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2016年09月04日

水谷憲司さんの撮影データ

京都・もう一つの町名史』 という書籍をご存知でしょうか? おそらく、京都の仁丹町名表示板のみを取り扱った初めてのものだと思います。いくつかの表示板にまつわる思い出、疑問、推理などが綴られ、誰しも同じ思いを抱くものだと頷きます。筆者は、水谷憲司さん。平成7年(1995年)に出版され今はすでに絶版となっていますが、京都市右京中央図書館や京都府立総合資料館などで見ることはできます。



1995.10 永田書房/発行


京都の仁丹町名表示板に関心を持つ方はかなり以前からおられるものですが、1995年当時は現在ほど仁丹町名表示板に関するネット情報は盛んではなく、仲間がどこにいるのかも分からないような、いわば各々がスタンドアローンの時代でした。京都仁丹樂會の代表立花滋も同じ時代に精力的に活動を繰り広げていた一人でしたが、水谷さんとは一度電話で話をしたことがあったものの、お互いの情報交換までには至りませんでした。

さて、この水谷さん、残念ながら今年の1月に他界されました。ご冥福をお祈りいたします。そして、そのご遺族の方より、水谷さんが生前撮影された仁丹町名表示板の写真を何か有効活用する方法はないだろうかと、当會に相談を寄せられました。

同書籍の巻末には、文字情報だけではありますが、水谷さんが発見なさった仁丹町名表示板の一覧表が収録されています。その数、ざっと1,200です。一方当會の立花代表も同時代にほぼ1,200程度を把握していました。さらに、その後、他の會員のデータも加わったので、磐石のデータベースが構築できていると思っていました。したがって、有効活用の方法は正直あまり思い浮かぶものではありませんでした。

しかし、全く同じ住所表記が何枚あっても不思議でないのがこの世界。文字情報ではなく、一度、私達のデータベースと画像で見比べたら、もしかしたら何枚か初めてのものが見つかるのではないかと、會員それぞれ手分けをして精査することになったのです。かなりの労力を要しましたが、一方で水谷さんの熱意もひしひしと伝わってくる作業となりました。

※   ※   ※

さて、その作業結果はと言うと、意外や意外、当初の見込みとは大違い。私達が把握していなかった新たな仁丹町名表示板が何と139枚も出現したのです。これは一体どういうことなのでしょうか? 原因は、水谷さんが見つけて立花が見つけていなかったもの、その逆に立花が見つけていて水谷さんが見つけておられなかったものが、ほぼ同数あったということだったのです。中には、後ろを振り返ったらあったのに!この道を入っていたらあったのに!というようなお互いに惜しいケースもありました。仁丹探しの奥深さを改めて思い知らされました。

このような訳で、とにかく私達の知らなかった新たな139枚が存在していたことが確認できましたので、データベースに加えさせていただきました。資料のご提供、本当にありがとうございました。感謝いたします。

※   ※   ※

したがって、 先日、「仁丹町名表示板 今、何枚? 」で発表した数値に、その後の変化を反映させ、さらに水谷さんの今回のデータも加えた結果、最新データ数は次のようなものになりました。

現存数 ・・・ 675枚
消滅数 ・・・ 680枚
埋蔵数 ・・・ 190枚  (2016.9.4現在)

水谷さんの今回のデータ139枚については、今はその場所に存在していませんので、「埋蔵」されていることが明らかとなった1枚を除き、すべて「消滅」区分にとりあえず加えました。もしかしたら他にも「埋蔵」があるのかもしれませんが。また、新たに出現した139枚の中から、何か新しい発見もしくは考察が生まれるかもしれません。次はその分析も行ってみたいと思います。

~京都仁丹樂會~

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 16:01Comments(0)トピックニュース

2016年07月21日

南観音山の「百足屋町」復活!

南観音山の「百足屋町」復活!


わずか2日前の7月19日、『仁丹町名表示板 今、何枚』を発表したところですが、早くも変化が現れました。日々動きのある仁丹町名表示板に驚きです。

祇園祭の山鉾町が連なる新町通には“平成バージョン”が5枚も設置されましたが、その1枚、南観音山の町会所に設置されていた「百足屋町」が、町会所の建て替えのため姿を消していました。希望されて設置された平成バージョンだったので、廃棄されることはなかろう、きっと復活するはずだと信じていたものの、新しい町会所がお目見えし、祇園祭も始まったというのに仁丹町名表示板は一向に姿を見せず気になっていました。

ところが、後祭りに間に合わせるかのように、7月20日、見事に復活しているのを確認しました。念のためにと前を通りかかったところ発見、絶妙のタイミングでの再登場となりました。これで「現存」1枚追加です。



ところで、“平成バージョン”とは、森下仁丹株式会社が創立120周年記念の一環として取り組んだ「京都町名琺瑯看板プロジェクト」により製作・設置された仁丹町名表示板のことです。詳しくは次の記事をご覧ください。(青い文字はリンクしています)

   京都仁丹町名看板プロジェクト始動
   復活仁丹町名表示板・第一号 京都市役所に設置!

ちなみに平成バージョン第1号として平成23年2月10日午後1時30分に京都市役所に設置された「上本能寺前町」の仁丹町名表示板も庁舎建て替えのため現在姿を隠していますが、しっかりと保管されており、新庁舎完成時には復活の予定だそうです。

また、髙辻麩屋町の「鍋屋町」も一時期取り外されていましたが、この度、看板の上に堂々と復活しました。ありがたいことです。




しかしながら、このように大切にされる仁丹町名表示板がある一方で、またまた仁丹町名表示板だけが姿を消すという事態が花屋町通でつい先日発生してしまいました。

と言うことで、「現存数」は672+2-1で673枚となりました。

~京都仁丹樂會~
  
タグ :百足屋町


Posted by 京都仁丹樂會 at 23:25Comments(0)トピックニュース

2016年01月23日

お正月です。いろはカルタでご報告


「犬も歩けば棒に当たる」ではありませんが、このあいだ大阪の十三(じゅうそう)を歩いていると新しい住所表示板の下に顔を出している仁丹町名表示板発見です。 私も歩けば仁丹町名表示板に当たる。



「論より証拠」ではありませんが、これを見てください。言っているより証拠写真。





「針の穴から天を覗く」ではありませんが、住所表示板の下から仁丹が覗く。






「憎まれ子 世にはばかる」新しい住所表示板を憎まれっ子といってしまうのは可愛そうですが、樂會的には憎まれっ子の新しい住所表示板。もしこれがなかったら大礼服のおっちゃんもこんな感じに見えるんですよ。




でも、憎まれっ子がいたおかげで今あると思うと、救いの神に見えてきます。




「骨折り損のくたびれ儲け」こんなことも多いですが、歩いて回るのって大事ですね!
今年は仁丹樂會で京都市内の仁丹町名表示板の再チェックのため、市内を歩き回ります!
うさん臭く仁丹町名表示板の写真を撮っている人を見たら声をかけてくださいね。



「下手の長談義」仁丹樂會は仁丹町名表示板を愛する者の集まり。
下手かどうかはさて置いて、ひとたび仁丹町名表示板の話に入るや、時間はあったものではありません。話は夜を徹して行われます。いやはや、熱きロマンをかきたてる代物ではあります。



「 灯台下暗し」さて、話題を仁丹町名表示板に移しましょう。この看板は職場近くのいつも通っている商店街のはずれの家に、新しい住所表示板の下1センチほど顔を出していました。見つけるには仁丹に精通していないとこういうところで、お目にかかることはできません。またそれを仲間に言ってちやほやされるのも趣味の醍醐味。
みなさんも自宅周辺や職場の近くの意外なところで新たな発見があるかもしれません。
何かありましたら、ご一報を。ちやほやしちゃいますよ。
今年一年、仁丹町名表示板と仁丹樂會を可愛がってくださいね。よろしくお願いします。

~京都仁丹樂會 ゆりかもめ~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 00:14Comments(0)トピックニュース仁丹のある風景

2015年07月21日

仁丹樂會の活動紹介が『大阪春秋』に掲載!

京都仁丹樂會の活動紹介が『大阪春秋』に掲載!



以前行った日本交通学会全国大会でのエクスカーション(役員の先生方を対象にしたまち歩き)で、われわれ京都仁丹樂會がガイド役をさせていただいたことなどがきっかけになりまして、大阪を中心に歴史・文化・産業に関する過去・現在を記録し続けている季刊雑誌、『大阪春秋』の159号(7月10日刊行)に、京都仁丹樂會の活動と研究成果の紹介を書かせていただきました!




表紙にもある通り今号の特集は「戦後70年」、大阪大空襲を始めとして戦後の大阪やGHQの活動など、戦中戦後に関心を持たれている方にも非常に興味深い内容かと思います。
また、それだけではなく、大阪の問屋街を訪問・調査する連載企画や、幕末の大阪湾のお台場を考えるシンポジウムの紹介など、幅広いテーマで研究者や現場で活躍されている方々が投稿されております。

そのうち4ページほどスペースをいただきまして、これまでの京都仁丹樂會による調査研究活動とその成果や、保存を訴える様々な活動を紹介させていただいております。

ご関心のあるかたは、ぜひ最寄りの書店にてご注文いただければと思います。

定価1080円(税込)、【ジュンク堂 大阪本店】 【ジュンク堂 千日前店】 【紀伊國屋 梅田本店】では現物もご覧になれます。

季刊誌『大阪春秋』の出版元についてはこちらもご覧ください。
株式会社 新風書房
大阪本社 〒543-0021 大阪市天王寺区東高津町5番17号
  TEL (06) 6768-4600
      http://www.shimpu.co.jp/


京都仁丹樂會 idecchi
  

Posted by 京都仁丹樂會 at 01:17Comments(0)トピックニュース

2015年06月28日

毎日新聞 京都仁丹物語 6

京都仁丹物語 6
(毎日新聞 2015.6.27 朝刊 京都面)

今回のテーマは、
「全国津々浦々」裏付けに風穴
「東京市周辺9万440枚設置」資料
でした。

もうお分かりとか思いますが、仁丹町名表示板に関する唯一の公式見解が『1910年(明治43年)からは、大礼服マークの入った町名看板を辻々に揚げ始めた。当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり、今日でも戦災に焼け残った街角では、昔ながらの仁丹町名看板を見ることができる』(森下仁丹100周年記念誌)とあるにも関わらず、関西にしかないじゃないか、本当? というかねてからの大きな疑問が、東京がまだ東京市であった大正7~9年にかけて9万440枚も設置されていたことが東京都公文書館の公文書で分かり、公式見解はやはりないがしろにできないぞとなった先日の大発見のお話しです。
idecchiさんのお手柄です。関西圏のみの殻から“風穴”を明けたのでした。

ただし、琺瑯製ではなく木製です。琺瑯看板が普及し始めるのは大正末期ですから、明治43年云々は木製の時代です。ちなみに京都の木製仁丹町名表示板は大正元年~3年位がピーク、大正7年頃にも追加設置されていることが私たちの調査で分かっていますので、東京はその後ということになります。

詳細は当ブログの次のシリーズをご覧ください。
全国津々浦々の考証(その1) ~引用され続けるフレーズ~
全国津々浦々の考証(その2) ~前橋にも仁丹町名表示板が!?~
全国津々浦々の考証(その3) ~東京で仁丹発見!!!①~ 
全国津々浦々の考証(その4) ~東京で仁丹発見!!!②~
全国津々浦々の考証(その5) ~東京で仁丹発見!!!③~
全国津々浦々の考証(その6) ~東京で仁丹発見!!!④~ 
全国津々浦々の考証(その7) ~東京で仁丹発見!!!⑤~

今回、紙上で紹介された証拠写真がこれ ↓ です。



国会図書館近代デジタルライブラリーの歴史写真会『歴史写真』大正10年1月号からのものです。一般に写真の撮影年月日の保証はなかなか得にくいものですが、これは大正9年11月6日の東京貯蔵銀行の取り付け騒ぎの報道写真なので撮影日は確実です。少なくとも大正9年には東京に木製の仁丹町名表示板が設置されていたことが、先の公文書だけでなく写真でも証明できたことになりました。
※    ※     ※

記事中では、大津や奈良、大阪など関西の仁丹町名表示板について、表示板自体の大きさの比較や文字の色などが紹介されています。

これもまた詳細は、当ブログの次の基礎講座実例シリーズをご覧ください。

①京都市以外の仁丹町名表示板
②仁丹町名表示板  大津市の場合
③仁丹町名表示板  大阪市の場合
④仁丹町名表示板  奈良市の場合
⑤仁丹町名表示板  伏見市の場合
⑥仁丹町名表示板  実例のまとめ




このように都市によってデザインを変えていた仁丹町名表示板ですが、京都市(旧伏見市除く)のものは大きさが最大でした。それは記載しなければならない文字数の多さに起因するのでしょうが、他都市と違う大きな特徴は他にもあります。それは、旧伏見市も含めて他都市のものはすべて町名の文字の上に琺瑯がコーティングされていますが、京都のはされていないのです。



つまり、琺瑯引きされた商標入りの真っ白の板に、筆で文字を書いたのみなのです。そして、筆跡は画一的ではなくまちまち。これが、京都のは現場で書いたのではないかという私たちの推察の根拠なのです。非常に複雑な京都の住所表示、事前に工場で作って現地に運ぶよりも、現地を回り、設置の承諾が得られたら、その場でピンポイントの正確さで住所表示を書いて、その場で掲げるという方法が最も合理的だったのではないでしょうか。他都市のものは町名だけなので、工場で文字の上からしっかり琺瑯引きして、それから現場に運んでもその町名ならどこにでも設置できたのです。

※    ※     ※


次に平成の復活バージョンについても紹介されています。ただし、京都市のではなく、鞆の浦です。森下仁丹創始者である森下博の出身地です。







鞆の浦の詳細は、昨年、探訪記としてまとめました。詳細は以下をご覧ください。
鞆の浦 仁丹探訪記(1)   
鞆の浦 仁丹探訪記(2)   
鞆の浦 仁丹探訪記(3)   
鞆の浦 仁丹探訪記(4)   
鞆の浦 仁丹探訪記(5)   

以上、毎日新聞 京都仁丹物語6の様子でした。


~京都仁丹樂會~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 20:50Comments(0)トピックニュース

2015年06月22日

毎日新聞 京都仁丹物語 5

京都仁丹物語 5
(毎日新聞 2015.6.20 朝刊 京都面)


5月30日から連載開始となった、毎日新聞の『京都仁丹物語』もいよいよ5回目となりました。今後、毎回、コラボ記事としてその内容を紹介していこうと思います。


今回のテーマは、
書き手に拍手 最多20字
大胆な字、大阪職人か

手書きの文字に着目したテーマです。

私たちが今までに確認した仁丹町名表示板のうち、最も字数の多い物ということで次の仁丹が紹介されました。



上京区寺町通今出川上ル西入三筋目上ル上塔之段町


まさに行政区以下20字です。バランス良くきっちりと収まっています。おそらく現場で書いたであろうと推測している京都の仁丹町名表示板、ぶっつけ本番でお見事!書き手に拍手!と言う訳です。

この長い長い住所表示の意味するところは、翻訳すると次のようになります。

寺町通を歩き、今出川通との交差点のひとつ北に、西へ入る通りがあるから、そこを入ってそのまま西へ向かう。そして、北へ向かう3本目の通りを今度は右に(北に)入ったら、そこが目的地だよ。

という訳です。京都の碁盤の目のような通りにはそれぞれ通り名が付いていますが、中には名前のない細い通りもあります。そのような時に今回のように先ずは“寺町通今出川上る”という大きなポイントを示し、そこからさらに“西入三筋目上る”と細やかに誘導するのです。

※     ※     ※

一方、最小の文字数は行政区以下4文字で、吉田橘町、八條源町、吉田本町などがあり、代表して吉田橘町が紹介されています。ただし、旧伏見市バージョンを除く、横14.5cm縦90.5cmというキャンバスに限定してのことです。



こうして3枚並べて眺めると、吉田本町は上品なほっそりした文字ですが、吉田橘町と八條源町は太く非常に力強く書かれていることがよく分かります。筆の太さが違うだけでなく、筆跡が微妙に違うようなのでもしかしたら書き手自体が違うのかもしれませんね。

※     ※     ※

この手書き文字について同業者はどのように見るのだろうかと、毎日新聞の記者さんは有限会社八田看板さんを取材しておられます。京都府の現代の名工にも選ばれ、平成の復活仁丹第1号を書かれたあの八田さんです。記事では、仁丹町名表示板に書かれた伸び伸びとした書き方は、長年の経験から「大胆な字を書く傾向がある大阪の職人の字ではないか」と推測されています。京都はきちんとした字を求められ、バランス良く割り付け、冒険的な字を書かない傾向があるのだそうです。森下仁丹は大阪が本拠地、さもありなんです。

バランスと言えば、なるほど、吉田橘町などは下の余白が大きすぎます。八條源町もそうですが、全体をもう少し下方にずらして書いたら綺麗なのにと思うと、事前の割り付けをしていないのではと見ることもできそうですね。

※     ※     ※

ところで、今回の記事とは直接関連はないのですが、六条通界隈の仁丹町名表示板は若宮通付近から筆のタッチが変わります。若宮通の西側では上京区などでもよく見られるほっそり上品な文字、東側では文字がいきなり太くて力強くなるのです。ごらん ↓ のとおりです。左側から、西から東へと並べてみました。




また、こんなにバランスの悪いものもあります。



かなり無計画な字配りです。慣れていない職人さんが書いたのかもしれませんね。

※     ※     ※

さらに記事では、仁丹の商標の位置にも触れられています。上にあるタイプと下にあるタイプがあり、上タイプは特定の学区に集中していることも紹介されました。

これに関する詳細な説明は、当ブログの『永遠のテーマ 商標の上と下』(←リンクしています)をご覧いただければと思います。

以上、毎日新聞「仁丹物語5」の解説でした。


なお、毎日新聞ウェブ版なら全国から記事を見ることができます。ただし、登録制ですが。

毎日新聞ホームページ
 ↓
地域
 ↓
京都
 ↓
京都アーカイブ一覧
 ↓
カレンダー内の日付

の手順です。

~京都仁丹樂會~

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 21:35Comments(1)トピックニュース

2015年05月12日

まいまい京都 2015春 第1弾

まいまい京都 2015春 第1弾




まいまい京都2015春の仁丹コース第1弾「謎だらけ名物看板を探して、上京の路地・辻子めぐり」が5月10日開催されました。当日の模様をご報告します。これまで京都仁丹樂會では、四条烏丸から西本願寺へのコース、京都市役所から東山へのコース、北野天満宮から柏野へのコース、四条大宮から西本願寺へのコースなどで通算6回にわたり仁丹町名表示板を手がかりに街歩きをガイドしてきましたが、今年5月に実施する2つのコースは、いずれもまいまいとしては新たにルート開拓したものです。

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ゴールデンウイーク最終日の日曜日、天候にも恵まれ雲一つないお天気のもと、15名の参加者の方々と街歩きをしてきました。仁丹樂會からは5名(滋ちゃん、ゆりかもめさん、たけちゃん、新たに樂會メンバーとなられたmasajin さん、そしてidecchi)がガイド役を務めました。



集合場所は地下鉄今出川駅。まずは簡単に、仁丹の町名表示板とは何かを説明した後、明治末から大正はじめにかけて京都市で行われた、いわゆる「三大事業」(第二琵琶湖疏水の開削、上水道整備、道路の拡築と市電敷設)の一環として大正時代に進んだ主要な通りの拡築の様子を見て頂きました。






近くにある町名表示板は、改築後も改めて町名表示板を設置してくださっている大変ありがたい例です。



上京区には東西南北に整然と碁盤の目のように整備された通りではなく、南北に延びる通りの間でアミダくじの横線のように走る東西の道路や、かぎ状に曲がる道路などがよく目につきます。上京区ホームページによると、こうした「辻子(図子)」と呼ばれる通りが市内におおよそ100か所ほど存在し、そのうち実に半数が上京区内に集中しているといいます。これら辻子にはその場所にかかわる歴史的背景をもった人物や寺院などからとられた名前もあり、それが町名にまでなっているものもあります。これらの辻子をたどりながら、またその名前の付いた町名表示板を探してみるのも面白いと思います。


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戦後に制作されたブリキ板にペンキ塗りのものは劣化が著しく、もはや道案内の役割を果たしていないのに対して、琺瑯製の仁丹の町名表示板は、今日でも鮮明さを失っていないことなどもお話ししました。




仁丹による町名表示板と、ずっと後になって設置された藤井大丸の町名表示板もご覧いただきました。



また、大切に残されている貴重な木製の町名表示板のある辻子、残念ながら盗難にあってしまった町名表示板のあった辻子にもご案内しました。参加者の方々に、現在まで現役で道案内を続けている町名表示板が、その場所に存在し続けているからこそ、価値があるものであること、盗難などは決して許される行為ではないことがお分かりいただけたのではないかと思います。


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さらに町名表示板を見ながら進んでいきます。残念ながら姿を消してしまった町名表示板がある一方で、町内の方々に大切にされているものも多くみられます。古い町屋の解体に伴って消滅してしまった!と思ったら、その後町内の別な場所に再設置された、というような例に触れると、うれしい限りです。




烏丸通に戻ってきた後、御霊神社前でお開きとなりました。




解散後近くの町屋をリニューアルしたカフェで、参加者の方とランチがてら歓談したのですが、実はここにも素敵な隠れた仁丹町名表示板が…。これはぜひ、お探しいただければと思います!


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今回、ありがたいことに以前の仁丹樂會ガイドによるまいまいにもご参加くださった方もいらっしゃいましたし、初めてまいまいに参加される方、何度もまいまいに参加されているが仁丹樂會のツアーは初めて、という方も結構いらっしゃいました。2時間ほどの街歩きでしたが、京都市内は普段気付かされないもの・ことを再発見できるような街歩きのツボがたくさんあると思います。そのひとつのきっかけに、仁丹の町名表示板がなってくれればと思います。また、1世紀近い年月を経てもまだ現役の道案内役として活躍している仁丹の町名表示板の大切さをご理解いただければ幸いです。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。また、5月30日には、六条通を舞台にしたもう一つのまいまい新コースが開催されます!お楽しみに!

滋ちゃん、ゆりかもめ、たけちゃん、masajin、idecchi
  

Posted by 京都仁丹樂會 at 13:07Comments(0)トピックニュース

2015年03月01日

盗難報道のまとめ

年末から騒がせている盗難事件ですが、連日テレビ取材を受けるなど世間の関心は非常に大きく強いものがありました。盗難と言う不愉快な話題をいつまでも続けたくはないのですが、これらを一連の記録としてまとめることも必要かと思います。

先ずは上七軒の真盛町の件を、2014年12月27日に当ブログでお伝えしたところ、翌2015年1月4日「上七軒歌舞会」さんの公式Facebookで紹介されシェアされたのが起爆剤となったのでしょう、当該記事のアクセス数は7,000を越え、「いいね!」も1,300を上回りました。まさに怒りの数とも言えるでしょう。

この反響の大きさから1月8日の昼下がりに朝日放送のニュース番組「キャスト」の取材を受け、その日の夕方には放映されました。

そして、少し間が空きますが2月4日には毎日新聞朝刊に次のような記事が掲載されました。


~2015年2月4日 毎日新聞朝刊より~


この記事は、同日朝の読売テレビ「すまたん」でも辛坊治郎さんにより紹介されました。
すると、マスコミ受けするのでしょう、次から次へと取材の申し込みが来ました。東京からも来られました。

先ずは早速翌日の2月5日には関西テレビ「スーパーニュースアンカー」、2月6日にはフジテレビ「とくダネ!」です。いずれもお昼に取材を受けて、その日の夕方にはオンエアーという手際の良さでした。

そのような時、2月5日、某大手ネットオークションに盗まれた西千本町が堂々と出品され大いにショックを受けました。当会も対策を練りましたが、2月10日毎日放送「VOICE」憤懣本舗の取材を受けている最中に“西千本町 無事確保”の朗報に触れ、ひとまず安堵しました。

この時の「VOICE」憤懣本舗は2月16日に放映され、そして翌2月17日には西千本町が所有者の元に帰ってきました。

※     ※     ※


こうなると、次はオークションから取り戻したという新聞記事が2月17日の京都新聞夕刊、2月18日の毎日新聞朝刊へと続きました。


~2015年2月17日 京都新聞夕刊より~



~2015年2月18日 毎日新聞朝刊より~


現在、とりあえずは取材攻勢は一段落した気配ですが、盗難届が出ている“未解決事件”はまだまだ残っています。一日も早い解決と、再び元の場所に掲げられ現場復帰することを祈っています。

※     ※     ※


以上の一連の動きを改めて時系列に並べると次のようになります。


2014/12/27(土) 真盛町盗難記事当ブログにアップ
2015/ 1/ 4(日) 上七軒歌舞会 公式FB で紹介される
2015/ 1/ 8(木) 朝日放送「キャスト」
2015/ 1/27(火) 西千本町盗難発覚
2015/ 2/ 4(水) 毎日新聞朝刊
2015/ 2/ 4(水) 読売テレビ「すまたん」 辛坊治郎さんによる毎日新聞紹介
2015/ 2/ 5(木) 関西テレビ 「スーパーニュースアンカー」
2015/ 2/ 5(木) 盗難に遭った西千本町 ネットオークションに登場
2015/ 2/ 6(金) フジテレビ 「とくダネ!」
2015/ 2/16(月) 毎日放送「VOICE」 憤懣本舗
2015/ 2/17(火) オークションに出た西千本町 戻る
2015/ 2/17(火) 京都新聞夕刊
2015/ 2/17(火) TBS 「Nスタ」
2015/ 2/18(水) 毎日新聞朝刊
2015/ 2/18(水) 関西テレビ 「スーパーニュースアンカー」
2015/ 2/24(火) 毎日新聞東京本社夕刊


何度も訴えていることですが、京都の仁丹町名表示板はボンカレーやオロナミンCなどの琺瑯看板と同列のコレクションアイテムではありません。今も現役で世の中に役立っている公共物です。また、住所の表示板なのですから、そのこと自体でどこにあった物かが分かりますが、さらに当会では過去20年間に集めた1,400件近くのデータベースを管理しており、例え同じ住所表記のものでも筆跡や特有の錆や傷からほぼ間違いなく個体の判別ができ、どこに設置されていたものかが分かります。

今回は一連の報道のお蔭もあって西千本町の1枚に関しては何とか解決しましたが、逆に盗難を恐れての埋蔵化が進むなど本末転倒の現象も起こってしまいました。京都の仁丹町名表示板は現地にあってこそ『歴史的・文化的・景観的価値』が備わるのです。市民の、また町内の資産を売買の対象とするなど誰にもできないことではないでしょうか? 早く元のように安心して掲げられる環境に戻って欲しいものです。

~京都仁丹樂會~

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 12:14Comments(1)トピックニュース

2015年02月21日

大阪にも埋蔵仁丹が

当ブログをご覧になった大阪市の石田さんから、“大阪にも埋蔵仁丹があるよ” とその写真を提供してくださいました。このようなものです。


~ご提供 大阪市の石田さん~

貴重な情報、ありがとうございました!

京都の仁丹町名表示板のことを調べるには、他都市の仁丹町名表示板はもちろんのこと、ある程度はその他一般の町名表示板のことも知っておかなくてはなりません。
大阪の仁丹町名表示板は、京都市のようにたくさんは残っておりませんが、設置された当時はたくさんあったように思います。

それは、現存する町名表示板が大阪市内の広い範囲から見つかることでもわかります。
設置時期が、大阪特有の許可証(「仁丹町名表示板大阪市の場合」 リンク先参照)を参考にするならば、昭和26年3月16日。これは戦争も終わって6年たっています。もっと残っていても良さそうなものなのに。

ですが、大阪は京都のように住所が通り名ではないところから、町名が変われば、古い看板は、ややこしいだけの邪魔者になってしまいます。昭和40年3月、大阪市は住所の表示をわかりやすく合理的に改める『住居表示に関する法律』を施行し、その中で仁丹町名表示板は、舞台を去らなければならなかったのでしょう。


~昭和40年新しい住居表示の整備(写真で見る大阪市100年より)~


そう考えると、今ある大阪仁丹町名表示板は、歴史のすきまをくぐり抜けた貴重な生き証人とも言えます。今回のように、消滅を免れ、埋蔵していただいていたことは、ほんとうに奇跡と言えます。ありがとうございました。

※     ※     ※


今回ご提供のデータ3件を入れて次のような表をつくりました。
ここで言う赤仁丹・黒仁丹ですが、京都市では商標の色使いは1種類なのに対し、大阪市では2種類が確認されています。「赤仁丹」とは大礼服の中の仁丹なる文字が赤色のもの、黒仁丹とはそれが黒色のものを私たちはそう呼んでいます。



ご覧のように現在のデータからは、赤仁丹と黒仁丹は区毎に基本的に使い分けされていることがわかります。これらをさらに地図で表すと次のようになります。




ちなみに、京都市では同じ商標でもその位置が上に描かれているのと下に描かれているのがあり、それぞれ“学区”というかつての小学校の通学区域毎に顕著に分かれているのですが、そのことを思い起こさせます。( 「永遠のテーマ 商標の上と下」 リンク先参照)

なお、旭区においては次のように赤仁丹と黒仁丹の両方が見つかっています。



他区においても、今はまだ見つかっていないだけで、もしかしたら両方あったのかもしれません。今後のデータの“発掘”が待たれるところです。

~京都仁丹樂會 ゆりかもめ~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 08:48Comments(1)トピックニュース

2015年02月14日

西千本町 無事戻る!


去る1月下旬、突然姿を消し、そして、そのおよそ2週間後には某有名ネットオークションに出品されてしまった、西陣の西千本町の仁丹町名表示板。

オークションも終了し、その後どうなってしまったのかと心配されている方も多いのではないかと思います。

でも、ご安心ください!警察が頑張って捜査をしてくださり、またそれを応援する方のお力もあって無事に戻ってきたのです!さらには、近々、再設置される模様です。

とりあえずこの件についてはホッとしましたが、これですべて解決という訳にはいきません。
この近辺ではまだ10枚ぐらいが行方不明のままですし、年末からの盗難騒ぎのおかげで下京区では盗難を恐れて埋蔵化されてしまったものも複数あることが確認されました。

現役であってこそ意味のある、価値のある仁丹町名表示板、安心して堂々と掲げられる環境に早く戻って欲しいものです。

京都仁丹樂會

  


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2015年01月29日

盗難警報発令中!

年末に発生した上七軒の仁丹町名表示板盗難事件は、その後大きな反響を呼び、テレビニュースになったり、当ブログの当該記事のアクセス数も現時点で6,800件を越えました。

しかし、盗難事件はそれだけではありませんでした。すぐ近くの東柳町もでした。








昨年の年末のことでした。まさに上七軒と同じ時期です。
町家のイタリアンとして有名な「Vertigo(ヴァーティゴ)」さんに設置されていたものです。オーナーさんもがっかりしておられ、返してほしい、見つけて欲しいとおっしゃっていました。

ここも上七軒同様、お店の顔の一部となっていた意匠性の強い仁丹でした。
また、七本松「東入」の場所なのに、「西入」の表示は戦時中の建物疎開の影響という京都の近代史の語り部でもありました。これまた上七軒の場合と全く同様に貴重なものでした。

再び、こんな元の光景を取り戻したいものです。
洋風の旗の横に仁丹、不思議とマッチしているこの光景が好きな人はきっと多くおられたことと思います。




ところで、年末の盗難はこれらだけではありませんでしたし、実は、2,3日前にも発生したのです。勢いが止まりません。いずれも上京区です。

所有者である家の方々は、残念だ、腹立たしい、代々引き継いで大切にしてきたものを、と口々に語っておられました。

と言うことで、まさに今、盗難警報発令中!です。ご注意ください!

~京都仁丹樂會~


  
タグ :東柳町盗難


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2015年01月12日

埋蔵仁丹「田中大堰町」出現!

今回の真盛町盗難事件の報道番組をたまたま見ておられた方が、「あれ?ウチにあったのも仁丹では?」と建て替え前の家に貼られていた町名 表示板 を捨てずに保管していることを思い出され、確認したらやっぱり仁丹だったと、私たちに知らせてくださいました。
それが、コレ!です。



上京區 田中大堰町


今は京都市左京区ですが、上京区の表示のままです。この付近は元々は上京区でしたが、昭和4年4月1日に左京区が新たに誕生し、編入されたエリアなのです。したがって、昭和4年4月1日よりも以前に設置されたことが分かります。

当会としては今まで把握していなかった仁丹町名表示板であると同時に、仁丹町名表示板の空白地帯がこれでまたひとつ消えました。


さて、驚くのは埋蔵仁丹の出現のみではなく、町名の表記方法もでした。
今まで、田中エリアで発見された仁丹は次のようなものでした。



     上京區 田中関田町 鞠小路通 東今出川 下ル
     上京區 田中関田町 東今出川通 鞠小路 東入
     上京區 田中関田町 東今出川通 鞠小路 東入
     下京區 田中下柳町 東今出川通 川端 東入下ル
     上京區 田中馬場町 川端通 御蔭橋 下ル
※下柳町の行政区名が下京区となっているのは明らかに書き間違えです。


いずれも表記方法は、「町名+通り名」のタイプでした。
このエリアは公称町名に通り名を付けないのですが、仁丹町名表示板は町名をメインとしながらも、通り名でも表現できなくはないよとばかりに、町名の後に小文字で通り名を付け加えていました。

しかしながら、今回出現した田中大堰町は「町名のみ」のタイプだったのです。“鞠小路通東今出川上る”なる通り名が付加されても構わない場所にあったそうですが、とにかく現物は町名のみなのです。

この点、非常に興味深い個体というわけです。

今回は、盗難事件の騒ぎで皮肉なことに埋蔵仁丹が1枚出てきたことになったのですが、京都のまち、まだまだ埋蔵されているのでしょうね。

~京都仁丹樂會~

  


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2015年01月08日

上七軒「真盛町」事件 TVニュースに!

年末にお知らせしました残念なニュース、『上七軒「真盛町」盗まれる!』がすごく注目されています。

1月4日に「上七軒歌舞会」さんのFacebookでこの記事が紹介されたのが起爆剤となったのでしょうか、翌日の当ブログへのアクセス数は一気に3,000件を超え、当該記事の参照数は本日現在6,000回を突破、“いいね!”も1,200以上いただきました。
まさに怒りの数とも言えるのではないでしょうか。

そして、とうとう本日、朝日放送の夕方の報道番組「キャスト」でも大きく取り上げられました。
番組では盗難に遭った所有者の嘆き、仁丹町名表示板の解説、そして警察が盗難届を受理し犯罪として捜査をすることなどが報じられました。

なお、仁丹町名表示板の解説については当会が取材を受け、当ブログからの写真も何枚か使用されました。取材風景は、こんな ↓ 感じでした。



ところで年末からヤフーオークションに出品されていた「上京区鹿ケ谷宮ノ前町」の仁丹町名表示板が、不思議なことに番組終了後にオークションから姿を消しました。

とにかく、無事に元の場所に戻ることを祈るばかりです。

~京都仁丹樂會~
  
タグ :盗難真盛町


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2014年12月30日

研究成果展 ご来場、ありがとうございました!



京都仁丹樂會の初めての研究成果展、年末のお忙しい中、多くの方々に来ていただき、誠にありがとうございました。

1週間で終わるのは惜しい気もしましたが、とりあえずは成功裏に終えることができ、ホッとしております。

来場者の多くは京都市内からお越しでしたが、中には西東京市、千葉市、藤沢市、志摩市、名古屋市、東大阪市、大阪市、貝塚市、豊中市、茨木市、枚方市、近江八幡市、甲賀市などの遠方からもお越しいただき非常に感激しております。京都観光も兼ねておられたのかもしれませんが、貴重な時間を当展示会に充てていただいたこと、感謝に堪えません。

いずれの方々も、展示パネルを熱心に読み耽っていただけました。2時間近くもじっくりとご覧いただいた方もおられるほどでした。
また、いくつかの情報も寄せられ、新たに埋蔵仁丹が2枚見つかりました。






展示パネルは、こんな ↓ 感じのものを38枚準備しました。



内容のほとんどはブログで発表済みのものでしたが、改めてパネル1枚にコンパクトにまとめ上げる作業はいささか難しいものがありました。文字が多いと読みづらい、図表だけでは説明できないと、1枚1枚そのバランスに苦慮しました。

思えば、展示会をやろうという提案があったのは昨年の夏のことでした。当初は、展示会の最終日にゲストを迎えての講演会も企画していたほどでしたが、本職を抱えての準備は遅々として進まず、結局はシンプルに展示会のみとなりました。それでも、1年間、本来の研究活動はストップ状態となり、ひたすら発表会の準備に追われる結果となりました。たった38枚のパネルでしたが、それでも会員みんなの努力の賜物だったのです。趣味は本来楽しいはずなのですが、楽しいことだけをやっていては何の形にもできなかったでしょう。生みの苦しみの末の、今回の研究成果展でした。

さて、来年は新たに活動方針を練り直し、第2段階へとステップアップしていきたいと考えています。それでは新年もよろしくお願いします!

~京都仁丹樂會一同~
  


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2014年12月27日

上七軒「真盛町」盗まれる!

盛り上がりを見せる研究成果展の裏で、実にショッキングなニュースが入ってきました。
あの上七軒の「真盛町」が少なくとも2014年12月25日に盗まれました!

これです。上七軒を歩いた仁丹ファンの方なら、どなたもご存知かと思います。



90年近くもこの地で上七軒を見守ってきた仁丹、その本日現在の姿がこれです。



なんとしたことでしょう。なんとヒドイことをするのでしょう。盗られた傷跡が痛々しいです。

この仁丹町名表示板の住所表示は、
上京区今出川通七本松西入真盛町
です。
ここで言う“今出川通”は現在バス(かつては市電)が通っている今出川通ができる前の旧今出川通、つまりは上七軒通のことを言っています。
したがって、京都の近代史を語る生き証人としても貴重な仁丹でした。ですから、研究成果展でもテーマのひとつとしてパネルを起こしているほどなのです。

※     ※     ※


この角度からの眺めが好きでした。



なのに、それが、こんな光景に・・・



仁丹が設置されていたこの町家、実は、がま口で有名な『まつひろ商店』さんの上七軒店なのです。ネットによれば同店の住所表示も
上京区今出川通七本松西入真盛町
とあり、盗まれた仁丹町名表示板と全く同じです。
こうなると、まさにお店の看板が盗まれたかのような気持ちになりますね。

※     ※     ※

町家のかつての、といっても、ほんの2,3日前まではこのような全景でした。



真壁、簾、一文字瓦、鍾馗さん、格子窓、暖簾、提灯、そして仁丹。これらすべてによって醸し出される雰囲気がこの町家の魅力なのです。どれひとつ欠けてもいけません。
したがって、今回の仁丹の盗難は意匠性への侵害でもあります。単なる広告看板をちょっと失敬しただけでは済まされないのです。

また、「上京北野界わい景観整備地区」にも指定されている、上七軒通全体の景観にも影響を与えたとも言えるでしょう。





昨年、私たちは、「平成25年度 京都景観賞 屋外広告物部門」に京都市内の仁丹町名表示板を一括推薦し、その価値が認められ森下仁丹株式会社とともに「特別表彰」を受けました。つまりは、仁丹町名表示板は歴史ある京都の景観に寄与していることが行政により認められたのです。今回の盗難はたった1枚かもしれません。でも、それは京都の景観にも影響を与え、さらには京都市民を敵に回す行為となるのです。果たして、ここまで考えての行為なのでしょうか?

持ち主の方も非常に残念がっておられ、このようなことが二度と起こらないようにと、警察に盗難届 を出されました。
もし、少しでも心ある人なら、
元の場所に(そっとでもいいし)返しに来てください。お願いします。

仁丹町名表示板は、コレクションアイテムとなり得るような単なる琺瑯看板ではありません。住所の表示板です。あるべき場所にあってこそ価値が維持できるのです。あるべき場所から離れた瞬間、もう価値はなくなるのです。

もし、ネットオークションや骨董店で見かけても、元々は「盗難品」であることを認識しなければなりません。

~京都仁丹樂會~

  
タグ :盗難真盛町


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2014年12月13日

日本交通学会エクスカーション

本格的な冬の到来となりましたが、今回は2か月前の雲一つない秋晴れの一日のことです。



10月18日、19日の両日、同志社大学において日本交通学会第73回研究報告会が開かれました。大会のテーマは「都市観光と交通」で、交通や観光に携われている産官学の専門家の方々による熱い議論が行われました。(青い文字をクリックすると当該サイトにリンクします)

その初日、関係者の方々に実際にまち歩きを体験していただく「エクスカーション(見学会)」が企画され、京都仁丹樂會にそのガイドの依頼がありました。そして、会場の同志社大学界隈の仁丹町名表示板を巡りつつ、近辺の歴史やまちなみなどを紹介させていただきました。
以下、その模様です。

※       ※       ※


集合場所は同志社大の今出川キャンパス。天候にも恵まれ、気持ちの良いスタートです。
まずは烏丸今出川の交差点で、京都独特の住所表記、烏丸今出川近辺のまちづくりの変遷などを説明しました。




現在、烏丸今出川の交差点を南側から眺めると、次のような写真になりますね。



でも、同じ地点でも大正初めですと次のモノクロ画像のようになります。


『石井行昌撮影写真資料147 市電』  原資料:京都府立総合資料館寄託

これは「仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」 ⑦木製のピーク」で紹介した写真です。
市電の敷設状況から大正2年5月26日~大正6年10月31日の間に撮影された写真と断定できますが、電車の奥、烏丸通はまだ北への拡築がされておらず、また、赤い矢印の部分には木製の仁丹町名表示板が付けられていることも分かります。



※       ※       ※


この交差点から今出川通を西方向へと歩いていきます。
建築中の上京区役所を過ぎると、今出川通は衣棚通と小川通の中間辺りで、なぜか北側へと斜行し、しばらくして再び東西に延びる直線的な道路になります。




国際日本文化研究センター所蔵の「実地踏測京都市街全図」(明治44年)と京都市街全図(大正2年)を比較すると、その変遷が垣間見えます。

【明治末】

「実地踏測京都市街全図」(明治44年)  国際日本文化研究センター所蔵をベースに加筆
(地図をクリックすると当該データにリンクします)



【大正初期】

「京都市街全図」(大正2年) 国際日本文化研究センター所蔵をベースに加筆
(地図をクリックすると当該データにリンクします)


明治末の地図では「今出川通」の表示がされている部分(赤丸で囲ったところ)、ちょうど烏丸通から西側、小川通の手前あたりまで鍵型に歪んでいたものが、大正に入ると現在の形で拡幅されています。そして、拡幅後も元々の細い今出川通はそのまま残されていますが、新しい道路に今出川通の名を譲り、自らは”旧今出川通”と名乗るようになりました。

上の2枚の地図で示した星印の場所には次の仁丹町名表示板が健在で、「舊今出川通」を冠してその歴史を伝えていました。




現在の今出川通と元祖今出川通の関係を示す分かりやすい看板が地元にありました。



そして、旧今出川通に入って東方面を眺めるとこんな ↓ 光景となります。




※       ※       ※


「舊今出川通」の町名表示板のあるこの辺り、非常に細い通りが入り組んでいます。
上京区役所のホームページによれば、一条以北、智恵光院以東、烏丸以西に辻子の集中地域があり、京都市内約100例のうち実に50例がここに集中しているとのこと。そのいくつかを通りながらまち歩きは進みます。


上京区役所ホームページ 「上京区域における図子の分布」より
(地図をクリックすると当該データにリンクします)


次の元図子町の表示板も、その典型例の一つです。




この辺りは狩野元信が居を構えていたといわれており、「狩野辻子」とも呼ばれていました。先の上京区役所HPの地図における44番です。




※       ※       ※


さて、堀川通に出ました。堀川今出川の交差点近くには村雲町の町名表示板があります。




このあたり、今はもう失われてしまった町名表示板がたくさん存在していたはずなのです。
というのも、現在は中央分離帯の幅も広い4-6車線の幹線道路である堀川通は、戦時中の建物疎開により拡幅されたものであり、それまではそこに「西堀川通」と住宅群が存在していたからです。
京都府立総合資料館所蔵「京都市明細図」ではその様子が克明に記録されています。


京都府立総合資料館所蔵「京都市明細図」をベースに加筆
上半分 = 京都市明細図NW15    下半分 = 京都市明細図NW14
(青い文字をクリックすると、当該データにリンクします)

地図中央、着色されていない部分は「疎開地」であり、戦後そこが拡幅された現在の堀川通に変わっているのです。東堀川通の村雲町の町名表示板が生き残ったのとは対照的に、西堀川通とその沿道には、いったいいくつの表示板が取り付けられていたのでしょうか。

※       ※       ※


次に堀川通から西入上るで、慈眼庵辻子を通って貴重な木製の町名表示板を紹介します。



さらに北上していくと今度は「山名辻子」。応仁の乱の西軍トップ、山名宗全邸跡の碑が残されています。



西軍の陣が構えられたからこその「西陣」の地名、今でも京都市考古資料館前にはその石碑が残されていますね。




山名辻子に一行をお連れしたのにはもう一つ理由がありました。
平成23年、この山名辻子に残されていた「山名町」の町名表示板が、心無い何者かによって盗まれてしまったのです。


今ではうっすらと町名表示板の跡が残るだけで、参加者の中からも「ここに残っていたらとても絵になる、いい雰囲気やのに…」と声が上がっていました。

町名表示板は京都の文化財。90年近くを経過しても今なお現役、まちの歴史を伝え続けているとともに地域の方々にも大切にされています。設置された場所に存在してこそ価値があると言うものです。
京都仁丹樂會では常々、まち歩きのイベントや啓発チラシの配布、ブログ等での情報発信などを通じて、そのことを訴えてきました。今後もその取り組みを継続していく考えですし、その大切さに共感してくださる方が一人でも増えることを切に希望しています。

※       ※       ※


まち歩きに戻りましょう。
堀川通を再び横断し、東へと向かい、そして小川通を北上します。
今は埋め立てられてしまった「小川」の痕跡を紹介しながら、寺之内通へ。




応仁の乱の史跡として有名な「百々橋」跡、千家の不審庵、今日庵などをご紹介しつつ、さらに東へ向かいます。

新町通を少し北上すると、道正町の表示板が見えてきます。



実はこの表示板、以前は新町通の西側の町家に設置されていたものでした。
町家の解体に伴いいったんは姿を消したかに思われたのですが、つい先日、通りを挟んで東側のお宅に無事設置されていたことが確認できました。
町家の解体に伴い近隣に再設置されるもの、いったんは姿を消しても工事終了後に改めて取り付けられるものなど、まちの皆様から愛され、大切にされている町名表示板を見るのは、私たちにとっても非常にうれしいことです。

その後も、近隣の木製仁丹、琺瑯仁丹を案内しながら、上御霊神社、相国寺を経て同志社大学に帰着。無事エクスカーションを終えることができました。

※       ※       ※


「まいまい京都」のガイドは当会として都合6回させていただきましたが、今回は雰囲気がまいまいとはかなり違っていました。先ずは、ほとんどの方がスーツ姿であること。そして、京都以外にお住まいの学術研究者、交通業界の専門家の方々で、ディープな路地散策や住所表示の仕組みなど、みなさんにとってはとても新鮮で非常に興味深く楽しんでいただいたようです。

「勉強になった」
「楽しかった」
「面白い企画だ。京都だからできるのかもしれないね」
「京都は何度か来ているが、こんな細い通りを歩くのは初めてだ」

などの会話が耳に入ってきていました。

町名表示板を探しながらブラブラきょろきょろとまち歩きをしつつ、その歴史や近代京都の都市改造、時代の生き証人・文化財としての仁丹町名表示板の大切さに思いを馳せる、というのもなかなか素敵な時間ではないでしょうか。
皆さんもぜひ京都にお越しの際にはトライしてみて頂きたいと思います。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

~京都仁丹樂會 idecchi~

  


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2014年11月02日

まいまい 四条大宮~西本願寺 仁丹新コース

11月1日(土)、「まいまい京都 2014秋 仁丹新コース」を実施しました。



とても気持ちの良い秋晴れが続いた1週間でしたが、当日はまさかの雨!
歩きにくい、資料が濡れる、などでご苦労をおかけしたかと思いますが、長い行程、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

さて、今回は、京都仁丹樂會としては都合6回目のガイド、4本目となる新ルートです。
もはや “ここにある” 、 “あっ、ここにもあった” というレベルでは満足してもらえないと考え、内容はレジュメともどもかなり濃いものを企画しました。そのため、30分延長の2時間半コースとしていただきました。


朝9時30分、定員を少し上回る16名で四条大宮をスタート。
参加者の半数が仁丹コースのリピーターさんでしたので、内容をレベルアップしておいて正解でした。

今回のテーマは2つです。
ひとつは、京都の仁丹町名表示板だけが持つ次の5つの魅力を百聞は一見にしかず、体感していただくことです。

     5つの魅力
       ① 古くても美しくデザインも秀逸
       ② 町家にもモダンな建物にもマッチする
       ③ 正確な住所表記と正確な設置
       ④ 京都の近代史を教えてくれる
       ⑤ 郷土愛が見える

そして、もうひとつのテーマは、京都にこれだけ多くの仁丹町名表示板が設置された真相に迫ることでした。
明治大正にかけての屋外広告物に対する世論や、大正と昭和の2度の御大典との関係など、京都仁丹樂會のメンバーそれぞれの得意分野を集積して得られた成果を披露させていただきました。


ゴールの西本願寺前まで、ジグザグ、ジグザグと傘を広げながらの行進、およそ40枚前後の仁丹町名表示板を見ることができました。
途中、木製あり、埋蔵あり、平成復活バージョンあり、はたまた消滅あり、と様々なバリエーションがありました。
仁丹を探す楽しさ、見つけた時の感動も味わっていただけたのであれば嬉しいです。

以下、当日の様子です。


 ↑ 埋蔵仁丹の見学



 ↑ 菅大臣神社にて核心に迫る解説



 ↑ あっ! ここにも木製仁丹が



 ↑ 新花屋町通、花屋町通、旧花屋町通 どうなってるの?



 ↑ 見つけたら必ず撮影 みなさんすでに仁丹ファン



 ↑ 正面通と御前通の関係を説明



 ↑ まもなくゴール



 ↑

今回の終点、堀川正面。かなりタイトなスケジュールでしたが、予めお願いしていたタイムキーパー当会会員idecchiさんのお蔭で、定刻通り到着。そして最後の説明をさせていただき12時ジャストで終了することができました。

まだまだ説明したいことはいっぱいあったのですが、今後も新たな研究成果など順次ブログで発表していきますので、よろしくお願いします。

~京都仁丹樂會 shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 12:04Comments(0)トピックニュース

2014年10月04日

守られて現役! 福島町の仁丹

かつて烏丸五条の近くにこのような仁丹町名表示板がありました。



東洞院通と楊梅通とが交わる箇所に究極の直角設置の仁丹です。



楊梅通に面しては、
下京区 楊梅通東洞院西入 福島町

東洞院通に面しては、
下京区 東洞院通五條下ル二丁目 福島町

あれ? 後者は楊梅通を採用せず、五条通を使っていますね。よりポピュラーな五条通から“下がって二丁目”というわけです。
でも、今まで何気なく眺めているだけで気づきませんでしたが、ここは二丁目ではなく五条通から一丁目です。
五条通の建物疎開と関係しているのかと「京都市明細地図」で調べてみましたが、やはり一丁目で間違いないようです。となると、もしかしたら、元々もう少し南にあったのでしょうか?

※     ※     ※


さて、この直角設置の2枚の仁丹、そのお家が2008年に解体され、跡地がコインパーキングになりました。
でも、幸いにして町内の方々が仁丹を守ってくださり、いずれも隣の地へと移動しました。
この時点でこんな ↓ 感じになりました。


黄色い矢印の部分に移設されています。近づくと次のようになります。
付け直したことが分かる、銀色に輝く真新しいビスに感動です。



この経過は、『京都ずんずん2008年08月30日』の記事や、『京都新聞2010年5月26日掲載の取材ノート』に詳しく紹介されています。


※     ※     ※


ところが一難去ってまた一難。昨年の年末、再び危機が訪れました。
今度はこのコインパーキングにマンション建設工事が始まり、これらの仁丹がすっぽり隠れてしまったのです。

でも、ご安心ください。さすがに大切にされてきただけあって、またもや復活です。現役に返り咲きました。


黄色の矢印のところに移設されました。とは言っても、同じような場所なのでこの写真からは分かりにくいかと思います。近づくと、こんな ↓ 感じです。



嬉しいですね。感謝感謝。
今後、すべての町内で同様のことが起ることを祈りましょう。

~京都仁丹樂會 shimo-chan~
  


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2014年09月23日

鞆の浦で「森下博展」

「鞆の浦 仁丹探訪記(5)」で少し触れましたが、この秋、鞆の浦歴史民俗資料館で

特別展 『鞆の大恩人 森下博』 -広告王 仁丹の生涯-

が開催されます。

期間は、平成26年10月9日(木)~11月24日(月・祝)です。

チラシを頂戴しましたので、ここに紹介させていただきます。







展示説明会は次のとおりです。




また、講演会やまち歩きも興味深いですね。




鞆の浦へは一度訪れてみたいとお考えの方、この機会にいかがでしょうか。

~ 京都仁丹樂會 shimo-chan ~
  


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2014年09月17日

鞆の浦 仁丹探訪記(5)

鞆の浦 仁丹町名表示板 探訪記(5)

さて、いよいよ鞆の浦探訪記の最終回です。あと発見していない仁丹町名表示板は次の3枚のみとなりました。

桝屋清右衛門宅前
旧魚屋萬蔵宅前
鞆中学校入口

最後のルートはこのような感じになりました。矢印が地図から大きく飛び出しているのには、いささか感情が込められています。事情は後ほどに。



タイムリミットが迫っているので、まさにピンポイントで探さなくてはなりません。
観光用のイラストマップには桝屋清右衛門宅は記載されているものの、旧魚屋萬蔵宅は見当たらず、とりあえずまだ通っていない道を港方面に向かって歩いてみました。

すると、なんとラッキーなことでしょう、すんなり出会うことができました。



13枚目  鞆町鞆 旧魚屋萬蔵宅前 道越町


イラストマップにはこの場所は「龍馬交渉跡」とありました。
坂本龍馬と海援隊が乗船していた『いろは丸』が瀬戸内海で紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突し、鞆の浦の沖合で沈没、その補償について紀州藩と交渉した場所がこの建物だったそうです。

それにしても、なかなか素敵な建物だと思ったら、宮崎駿さんがプロデュースされたそうで、現在は旅館とカフェとして使われていました。仁丹も似合っています。



※     ※     ※


次は、桝屋清右衛門宅です。
カンニングするようですがイラストマップに従い、Uターンして今度は東方面のバス通りへと向かいます。14枚目は桝屋清右衛門宅そのものに取り付けられていましたので、あっさりと見つけることができました。



14枚目  鞆町鞆 桝屋清右衛門宅前 石井町

ここは元々、廻船問屋であって、いろは丸事件の際に坂本龍馬や海援隊を支援して宿泊させたのだそうです。“龍馬の隠れ部屋”なるものが公開されています。



※     ※     ※

これで14枚の仁丹町名表示板を見つけることができました。
残るはいよいよ1枚のみ。それも鞆中学校前と場所が明確なので楽勝です。

時刻はちょうど17時。ここで、他の2人と連絡を取り合って集合します。
最後の1枚は鞆の中心地より“少し遠いところ”にあると聞いていたので、一同で見に行き、最寄りのバス停から一緒に福山駅へと戻る段取りにしていたのです。
みなさんもちょうど14枚無事に発見されていました。さすが京都で培ったテクニックの持ち主たちです。

ところがです。
鞆中学校というところ、バスに乗ってもよいほどに遠いところにあったのです。
“少し遠いところ”ではありませんでした。
現地で参考にしていたイラストマップでは範囲外で掲載されていませんでしたが、冒頭の地図で矢印が大きく飛び出しているのはそのような意味だったのです。

正確な場所は次の地図の赤丸のところです。



14枚目の桝屋清右衛門宅前からは2キロ程度の距離ですが、山の中腹にあることが分かるかと思います。ただの2キロではなく、かなり坂を登らなければなりませんでした。

半日歩いた後の、きつい連続上り勾配。もうみんなヘトヘトです。
最後の仁丹町名表示板は、鞆中学校“入口”とあるので、もしかして坂道の入口にあったのであれば登っても無駄なわけであり、みんな絶対にそんなミスをしないようにと真剣に周囲を見渡しながら、ぜえぜえと終点を目指したのでありました。
御歳70を過ぎた滋ちゃんなどはもう脱落寸前でした。

そして、17時45分、ようやく鞆中学校の正門前に辿り着くことができました。
でも、パッと見た感じでは見当たりません。

「どこにあるの?」

15枚すべて発見できるかどうかの、大げさですが運命の一瞬でした。
歩を進め、門の真正面まで行くと、ありました!15枚目。ブロック塀とヒマワリに挟まれた15枚目が顔を出してくれたのでありました!




15枚目  鞆町後地 鞆中学校入口 御幸一丁目


海抜54mの地点でした。



背後を振り返ると、瀬戸内海を見下ろすことができました。




ところで、なぜ1枚だけこのような遠い場所に設置されたのでしょうか?
それは、今回の設置場所については、鞆中学校の生徒さんたちが郷土学習の一環として選ばれており、校門への設置も希望されたからだそうです。

校門前でたむろする不審なおじさん3人組でしたが、下校する生徒さんたちは「こんにちは」と明るく礼儀正しく挨拶をしてくれるのでありました。
そしてスキップするかのように軽い足取りで坂道を降りて行きます。毎日の通学で鍛えられているのでしょうね。歳の差を大いに感じた次第です。

※     ※     ※


以上、5回に分けての鞆の浦の仁丹町名表示板探訪記でした。

鞆の浦は、正直言って開発から取り残されてしまった町だと思います。
でも、それが、今となっては逆にかけがえのない財産になってしまったのではないでしょうか。
それも、町並みという見かけの姿だけではなく、狭い割には祭りが多いことからも、かつては日本中で見られたであろう人々の結びつきも宝になっているような気がします。

あの情緒ある町並みがいつまでも変わらないとなると、鞆の浦で生まれ育った人たちは、きっとずっと住み続けたいという強い郷土心ができるのではないか、とたった半日の訪問でしたが、そのように思えました。

今回は仁丹町名表示板を見ることが目的でしたが、このままではとてもとても消化不良です。
また改めてゆっくりと寄せていただきたいと思います。

なお、実は探索を一時中断して鞆の浦歴史民俗資料館をみんなで表敬訪問もしています。
森下博の資料を拝見したり、エピソードをお伺いするなど、ほんの短時間でしたが貴重なひと時も持てました。
資料館ではこの秋、「森下博展」が開催されます。

また、今回の記事は、鞆の浦に仁丹町名表示板を設置するにあたり尽力なさった“しまかぜ”さんの『ブログ 鞆の浦日記』も大いに参考とさせていただきました。ありがとうございました。


~おわり~

京都仁丹樂會 滋ちゃん・たけちゃん・shimo-chan
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 20:53Comments(3)トピックニュース