辻北町(※)
 ・奈良市高天市東町(※)
(※印…今回は確認除外/表示板の存在は確認されているものの、設置時点の場所は不明)


そして、ルールとして、奈良の仁丹を全て把握している“ゆりかもめさん”は口を出さず、後からみんなに着いていくこととしました。これは、探索の楽しみを残すための約束ですが、さてさて、これが吉と出るか凶と出るか。

序盤はほんとうにみんな遠足気分でウキウキ。

奈良県庁近くの駐車場に車を入れて、近鉄奈良駅のバスターミナルへ直行しました。



まず、一番遠いポイントになる「古市町」を、最初に潰しておくのが得策と考え、一先ず南へ向かうこととし、奈良交通の一日フリーパスを購入しました。
通行手形みたいに、木札になってるんですね。


この古市町ですが、地図を見ていただくと、非常に広域であることがわかります。どこから攻めるかで、大きくスケジュールが変わってくると思われます。

  ↓↓↓地図上で クリック拡大

(Google mapより)

大きく分けて、国道169号線と県道188号線2ラインの各旧道沿いと、町域北部の旧集落エリアとを辿って探索することが肝になりそうです。県道よりも東側の住宅地は新興の様ですので、この際、除外しても大丈夫でしょう。

飛び乗ったバスが国道169号線経由でしたので、最寄りでかつ、フリーパスで行ける最南端の古市停で下車しました。

国道の西側を走る旧道を歩き始めました……が、一向にそれらしい町並みが現れません。
時間ばかりが過ぎ去っていきます。
ゆりかもめさんの表情を伺うと、困った様子です。

「これは違うな!」


(Google ストリートビューより)

ここは思い切って、県道188号線方面の旧道に回ってみるのがいいかもしれません。
穴栗神社の南を掠めるようにして東へ。
ゆりかもめさんも、口こそ開かないものの、「うんうん、そうそう。」と言わんばかりの表情です。

「いいぞ~この調子。」

しばらく進んでゆくと、旧集落の趣きがでてきました。ここらで、隊列を二手に分けて進むことにしました。


(Google ストリートビューより)

一方の隊は、県道に沿って西側を走る旧道まで一気に登り切り、そこから旧道を北に進路を取ります。もう一方は、在所内の小道を細かく入って、網を絞る様に、徐々に東へ東へと進むというものです。
わたしは、前者に同伴しました。


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ここで、過去に撮影された、「古市町」仁丹町名表示板の設置風景を見ていただきましょう。

奈良仁丹お決まりの“仁丹歯磨”に赤黒二色の仁丹マークを下端に配しています。
中央に大きな琺瑯剥落の傷を抱えて錆の涙を流しながらも、立派に町名表示板として機能しています。



では、画像から探索の手掛かりを洗い出してみることにしましょう。

仁丹町名表示板が設置されている建屋の壁面は板張りで、どういった建物かは不明です。
ただ、消火器BOXが目線の高さに据え付けられているのを見ると、通常の住居でしょうか・・・ちょっと引っかかる印象です。通常は、路面ないしは、それに近い高さに設置されます。

また、この日は薄曇りのためか日差しが弱く、太陽の方向や角度が読みづらいですが、消火器BOXのわずかな陰影から、写真右手を南と判断できそうです。

左に見える小道はゆるい登りで、途中の樹木は落葉樹の様で、葉を完全に落とし切っています。路上に落ち葉が全く見当たらないということは、撮影は1月~3月中迄でしょうか。

背後には山か大きな森が見えます。登りきったところでT字路になっていて、左右二枚の反射ミラーと一方通行の標識が見えます。突き当りの家は中二階風で、白壁の長い棟が目印になりそうです。

これは、背後の山と消火器の影から奥が東で、一方通行の道はある程度の交通量があると判断。とすれば、主要旧道の可能性あり、と推測しました。


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旧道まで上がってきました。
例の主要旧道をこの道と考え、現在、赤丸地点までやってきました。
そこから、北上を始めますが、西(左)からの道とのT字路は三箇所(うす緑)あります。

  ↓↓↓ クリックで拡大

                 (Google mapより)

スタート地点のT字路は、ドン突きがお寺で白壁建屋ではありませんでした。
次のT字路は、ミラー有りで若干似ている風でしたが、ミラーは南側の一枚のみで一方通行の標識もありません。小路を覗き込んでも見通し感が異なり、落葉樹も見当たらない様です。

では、残る三つ目のT字路はいかに。
このまま進んで行けば、反射ミラーに標識のある、白壁ドン突きのT字路が現れるはずです。

「頼む、現れてくれ!」

もう神頼みです。
・・・で、やってきたのがこの景色です。
まさしく、見覚えのある建屋に、条件にピッタリの交差点じゃないですか!


(Google ストリートビューより)

前方T字路左の小路を覗き込んでみると・・・・・

はるか前方に確かに樹木が見えます。
これは、google ストリートビュー・2017年3月撮影のものすので、枯れ枝のみの樹様ですが、当日は青々とよく茂っていました。


(Google ストリートビューより)


最奥を拡大すると、土蔵が見えています。

「古市町」仁丹町名表示板が設置されているのは果たして・・・。
あの消火器BOXの板張り壁は、この土蔵だったのか・・・?!

よ~く目を凝らしてみると、別隊のメンバーがその蔵の脇にちらほら見えるじゃないですか。

「よし、やった! これで一枚クリア。」

勇んで坂を駆け下り、だんだん近づいていきます。
そして、みんなの表情がよく見えてくる。・・・・あと20m!

なぜか、みんな手持ち無沙汰風。
カメラを取り出すでもなく、間近で表示板を観察するでもない。・・・あと10m!

なんだか雰囲気がおかしいぞ。
おやっ?土蔵の壁板が新しくなっている・・・・・あと5m!

「えっ、まさか!」

と思った次の瞬間、メンバーの一人が、頭の上で大きな×”のサイン



(google ストリートビューより)


結末は、消滅でした(泣)。

なんてこったい! ショックでしばし沈黙。




しかし、このままでは居られません。

気を取り直して、なんとしても消息情報を得たいと、土蔵のお宅を訪ねることにしました。






伺ったお話では、数ヶ月前に土蔵の壁の補修工事をされたとのことでした。

その折、施工業者の方が、確認の上、持ち帰られたとのことでした。

大きなため息が出そうになりましたが、グッとこらえて、

仁丹町名表示板の稀少性とその現役設置の意味をお伝えし、その場を後にしました。

一同、ドッと疲れが溢れ出た瞬間でした。


時間はすでに12時半を回ろうとしています。落ち込んでも居られません。

まだ一つ目です。

あと22箇所、本当に今日一日で回れるのか!

残る現役13枚が、無事に待っていてくれることを願うばかりです。

次に目指す仁丹町名表示板の元気な姿を思い浮かべながら、一歩を踏み出しました。

                                                          
怒涛の”ならまち”の巻に、つづく (ずんずん)



  


Posted by 京都仁丹樂會 at 17:14Comments(7)現況報告

2012年07月07日

越せない先人の技 仁丹町名表示板

そのほとんどがおよそ85歳という、京都の琺瑯製仁丹町名表示板。
ほんのごく一部の個体を除けば、そこに記載された文字は今でも何の不自由もなく自然に読み取ることができます。町名表示板としてはバリバリの現役生というわけです。

そして、それを倣ってその後たくさん登場しました。八瀬かまぶろ温泉、雲龍、アリナミン、NEC、ナショナル、フジイダイマル、郵便局、ロータリークラブ、ライオンズクラブなどなど、まちを歩けば新旧様々なものを見出すことができます。

しかしながら、現在も使用に耐えられるものと言えば、最近に設置されたものだけのようです。

先ずは下の写真をご覧ください。聖護院で見つけたローソンの表示板です。


いつ設置されたものかは知りませんが、ローソンの誕生自体が昭和50年ですから、それ以降です。プラスチック製で、完全に退色しているため、住所表示としては全く機能していません。

次に、金属製も琺瑯引きでないとこのようになります。耐久力に歴然たる差を見せつけています。


和菓子の老舗亀屋良長さんが本社ビルに設置しておられる「下京區醒ヶ井通四條上ル藤西町」は、京都で一番大切にされている現役仁丹町名表示板でしょうが、自社が制作なさった金属製の表示板も一緒に並べておられます。


仁丹のは下京区、自社製のは中京区の標示です。言うまでもなく後者が新しいわけですが、いかに琺瑯仁丹が耐久性に優れているかも訴えているようです。恐るべき仁丹、恐るべき先人の技。

では、なぜ、仁丹に続くその後の町名表示板は単なる金属製やプラスチック製だったのでしょうか。それは当然、コストの問題だったのでしょう。そして、裏を返せば森下仁丹はコストがかかってでも斑榔製にこだわったことを意味します。
基礎講座 六.設置時期 ⑬まとめ」でもご紹介したように“仁丹は後退せんのや、前進あるのみや”という森下博の熱き思いが具現されたのでしょう。その結果、80有余年もの永きにわたり、風雨にさらされながらも、かくも健在でいられる仁丹町名表示板となったわけです。


ところで、昨年から今年にかけて復活した平成バージョン。
その輝く美しさには申し分はないのですが、耐久性となると早くも疑問符が付いてしまいました。復活第1号となった市役所の個体は大丈夫なのですが、その他のものに記載文字の脆弱さが顕著に表れています。これでは“今後100年”なんて言えません。
何か先人のノウハウが抜けているのでしょうね。



また記載された文字も全体に繊細で草食系といった印象で、白い余白が目立ち過ぎます。オリジナルのように、キャンバスいっぱいに堂々と書き込む力強さが、残念ながら感じられません。毎日毎日、同じことをしていたであろう80年以上前の職人さんと比較するのは非常に酷な話であり、また言うのは簡単、実際に書けば非常に難しいであろうことは重々承知なのですが、やはりオリジナルと比較するとその差は明白だと言わざるを得ません。

ということで、ハード面もソフト面も先人の技はまだ取り返していないようです。
また同時に先人の技の素晴らしさを再認識させられました。
当時のノウハウが解明できれば、“今後100年”’が現実のものになるでしょうね。
  


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2011年11月15日

埋蔵仁丹

埋蔵金ならぬ“埋蔵仁丹”。

外気に触れることなく、例えば家の奥深くなどに保管されている仁丹町名表示板のことを、私たちはこう呼んでいます。
通り行く人々の目に触れることはありません。

したがって、仁丹を求めて歩き尽くしたとしても、これら埋蔵仁丹に出会うことはありません。
それでも、町内の方々と話し込んだりしていると結構見つかるものなのです。
そして、それが意外に多いという実感が日に日に増してきています。



この写真もそのひとつです。
私達が紹介された5月19日の京都新聞をご覧になられた方が、「うちにもあるよ、よかったら見に来て」とのご連絡をいただき、お言葉に甘えて拝見したときのものです。
文字の退色が進んでいるのですが、「上京區 二條通東洞院東入 松屋町」と読み取ることができ、旧上京区管内でしか見られない仁丹の商標が上にあるタイプでした。

一般に“埋蔵”に至る経過は主に次の2つがあるようです。
・ 大切なものだから、家の中にしまっておく。
・ 家を改修しときに邪魔なのではずしたが、捨てずにいる。

この松屋町の場合は後者の理由でした。
昭和初期に建てられた家屋とのことですが、大方40年近く前の改修工事に際して取り外されとのこと。
その後、屋根裏でホコリを被って置いてあったものを、新聞記事で思い出されたそうです。

ちなみに、写真の背景でお分かりかと思いますが、建具屋さんのお宅でした。
仁丹もさることながら、整理の行き届いた数々の工具類に大いに感動した次第です。
同じ種類の工具でも少しずつ大きさが違っています。
その時々によって使い分けをしておられたのでしょう。
失われつつある、かつての職人さんの技と心を見た思いです。

以下は他の埋蔵仁丹の一例です。







仁丹町名表示板が、京都の文化財として認識され、みんなで大切に見守るという機運が高まれば、このような埋蔵仁丹も次から次へと現役復帰するのではと期待しています。
  


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2011年05月01日

平成の復活・仁丹町名表示板 「船鉾町」

2011年2月10日の京都市役所に復活仁丹町名表示板・第一号設置の後、

森下仁丹から選出された設置町内会へは、それぞれに仁丹町名表示板は発送済みである。

その設置事例が、「新町通綾小路下ル・船鉾町」で見ることができる。

「下京区」は左から右へ。 ”区”は新字体。 ”下る”の”る”はひらがな。

これこそ、平成に登場した新しい仁丹町名表示板である。

広告は、広く社会に役立つものでなくてはならないという「広告益世」の理念。

森下仁丹の創業当時からの思いが結実した姿である。

懐古趣味のレトロ看板ではなく、現代に生きる町名表示板であるからこそ、

素材は対候性にすぐれた琺瑯製で、小学生でも判読できる表記になっている。



この建物は、船鉾町の町会所で、この前に祇園祭の時、船鉾が建つ。

路面に見える、四つの礎石のようなものは、この石の上に鉾の土台となる柱を建てる目印ともなるが、

その昔、道路がまだ舗装されていなかった時代、まさに鉾の礎石の役目をしていた。

同じような石は、この祇園祭の山鉾町を巡ると、見つけることができる。


その他の選出された設置町内会で、

○上京区加賀屋町○中京区釜座町 ○中京区三条油小路町 ○下京区東塩小路町 ○左京区銀閣寺町では、

設置された姿を確認できた。

また一つ、新しい町歩きの楽しみができたというものである。


因みに、選出されている町内会は下記の通り。

○上京区加賀屋町 ○上京区大黒町 ○中京区三条町 ○中京区六角町 ○中京区百足屋町
○中京区小結棚町 ○中京区釜座町 ○中京区三条油小路町 ○中京区下樵木町 ○下京区船鉾町
○下京区東塩小路町 ○左京区銀閣寺町

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