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2015年01月08日

上七軒「真盛町」事件 TVニュースに!

年末にお知らせしました残念なニュース、『上七軒「真盛町」盗まれる!』がすごく注目されています。

1月4日に「上七軒歌舞会」さんのFacebookでこの記事が紹介されたのが起爆剤となったのでしょうか、翌日の当ブログへのアクセス数は一気に3,000件を超え、当該記事の参照数は本日現在6,000回を突破、“いいね!”も1,200以上いただきました。
まさに怒りの数とも言えるのではないでしょうか。

そして、とうとう本日、朝日放送の夕方の報道番組「キャスト」でも大きく取り上げられました。
番組では盗難に遭った所有者の嘆き、仁丹町名表示板の解説、そして警察が盗難届を受理し犯罪として捜査をすることなどが報じられました。

なお、仁丹町名表示板の解説については当会が取材を受け、当ブログからの写真も何枚か使用されました。取材風景は、こんな ↓ 感じでした。



ところで年末からヤフーオークションに出品されていた「上京区鹿ケ谷宮ノ前町」の仁丹町名表示板が、不思議なことに番組終了後にオークションから姿を消しました。

とにかく、無事に元の場所に戻ることを祈るばかりです。

~京都仁丹樂會~
  
タグ :盗難真盛町


Posted by 京都仁丹樂會 at 22:40Comments(7)トピックニュース

2014年12月30日

研究成果展 ご来場、ありがとうございました!



京都仁丹樂會の初めての研究成果展、年末のお忙しい中、多くの方々に来ていただき、誠にありがとうございました。

1週間で終わるのは惜しい気もしましたが、とりあえずは成功裏に終えることができ、ホッとしております。

来場者の多くは京都市内からお越しでしたが、中には西東京市、千葉市、藤沢市、志摩市、名古屋市、東大阪市、大阪市、貝塚市、豊中市、茨木市、枚方市、近江八幡市、甲賀市などの遠方からもお越しいただき非常に感激しております。京都観光も兼ねておられたのかもしれませんが、貴重な時間を当展示会に充てていただいたこと、感謝に堪えません。

いずれの方々も、展示パネルを熱心に読み耽っていただけました。2時間近くもじっくりとご覧いただいた方もおられるほどでした。
また、いくつかの情報も寄せられ、新たに埋蔵仁丹が2枚見つかりました。






展示パネルは、こんな ↓ 感じのものを38枚準備しました。



内容のほとんどはブログで発表済みのものでしたが、改めてパネル1枚にコンパクトにまとめ上げる作業はいささか難しいものがありました。文字が多いと読みづらい、図表だけでは説明できないと、1枚1枚そのバランスに苦慮しました。

思えば、展示会をやろうという提案があったのは昨年の夏のことでした。当初は、展示会の最終日にゲストを迎えての講演会も企画していたほどでしたが、本職を抱えての準備は遅々として進まず、結局はシンプルに展示会のみとなりました。それでも、1年間、本来の研究活動はストップ状態となり、ひたすら発表会の準備に追われる結果となりました。たった38枚のパネルでしたが、それでも会員みんなの努力の賜物だったのです。趣味は本来楽しいはずなのですが、楽しいことだけをやっていては何の形にもできなかったでしょう。生みの苦しみの末の、今回の研究成果展でした。

さて、来年は新たに活動方針を練り直し、第2段階へとステップアップしていきたいと考えています。それでは新年もよろしくお願いします!

~京都仁丹樂會一同~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 21:33Comments(0)トピックニュース

2014年12月27日

上七軒「真盛町」盗まれる!

盛り上がりを見せる研究成果展の裏で、実にショッキングなニュースが入ってきました。
あの上七軒の「真盛町」が少なくとも2014年12月25日に盗まれました!

これです。上七軒を歩いた仁丹ファンの方なら、どなたもご存知かと思います。



90年近くもこの地で上七軒を見守ってきた仁丹、その本日現在の姿がこれです。



なんとしたことでしょう。なんとヒドイことをするのでしょう。盗られた傷跡が痛々しいです。

この仁丹町名表示板の住所表示は、
上京区今出川通七本松西入真盛町
です。
ここで言う“今出川通”は現在バス(かつては市電)が通っている今出川通ができる前の旧今出川通、つまりは上七軒通のことを言っています。
したがって、京都の近代史を語る生き証人としても貴重な仁丹でした。ですから、研究成果展でもテーマのひとつとしてパネルを起こしているほどなのです。

※     ※     ※


この角度からの眺めが好きでした。



なのに、それが、こんな光景に・・・



仁丹が設置されていたこの町家、実は、がま口で有名な『まつひろ商店』さんの上七軒店なのです。ネットによれば同店の住所表示も
上京区今出川通七本松西入真盛町
とあり、盗まれた仁丹町名表示板と全く同じです。
こうなると、まさにお店の看板が盗まれたかのような気持ちになりますね。

※     ※     ※

町家のかつての、といっても、ほんの2,3日前まではこのような全景でした。



真壁、簾、一文字瓦、鍾馗さん、格子窓、暖簾、提灯、そして仁丹。これらすべてによって醸し出される雰囲気がこの町家の魅力なのです。どれひとつ欠けてもいけません。
したがって、今回の仁丹の盗難は意匠性への侵害でもあります。単なる広告看板をちょっと失敬しただけでは済まされないのです。

また、「上京北野界わい景観整備地区」にも指定されている、上七軒通全体の景観にも影響を与えたとも言えるでしょう。





昨年、私たちは、「平成25年度 京都景観賞 屋外広告物部門」に京都市内の仁丹町名表示板を一括推薦し、その価値が認められ森下仁丹株式会社とともに「特別表彰」を受けました。つまりは、仁丹町名表示板は歴史ある京都の景観に寄与していることが行政により認められたのです。今回の盗難はたった1枚かもしれません。でも、それは京都の景観にも影響を与え、さらには京都市民を敵に回す行為となるのです。果たして、ここまで考えての行為なのでしょうか?

持ち主の方も非常に残念がっておられ、このようなことが二度と起こらないようにと、警察に盗難届 を出されました。
もし、少しでも心ある人なら、
元の場所に(そっとでもいいし)返しに来てください。お願いします。

仁丹町名表示板は、コレクションアイテムとなり得るような単なる琺瑯看板ではありません。住所の表示板です。あるべき場所にあってこそ価値が維持できるのです。あるべき場所から離れた瞬間、もう価値はなくなるのです。

もし、ネットオークションや骨董店で見かけても、元々は「盗難品」であることを認識しなければなりません。

~京都仁丹樂會~

  
タグ :盗難真盛町


Posted by 京都仁丹樂會 at 21:26Comments(6)トピックニュース

2014年12月13日

日本交通学会エクスカーション

本格的な冬の到来となりましたが、今回は2か月前の雲一つない秋晴れの一日のことです。



10月18日、19日の両日、同志社大学において日本交通学会第73回研究報告会が開かれました。大会のテーマは「都市観光と交通」で、交通や観光に携われている産官学の専門家の方々による熱い議論が行われました。(青い文字をクリックすると当該サイトにリンクします)

その初日、関係者の方々に実際にまち歩きを体験していただく「エクスカーション(見学会)」が企画され、京都仁丹樂會にそのガイドの依頼がありました。そして、会場の同志社大学界隈の仁丹町名表示板を巡りつつ、近辺の歴史やまちなみなどを紹介させていただきました。
以下、その模様です。

※       ※       ※


集合場所は同志社大の今出川キャンパス。天候にも恵まれ、気持ちの良いスタートです。
まずは烏丸今出川の交差点で、京都独特の住所表記、烏丸今出川近辺のまちづくりの変遷などを説明しました。




現在、烏丸今出川の交差点を南側から眺めると、次のような写真になりますね。



でも、同じ地点でも大正初めですと次のモノクロ画像のようになります。


『石井行昌撮影写真資料147 市電』  原資料:京都府立総合資料館寄託

これは「仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」 ⑦木製のピーク」で紹介した写真です。
市電の敷設状況から大正2年5月26日~大正6年10月31日の間に撮影された写真と断定できますが、電車の奥、烏丸通はまだ北への拡築がされておらず、また、赤い矢印の部分には木製の仁丹町名表示板が付けられていることも分かります。



※       ※       ※


この交差点から今出川通を西方向へと歩いていきます。
建築中の上京区役所を過ぎると、今出川通は衣棚通と小川通の中間辺りで、なぜか北側へと斜行し、しばらくして再び東西に延びる直線的な道路になります。




国際日本文化研究センター所蔵の「実地踏測京都市街全図」(明治44年)と京都市街全図(大正2年)を比較すると、その変遷が垣間見えます。

【明治末】

「実地踏測京都市街全図」(明治44年)  国際日本文化研究センター所蔵をベースに加筆
(地図をクリックすると当該データにリンクします)



【大正初期】

「京都市街全図」(大正2年) 国際日本文化研究センター所蔵をベースに加筆
(地図をクリックすると当該データにリンクします)


明治末の地図では「今出川通」の表示がされている部分(赤丸で囲ったところ)、ちょうど烏丸通から西側、小川通の手前あたりまで鍵型に歪んでいたものが、大正に入ると現在の形で拡幅されています。そして、拡幅後も元々の細い今出川通はそのまま残されていますが、新しい道路に今出川通の名を譲り、自らは”旧今出川通”と名乗るようになりました。

上の2枚の地図で示した星印の場所には次の仁丹町名表示板が健在で、「舊今出川通」を冠してその歴史を伝えていました。




現在の今出川通と元祖今出川通の関係を示す分かりやすい看板が地元にありました。



そして、旧今出川通に入って東方面を眺めるとこんな ↓ 光景となります。




※       ※       ※


「舊今出川通」の町名表示板のあるこの辺り、非常に細い通りが入り組んでいます。
上京区役所のホームページによれば、一条以北、智恵光院以東、烏丸以西に辻子の集中地域があり、京都市内約100例のうち実に50例がここに集中しているとのこと。そのいくつかを通りながらまち歩きは進みます。


上京区役所ホームページ 「上京区域における図子の分布」より
(地図をクリックすると当該データにリンクします)


次の元図子町の表示板も、その典型例の一つです。




この辺りは狩野元信が居を構えていたといわれており、「狩野辻子」とも呼ばれていました。先の上京区役所HPの地図における44番です。




※       ※       ※


さて、堀川通に出ました。堀川今出川の交差点近くには村雲町の町名表示板があります。




このあたり、今はもう失われてしまった町名表示板がたくさん存在していたはずなのです。
というのも、現在は中央分離帯の幅も広い4-6車線の幹線道路である堀川通は、戦時中の建物疎開により拡幅されたものであり、それまではそこに「西堀川通」と住宅群が存在していたからです。
京都府立総合資料館所蔵「京都市明細図」ではその様子が克明に記録されています。


京都府立総合資料館所蔵「京都市明細図」をベースに加筆
上半分 = 京都市明細図NW15    下半分 = 京都市明細図NW14
(青い文字をクリックすると、当該データにリンクします)

地図中央、着色されていない部分は「疎開地」であり、戦後そこが拡幅された現在の堀川通に変わっているのです。東堀川通の村雲町の町名表示板が生き残ったのとは対照的に、西堀川通とその沿道には、いったいいくつの表示板が取り付けられていたのでしょうか。

※       ※       ※


次に堀川通から西入上るで、慈眼庵辻子を通って貴重な木製の町名表示板を紹介します。



さらに北上していくと今度は「山名辻子」。応仁の乱の西軍トップ、山名宗全邸跡の碑が残されています。



西軍の陣が構えられたからこその「西陣」の地名、今でも京都市考古資料館前にはその石碑が残されていますね。




山名辻子に一行をお連れしたのにはもう一つ理由がありました。
平成23年、この山名辻子に残されていた「山名町」の町名表示板が、心無い何者かによって盗まれてしまったのです。


今ではうっすらと町名表示板の跡が残るだけで、参加者の中からも「ここに残っていたらとても絵になる、いい雰囲気やのに…」と声が上がっていました。

町名表示板は京都の文化財。90年近くを経過しても今なお現役、まちの歴史を伝え続けているとともに地域の方々にも大切にされています。設置された場所に存在してこそ価値があると言うものです。
京都仁丹樂會では常々、まち歩きのイベントや啓発チラシの配布、ブログ等での情報発信などを通じて、そのことを訴えてきました。今後もその取り組みを継続していく考えですし、その大切さに共感してくださる方が一人でも増えることを切に希望しています。

※       ※       ※


まち歩きに戻りましょう。
堀川通を再び横断し、東へと向かい、そして小川通を北上します。
今は埋め立てられてしまった「小川」の痕跡を紹介しながら、寺之内通へ。




応仁の乱の史跡として有名な「百々橋」跡、千家の不審庵、今日庵などをご紹介しつつ、さらに東へ向かいます。

新町通を少し北上すると、道正町の表示板が見えてきます。



実はこの表示板、以前は新町通の西側の町家に設置されていたものでした。
町家の解体に伴いいったんは姿を消したかに思われたのですが、つい先日、通りを挟んで東側のお宅に無事設置されていたことが確認できました。
町家の解体に伴い近隣に再設置されるもの、いったんは姿を消しても工事終了後に改めて取り付けられるものなど、まちの皆様から愛され、大切にされている町名表示板を見るのは、私たちにとっても非常にうれしいことです。

その後も、近隣の木製仁丹、琺瑯仁丹を案内しながら、上御霊神社、相国寺を経て同志社大学に帰着。無事エクスカーションを終えることができました。

※       ※       ※


「まいまい京都」のガイドは当会として都合6回させていただきましたが、今回は雰囲気がまいまいとはかなり違っていました。先ずは、ほとんどの方がスーツ姿であること。そして、京都以外にお住まいの学術研究者、交通業界の専門家の方々で、ディープな路地散策や住所表示の仕組みなど、みなさんにとってはとても新鮮で非常に興味深く楽しんでいただいたようです。

「勉強になった」
「楽しかった」
「面白い企画だ。京都だからできるのかもしれないね」
「京都は何度か来ているが、こんな細い通りを歩くのは初めてだ」

などの会話が耳に入ってきていました。

町名表示板を探しながらブラブラきょろきょろとまち歩きをしつつ、その歴史や近代京都の都市改造、時代の生き証人・文化財としての仁丹町名表示板の大切さに思いを馳せる、というのもなかなか素敵な時間ではないでしょうか。
皆さんもぜひ京都にお越しの際にはトライしてみて頂きたいと思います。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

~京都仁丹樂會 idecchi~

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 22:22Comments(3)トピックニュース

2014年11月02日

まいまい 四条大宮~西本願寺 仁丹新コース

11月1日(土)、「まいまい京都 2014秋 仁丹新コース」を実施しました。



とても気持ちの良い秋晴れが続いた1週間でしたが、当日はまさかの雨!
歩きにくい、資料が濡れる、などでご苦労をおかけしたかと思いますが、長い行程、最後までお付き合いいただきありがとうございました。

さて、今回は、京都仁丹樂會としては都合6回目のガイド、4本目となる新ルートです。
もはや “ここにある” 、 “あっ、ここにもあった” というレベルでは満足してもらえないと考え、内容はレジュメともどもかなり濃いものを企画しました。そのため、30分延長の2時間半コースとしていただきました。


朝9時30分、定員を少し上回る16名で四条大宮をスタート。
参加者の半数が仁丹コースのリピーターさんでしたので、内容をレベルアップしておいて正解でした。

今回のテーマは2つです。
ひとつは、京都の仁丹町名表示板だけが持つ次の5つの魅力を百聞は一見にしかず、体感していただくことです。

     5つの魅力
       ① 古くても美しくデザインも秀逸
       ② 町家にもモダンな建物にもマッチする
       ③ 正確な住所表記と正確な設置
       ④ 京都の近代史を教えてくれる
       ⑤ 郷土愛が見える

そして、もうひとつのテーマは、京都にこれだけ多くの仁丹町名表示板が設置された真相に迫ることでした。
明治大正にかけての屋外広告物に対する世論や、大正と昭和の2度の御大典との関係など、京都仁丹樂會のメンバーそれぞれの得意分野を集積して得られた成果を披露させていただきました。


ゴールの西本願寺前まで、ジグザグ、ジグザグと傘を広げながらの行進、およそ40枚前後の仁丹町名表示板を見ることができました。
途中、木製あり、埋蔵あり、平成復活バージョンあり、はたまた消滅あり、と様々なバリエーションがありました。
仁丹を探す楽しさ、見つけた時の感動も味わっていただけたのであれば嬉しいです。

以下、当日の様子です。


 ↑ 埋蔵仁丹の見学



 ↑ 菅大臣神社にて核心に迫る解説



 ↑ あっ! ここにも木製仁丹が



 ↑ 新花屋町通、花屋町通、旧花屋町通 どうなってるの?



 ↑ 見つけたら必ず撮影 みなさんすでに仁丹ファン



 ↑ 正面通と御前通の関係を説明



 ↑ まもなくゴール



 ↑

今回の終点、堀川正面。かなりタイトなスケジュールでしたが、予めお願いしていたタイムキーパー当会会員idecchiさんのお蔭で、定刻通り到着。そして最後の説明をさせていただき12時ジャストで終了することができました。

まだまだ説明したいことはいっぱいあったのですが、今後も新たな研究成果など順次ブログで発表していきますので、よろしくお願いします。

~京都仁丹樂會 shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 12:04Comments(0)トピックニュース

2014年10月04日

守られて現役! 福島町の仁丹

かつて烏丸五条の近くにこのような仁丹町名表示板がありました。



東洞院通と楊梅通とが交わる箇所に究極の直角設置の仁丹です。



楊梅通に面しては、
下京区 楊梅通東洞院西入 福島町

東洞院通に面しては、
下京区 東洞院通五條下ル二丁目 福島町

あれ? 後者は楊梅通を採用せず、五条通を使っていますね。よりポピュラーな五条通から“下がって二丁目”というわけです。
でも、今まで何気なく眺めているだけで気づきませんでしたが、ここは二丁目ではなく五条通から一丁目です。
五条通の建物疎開と関係しているのかと「京都市明細地図」で調べてみましたが、やはり一丁目で間違いないようです。となると、もしかしたら、元々もう少し南にあったのでしょうか?

※     ※     ※


さて、この直角設置の2枚の仁丹、そのお家が2008年に解体され、跡地がコインパーキングになりました。
でも、幸いにして町内の方々が仁丹を守ってくださり、いずれも隣の地へと移動しました。
この時点でこんな ↓ 感じになりました。


黄色い矢印の部分に移設されています。近づくと次のようになります。
付け直したことが分かる、銀色に輝く真新しいビスに感動です。



この経過は、『京都ずんずん2008年08月30日』の記事や、『京都新聞2010年5月26日掲載の取材ノート』に詳しく紹介されています。


※     ※     ※


ところが一難去ってまた一難。昨年の年末、再び危機が訪れました。
今度はこのコインパーキングにマンション建設工事が始まり、これらの仁丹がすっぽり隠れてしまったのです。

でも、ご安心ください。さすがに大切にされてきただけあって、またもや復活です。現役に返り咲きました。


黄色の矢印のところに移設されました。とは言っても、同じような場所なのでこの写真からは分かりにくいかと思います。近づくと、こんな ↓ 感じです。



嬉しいですね。感謝感謝。
今後、すべての町内で同様のことが起ることを祈りましょう。

~京都仁丹樂會 shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 23:30Comments(4)トピックニュース

2014年09月23日

鞆の浦で「森下博展」

「鞆の浦 仁丹探訪記(5)」で少し触れましたが、この秋、鞆の浦歴史民俗資料館で

特別展 『鞆の大恩人 森下博』 -広告王 仁丹の生涯-

が開催されます。

期間は、平成26年10月9日(木)~11月24日(月・祝)です。

チラシを頂戴しましたので、ここに紹介させていただきます。







展示説明会は次のとおりです。




また、講演会やまち歩きも興味深いですね。




鞆の浦へは一度訪れてみたいとお考えの方、この機会にいかがでしょうか。

~ 京都仁丹樂會 shimo-chan ~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 22:20Comments(0)トピックニュース

2014年09月17日

鞆の浦 仁丹探訪記(5)

鞆の浦 仁丹町名表示板 探訪記(5)

さて、いよいよ鞆の浦探訪記の最終回です。あと発見していない仁丹町名表示板は次の3枚のみとなりました。

桝屋清右衛門宅前
旧魚屋萬蔵宅前
鞆中学校入口

最後のルートはこのような感じになりました。矢印が地図から大きく飛び出しているのには、いささか感情が込められています。事情は後ほどに。



タイムリミットが迫っているので、まさにピンポイントで探さなくてはなりません。
観光用のイラストマップには桝屋清右衛門宅は記載されているものの、旧魚屋萬蔵宅は見当たらず、とりあえずまだ通っていない道を港方面に向かって歩いてみました。

すると、なんとラッキーなことでしょう、すんなり出会うことができました。



13枚目  鞆町鞆 旧魚屋萬蔵宅前 道越町


イラストマップにはこの場所は「龍馬交渉跡」とありました。
坂本龍馬と海援隊が乗船していた『いろは丸』が瀬戸内海で紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突し、鞆の浦の沖合で沈没、その補償について紀州藩と交渉した場所がこの建物だったそうです。

それにしても、なかなか素敵な建物だと思ったら、宮崎駿さんがプロデュースされたそうで、現在は旅館とカフェとして使われていました。仁丹も似合っています。



※     ※     ※


次は、桝屋清右衛門宅です。
カンニングするようですがイラストマップに従い、Uターンして今度は東方面のバス通りへと向かいます。14枚目は桝屋清右衛門宅そのものに取り付けられていましたので、あっさりと見つけることができました。



14枚目  鞆町鞆 桝屋清右衛門宅前 石井町

ここは元々、廻船問屋であって、いろは丸事件の際に坂本龍馬や海援隊を支援して宿泊させたのだそうです。“龍馬の隠れ部屋”なるものが公開されています。



※     ※     ※

これで14枚の仁丹町名表示板を見つけることができました。
残るはいよいよ1枚のみ。それも鞆中学校前と場所が明確なので楽勝です。

時刻はちょうど17時。ここで、他の2人と連絡を取り合って集合します。
最後の1枚は鞆の中心地より“少し遠いところ”にあると聞いていたので、一同で見に行き、最寄りのバス停から一緒に福山駅へと戻る段取りにしていたのです。
みなさんもちょうど14枚無事に発見されていました。さすが京都で培ったテクニックの持ち主たちです。

ところがです。
鞆中学校というところ、バスに乗ってもよいほどに遠いところにあったのです。
“少し遠いところ”ではありませんでした。
現地で参考にしていたイラストマップでは範囲外で掲載されていませんでしたが、冒頭の地図で矢印が大きく飛び出しているのはそのような意味だったのです。

正確な場所は次の地図の赤丸のところです。



14枚目の桝屋清右衛門宅前からは2キロ程度の距離ですが、山の中腹にあることが分かるかと思います。ただの2キロではなく、かなり坂を登らなければなりませんでした。

半日歩いた後の、きつい連続上り勾配。もうみんなヘトヘトです。
最後の仁丹町名表示板は、鞆中学校“入口”とあるので、もしかして坂道の入口にあったのであれば登っても無駄なわけであり、みんな絶対にそんなミスをしないようにと真剣に周囲を見渡しながら、ぜえぜえと終点を目指したのでありました。
御歳70を過ぎた滋ちゃんなどはもう脱落寸前でした。

そして、17時45分、ようやく鞆中学校の正門前に辿り着くことができました。
でも、パッと見た感じでは見当たりません。

「どこにあるの?」

15枚すべて発見できるかどうかの、大げさですが運命の一瞬でした。
歩を進め、門の真正面まで行くと、ありました!15枚目。ブロック塀とヒマワリに挟まれた15枚目が顔を出してくれたのでありました!




15枚目  鞆町後地 鞆中学校入口 御幸一丁目


海抜54mの地点でした。



背後を振り返ると、瀬戸内海を見下ろすことができました。




ところで、なぜ1枚だけこのような遠い場所に設置されたのでしょうか?
それは、今回の設置場所については、鞆中学校の生徒さんたちが郷土学習の一環として選ばれており、校門への設置も希望されたからだそうです。

校門前でたむろする不審なおじさん3人組でしたが、下校する生徒さんたちは「こんにちは」と明るく礼儀正しく挨拶をしてくれるのでありました。
そしてスキップするかのように軽い足取りで坂道を降りて行きます。毎日の通学で鍛えられているのでしょうね。歳の差を大いに感じた次第です。

※     ※     ※


以上、5回に分けての鞆の浦の仁丹町名表示板探訪記でした。

鞆の浦は、正直言って開発から取り残されてしまった町だと思います。
でも、それが、今となっては逆にかけがえのない財産になってしまったのではないでしょうか。
それも、町並みという見かけの姿だけではなく、狭い割には祭りが多いことからも、かつては日本中で見られたであろう人々の結びつきも宝になっているような気がします。

あの情緒ある町並みがいつまでも変わらないとなると、鞆の浦で生まれ育った人たちは、きっとずっと住み続けたいという強い郷土心ができるのではないか、とたった半日の訪問でしたが、そのように思えました。

今回は仁丹町名表示板を見ることが目的でしたが、このままではとてもとても消化不良です。
また改めてゆっくりと寄せていただきたいと思います。

なお、実は探索を一時中断して鞆の浦歴史民俗資料館をみんなで表敬訪問もしています。
森下博の資料を拝見したり、エピソードをお伺いするなど、ほんの短時間でしたが貴重なひと時も持てました。
資料館ではこの秋、「森下博展」が開催されます。

また、今回の記事は、鞆の浦に仁丹町名表示板を設置するにあたり尽力なさった“しまかぜ”さんの『ブログ 鞆の浦日記』も大いに参考とさせていただきました。ありがとうございました。


~おわり~

京都仁丹樂會 滋ちゃん・たけちゃん・shimo-chan
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 20:53Comments(3)トピックニュース

2014年09月09日

鞆の浦 仁丹探訪記(4)

鞆の浦 仁丹町名表示板 探訪記(4)

鞆の浦の仁丹町名表示板探訪記、もう少し続きます。まだ発見していないものは残る次の6枚となりました。

鞆城跡入口
桝屋清右衛門宅前
旧魚屋萬蔵宅前
鞆の津ミュージアム前
小烏神社前
鞆中学校入口

これらをどのように回れば効率的なのか分からないまま、とりあえず、まだ歩いていない鞆の町の中心地へと進んでみました。
ほぼ次の赤いラインに沿ったコースだとお思い下さい。
実際は迷いながら「あっ、ここさっき通ったとこや」とか「あっ、ここの道、入ってみたい」と言った感じで結構な右往左往をしてしまいました。



先ずは原町を縦断です。比較的新しい家の多い住宅街ですが、昭和レトロな雰囲気が随所に見られます。



そして、こんな光景に出くわしました。思わず「えっ!」と声が出てしまいそうでした。
花も素敵ですが、格子窓に琺瑯看板がズラリです。






日本石油のコーモリ、龍野のヒガシマル。
そして大阪市のマーク?と思われるのがミナト練炭。大阪港界隈に工場があったのでしょうか?
でも、一番の驚きはこの仁丹でした。



台湾土産のコースター』でご紹介した琺瑯看板の現物です。色々な出会いがあるものです。

※     ※     ※

鞆の浦にはお寺や神社がとても多く、歴史の重みをいやおうなく感じますが、小烏(こがらす)の森古戦場跡という場所がありました。
路地も続き、なかなか良い雰囲気です。


解説板によれば、正平4年(1349年)、足利直冬の軍勢800と足利氏中央軍の軍勢1500とがここにあった森で衝突、直冬側が壊滅したそうです。

残る6枚の仁丹町名表示板に「小烏神社前」というのがあったので、おそらくこの付近なのでしょう。古戦場跡から少し南下し、そして西に入ったところで案の定発見しました。



10枚目  鞆町鞆 小烏神社前 鍛冶町


室町時代からある神社のようで、鳥居は享和元年の建立のようです。



鍛冶町とあるように、鍛冶職人の氏神でもあるそうです。鞆の浦は江戸時代より錨や船具など鍛冶の町としての顔も持ち、来る途中のバス停に「鉄鋼団地前」という工場群があったのですが、ルーツは鍛冶産業なのかもしれませんね。

※     ※     ※

さらに少し西に進むとあるのが、「鞆の津ミュージアム」です。
ここで11枚目の発見です。



11枚目  鞆町鞆 鞆の津ミュージアム前 鍛冶町

この時点で時刻は午後4時50分。残念ながらミュージアムを見学する余裕はなく、ここもお預けです。

※     ※     ※


次なるターゲットは「鞆城跡入口」です。実は南側の入り口近辺では発見することができなかったので、北口界隈にあるのではと再チャレンジの仁丹です。
となると多分、この辺りかな?と北側の入口をキョロキョロ見渡しても見つからず、おかしいなぁと振り返ったところに、そのすぐ目の前にありました。京都でもよく味わったパターンです。


12枚目  鞆町鞆 鞆城跡入口 関町


※     ※     ※


残るは「桝屋清右衛門宅前」と「旧魚屋萬蔵宅前」、そして「鞆中学校入口」となりました。
中学校の場所は分かるとして、先の2か所です。
時刻は間もなく5時、間違いなくピンポイントで向かわなければなりません。
でも、やはりそこは鞆の浦、その道中に和洋入り乱れてのこんな町並み、こんな看板、こんなお店に出くわして、色々な誘惑に呼び込まれてしまうのでありました。




すごく重厚な日本建築に出会うかと思えば、モダンな洋風建物もあります。
なんともエキゾチックな雰囲気です。





銀行も、一見シンプルですが、よくよく見ると結構細やかなデザインが施されており、さぞハイカラな建物として注目されたことでしょう。




こんなお店も。建物は洋、看板は和、そしてショウウインドウには紺野美沙子さんが。





そして、やっぱり気になるのが保名酒のお店。





ちなみに、こんな琺瑯看板もありました。




~つづく~

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2014年09月03日

鞆の浦 仁丹探訪記(3)

鞆の浦 仁丹町名表示板 探訪記(3)

鞆港のバス停から、港を挟んでほぼ対角線上にある淀媛神社まで歩いて、5枚の仁丹町名表示板を見つけました。残るは次の10枚です。

鞆城跡入口
桝屋清右衛門宅前
旧魚屋萬蔵宅前
備後国安国時前
ささやき橋前
沼名前神社前
鞆小学校前
鞆の津ミュージアム前
小烏神社前
鞆中学校入口

時刻は午後2時30分。何となく気の向くままに歩いてきましたが、ここからは手堅くかつ効率良く見つけるため、地図を見て作戦を練りました。
そして、まっすぐ北上すると鞆小学校、ささやき橋、沼名前(ぬなくま)神社、安国寺と続くのが分かったので道なりに北へと進んでいくことにします。
今回のルートはこんな感じです。赤のラインです。


途中、やはり、入ってみたくなるような魅力的な通りの誘惑を受けながらも、まっすぐ北へと進みます。




するとレトロな琺瑯看板が何枚か貼られたお家を発見しました。




先ず目に付くのがお馴染み浪花千栄子さんのオロナイン軟膏。
この看板は、当初、オロナミンCの大村崑さんが引き続き起用されるところ、浪花千栄子さんの本名が“なんこう きくの”さんであるところから浪花さんに変更されたというエピソードがあります。
「太田胃散」「メンソレータム」はポピュラーですね。
それから「神農湯」「引起散」は初めてお目にかかりました。

思わぬ収穫ににんまりしながら歩いていると、6枚目の仁丹に出くわしました。
いつの間にか鞆小学校前まで来ていました。


6枚目  鞆町後地 鞆小学校前 江の浦町




この坂の上が鞆小学校でした。調べたら明治44年からこの場所にある鞆の浦唯一の小学校、鞆のみなさんの思い出がたっぷり詰まった場所に違いありません。
小学生たちの姿はありませんでしたが、趣たっぷりの町並みの中を元気に賑やかに通う光景はさぞ絵になることでしょう。

※    ※    ※


そのまま道なりに北上を続けます。地図によればぼちぼち「ささやき橋」のはずです。
でも、橋も川も見当たりません。
少し不安になりかけたとき、すぐ横のブロック塀に7枚目の仁丹を先に見つけてしまいました。
いささか意外な場所でした。


7枚目  鞆町後地 ささやき橋前 江の浦町




そして、突き当りを右に曲がると、ありました「ささやき橋」が。




でも、『えっ!これが橋?』という短さじゃありませんか。

解説によると、『応神天皇の頃、百済よりの使節の接待役・武内和多利と官妓・江の浦は、役目を忘れ夜毎この橋で恋を語り合っていました。』とありました。それで“ささやき”なのでしょう。

※    ※    ※

再び突き当りになって、道なりに北上していくと、次は何だか活気のある空間へと出ました。
祇園さんと親しまれている沼名前(ぬなくま)神社の門前でした。


何も知らずに訪れた7月12日は、沼名前神社の夏祭りの日で、夜にはお手火(おてび)神事という勇壮な火祭が行われるのでした。
夜店も多く出るようで、そのための準備にみなさん追われていました。

ところで、本探訪記(1)から不思議に思われているでしょうが、家々に縄が張られています。正確には雷型の紙垂(しで)が吊るされた縄ですが、これは聖域の内側と外側を表すもので、祭の間見られる光景だそうです。


そうそう、うっかり忘れるところでした。ここ、沼名前神社には仁丹ゆかりの見どころがあるのでした。境内に入り注意深く探していくと、それはすぐに見つけることができました。ここです。



森下仁丹の創始者森下博の鋳造です。実は当神社の神主の息子として生を受けていたのでありました。鋳造の裏には昭和13年の銘文が付けられており、森下博の生い立ちやモットー、鞆町への貢献などがつづられていました。
ただし、初代の鋳造は戦時中の金属供出令で撤去され、現在のものは昭和27年に復刻されたようです。供出後の様子が写された貴重な写真は、「ブログ鞆の浦日記」で見ることができます。やはり百聞は一見にしかずですね。

※    ※    ※

再び門前に戻ると、すぐに8枚目の仁丹を発見です。


8枚目   鞆町後地 沼名前神社前 祇園町


そのまま進路を東にとると、住宅街の中に天保8年の鳥居がど~んと建っていました。
背後に沼名前神社の本殿も見え、なかなか好ましい光景です。




ところで、この鳥居、よくよく見ると民家のベランダの中に食い込んでいるのですね。
京都の京極にも同様のものがあって、美容院の店内にニョキっと突き出ています。



※    ※    ※

鳥居をくぐって、今度は120度ほど大きく左折、北西へと進みます。
町の中心から遠ざかって行きますが、地図によればこの先に備後安国寺があるはずなのです。
そして、このような住宅街の中に入りました。


正面に見えるお寺が安国寺なのでしょう。この辺りに9枚目の仁丹がありそうです。
どこに潜んでいるかは分からないので、京都での体験を生かし、時折振り返りもしながら、注意深く進んでいきます。
でも、見つけることができないまま安国寺の前までやってきて、このような場所へと出ました。


これはいかにもありそうな雰囲気です。しかし、やはり発見できず仕舞い。
おかしいなぁと思いながら今度は東へと進むと、ようやく見つけることができました。


9枚目  鞆町後地 備後国安国寺前 御幸二丁目



なるほど、地図を見るとおそらくはこの通りがかつてのメインルートだったのでしょう。そこに安国寺入口の案内をしていたのです。
反対側から歩いて来たので見つからなかったはずです。

さて、次は南へと進み、町の中心へと戻ることにします。

~つづく~

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2014年08月28日

鞆の浦 仁丹探訪記(2)

鞆の浦 仁丹町名表示板 探訪記(2)


「鞆の浦」と言うと、なんだか海のことみたいですが、ここでは海ではなく、原則として陸の町のことを言っているつもりです。鞆町も包括した一般的な観光地名としての「鞆の浦」であることを予めご了承ください。


さて、前回の続きです。鞆の浦の仁丹町表示板を2枚見つけたところで、まだ13枚あります。
次なるルートは下の地図の赤いラインです。鞆港の南端へと向かいます。



常夜燈広場の仁丹があった場所から西へ進むと少し広い空間があって、その向こうに酒蔵のような建物が見えました。



近づけば、やはり酒蔵。そして3枚目の仁丹を発見しました。



3枚目   鞆町鞆 岡本家長屋門前 江の浦町

上部には、「保命酒」という看板も掲げられています。
これは「ほうめいしゅ」と読み、生薬を配合した鞆の浦名産の薬用酒なのです。
ルーツは万治2年(1659年)だそうで、数軒の酒蔵を見かけました。
10種類以上の生薬が含まれているそうですが、こう聞くとなんだか仁丹を連想してしまいます。
旅先で酒蔵を見つけるとついつい入ってしまい、試飲して、揚句に買ってしまうのですが、今回は仁丹探索最優先モードということで、誠に残念ですが次の機会に味わうことにします。


また、この路地も入っていきたかったのですが、鞆の浦の通りは京都のような碁盤の目ではないので、気の向くまま歩いていては方向も居場所も分からなくなりそうでしたので、現在地が明確に把握できている間に目的地へと向かうことにしました。

※     ※     ※

町の中心部から遠ざかり、港を円弧上に包み込むように南西部へと進みます。
大阪の森下仁丹本社前で撮られた15枚の仁丹町名表示板の中に「焚場跡入口」とか「淀媛神社前」と書かれたものがあったので、地図を見ておそらくこの先だろうと見込んでのことです。




所々に自動車の離合場所が設けられた狭い通りですが、ここもなかなかの情緒があります。
感動しながら歩いていると、4枚目の仁丹発見です!




4枚目  鞆町後地 焚場跡入口 焚場町


「焚場」は何と読むのでしょう? 焚火の“たき”なので“たきば”?
正しくは『たでば』でした。難読町名ですね。
そして、後地は『うしろじ』と読みます。

ここ焚場は江戸時代からの、船の言わばドックのような施設だったそうです。船底を焼いてフジツボなどから船体を守ったり、あるいは修理を行っていたそうです。海岸に石垣を組んで造られた遺構は、引き潮の時に姿を現すとか。


帰宅後気が付いたのですが、“焚場跡入口”と書いてあることから、この隙間を海へと出たらそのドッグ跡が見られたのかもしれません。
いくら仁丹探索モードとは言え、それぐらい気付く心の余裕が欲しかったところです。

※     ※     ※

淀媛神社はこの先のはず。道なりに歩いていくと、「ここかな?」と思うような良い雰囲気の小さな神社を発見。
そして、予想どおり5枚目も発見です!




5枚目    鞆町後地 淀媛神社前 平一丁目

でも、設置場所に窮したのか、フェンスに取り付けられていました。

この淀媛神社の石段を上がってみると、このような美しい光景が展開しました。



鞆港や常夜燈、さらにはスタート地点となった鞆港のバス停も見えます。

実は、今眺めている辺りから、先ほどの鞆港のバス停付近までを、鞆の浦を一部埋め立てて橋を架け、バイパス道路を建設する計画があったのです。
確かに今見てきたように、離合場所を随所に設けなくてはならないほど、鞆の町はクルマが通り抜けるには難がありそうです。
でも、一方で架橋されたならば風光明媚な景色は壊され、長年培われてきた鞆の宝、日本の宝を失うことにもなったかもしれません。
「生活」か「景観」か、30年近くも賛否が争われて裁判にまで発展、結果としては2年前に建設中止となりました。


さて、ここ淀媛神社が折り返し地点、次は町の中心地へと戻っていきます。

※     ※     ※

ところで、鞆の浦における住所表示についてです。
みなさんもうお気づきかと思いますが、“鞆町鞆 江の浦町”や“鞆町後地 焚場町”などと「町」が重複し、いささか違和感をお持ちではないでしょうか?

実は、公称としての住所表示は、
 広島県 福山市 鞆町 鞆   ○○番地
 広島県 福山市 鞆町 後地 ○○番地
の2つだけなのです。

では、その後に続く「江の浦町」や「焚場町」などは何なのでしょうか?
ブログ 鞆の浦日記』の、しまかぜさんのご教示によれば町内会の名称なのだそうです。
しかし、町内会とは言っても、新興住宅街のそれとは次元が違います。
とりわけ町の中心地の「江の浦町、西町、道越町、関町、石井町、鍛冶町、原町」の7つの町内会は江戸時代に始まり、次回ご紹介する沼名前(ぬまくま)神社のお祭を輪番で回しているなど、今も鞆の町に深く根付いている呼び名でもあるのです。

ちなみに、「鞆」と「後地」の違いは簡単に言えばこうです。
鞆は商業地である町の中心地だった旧「鞆村」のエリア、そして、その周囲を取り巻く寺社や農地などで形成されたエリアが旧「後地村」でした。
この両村が明治22年の市町村制施行により合併して鞆町となりましたが、土地に対する租税額の違いから「鞆」と「後地」なる名称が残ったようです。
さらにその後の昭和31年、鞆町なる自治体は福山市に編入され現在に至っています。


したがって、今回の鞆の浦における仁丹町名表示板は、従来の記載ルールに従うならば鞆町鞆の3文字か鞆町後地の4文字で終わってしまうわけですが、それでは京都サイズのキャンバスは大き過ぎました。
そこで、観光客を意識して観光地名も入れ、さらに旧町名も記すなど、設置のみならず、表記方法にもご苦労があったのではと思います。

~つづく~

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2014年08月20日

鞆の浦 仁丹探訪記(1)

鞆の浦 仁丹町名表示板 探訪記(1)


昨年の夏、18切符を使い、まるで京都仁丹樂會の“大人の遠足”のように、愛知県豊川市のサミゾ琺瑯看板研究所を訪問しましたが、今年の夏は広島県福山市の「鞆の浦」へ行ってきました。

「鞆の浦」からは様々なことが連想されるのではないでしょうか?
古い港町、情緒ある町並み、仙酔島、鯛網、坂本龍馬、いろは丸、朝鮮通信使、鞆城、ポニョ、架橋問題、鞆鉄道、ボンネットバスなどなど、人それぞれの好みや趣味で思い浮かぶものも違うでしょうが、それらに加えて私たちが共通して連想するのが「仁丹」なのです。



実は森下仁丹株式会社の創始者森下博の出身地でもあり、この春、創業120周年記念事業の一環として鞆の浦に15枚の仁丹町名表示板が設置されたのです。この件については、すでに
   鞆の浦に仁丹町名表示板設置
   鞆の浦に仁丹町名表示板設置される!
などでお知らせしているところです。

そこで当会では、以前より一度訪れてみたいと思っていた鞆の浦へこの機会に出かけることにしました。

実施は7月12日の土曜日、鞆港のバス停に13時現地集合、各自思い思いに15枚の仁丹を探して再びバス停に集合、と言う何とも統制のあるようなないような不思議な団体行動です。
ルールは設置場所は事前に調べない、観光マップと森下仁丹さんが発表したこの↓写真だけを頼りに探すというものです。
つまりは、まち歩きを楽しみながら仁丹を見つけた時のあの感動を味わおうという訳です。



※    ※    ※


さて、実施日が近づくとともに特別警戒警報も発せられた台風8号までもが近づいて来ました。一時は心配しましたが、何とか台風の影響からは逃れたものの、直前になって骨折、ぎっくり腰、仕事、お子さんの誕生などで仕方なく欠席する者が続出、結局3人だけの参加となってしまいました。

いよいよ当日、集合場所へと向かいます。福山駅から鞆鉄(ともてつ)バスに乗って30分、終点の鞆港に到着しました。現地集合と言いながらも、実は参加者3人とも同じバスに乗り合わせていました。


上の写真は終点の鞆港のバス停です。住宅街の真ん中のように見えるでしょうが、このバス通りはここでぷっつりと途切れており、180度振り返るとそこはもう港なのです。こんな感じです。


私たちの知る港とは何か違うような気がしますよね。なんだか映画のセットのようにも見えます。そうなのです、鞆の浦は近世の港町の姿を留めたままの港だったのです。

※     ※      ※


では、仁丹町名表示板の探索を開始します。港の向こう側には大きな石燈籠があって観光客が集まっているようです。どうやらイチオシの観光ポイントのようです。先ずはそこへ向かうことにしました。

早速、昭和レトロと言った雰囲気の町並みが現れ、テンションが上がります。




燈籠の場所までこのまま海沿いに行けるものと思いましたが、いったん町へ入って迂回する必要がありました。
それにしてもいい雰囲気です。左手に見える海への階段は「雁木(がんぎ)」と言って、潮の満ち引きに影響されずに船に荷を積むための工夫で、かつては瀬戸内で多く見られたようですが、今では長大なものは鞆の浦だけだとか。江戸時代からのものだそうです。
この ↓ 船繋石もなんだかかなり古そうに見えます。


路地を通り抜けてメインストリートへと出ると、現れたのがこの光景。思わず歓声を上げるほどの素晴らしい町並みです。

近頃、無理やりレトロに見せかけた町もありますが、ここは本物であることが実感できます。京都顔負けかも。




さらには、なんだこれ?と思う、こんなお店も!


仁丹町名表示板を見つける前から舞い上がってしまいました。色白の檀蜜さんですが、いささか日に焼けておられました。琺瑯引きだったら良かったのに・・・
そう言えば、”けすくせ”というのは What is this?のフランス語、Qu’est-ce que c’est? を掛けているのかな?
まんまと、なんだこれ? と足を止めてしまいました。

さて、気の趣くままに歩きたい衝動を抑え、先ほどの港へと向かうべく歩を進めると、早くも最初の仁丹町名表示板に出会うことができました。写真の中央に見えます。





1枚目 鞆町鞆 太田家住宅前 西町

太田家住宅とは、江戸・明治期の瀬戸内海を代表する商家として重要文化財に指定されているそうです。

ところで、いかがでしょう? ここは京都かと思うほどに違和感がありません。仁丹町名表示板のデザインが京都と同じことに加え、町並みも似ているからでしょう。

近づいてじっくり観察するとこんな感じです。ピカピカと輝き、実に美しいです。



大きさや色使いなどは京都の平成バージョンと全く同じですが、大きな違いもあります。

先ずは町名表示板と言うよりも観光客に対しての観光名所案内板という点です。通り名を組み合わせる京都独特の住所表示のための大きさゆえ、スペースを埋めるためには致し方ないことでしょう。

もうひとつは黒い文字の部分がぷくっと厚みを持っていて、文字の上から琺瑯でコーティングされていることです。耐久性としては京都以上でしょう。最も多い京都の市中のものは、文字を書いただけで終わっています。

京都、大津、奈良、大阪、八尾の仁丹町名表示板はそれぞれの町ごとにデザインや大きさが異なっているので、鞆の浦も少し違うデザインを期待していたのですが、ご覧のおとりデザインとしては京都と全く同じ結果となりました。ただ、考えようによってはこの形、このデザインのロッドが完成した、増産体制に入れるとも受け取れます。

※    ※    ※


さて、鞆の浦における初めての仁丹町名表示板を間近でじっくり観察し終わって、港へと進みます。港はすぐそこでしたが、相変わらず入ってみたくなる路地やお店などが続き、まっすぐ歩くには誘惑を振り払うためのいささかのエネルギーを要しました。





そして、港が見えると同時に真正面に2枚目の仁丹町名表示板を発見です。




2枚目  鞆町鞆 常夜燈広場前 西町
とあります。
海と一緒に撮れるアングルは京都ではあり得ないことで、とても新鮮でした。また、森下仁丹の社史では設置範囲は“全国津々浦々”に及んだとありますが、これぞ津々浦々の具現化と言えるでしょう。

先ほどバス停から望めた港は常夜燈広場と言い、間近に見るとこのような所でした。





鞆の浦の観光スポットとしてハイライトの場所のようです。坂本龍馬の「いろは丸展示館」もありましたが、今回の目的は15枚の仁丹をすべて探し当てること、まだ2枚しか見つけていないとあっては精神的に余裕はなく、今回は見送りです。
常夜燈は高さ5mの石造りで、安政6年(1859年)に建立されたものだそうです。航海のためとあって金毘羅さんが祭られていました。ここにも雁木が見られます。

結構な暑さでもあったので、この光景を眺めながらソフトクリームか何か冷たいものをいう気持ちになりますが、先を急ぎます。

※    ※    ※

今回辿ったルートは、次のとおりです。




~つづく~

京都仁丹樂會 滋ちゃん・たけちゃん・shimo-chan
  


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2014年07月06日

四枚ヶ辻 が 一枚ヶ辻に

東西南北にクロスする京都の通り。その交差点には最大8枚の仁丹町名表示板を設置する余地がありました。
交差点に接する四つのブロック(町)が全て異なる町名なら、その必然性1 0 0%といったところですが、通りを挟んで両側に町内をつくる両側町が基本の京都では、そこまでは望めず、広告をするという観点のみなら8枚を張ることはあり得たことでしょう。
ということで、否定する材料も肯定する材料も今のところ見つからない、あったかどうか分からない"幻の八枚ヶ辻"です。

でも、そのような"幻の八枚ヶ辻"を紡沸とさせるような四枚ヶ辻は存在しました。
すでに過去形の表現にしなくてはならないのが誠に残念なのですが・・・
下京区は東洞院通と下珠数屋町通との交差点です。



上の写真、いささか不自然な合成写真ですが、東洞院通を北から南を眺めたところです。
左右に横たわる通りが下珠数屋町通です。

そして、赤い丸印の箇所に、左に1枚、真ん中に究極の90度張りで2枚、そして右に1枚と合計4枚の仁丹町名表示板がありました。



右の橘町は、2年ほど前に家とともに消滅、跡地はコインパーキングとなりました。
そして、この度、究極の90度張りが家の解体で姿を消してしまいました。一挙に2枚もです。
残るは左側の飴屋町だけの"一枚ケ辻''となってしまったのです。誠に残念です。


↑ 2014年6月下旬の状況


しかし、ご安心ください。
実は、解体工事中に通りがかった当ブログの読者の方が、すぐに掛け合ってくださり、救出されたのでありました。
そして、真ん中の2枚は地元で大切に保管されているのです。

さらに右端のもう1枚の橘町についても、実は当会で保管させていただいています。
これは当会会員が解体寸前に救出したものですが、跡地がコインパーキングでは再設置しようがなく、とりあえず保管となった次第です。
まだこれからどのように展開するか分かりませんが、時を見て復活を働きかけたいと思っています。


~京都仁丹樂會 shimo-chan~
  


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2014年04月27日

直列と並列 ~仁丹町名表示板~

直列と並列、なんだか電気回路のようですが仁丹町名表示板のお話です。
コレ↓こそ、まさに仁丹町名表示板の“直列”設置と言うべきものでしょう。




実は、20年以上前から記録をしている当会の滋ちゃんの写真を見ていると、今は失われた貴重な光景が数多くあります。その中の1枚にこのような見事な直列設置がありました。

上が 「上京區 今出川通御前通東入 社家長屋町
下が 「上京區 今出川通御前通東入 真盛町」    です。

通り名の組み合せは全く同じなのですが、町名だけが異なります。

※     ※     ※

京都の中心区では碁盤の目の上で両側町が形成されてきたため、他都市のように道路などの物理的なラインの町界が基本的になく、家と家の境界が町界となります。ですから、どこまでが○○町、どこからが△△町なのか見て分かるものではありません。しかも、町名の数が上京、中京、下京だけでも1,600はあるのです。

仁丹町名表示板が多く見られるのは、交差点とこの町界近辺です。見ても分からない町界を表示するという意味でも仁丹町名表示板は活躍しています。

通常は次のように横に並べて設置する、“並列”設置が主流ですが、先に紹介したのは限界に挑戦するかのような見事なまでの直列設置でした。

    <並列設置の例>




※     ※     ※

ちなみに限界への挑戦と言えば、次のような直角設置もありました。

    <直角設置の例>




ただし、こちらは町界を示すものではなく、90度の違いで通り名の表記方法が変わることを表したものですが、それにしても2つの仁丹町名表示板がぴったしくっ付いているという極限状態と言えます。

※     ※     ※


さて、最初に紹介しました見事なまでの直列設置が見られた場所は、現在こんな感じに変わっています。



もうみなさんお分かりかと思いますが、ここは上七軒は和菓子の老松さんのすぐ横なのでありました。そして、今は次の真盛町の仁丹だけが残っています。



では、もう1枚の社家長屋町の仁丹はと言いますと、老松さんの店内で埋蔵仁丹として大切にされています。昨年の「まいまい京都」北野柏野仁丹コースで見学をさせていただきました。


直列時代の昔の写真ではチラッと見える右側の家がモルタル塗りになっていることから、改修時に取り外されて社家長屋町の老松さんの店内へと移ったのでしょう。

※     ※     ※

ところで、上七軒の真盛町と社家長屋町ですが、地図を見るとお互いに飛び地を持っており、それぞれが交錯し合っています。




このような飛び地、どのような経過で生まれるのでしょうね?
今回の直列設置に接して、飛び地の不思議にも触れることになりました。

~京都仁丹樂會 shimo-chan~
  


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2014年04月05日

台湾土産のコースター



行きつけの居酒屋さんで、台湾へ行ってきたという常連さんからこんなお土産をいただきました。

大きな琺瑯看板に見えるかもしれませんが、9cm四方のコースターです。
金属板の裏にゴムが組み込まれた構造で、表の質感は琺瑯看板そのものです。
観光地の土産店で売っていたそうです。

お酒が入るとついつい饒舌になって仁丹町名表示板の魅力について語り出したりするものですから、それをしっかり覚えてもらっていたというわけです。感謝感激でした。

職場でも居酒屋でも色んなところで常に発信しておくということは大切なことですね。情報が色々と集まってくるというものです。

※     ※     ※

さて、このお土産、「仁丹」の文字はなく、代わりに「懐念」と書かれています。
中国語で懐かしいとか懐かしむという意味のようです。
髭は短くなっていますので昭和初期の商標のようです。

何がモチーフになっているのだろうか?と調べてみると、ありました。
佐溝さんの『日本ホーロー看板広告大図鑑』のp.12にほぼ同じ琺瑯看板が紹介されていました。

これ ↓ です。


~「日本ホーロー看板広告大図鑑 サミゾチカラ・コレクションの世界」 平成20年 国書刊行会 より~


台湾にもきっと同じような看板が設置されていて、それが今回のコースターに結びついたのではないでしょうか。
ネットで検索してみると、レトロを売りにしているようなお店などには結構仁丹看板が展示されているようです。さすがに町名表示板とはいきませんが。


ちなみに、かつて 『台湾の仁丹』ような記事もご紹介しています。
              ↑ クリックでリンクしています。


~京都仁丹樂會 shimo-chan~




  


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2014年03月16日

京都仁丹樂會 京都景観賞で「特別表彰」される

昨日、平成26年3月15日、「平成25年度 京都景観賞 屋外広告物部門」における「特別表彰」を京都仁丹樂會が受けました。




この賞は、 『 京都にふさわしい広告景観の創出に多大な貢献をしている個人または団体を表彰するものです 』 とあり、私たち京都仁丹樂會を含めて4つのグループが選ばれ、当会と森下仁丹株式会社とで1つのグループです。

会場はホテルグランビアでした。



当初、森下仁丹株式会社さんと連名での表彰と思っていたのですが、両者別々に表彰されました。表彰状も理由も別々です。
森下仁丹さんは京都の景観に相応しい琺瑯看板を設置したこと、私たち京都仁丹樂會はその保全に努めていること、という一応別々の理由です。
それぞれの代表が登壇して表彰状を受け取りました。




当日配布された冊子には次のように紹介されていました。
『 京都仁丹樂會は、全国でもっとも多くの町名琺瑯看板が現存する京都において、それらを将来にわたって保全される活動を通じて、優れた京都広告景観の形成に多大な貢献をされています 』



私たちは常々“仁丹町名表示板は今や一企業の広告の域を超えた京都の立派な文化財”ということを言っていますので、広告というよりも京都の文化財だという認識で保全活動も行ってきたわけですが、いずれにしてもその活動が認められたことは喜ばしいことです。
そして同時に、その前提としての”京都の文化財”という価値についても認められたはずです。

しかし、本当に仁丹町名表示板を大切にしておられるのは、設置されている家に住まわれている方々であり、町内の方々です。さらに私たちの要望を快く受け入れてくださった佐々木酒造さんのような例もあります。
これらの方々をも代表しての今回の特別表彰だと思っています。
これを機会に、大切にしなくてはという気運がますます広がるとともに、盗難と言う心無い行為がなくなることを祈っています。

※     ※     ※


さて、ところで、上のパンフの内容を見て、仁丹町名表示板に関心を持って当ブログをご覧いただいている方からしたら、『うん?』と驚く箇所がありますよね?

先ずは写真の説明です。「明治版」と「平成版」とあります。
“明治版”なんてあり得ない明らかな間違いですよね。
説明文にも「明治43年から市内各所に町名琺瑯看板を設置」とありますが、それが当てはまるとしたら木製の仁丹町名表示板であり、今回の受賞の対象となった琺瑯仁丹ではありません。しかも明治43年というのが京都の木製仁丹に対しても言えることなのか不明のままです。

私たちの推薦書では、「大正末期から昭和3,4年にかけて設置した」と明記したのですが、やはり社史における『郵便配達人が家を捜すのに苦労しているという当時の人々の悩みに応え、1910年(明治43年)からは、大礼服マークの入った町名看板を次々に掲げ始めた。当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした・・・』という何度も何度も様々なところで引用されているこのフレーズに、負けてしまったのだと考えています。
とにかく唯一の公式見解は非常に強いものであり、このような印刷物になったことから、ますます独り歩きするのではという危惧も生まれました。

でも、誰もが否定できない調査方法や裏付けで、私たちの研究成果が引用されるようになるよう、ますます頑張ろうじゃないかと決意を新たにしたわけでもありました。

※     ※     ※

ところで、今回の応募総数は昨年のおよそ1.6倍の1,277件もあったそうです。
そのような中から、私たちが推した琺瑯製仁丹町名表示板を支持していただいことが非常に嬉しく思います。
2回の審査委員会が実施されたようですが、どのような意見が交わされたのかぜひ覗きたかったものです。



京都景観賞屋外広告物部門で受賞した各種看板は、『京都かんばんねっと』(←リンクしています)で様々に検索して見ることができます。
なかなか面白く、ついつい見入ってしまいます。審査委員会の様子なども少し紹介されています。

~京都仁丹樂會一同~

  


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2014年02月22日

京都仁丹樂會 京都景観賞 特別表彰に




昨年、このようなチラシを見つけました。

“皆様がまちで見かけるお気に入りの看板、自慢の看板をご応募ください”

ビビッと感じるものがありました。
こう問いかけられて、私たちが思いつくものと言えば当然 『仁丹町名表示板』 です。

さらに、公募の対象として次のような条件が書かれていました。

京都市内に設置されている次のいずれかに該当する屋外広告物
○まちの景観に調和しており、デザインや風合い等が素晴らしい屋外広告物。
○まちの景観に調和しており、古くからあり歴史的価値を感じる又は時代の特徴を現している等の屋外広告物。


“次のいずれか”ではなく、“次のいずれにも”ズバリ該当しているではありませんか。

また、屋外広告物の定義として
「常時又は一定の期間継続して、屋外で、公衆に表示されるものをいいます。看板、立看板、広告塔、広告板、案内板、のれん、提灯、表札、旗などを指し・・・」
とありました。これまた、ぴったしです。

ということで、想定外として門前払いになるかもしれないと思いつつ、一か八か応募してみました。

しかし、驚くことに森下仁丹株式会社と私たち京都仁丹樂會が「特別表彰」されることになり、この2月17日に公報発表されました。
詳しくは、この ↓ とおりです。
http://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/page/0000162696.html

※     ※     ※


応募するに当たっては、所定の推薦書を書かなくてはなりませんでした。屋外広告物の所在地、名称、現況、推薦理由などです。

特に頭をひねったのが所在地でした。どのように書けばよいのでしょうか?
結局、見本として添付した写真に合わせて「上京区浄福寺通上立売上る大黒町 他市内およそ 700 箇所」としました。

名称は、「仁丹町名表示板」です。

そして、肝心の推薦理由です。限られたスペースで書き尽くせなかったので、“別紙のとおり”として3枚ものまるでレポートのような推薦書になってしまいました。理由は次の5点です。それぞれの内容はすでに当ブログや「まいまい京都」で解説していますので、ここでは概略のみの紹介とさせていただきます。

① 古くても美しくデザインも秀逸
大半が 85 年ほど前のものだが、琺瑯引きのため今なお美しく、亜流のものとは決定的な違いを見せている。色使いも紺、白、黒、そして少しばかりの赤と、京都らしく落ち着いた中にも艶やかさがある。広告を兼ねているとは言え、商品名やキャッチコピーがなく、威厳のある大礼服姿の男性をデザインした商標のみで、陳腐化していない。

②建物にマッチする
京町家にもモダンな建物にも違和感なく良くマッチしている。

③京都独特の住所が正確に表記され、正確な場所に設置されている
京都のひとつの文化とも言える、通り名を組み合わせた独特の住所表示が、公称どおり正しく記され、しかも極めて正確な場所に設置されている。

④京都の近代史を教えてくれる
戦時中の建物疎開跡地を利用した都市計画など、私たちがすでに忘れてしまった京都の近代史を教えてくれる。

⑤郷土愛が見える
あたかも老舗が看板を代々大切に引き継ぐかのように、まさしく“町内の看板”として扱われており、そこには町内への愛着、京都への郷土心が見える。

とまぁ、このようなことを写真を交えて訴え、最後は次のようにまとめました。

以上のような特色を持つ看板は他都市も含めて他には例を見ず、今や一企業の広告の域を越えた、京都の立派な文化財のひとつであり、その価値を確認し、これからも維持保存していきたい。


今回の受賞が仁丹町名表示板に対する認識をますます広め、市民のみなさんが見守っていただけるような雰囲気づくりにつながれば、非常に嬉しいことであります。

京都仁丹樂會 shimo-chan

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 22:52Comments(2)トピックニュース

2014年02月11日

鞆の浦に仁丹町名表示板設置される!


~森下仁丹株式会社提供~


本日は森下仁丹さんの121周年創立記念日です。
毎年2月11日には何らかの記念事業をされていますので、今年は何かな?と気になっていたところ、このような写真をご提供いただきました。
ピカピカの15枚、実に壮観です。

昨年末に 『鞆の浦に仁丹町名表示板設置』 でご゙紹介したとおり、創業者の森下博氏の出身地である鞆の浦への仁丹町名表示板の設置がいよいよ始まったのです。

詳細は 『森下仁丹公式Facebook』 『鞆の浦日記』 で順次紹介されていくことでしょう。
楽しみです。

さて、新しく誕生したこの15枚の仁丹町名表示板を見て先ず思ったことは、京都市と同じデザインだということですね。
従来は各都市ごとにデザインを変えていましたので、福山市鞆町ではどのようなデザインになるのかという楽しみもあったのですが、まぁ、京都市のデザインがそれだけ完成度が高かったため、と見るのは贔屓目でしょうか。
でも、なんだか京都市と姉妹都市になったみたいですね。

また、町名表示板と言うよりは観光地案内の色彩の強いのも今までになかった特徴です。
ちょうど京都で言う通り名のスペースに観光地名が記載され、その後に町名が来ます。
観光案内と町名表示のタイアップという新しい試みにもなりましたね。

見ているうちに鞆の浦観光をしたくなってきました。
実は、当会では鞆の浦の仁丹町名表示板を見に行こうと"大人の遠足"が企画されており、早速に効果が表れています。

ちなみに今回の町名表示板は、手書きの文字から版を起こし、文字ごと琺瑯びきされているので、超丈夫なのだそうです。

~京都仁丹樂會 shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 14:27Comments(0)トピックニュース

2013年12月30日

鞆の浦に仁丹町名表示板設置



年の瀬はやはり良いニュースで締めくくりたいものだ、と考えていたところ、ありました明るいニュースが。

上の写真は、広島県福山市は鞆の浦で今年撮影されたものです。
仁丹町名表示板ではなく、広告のみの看板ですが。

鞆の浦と言えば、仙酔島などで有名な観光地です。





また、森下仁丹株式会社の創始者森下博の出身地でもあるのです。

15才で故郷を出て単身大阪へ、そして一世を風靡するほどの大成功を収めた同氏ですが、その後も鞆の浦に対し度重なる多額の寄付や、福山と鞆町を結ぶ鞆鉄道の敷設に出資するなど、いつまでも故郷を大切にしていたようです。
そして、今も恩人として尊敬され、沼名前(ぬなくま)神社には銅像もあるほどです。

※     ※     ※

さて、そのような鞆の浦に、森下仁丹は120周年記念事業のひとつとして、来年、「仁丹町名表示板」を設置するようです。

京都、大津、奈良、大阪、八尾とそれぞれの都市でデザインを変えてきた仁丹町名表示板ですが、古い町並みの残る風情たっぷりの港町鞆の浦では、果たしてどのようなデザインになるのか今から非常に興味のあるところです。

一度行ってみたいと思っていた鞆の浦、この機会にぜひ訪れようと来年が楽しみです。




~ 以上の写真はすべて、仁丹町名表示板のファンでもあるH.SOGAさんよりご提供いただきました。ありがとうござました。 ~

※     ※     ※


なお、鞆の浦と仁丹との関わりは、『鞆の浦日記』なるブログで豊富に紹介されていますので、ここで紹介させていただきます。

新設される鞆の浦の仁丹町名表示板について
http://blogs.yahoo.co.jp/shimakaze2002/37938398.html

森下博の貢献について
http://blogs.yahoo.co.jp/shimakaze2002/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sk=0&sv=%BF%CE%C3%B0&p=2

http://blogs.yahoo.co.jp/shimakaze2002/37186623.html

仁丹遊園について
http://blogs.yahoo.co.jp/shimakaze2002/37922861.html

壇蜜さんの梅仁丹について
http://blogs.yahoo.co.jp/shimakaze2002/37919392.html

※     ※     ※


来年は明るいニュースでいっぱいになることを祈ります。
京都にも新たな仁丹町名表示板が追加設置されたらいいですね。

~京都仁丹樂會 shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 12:03Comments(6)トピックニュース

2013年12月24日

花開院町の仁丹 盗難!

今年も残すところ1週間。慌ただしくなってきました。
最後は明るいニュースで締めくくりたいところですが、残念なお知らせです。

上京区は西陣学区の「花開院町」の仁丹町名表示板が盗難に遭いました。



ご覧のとおり、仁丹のあった場所にはくっきりと跡が残っています。
痛々しい光景です。


2週間ほど前のことでした。ある仁丹ファンの方から姿を消しているという知らせを受け、現地へ行ってみたところこのような状態になっていました。

町内の方々も「まさか」と驚くとともに、悔しがっておられました。
聞けば、以前から「売ってくれ」と回っていた人もいたとか。




90年近くも綿々と町内で引き継がれてきた”町内の看板”です。
風景の中にも溶け込んでいました。
町内のものであり、京都市の文化財でもあります。
それを奪い去る権利は誰にもありません。

決して状態の良い表示板ではありませんでしたが、元通りに戻されることを祈ります。

京都仁丹樂會 POOH & shimo-chan
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 21:59Comments(7)トピックニュース