京つう

歴史・文化・祭り  |洛中

新規登録ログインヘルプ


2019年02月25日

仁丹樂會・例会通信~平成31年2月24日~

昨日は、京都仁丹樂會の月例会でした。

いつもの、ひと・まち交流館京都で集合でしたが、

おもしろそうな写真展が同館で開催中とのこと。

例会の前に、ちょっと覗かせていただきました。


私たちは日頃から、

古写真に写っている未確認の仁丹町名表示板を見つけ出し、

仁丹アーカイブに加えるという、

地道な作業&活動を継続実施しております。

この写真展は、仁丹サンプル発見に、最高の機会なのです。

気が付けば、私の周りには、

目を皿のようにして写真とにらめっこしている樂會メンバーが、

全員集合でした(笑)


会期は、本日25日まで。
興味ある方は、急ぐべし!!!!

ずんずん   


『今昔写真から見える京都の変遷~市電の音が聞こえる風景と現在~』

【会期】2019年2月17日(日)~25日(月)
【時間】10:00-16:30
【会場】ひと・まち交流館京都 1F展示コーナー
    ★入場無料
【共催】立命館大学アート・リサーチセンター
   京都の鉄道・バスアーカイブ研究会
   特定非営利活動法人京都景観フォーラム




  


Posted by 京都仁丹樂會 at 09:00Comments(3)トピックニュース

2018年02月12日

馬町空襲と仁丹町名表示板

平成が30年目を数えました。皆さまは清々しくこの新年を迎えられたことと拝察いたします。
京都仁丹樂會は今年も仁丹町名表示板の保存活動を通じて、様々な疑問や謎の追求・解明に邁進してまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

------------- ◇ ------------- ◇ ------------- ◇ -------------

さて、新春早々に、あっと驚くようなニュースが飛び込んできました。
2018年1月9日から27日まで、京都女子大学文学部史学科坂口ゼミによる「伝えたい記憶・写真に見る京都・馬町空襲の被害地図」の展示会が同大学図書館で始まりましたが、その展示写真の一枚に、なんと被爆で崩れ落ちる寸前の民家の2階に仁丹町名表示板がレンズに向かって立ち尽くしているではありませんか。

空爆直後の東山区上馬町周辺




昭和20年1月16日午後11時過ぎ、米軍のB29一機が東山区の馬町上空に到来しておよそ250発の爆弾を投下しました。これは京都府下でこれ以後8月13日までに312回、死傷者800余名、被災者1500余名を数える京都空襲の最初の被災でした。馬町空襲では上馬町、瓦役町、下馬町周辺で死者41名、負傷者48名、被災家屋316戸、被災者729名を数える大惨事となりました※。東大路渋谷通の交差点を東に入ったすぐ南側の旧修道小学校(現在の京都市立東山総合支援学校)の正門内には、被災69年後の2014年1月16日に修道自治連合会“馬町空襲を語り継ぐ会”によって建立された「馬町空襲の地」の碑が、当時の悲惨さを静かに語っています。
※日本の空襲編集委員会:『日本の空襲―六 近畿』、三省堂(1980)

旧修道小学校(現在の京都市立東山総合支援学校)の正門




学校内の「馬町空襲の地」の碑(2014年1月16日建立)




この事実は官憲等の手で厳重に報道規制されましたが、それをかいくぐって写真に収めた篤志家達により貴重な記録が残りました。今回の展示会はそれら記録の分析と新たに発見された写真等を被災地図と照合して発表されたものです。
集められた14枚の馬町空襲写真の中の一枚に、倒壊した建物の瓦礫で溢れる道路のそばでかろうじて全壊を免れた民家があり、その2階にはっきりと「下京区澁谷通東大路東入三丁目下ル上馬町」と読み取れる仁丹町名表示板が残っています。悲惨な崩壊しか写っていない写真群の中で、すっくとカメラレンズに正対するその居住まいは、ひときわ鮮烈な印象を感じさせます。
この写真は、現在の京都女子大学と京都女子高校の間の南北の道を北上し、東西に走る渋谷通と交差する場所の西南角地の民家を、東南から西に向かって写したものです。その民家も被災後すぐに取り壊されました。
被爆からちょうど73年。仁丹町名表示板があった場所は、京都女子大学の学生会館となり、アカデミックで華やかな雰囲気が漂うおしゃれなエリアに変貌しています。


被爆写真と同じアングルから撮影(2018年1月14日)。一方通行表示の上あたりにあった。




この馬町空襲写真に見られる仁丹町名表示板には、2つの大変重要な意味があります。
それは、
   
⦁ 空襲で被爆したことが確認された唯一の仁丹町名表示板であること
 米軍の空爆を受けた仁丹町名表示板は、後にも先にもこれしか確認されていません。直接被弾したわけではありませんが、この無傷の仁丹町名表示板の存在が、逆に被災の酷さを際立たせています。

⦁ 旧修道学区で不在とされた町域で実在していた仁丹町名表示板であること
 樂會の調査では旧修道学区では、上馬町、下馬町、瓦役町は仁丹町名表示板の空洞地区となっていましたが、少なくとも上馬町には、昭和20年1月16日の空襲までは確実に存在していたという証となる貴重な仁丹町名表示板です。
 
この仁丹町名表示板もまた、戦争被害者(?)なのかも知れません。

masajin 
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 04:15Comments(1)トピックニュース

2017年09月18日

仁丹樂會リーフレットが図書館の蔵書になりました

 京都仁丹樂會は2012年7月に、仁丹町名表示板(仁丹と略す)の調査・研究ならびに保存活動を紹介するリーフレットを作成し、仁丹を設置されている家屋の皆様にお渡しして、末永く大事に保存されることをお願いするとともに、樂會が主催、協力する各種催しや集会で皆様に紹介して、保存の啓蒙に努めてきました。
 その後、民泊・ゲストハウスの需給沸騰で町屋の改修等が急速に進み、また、仁丹がネットオークションで取引の好対象になったり、さらに残念なことに、盗難、廃棄の増加も相まって、市中の現存仁丹の減少が目立つようになってきました。
 そこで4年後の2016年3月に、状況確認のため、會員全員が市中をくまなく歩いて、現存(=今も家屋に設置されているもの)、埋蔵(=取り付けはされていないが、屋内に保管されているもの)、ならびに消滅(=以前に取り付けしてあったが、現在は不明、消失)した仁丹を1枚1枚調査し、その結果を2016年8月にリーフレットの改訂版(本書と略す)として発行しました。本書はA5版4ページ。旧版の仁丹の歴史背景、樂會活動を全面改訂し、さらに仁丹の種類、設置確認範囲と行政区別枚数(現存数は約680枚。現存数、埋蔵数、消滅数の合計数は約1,400枚)などの今回の新たな調査結果が追記されたことで、学術的な価値が高まったものになりました。

2016年8月発行改訂版:表紙(右)と4ページ(左)

2ページ(左)と3ページ(右)


✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳


 本書は発刊後に、一部は會員を通じて関係各所に配布されましたが、そのような単にリーフレットとして随所で散発的に露出する、ということでは広く市民の目には届きません。そこで、市民の方にいつでも閲覧できるような京都資料、調査資料として活用していただくため、2017年5月、京都市立中央図書館に同主旨を相談したところ、「大変貴重な京都の調査資料である。図書館として保存したい」との回答をいただきました。図書館で蔵書保存するには、寄贈申し込みをして、館内で可否決定と決裁手続きが必要なため、早速、蔵書寄贈手続きを進めました。 手続きをしたのは、京都市立図書館(移動図書館、こどもみらい館を除く)18館と京都府立図書館、京都府立京都学・歴彩館の計20館です。京都市関係は、京都市立中央図書館が18館分の寄贈をまとめて受付をし、各館には京都市立中央図書館から配送していただきました。ただし、各館が蔵書化するかどうかは、各館の独自性に委ねるとのことでした。
 各館への配送、および各館での採否審議が進んだころを見計らい、本年7月から市内20館それぞれに直接出向いて寄贈担当者に資料の重要性を再説明し、保存資料化を改めて依頼しました。
 その結果、9月15日現在、以下の12館で蔵書化され、閲覧が可能になっています。
1 京都市立中央図書館
2 伏見中央図書館
3 右京中央図書館
4 醍醐中央図書館
5 北図書館
6 南図書館
7 西京図書館
8 洛西図書館
9 醍醐図書館
10 岩倉図書館
11 下京図書館
12 京都府立京都学・歴彩館


 市立図書館は他の7館でも現在、決裁手続きを進行中で、NDC分類(=日本十進分類)と請求番号付けが終了次第、随時、閲覧可能となる予定です。京都府立京都学・歴彩館では、旧版(2012年版)がすでに入庫されている関係で、現在、旧版と本書が並架されています。府立図書館では寄贈書が山積している関係で、処理の順番待ちで年内の所蔵化はむずかしいようです。

✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳

 実は、本書の図書館での書名は『仁丹の町名表示板は、今や京都の立派な「文化財」です。これからも大切にしましょう』と、表紙の一部がそのまま書名になった大変長いものです。しかし、図書館での蔵書検索時の入力は、タイトル(書名)は「じんたん」、著者は「きょうと」で充分です。蔵書には当然ながら、「本のラベル(請求番号)」が付いています。この番号は、NDC分類に基づいていて貼付され、本を並べる際の書架分類になっています。ちなみに本書の請求番号は京都市立図書館では「L 291.62 ジ」、京都府立京都学・歴彩館では「K1 624.9 Ky6」となっています。何が違うのでしょうか。

 京都市立図書館のラベルは、
これは、本書は「歴史・地誌に関するもので、京都に関することを書かれた“ジ”から始まる本」、ということを示しています。実に素直な分類です。

 一方、京都府立京都学・歴彩館のラベルは、
 すなわち、本書は「商業広告や宣伝の中にある、企業の商品や広告に関する書き物」、と分類され、本書の内容とはまったく関係のない解釈がなされています。市立図書館のものとはおよそ別物です。図書館によって本書に対する理解度がいかに違うものか、NDC分類からわかるというのは面白い発見です。
どうぞ、お近くの図書館で、いつでも手にとってご覧ください。
masajin
  

Posted by 京都仁丹樂會 at 01:46Comments(2)トピックニュース

2017年08月29日

速報 木製仁丹の保存をめぐる嬉しいニュース!!

 京都市内に残る仁丹の町名表示板、その数680枚ほど。そのなかでも、大正初期に設置されたと思われる(当會ブログ記事「木製仁丹設置時期の裏付け発見」も参照ください)木製の町名表示板(以下、木製仁丹)は、現存するものは両手に収まるほどしかありません。そんな「木製仁丹」をめぐるたいへん嬉しいニュースが飛び込んできましたのでご紹介したいと思います。

******************

 堀川今出川のほど近く、西陣の京都市考古資料館脇に「慈眼辻子」と呼ばれる細い通り(「辻子」)があります(当會メンバーの酒瓮斎さんブログ「辻子――慈眼・石屋・山名の3辻子――: 酒瓮斎の京都カメラ散歩」も参照ください)。

慈眼庵町のまちなみ


 その辻子の名のついた「慈眼庵町」で現役の道案内を続けてきた木製仁丹は、とりわけ保存状態がよい町名表示板でした。というのも、耐久性の高い琺瑯製とは異なり、木にペンキが塗られているだけの木製仁丹は、長年の雨風や日射によって多くは彩色が色あせ、文字そのものも判読が厳しくなってしまうこともしばしばであるのに対し、この辻子の向き、また設置方向などが日光や雨風の影響を受けにくかったためか、設置当時の文字や仁丹のロゴなどが極めて鮮明で、彩色も鮮やかな状態が奇跡的に維持されてきたものであったからです。参考までに、当會メンバーが保存している別な木製仁丹の写真と比較してみると、いかに慈眼庵町の木製仁丹の状態がよいかが分かるかと思います。

左:慈眼庵町 中央・右 他町の木製仁丹(当會メンバー保存)


 そんな慈眼庵町の木製仁丹が消えている!との一報が私たちに寄せられたのは3月末の事でした。設置されていた町家の隣家が取り壊しとなり、木製仁丹もなくなっているというのです。この木製仁丹は慈眼庵町の皆様もたいへん大切にされているものでもありましたので、きっと町内で保管されているのだろう、とその後の成り行きを見守っていたところ、5月に町内会長様より、隣戸の取り壊しに伴い損傷を防ぐため取り外されたとのことで、何せ劣化と盗難の危険性と隣り合わせでもあり、現物のまま再設置するのか、レプリカを設置して現物は町内で保管されるのか、など保存方法を検討中であるとの連絡をいただきました。

 その結果を楽しみに待ちつつ、何かお手伝いできることが有ればと思っていたところ、先日、ふたたび町内会長様より、うれしいお知らせがありました。ちょうど町内に看板関係の方が越してこられ、相談されたところ、レプリカの製作をお引き受けいただき、本物はアクリルケースに収めて行事の際に出すよう町内持ち回りで保存されるということになったそうです。 

 このレプリカの出来栄えが素晴らしいの一言!

再設置されたレプリカ


「誰もレプリカに気付かず皆さん本物と思っております」との言葉通り、以前あったものの色合いをほぼ完ぺきに再現されています。

再設置された風景とそれを確認する近所の方々



(写真の人物部分を一部加工しました)

そして、大切に保存されることになった本物は、地蔵盆の折に町内に披露されたとのことでした。



******************

 私たち仁丹樂會でも、劣化が著しい木製仁丹をどのような形で長期保存すればよいか、また取り壊しなどの理由で町名表示板が消滅の危機に瀕した時、それを町内の財産として、設置されている町で保存もしくは再設置してもらえるようなよい方法はないだろうか、という議論をしていたところでした。今回の慈眼庵町の皆様がなさった取り組みは、劣化と消滅の危機に瀕している木製仁丹の保存のありかた、ならびに長年内外の人々に「道案内役」としての役割を続け、京都の歴史の生き証人となっている木製・琺瑯製の仁丹の町名表示板を、「町内の文化財」として一緒に大切に残していこうとされる取り組みの模範的なものとして、仁丹樂會一同、心より感謝申し上げたいと思います。


 このような取り組みが京都市内に広がり、多くの皆様に、この貴重な文化財を一緒になって大切に見守っていただけるようなまちになって欲しいと強く願う次第です。

京都仁丹樂會

  

Posted by 京都仁丹樂會 at 01:10Comments(2)トピックニュース

2017年07月11日

仁丹樂會 大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(4)

~ 加茂町とともに生きる工場 ~


1917(大正6)年2月、仁丹第二工場は瓶原村井平尾で操業を開始しました。

井平尾の第二工場の全景*1

*樹木の成長、増改築などから昭和期の工場の模様


仁丹の原料生産実績は、操業翌年にはすでに年産16万トンレベルに達していました。

大正期の生産は一部「毒滅」の原料生産も入り混ぜておよそ年12万〜16万トン、日産では360~500トン。男子16~19人で操業する工場としては、かなりの生産能力を保持していたようです(『瓶原村文書』)。
昭和初期の仁丹粉末製造量*2は、大正期の半分程度に減少しています。
昭和5年 12,466貫(4万6700トン)
昭和7年 8,601貫(3万2300トン)
昭和13年 24,703貫(9万2600トン)
*2 『瓶原村統計要覧簿』より

この昭和13年当時の瓶原村の産業別生産額構成*2を見ると、農産物48.1%、工産物44.2%であり、隣村の当尾村がそれぞれ90.1%、1.5%に比して、際立って工産物の生産割合が高く、工業村としての瓶原村を特色づけるものです。

ちなみに、この工産物44.2%のうち、10.3%が仁丹粉末であり、森下1社で瓶原村の工産物の生産価額の比重を高めていたことがうかがわれます。
こうして製造された原料粉末は、大阪の第一工場にトラック輸送されました。


✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳


太平洋戦争の戦局がしだいに悪化していく中、学童疎開に関して仁丹のエピソードを一つ。昭和20年3月、京都市伏見区の砂川国民学校と左京区の第四錦林国民学校の学童(第一次に83名、第二次に98名)が、加茂町、瓶原村、当尾村に集団疎開しました(『加茂小学校沿革史』、『恭仁小学校沿革史』、『第四錦林小学校沿革史』)。このときの瓶原村に疎開した砂川校の寮舎の献立をみると、

(昭和20年4月「学童集団疎開ノ綴」(『瓶原村文書』)より

まさに一汁一菜で、動物性たんぱく質は週一回の魚のみ。主食は少しの麦飯で、疎開児童に対する特別配給がなされていたものの十分ではなく、児童は常にお腹をすかしていました。そのときに、「仁丹などの薬まで食べた」といいます。仁丹が薬でなく、なんと子どものお腹の足しに使われたという悲しい時代を、第二工場に働く人たちはどのように思ったのでしょうか。 


✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳


終戦から8年経った夏。戦禍を潜り抜けてきた第二工場に最大の苦難が訪れます。昭和28年8月14日夜、雷をともなった豪雨が南山城地方を襲いました。和束川上流で400ミリを越える豪雨が降り、和束川流域の土々平では上流集落から流れでた土砂と川の泥流によって、川と耕地の境目がなくなり、府道の不動橋も流出しました。

上:水没する船屋付近 下:西の集落



同時に下流の井平尾の第二工場が激しい濁流によって、岩盤ごとえぐりとられて建物の大半が倒壊。和束川に架けられていた鋼鉄製の仁丹橋は飴のように曲がりました。やや下流にあった国道163号線の菜切橋も流されました(八月災)。

和束川に崩落する第二工場


さらに、災害復旧の最中、9月25日の台風13号で山城地区に再び水害が到来。八月災より被害は少ないものの、二カ月もたたない二度目の被害に住民は二重の苦痛を味わうことになりました(九月災。『加茂町文書』)。和束川は山地から木津川までの距離が短く、しかも山が急であるので、山林から土砂が流出しやすい状況にあったことと、明治初期以来、頻繁に近代砂防工事がおこなわれ、山林の保護に尽力されたものの、太平洋戦争中に山林が乱伐され、この山林の荒廃が水害をここまで深刻にさせた遠因だったようです。



災害復旧には、流出家屋の罹災者に住宅を確保するため、京都府は災害府営住宅の建設に着手し、加茂町には10戸が割り当てられました(『京都新聞』昭28・10・28)。このうち、社宅を失った第二工場従業員5世帯が「昭和二十八年府営災害住宅管理の特例」にもとづく加茂町長の推薦によって特別入居しました(『加茂町文書』)。



この八月災と九月災を合わせた昭和28年南山城水害を、地元の方は「二十八災(にじゅうはちさい)」と呼び、教訓として今日まで語り継がれています。


✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳✳



昭和30年頃には新しい工場、橋、堰の形ができてきました。再建にあたっては、当時の森下仁丹は大企業であるのと、村が誘致した企業が罹災したことから、府や国からも相応の補助が出た模様です。昭和32年頃には、被災前を上回る生産体制を確保しました。昭和38年頃になると、原料粉末の生産拠点としての役目はほぼ終えていた模様で、それ以降は、倉庫、原材料の保管場所として、細々と操業していたようです。やがて、昭和50年の大阪玉造工場の新装完成により、第二工場は閉鎖されました。現在も工場跡地は森下仁丹が所有し、草刈などの手入れはされていますが、仁丹橋の老朽化などもあって、今では橋の入口付近で門扉を閉ざし、ひっそりと佇んでいます。
参考文献: 『加茂町史 第一巻〜第五巻』




さて、次回は、いよいよ、奈良仁丹の探検記です。お楽しみに!
masajin
  

Posted by 京都仁丹樂會 at 13:18Comments(0)トピックニュース

2017年06月24日

仁丹樂會 大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(3)

~ 加茂町に仁丹がきた ~

 加茂町の井平尾付近の風景がわかったところで、本題の「どうしてこの場所に工場を建てることになったのか」というお話しに入りましょう。今回の主役は森下博薬房の森下博社長と加茂村の土橋芳太郎村長の二人です。

 森下博薬房では、1908(明治41)年に大阪市玉堀町に第一製薬場を建設し、仁丹の一貫生産をおこなっていましたが、原料の製粉を担当する専用工場の必要に迫られていました。明治末~大正初めにかけて工業化が急速に進み、電気や蒸気機関を利用した動力が台頭してきましたが、設備・維持費はまだまだ高価なもので、新工場の主目的が「粉ひき」ということもあり、森下は水力による低コストの動力源を府内外に求めていたようです。
 一方、加茂町には、酒造業を営みながら1907(明治40)年9月から1915(大正4)年9月まで京都府会議員を務めた土橋芳太郎がいました(『京都府會史 大正時代資料』)。土橋は、府会の実力者で、決算調査委員長などに就き、殖産や数理に明るく、また、木津川の改修工事、恭仁大橋や笠置橋の架橋、久世橋の堤防修築などを指揮し、いわば河川利用のプロでもありました(『京都府議会歴代議員録』)。森下が製粉工場の用地を模索していた明治末~大正初期は、加茂町では郡是製糸の木津進出など、町域内産物に原材料を求めた各種の会社・工場がつぎつぎに創設された産業発展の萌芽期でもありました。同時に、鉄道の開業とともに、貨物保管および運送業、運輸会社の設立も相次ぎ、大阪から見て、加茂地区はもはや商圏内となっていたようです。

明治~大正期創立の会社・工場(加茂村)
  酒造業で土橋芳太郎の名前が・・・・


明治~大正期創立の会社・工場(瓶原村)
   森下第二製薬場で森下博の記載が・・・・

(各村『現勢調査簿』、『統計調査』、『京都府勧業統計報告』、『京都府統計書』より)


 この時代、府会実力者の土橋と、経済界の名士であった森下が、役職上で何らかの接触の機会があり、水利を求める森下の土地探し相談に、水利専門家の土橋が「それなら、我が地元にいいところがある」と、紹介を兼ねた誘致を進めたという場面が想像されます。このあたりのいきさつは、京都府立山城郷土資料館(ふるさとミュージアム山城)の田中淳一郎さんと木津川市教育委員会文化財保護課の芝野康之さんのお話を参考にさせていただきました。ありがとうございました。

山城郷土資料館 / 木津川市役所


 製粉用のタービンには大きな水力が必要ですが、木津川では水運や川幅の問題で堰造成が難しく、その点、木津川沿いの自然堤防の微高地であった瓶原地区には、距離が短いが水量豊富な川がいくつかあり、その中でも比較的流れの大きな和束川に白羽の矢が立てられたのでしょう。ただ、和束川といっても、井平尾より上流ではすぐに隣村の和束村(現在の京都府相楽郡和束町)に入るので、土橋としてはぎりぎり出自の加茂町側にせざるを得なかったのでしょう。それが現在の第二工場跡地です。

木津川側から微高地の瓶原方面をのぞむ


 土橋は、大正4年9月には府会議員を退いていますが、森下との話し合いから工場建設に至るまでの時期は現職府議として誘致に介入し、また、退任翌年の1916(大正5)年8月から1919(大正8)年1月までは加茂村長に就任していることから、1917(大正6)年2月の操業からフル生産に乗る時期の第二工場には行政責任者として関与をし続けたことでしょう。
 このように、井平尾での第二工場の建設は加茂町サイドの強い誘致によるものでしたので、誘致条件としてはかなり森下に有利なものであったことが想像されます。
 次回は、操業を始めた第二工場の生産の様子や最大の危機であった大水害、さらに加茂町との共生についてみていきましょう。
参考文献:『加茂町史 第一巻~第五巻』

masajin

  

Posted by 京都仁丹樂會 at 15:56Comments(0)トピックニュース

2017年06月15日

仁丹樂會大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(2)~ 工場跡周辺を訪ねる

前回のidecchiさんレポートで、「森下仁丹の第二工場」(建設当時の名称は「森下博薬房の第二製薬場」)の今昔の様子がわかりました。
そうなると次に、「どうして大阪の製薬会社があの場所を第二の工場に選んだの?選ぶにあたって誰と誰がどんなやりとりをしたの?あの場所で何をどれくらい造っていたの?そしてそもそも、あの切り立った場所に工場って建てられるの?」
………こんな疑問が出てくるのは当然ですね。これから3回にわたって、順次その謎を深堀りしていきましょう。


まず、最初に、もう一度地形を詳しく見ていきましょう。




国道24号の泉大橋から木津川の上流方向です。実にゆったりとした眺めです。




次に、樹木で見にくいですが府道44号の恭仁大橋から見た和束川と木津川の合流部です。




加茂町井平尾付近では、左から右に続く国道163号から府道5号が左に分岐します。三叉路向こうの家屋と山の斜面の間を和束川が左から右に流れています。




右奥に架かる菜切橋から和束川上流を見ると、この川が豪雨時に橋脚を超える勢いになるとはとても思えませんが、昭和28年8月の水害で流出を経験しました。第二工場はこの奥手です。




三叉路を和束川沿いに約500m遡上した対岸(左岸)の草地が第二工場跡地です。昭和28年の水害で流出したあとに付け替えられた二代目の仁丹橋も健在です。




この橋の真ん前に井平尾の道標がついています。この府道は大津、信楽に通じています。




ここからさらに100m上流に、第二工場の取水用に作ったと思われる高さ5m程度の堰があります。現在ではすっかり砂防ダムですね。




堰には取水口跡もあり、この水が製粉用タービンを回しました。




さらに、取水口から対岸に沿って第二工場への取水路もかろうじて残っています。




堰から200m遡ると、そこはもう和束町になり、つまり、第二工場は加茂町と和束町の境の、かろうじてぎりぎり加茂町、という場所に建てられたという、何やら訳あり話になりそうです。
こうして、第二工場の周辺の状況がわかったところで、では、どうしてこの、決して利便とはいいがたい場所に大阪の製薬会社がやってきたのでしょうか?このお話は次回に続きます。
masajin

  

Posted by 京都仁丹樂會 at 00:37Comments(0)トピックニュース

2017年06月05日

仁丹樂會、大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(1)

わたしたち仁丹樂會では毎月一回定例会議を開いておりますが、5月は例会に代えて「大人の遠足」と題し、丸一日かけて現地調査を実施してきました!その様子をお届けします。


朝8時、東本願寺前に集合したのは滋ちゃん、ずんずん、ゆりかもめ、たけちゃん、masajin、idecchiの総勢6名、車2台に分乗して出発しました。
最初に向かったのは、京都府相楽郡瓶原村(現:木津川市加茂町)にあった「仁丹第二工場」の跡地です。創売からわずか数年で日本を代表する家庭薬となり、海外輸出も増加する中で(「明治期の新聞にみる仁丹広告(3)~海外進出と仁丹広告~」)、急増した生産量に対応するため、現在本社がある大阪玉造の第一工場だけで手狭となった森下仁丹は、製粉専門の第二工場を建設し、手作業で行っていた原料生薬の粉砕を、水力を利用した大規模な動力粉砕に一新することを目指しました。1917(大正6)年に完成し、和束川沿いの山間に張り付くように建てられた六百坪あまりの工場では、200メートル上流のダムから取りこんだ水を工場まで引き、ドイツシーメンス社の水力タービンでつくられた150馬力の動力が、500もの石臼を動かしたといいます(『森下仁丹80年史pp.60-61』、『仁丹須知』)。




森下博薬房[1921]『仁丹須知』より


京奈和道の終点木津インターから、国道163号を木津川に沿って上っていくと、有名な海住山寺、恭仁京跡などの歴史的スポットが続きます。そこからさらに府道5号線で和束町へ向かう少し手前、和束川の渓流沿いに工場跡はありました。この工場は1953(昭和28)年8月の集中豪雨で和束川が氾濫した際、いったん崩落してしまいます。その後再建され、1975(昭和50年)までは工場が存在していたようですが、現在はただの広場のような土地が広がっています。定期的に草刈りが行われているようでした。


上の写真左奥にみえるのが府道から工場跡地に渡ることのできる橋です。その名も「仁丹橋」。




敷地内には謎の物体が…。




こちらよく見ると、タイル張りのなかに何かタービンのようなものがついています。
何とこれ、第二工場の写真に載っている150馬力の原動機と同じではありませんか!『仁丹80年史』によれば、動力を電機や蒸気機関とせず、この水力タービンを用いたことにより安価な動力利用が可能となったそうで、同種のタービンは当時の日本でも珍しく大規模なものとして注目されていたとのことです。

森下博薬房[1921]『仁丹須知』


工場の対岸には、何やら石組みのようなものが…。


この石組、当時川にかけられていた橋の基礎部分です。現在の「仁丹橋」は昭和28年の水害で工場が崩落した後になってから新たにかけられた橋で、大正時代に工場が新設されたときには、このような立派な橋がかけられていたとのことです。

森下博薬房[1921]『仁丹須知』


工場跡地の入り口には、森下仁丹により「仁丹発祥の地」というブリキ板が取り付けられていましたが、かなり昔のもので傷みがひどく、曲がっている有様…。ささやかながら補修をし、訪問記念「仁丹工場跡」プレートを新たに取り付けて来ました。






**************

訪問してわたしたちが感じたのは、「なぜこのような場所に?」という疑問でした。山間の川沿いに張り付くように切り開かれた土地ですし、そもそも大都市まで運ぶにはあまりにも交通の便が悪そうな場所です。両工場の地理関係をgoogleマップに起こすと次のような感じになります。


『仁丹80年史』では、製粉を人力から動力粉砕に切り替えるという第二工場の建設は明治末から構想されており、その条件を満たす場所を探した結果、この土地が選ばれたとあります。この工場でのプロセスを経て、製粉された原料はトラック便で生駒山を越え第一工場に送られたそうです。また、建設に当たっては、ダムの建設で遡上できなくなるアユの稚魚を毎年10万尾上流に放流することなど、地元住民との交渉による信頼関係の構築が図られたそうです。


これらの文面を見ると、第一工場に相対的に立地が近く、かつ、水量が豊富で動力取水の便のよさそうなこの場所をあえて選定したように受け取れますが、このあたり、もう少し当時の事情を知る関係者の方からの情報が必要そうです。
そこでMasajinさんが早速現地の専門家への聞き取りを行ってくれました!その結果は次回!

京都仁丹樂會 idecchi

  

Posted by 京都仁丹樂會 at 00:44Comments(0)トピックニュース

2017年05月19日

街で人々の下駄の音を聞くことができなくなって久しい

 先日、京都新聞の「京町家7年で5600軒減」なる記事が目に留まりました。2016(平成28)年度に現存している町家は4万軒ほどで、2008-09年度との比較調査では、年平均800軒のペースで減少しているようです(「京都新聞」2017年5月2日)。
 1996(平成8)年、そんな移りゆく京の町を憂いて、「仁丹の町名表示板の付いた町屋」の展示会を個人で催しました。下記の文はその時の案内文です。懐かしく引っ張り出してみました。

温故知新         於: 烏丸公共地下道 ストリート・ギャラリー

街で人々の下駄の音を聞くことができなくなって久しい。舞妓さんや坊さんは別として。下駄にかわって犬の爪の音がカシャカシャと耳につく。京の道も舗装され土の道がすっかりなくなってしまった。
市電は姿を消し、鴨川沿いに走る京阪電車が地下に潜り、今、地下鉄東西線の完成は秒読みの段階。
京の景観を損なうと大揺れだったホテルも完成。舞台は移り、超高層建築・京都駅の工事に拍車が掛かっている。
好むと好まざるにかかわらず、京の佇まいは「静の町」から「動の町」にかわりつつある。
この京の町の移ろいだけでなく、人々の地道な暮らしをも、巷の説によると古いものは大正の初めから、ずっと何も言わずに見守ってきた「仁丹」の町名表示板。
もし彼らに「京の町」の行く末を尋ねることができたら、きっと「京」の歩むべき正しい道を教えてくれそうな、ふと、そんな気がして。
平成8年11月                井幡 松亭 書
                      立花 滋  写真






その後、縁があって、私と同じように仁丹町名表示板に魅了された仲間が集い、2010(平成22)年に「京都仁丹樂會」が発足しました。その経緯は当會ブログの「京都仁丹樂會とは」もご覧ください。
▼  ▽  ▼  ▽  ▼  ▽  ▼

「町家」の減少に比例して仁丹町名表示板も半減してしまいました。行政がいろいろ町家の保存法を考え、「京の姿」を一日も長く繋ぎ留めようとしているのと並行して、私たちも「仁丹町名表示板」を一企業の宣伝物と捉えずに、一世紀近くに亘り「京」の道案内をしてきたという功績を称え、「京都の文化財」にしたいと考えています。 
京都仁丹樂會 滋ちゃん



  続きを読む

Posted by 京都仁丹樂會 at 03:15Comments(0)トピックニュース

2017年03月16日

大正イマジュリィ学会での報告

3月11日~12日の2日間、立命館大学で開催された「大正イマジュリィ学会」の第14回全国大会で、仁丹の町名表示板に関する報告をしてきました!



そもそも「大正イマジュリィ学会」って?と思われる方もいらっしゃるかと思います。
この学会は、大正時代を中心とする20世紀初頭の「イマジュリィ(イメージ図像を指すフランス語で、挿絵・ポスター・絵はがき・広告・漫画・写真など大衆的な図像の総称)」を切り口に、さまざまな視点から関心を持つ人たちが意見交換や研究成果の発表などを行っているところです。こちらの学会HPもご覧ください。

今年度の全国大会でも、1915年(大正4年)11月に京都で大々的に執り行われた大正大礼の際のイルミネーションと人々の奉祝踊であったり、戦前の雑誌『野球界』『少年倶楽部』『少女俱楽部』の分析であったり、東京を拠点に活躍した石版画の画工の分析であったり、様々な展覧会の絵葉書などでおなじみの美術出版社「便利堂」の方もお招きした「複製」をめぐるシンポジウムであったり、さまざまな視点からの報告がなされました。


会場の立命館大学創思館は、数十年前の立命館衣笠キャンパスを御存じの方ならおなじみの「中央グラウンド」跡に建てられたものです。このあたりには昭和23年から40年代初頭まで「立命館衣笠球場」がありました(立命館 史資料センターHP)。現在でもキャンパス周辺の電柱で「衣笠球場」というプレートを見ることができます。ご関心のある方は探されてみてもいいかもしれませんね。なお、キャンパスの名がつく「衣笠」に始まる町名表示板も、かつては設置されていたようですが、残念ながら現存するものはありません。大学周辺の町名表示板も同様に、年々姿を消しつつあります。

さて、報告させて頂いた内容は、京都・東京・滋賀などでの設置状況の紹介や、これまでブログでもご紹介してきた仁丹樂會での研究成果をベースにしたもので、御来場の皆さんにはたいへん興味深く聞いていただくことができたようです。最後のスライドで強調したのは、100年近い時を経て、奇跡的に京都市内にはたくさんの町名表示板が残されているがその数は年々減少の途にあること、これらは戦前の森下仁丹の広告戦略や当時の京都の歴史を考えるうえで大変貴重な資料であるだけでなく、今日でも「現役の道案内役」として京都のまちで活躍していることに極めて価値がある、ということです。


新年のご挨拶からこの記事を書くまでの間にも、残念ながら、町家の建て替えに伴う消滅や、ある日忽然と町名表示板だけが姿を消してしまった事例など、いくつか残念なニュースも樂會に届いております。改めてブログをご覧の皆さんには、仁丹の町名表示板は、設置されているその場所にあり続けるからこそ価値があるものだということを御理解いただき、今後も道案内役を果たし続けられるよう、大切に見守っていただければ幸いです。
京都仁丹樂會 idecchi


  

Posted by 京都仁丹樂會 at 04:50Comments(0)トピックニュース

2016年09月04日

水谷憲司さんの撮影データ

京都・もう一つの町名史』 という書籍をご存知でしょうか? おそらく、京都の仁丹町名表示板のみを取り扱った初めてのものだと思います。いくつかの表示板にまつわる思い出、疑問、推理などが綴られ、誰しも同じ思いを抱くものだと頷きます。筆者は、水谷憲司さん。平成7年(1995年)に出版され今はすでに絶版となっていますが、京都市右京中央図書館や京都府立総合資料館などで見ることはできます。



1995.10 永田書房/発行


京都の仁丹町名表示板に関心を持つ方はかなり以前からおられるものですが、1995年当時は現在ほど仁丹町名表示板に関するネット情報は盛んではなく、仲間がどこにいるのかも分からないような、いわば各々がスタンドアローンの時代でした。京都仁丹樂會の代表立花滋も同じ時代に精力的に活動を繰り広げていた一人でしたが、水谷さんとは一度電話で話をしたことがあったものの、お互いの情報交換までには至りませんでした。

さて、この水谷さん、残念ながら今年の1月に他界されました。ご冥福をお祈りいたします。そして、そのご遺族の方より、水谷さんが生前撮影された仁丹町名表示板の写真を何か有効活用する方法はないだろうかと、当會に相談を寄せられました。

同書籍の巻末には、文字情報だけではありますが、水谷さんが発見なさった仁丹町名表示板の一覧表が収録されています。その数、ざっと1,200です。一方当會の立花代表も同時代にほぼ1,200程度を把握していました。さらに、その後、他の會員のデータも加わったので、磐石のデータベースが構築できていると思っていました。したがって、有効活用の方法は正直あまり思い浮かぶものではありませんでした。

しかし、全く同じ住所表記が何枚あっても不思議でないのがこの世界。文字情報ではなく、一度、私達のデータベースと画像で見比べたら、もしかしたら何枚か初めてのものが見つかるのではないかと、會員それぞれ手分けをして精査することになったのです。かなりの労力を要しましたが、一方で水谷さんの熱意もひしひしと伝わってくる作業となりました。

※   ※   ※

さて、その作業結果はと言うと、意外や意外、当初の見込みとは大違い。私達が把握していなかった新たな仁丹町名表示板が何と139枚も出現したのです。これは一体どういうことなのでしょうか? 原因は、水谷さんが見つけて立花が見つけていなかったもの、その逆に立花が見つけていて水谷さんが見つけておられなかったものが、ほぼ同数あったということだったのです。中には、後ろを振り返ったらあったのに!この道を入っていたらあったのに!というようなお互いに惜しいケースもありました。仁丹探しの奥深さを改めて思い知らされました。

このような訳で、とにかく私達の知らなかった新たな139枚が存在していたことが確認できましたので、データベースに加えさせていただきました。資料のご提供、本当にありがとうございました。感謝いたします。

※   ※   ※

したがって、 先日、「仁丹町名表示板 今、何枚? 」で発表した数値に、その後の変化を反映させ、さらに水谷さんの今回のデータも加えた結果、最新データ数は次のようなものになりました。

現存数 ・・・ 675枚
消滅数 ・・・ 680枚
埋蔵数 ・・・ 190枚  (2016.9.4現在)

水谷さんの今回のデータ139枚については、今はその場所に存在していませんので、「埋蔵」されていることが明らかとなった1枚を除き、すべて「消滅」区分にとりあえず加えました。もしかしたら他にも「埋蔵」があるのかもしれませんが。また、新たに出現した139枚の中から、何か新しい発見もしくは考察が生まれるかもしれません。次はその分析も行ってみたいと思います。

~京都仁丹樂會~

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 16:01Comments(0)トピックニュース

2016年07月21日

南観音山の「百足屋町」復活!

南観音山の「百足屋町」復活!


わずか2日前の7月19日、『仁丹町名表示板 今、何枚』を発表したところですが、早くも変化が現れました。日々動きのある仁丹町名表示板に驚きです。

祇園祭の山鉾町が連なる新町通には“平成バージョン”が5枚も設置されましたが、その1枚、南観音山の町会所に設置されていた「百足屋町」が、町会所の建て替えのため姿を消していました。希望されて設置された平成バージョンだったので、廃棄されることはなかろう、きっと復活するはずだと信じていたものの、新しい町会所がお目見えし、祇園祭も始まったというのに仁丹町名表示板は一向に姿を見せず気になっていました。

ところが、後祭りに間に合わせるかのように、7月20日、見事に復活しているのを確認しました。念のためにと前を通りかかったところ発見、絶妙のタイミングでの再登場となりました。これで「現存」1枚追加です。



ところで、“平成バージョン”とは、森下仁丹株式会社が創立120周年記念の一環として取り組んだ「京都町名琺瑯看板プロジェクト」により製作・設置された仁丹町名表示板のことです。詳しくは次の記事をご覧ください。(青い文字はリンクしています)

   京都仁丹町名看板プロジェクト始動
   復活仁丹町名表示板・第一号 京都市役所に設置!

ちなみに平成バージョン第1号として平成23年2月10日午後1時30分に京都市役所に設置された「上本能寺前町」の仁丹町名表示板も庁舎建て替えのため現在姿を隠していますが、しっかりと保管されており、新庁舎完成時には復活の予定だそうです。

また、髙辻麩屋町の「鍋屋町」も一時期取り外されていましたが、この度、看板の上に堂々と復活しました。ありがたいことです。




しかしながら、このように大切にされる仁丹町名表示板がある一方で、またまた仁丹町名表示板だけが姿を消すという事態が花屋町通でつい先日発生してしまいました。

と言うことで、「現存数」は672+2-1で673枚となりました。

~京都仁丹樂會~
  
タグ :百足屋町


Posted by 京都仁丹樂會 at 23:25Comments(0)トピックニュース

2016年01月23日

お正月です。いろはカルタでご報告


「犬も歩けば棒に当たる」ではありませんが、このあいだ大阪の十三(じゅうそう)を歩いていると新しい住所表示板の下に顔を出している仁丹町名表示板発見です。 私も歩けば仁丹町名表示板に当たる。



「論より証拠」ではありませんが、これを見てください。言っているより証拠写真。





「針の穴から天を覗く」ではありませんが、住所表示板の下から仁丹が覗く。






「憎まれ子 世にはばかる」新しい住所表示板を憎まれっ子といってしまうのは可愛そうですが、樂會的には憎まれっ子の新しい住所表示板。もしこれがなかったら大礼服のおっちゃんもこんな感じに見えるんですよ。




でも、憎まれっ子がいたおかげで今あると思うと、救いの神に見えてきます。




「骨折り損のくたびれ儲け」こんなことも多いですが、歩いて回るのって大事ですね!
今年は仁丹樂會で京都市内の仁丹町名表示板の再チェックのため、市内を歩き回ります!
うさん臭く仁丹町名表示板の写真を撮っている人を見たら声をかけてくださいね。



「下手の長談義」仁丹樂會は仁丹町名表示板を愛する者の集まり。
下手かどうかはさて置いて、ひとたび仁丹町名表示板の話に入るや、時間はあったものではありません。話は夜を徹して行われます。いやはや、熱きロマンをかきたてる代物ではあります。



「 灯台下暗し」さて、話題を仁丹町名表示板に移しましょう。この看板は職場近くのいつも通っている商店街のはずれの家に、新しい住所表示板の下1センチほど顔を出していました。見つけるには仁丹に精通していないとこういうところで、お目にかかることはできません。またそれを仲間に言ってちやほやされるのも趣味の醍醐味。
みなさんも自宅周辺や職場の近くの意外なところで新たな発見があるかもしれません。
何かありましたら、ご一報を。ちやほやしちゃいますよ。
今年一年、仁丹町名表示板と仁丹樂會を可愛がってくださいね。よろしくお願いします。

~京都仁丹樂會 ゆりかもめ~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 00:14Comments(1)トピックニュース仁丹のある風景

2015年07月21日

仁丹樂會の活動紹介が『大阪春秋』に掲載!

京都仁丹樂會の活動紹介が『大阪春秋』に掲載!



以前行った日本交通学会全国大会でのエクスカーション(役員の先生方を対象にしたまち歩き)で、われわれ京都仁丹樂會がガイド役をさせていただいたことなどがきっかけになりまして、大阪を中心に歴史・文化・産業に関する過去・現在を記録し続けている季刊雑誌、『大阪春秋』の159号(7月10日刊行)に、京都仁丹樂會の活動と研究成果の紹介を書かせていただきました!




表紙にもある通り今号の特集は「戦後70年」、大阪大空襲を始めとして戦後の大阪やGHQの活動など、戦中戦後に関心を持たれている方にも非常に興味深い内容かと思います。
また、それだけではなく、大阪の問屋街を訪問・調査する連載企画や、幕末の大阪湾のお台場を考えるシンポジウムの紹介など、幅広いテーマで研究者や現場で活躍されている方々が投稿されております。

そのうち4ページほどスペースをいただきまして、これまでの京都仁丹樂會による調査研究活動とその成果や、保存を訴える様々な活動を紹介させていただいております。

ご関心のあるかたは、ぜひ最寄りの書店にてご注文いただければと思います。

定価1080円(税込)、【ジュンク堂 大阪本店】 【ジュンク堂 千日前店】 【紀伊國屋 梅田本店】では現物もご覧になれます。

季刊誌『大阪春秋』の出版元についてはこちらもご覧ください。
株式会社 新風書房
大阪本社 〒543-0021 大阪市天王寺区東高津町5番17号
  TEL (06) 6768-4600
      http://www.shimpu.co.jp/


京都仁丹樂會 idecchi
  

Posted by 京都仁丹樂會 at 01:17Comments(0)トピックニュース

2015年06月28日

毎日新聞 京都仁丹物語 6

京都仁丹物語 6
(毎日新聞 2015.6.27 朝刊 京都面)

今回のテーマは、
「全国津々浦々」裏付けに風穴
「東京市周辺9万440枚設置」資料
でした。

もうお分かりとか思いますが、仁丹町名表示板に関する唯一の公式見解が『1910年(明治43年)からは、大礼服マークの入った町名看板を辻々に揚げ始めた。当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり、今日でも戦災に焼け残った街角では、昔ながらの仁丹町名看板を見ることができる』(森下仁丹100周年記念誌)とあるにも関わらず、関西にしかないじゃないか、本当? というかねてからの大きな疑問が、東京がまだ東京市であった大正7~9年にかけて9万440枚も設置されていたことが東京都公文書館の公文書で分かり、公式見解はやはりないがしろにできないぞとなった先日の大発見のお話しです。
idecchiさんのお手柄です。関西圏のみの殻から“風穴”を明けたのでした。

ただし、琺瑯製ではなく木製です。琺瑯看板が普及し始めるのは大正末期ですから、明治43年云々は木製の時代です。ちなみに京都の木製仁丹町名表示板は大正元年~3年位がピーク、大正7年頃にも追加設置されていることが私たちの調査で分かっていますので、東京はその後ということになります。

詳細は当ブログの次のシリーズをご覧ください。
全国津々浦々の考証(その1) ~引用され続けるフレーズ~
全国津々浦々の考証(その2) ~前橋にも仁丹町名表示板が!?~
全国津々浦々の考証(その3) ~東京で仁丹発見!!!①~ 
全国津々浦々の考証(その4) ~東京で仁丹発見!!!②~
全国津々浦々の考証(その5) ~東京で仁丹発見!!!③~
全国津々浦々の考証(その6) ~東京で仁丹発見!!!④~ 
全国津々浦々の考証(その7) ~東京で仁丹発見!!!⑤~

今回、紙上で紹介された証拠写真がこれ ↓ です。



国会図書館近代デジタルライブラリーの歴史写真会『歴史写真』大正10年1月号からのものです。一般に写真の撮影年月日の保証はなかなか得にくいものですが、これは大正9年11月6日の東京貯蔵銀行の取り付け騒ぎの報道写真なので撮影日は確実です。少なくとも大正9年には東京に木製の仁丹町名表示板が設置されていたことが、先の公文書だけでなく写真でも証明できたことになりました。
※    ※     ※

記事中では、大津や奈良、大阪など関西の仁丹町名表示板について、表示板自体の大きさの比較や文字の色などが紹介されています。

これもまた詳細は、当ブログの次の基礎講座実例シリーズをご覧ください。

①京都市以外の仁丹町名表示板
②仁丹町名表示板  大津市の場合
③仁丹町名表示板  大阪市の場合
④仁丹町名表示板  奈良市の場合
⑤仁丹町名表示板  伏見市の場合
⑥仁丹町名表示板  実例のまとめ




このように都市によってデザインを変えていた仁丹町名表示板ですが、京都市(旧伏見市除く)のものは大きさが最大でした。それは記載しなければならない文字数の多さに起因するのでしょうが、他都市と違う大きな特徴は他にもあります。それは、旧伏見市も含めて他都市のものはすべて町名の文字の上に琺瑯がコーティングされていますが、京都のはされていないのです。



つまり、琺瑯引きされた商標入りの真っ白の板に、筆で文字を書いたのみなのです。そして、筆跡は画一的ではなくまちまち。これが、京都のは現場で書いたのではないかという私たちの推察の根拠なのです。非常に複雑な京都の住所表示、事前に工場で作って現地に運ぶよりも、現地を回り、設置の承諾が得られたら、その場でピンポイントの正確さで住所表示を書いて、その場で掲げるという方法が最も合理的だったのではないでしょうか。他都市のものは町名だけなので、工場で文字の上からしっかり琺瑯引きして、それから現場に運んでもその町名ならどこにでも設置できたのです。

※    ※     ※


次に平成の復活バージョンについても紹介されています。ただし、京都市のではなく、鞆の浦です。森下仁丹創始者である森下博の出身地です。







鞆の浦の詳細は、昨年、探訪記としてまとめました。詳細は以下をご覧ください。
鞆の浦 仁丹探訪記(1)   
鞆の浦 仁丹探訪記(2)   
鞆の浦 仁丹探訪記(3)   
鞆の浦 仁丹探訪記(4)   
鞆の浦 仁丹探訪記(5)   

以上、毎日新聞 京都仁丹物語6の様子でした。


~京都仁丹樂會~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 20:50Comments(0)トピックニュース

2015年06月22日

毎日新聞 京都仁丹物語 5

京都仁丹物語 5
(毎日新聞 2015.6.20 朝刊 京都面)


5月30日から連載開始となった、毎日新聞の『京都仁丹物語』もいよいよ5回目となりました。今後、毎回、コラボ記事としてその内容を紹介していこうと思います。


今回のテーマは、
書き手に拍手 最多20字
大胆な字、大阪職人か

手書きの文字に着目したテーマです。

私たちが今までに確認した仁丹町名表示板のうち、最も字数の多い物ということで次の仁丹が紹介されました。



上京区寺町通今出川上ル西入三筋目上ル上塔之段町


まさに行政区以下20字です。バランス良くきっちりと収まっています。おそらく現場で書いたであろうと推測している京都の仁丹町名表示板、ぶっつけ本番でお見事!書き手に拍手!と言う訳です。

この長い長い住所表示の意味するところは、翻訳すると次のようになります。

寺町通を歩き、今出川通との交差点のひとつ北に、西へ入る通りがあるから、そこを入ってそのまま西へ向かう。そして、北へ向かう3本目の通りを今度は右に(北に)入ったら、そこが目的地だよ。

という訳です。京都の碁盤の目のような通りにはそれぞれ通り名が付いていますが、中には名前のない細い通りもあります。そのような時に今回のように先ずは“寺町通今出川上る”という大きなポイントを示し、そこからさらに“西入三筋目上る”と細やかに誘導するのです。

※     ※     ※

一方、最小の文字数は行政区以下4文字で、吉田橘町、八條源町、吉田本町などがあり、代表して吉田橘町が紹介されています。ただし、旧伏見市バージョンを除く、横14.5cm縦90.5cmというキャンバスに限定してのことです。



こうして3枚並べて眺めると、吉田本町は上品なほっそりした文字ですが、吉田橘町と八條源町は太く非常に力強く書かれていることがよく分かります。筆の太さが違うだけでなく、筆跡が微妙に違うようなのでもしかしたら書き手自体が違うのかもしれませんね。

※     ※     ※

この手書き文字について同業者はどのように見るのだろうかと、毎日新聞の記者さんは有限会社八田看板さんを取材しておられます。京都府の現代の名工にも選ばれ、平成の復活仁丹第1号を書かれたあの八田さんです。記事では、仁丹町名表示板に書かれた伸び伸びとした書き方は、長年の経験から「大胆な字を書く傾向がある大阪の職人の字ではないか」と推測されています。京都はきちんとした字を求められ、バランス良く割り付け、冒険的な字を書かない傾向があるのだそうです。森下仁丹は大阪が本拠地、さもありなんです。

バランスと言えば、なるほど、吉田橘町などは下の余白が大きすぎます。八條源町もそうですが、全体をもう少し下方にずらして書いたら綺麗なのにと思うと、事前の割り付けをしていないのではと見ることもできそうですね。

※     ※     ※

ところで、今回の記事とは直接関連はないのですが、六条通界隈の仁丹町名表示板は若宮通付近から筆のタッチが変わります。若宮通の西側では上京区などでもよく見られるほっそり上品な文字、東側では文字がいきなり太くて力強くなるのです。ごらん ↓ のとおりです。左側から、西から東へと並べてみました。




また、こんなにバランスの悪いものもあります。



かなり無計画な字配りです。慣れていない職人さんが書いたのかもしれませんね。

※     ※     ※

さらに記事では、仁丹の商標の位置にも触れられています。上にあるタイプと下にあるタイプがあり、上タイプは特定の学区に集中していることも紹介されました。

これに関する詳細な説明は、当ブログの『永遠のテーマ 商標の上と下』(←リンクしています)をご覧いただければと思います。

以上、毎日新聞「仁丹物語5」の解説でした。


なお、毎日新聞ウェブ版なら全国から記事を見ることができます。ただし、登録制ですが。

毎日新聞ホームページ
 ↓
地域
 ↓
京都
 ↓
京都アーカイブ一覧
 ↓
カレンダー内の日付

の手順です。

~京都仁丹樂會~

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 21:35Comments(1)トピックニュース

2015年05月12日

まいまい京都 2015春 第1弾

まいまい京都 2015春 第1弾




まいまい京都2015春の仁丹コース第1弾「謎だらけ名物看板を探して、上京の路地・辻子めぐり」が5月10日開催されました。当日の模様をご報告します。これまで京都仁丹樂會では、四条烏丸から西本願寺へのコース、京都市役所から東山へのコース、北野天満宮から柏野へのコース、四条大宮から西本願寺へのコースなどで通算6回にわたり仁丹町名表示板を手がかりに街歩きをガイドしてきましたが、今年5月に実施する2つのコースは、いずれもまいまいとしては新たにルート開拓したものです。

***************



ゴールデンウイーク最終日の日曜日、天候にも恵まれ雲一つないお天気のもと、15名の参加者の方々と街歩きをしてきました。仁丹樂會からは5名(滋ちゃん、ゆりかもめさん、たけちゃん、新たに樂會メンバーとなられたmasajin さん、そしてidecchi)がガイド役を務めました。



集合場所は地下鉄今出川駅。まずは簡単に、仁丹の町名表示板とは何かを説明した後、明治末から大正はじめにかけて京都市で行われた、いわゆる「三大事業」(第二琵琶湖疏水の開削、上水道整備、道路の拡築と市電敷設)の一環として大正時代に進んだ主要な通りの拡築の様子を見て頂きました。






近くにある町名表示板は、改築後も改めて町名表示板を設置してくださっている大変ありがたい例です。



上京区には東西南北に整然と碁盤の目のように整備された通りではなく、南北に延びる通りの間でアミダくじの横線のように走る東西の道路や、かぎ状に曲がる道路などがよく目につきます。上京区ホームページによると、こうした「辻子(図子)」と呼ばれる通りが市内におおよそ100か所ほど存在し、そのうち実に半数が上京区内に集中しているといいます。これら辻子にはその場所にかかわる歴史的背景をもった人物や寺院などからとられた名前もあり、それが町名にまでなっているものもあります。これらの辻子をたどりながら、またその名前の付いた町名表示板を探してみるのも面白いと思います。


***************



戦後に制作されたブリキ板にペンキ塗りのものは劣化が著しく、もはや道案内の役割を果たしていないのに対して、琺瑯製の仁丹の町名表示板は、今日でも鮮明さを失っていないことなどもお話ししました。




仁丹による町名表示板と、ずっと後になって設置された藤井大丸の町名表示板もご覧いただきました。



また、大切に残されている貴重な木製の町名表示板のある辻子、残念ながら盗難にあってしまった町名表示板のあった辻子にもご案内しました。参加者の方々に、現在まで現役で道案内を続けている町名表示板が、その場所に存在し続けているからこそ、価値があるものであること、盗難などは決して許される行為ではないことがお分かりいただけたのではないかと思います。


***************



さらに町名表示板を見ながら進んでいきます。残念ながら姿を消してしまった町名表示板がある一方で、町内の方々に大切にされているものも多くみられます。古い町屋の解体に伴って消滅してしまった!と思ったら、その後町内の別な場所に再設置された、というような例に触れると、うれしい限りです。




烏丸通に戻ってきた後、御霊神社前でお開きとなりました。




解散後近くの町屋をリニューアルしたカフェで、参加者の方とランチがてら歓談したのですが、実はここにも素敵な隠れた仁丹町名表示板が…。これはぜひ、お探しいただければと思います!


***************



今回、ありがたいことに以前の仁丹樂會ガイドによるまいまいにもご参加くださった方もいらっしゃいましたし、初めてまいまいに参加される方、何度もまいまいに参加されているが仁丹樂會のツアーは初めて、という方も結構いらっしゃいました。2時間ほどの街歩きでしたが、京都市内は普段気付かされないもの・ことを再発見できるような街歩きのツボがたくさんあると思います。そのひとつのきっかけに、仁丹の町名表示板がなってくれればと思います。また、1世紀近い年月を経てもまだ現役の道案内役として活躍している仁丹の町名表示板の大切さをご理解いただければ幸いです。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。また、5月30日には、六条通を舞台にしたもう一つのまいまい新コースが開催されます!お楽しみに!

滋ちゃん、ゆりかもめ、たけちゃん、masajin、idecchi
  

Posted by 京都仁丹樂會 at 13:07Comments(0)トピックニュース

2015年03月01日

盗難報道のまとめ

年末から騒がせている盗難事件ですが、連日テレビ取材を受けるなど世間の関心は非常に大きく強いものがありました。盗難と言う不愉快な話題をいつまでも続けたくはないのですが、これらを一連の記録としてまとめることも必要かと思います。

先ずは上七軒の真盛町の件を、2014年12月27日に当ブログでお伝えしたところ、翌2015年1月4日「上七軒歌舞会」さんの公式Facebookで紹介されシェアされたのが起爆剤となったのでしょう、当該記事のアクセス数は7,000を越え、「いいね!」も1,300を上回りました。まさに怒りの数とも言えるでしょう。

この反響の大きさから1月8日の昼下がりに朝日放送のニュース番組「キャスト」の取材を受け、その日の夕方には放映されました。

そして、少し間が空きますが2月4日には毎日新聞朝刊に次のような記事が掲載されました。


~2015年2月4日 毎日新聞朝刊より~


この記事は、同日朝の読売テレビ「すまたん」でも辛坊治郎さんにより紹介されました。
すると、マスコミ受けするのでしょう、次から次へと取材の申し込みが来ました。東京からも来られました。

先ずは早速翌日の2月5日には関西テレビ「スーパーニュースアンカー」、2月6日にはフジテレビ「とくダネ!」です。いずれもお昼に取材を受けて、その日の夕方にはオンエアーという手際の良さでした。

そのような時、2月5日、某大手ネットオークションに盗まれた西千本町が堂々と出品され大いにショックを受けました。当会も対策を練りましたが、2月10日毎日放送「VOICE」憤懣本舗の取材を受けている最中に“西千本町 無事確保”の朗報に触れ、ひとまず安堵しました。

この時の「VOICE」憤懣本舗は2月16日に放映され、そして翌2月17日には西千本町が所有者の元に帰ってきました。

※     ※     ※


こうなると、次はオークションから取り戻したという新聞記事が2月17日の京都新聞夕刊、2月18日の毎日新聞朝刊へと続きました。


~2015年2月17日 京都新聞夕刊より~



~2015年2月18日 毎日新聞朝刊より~


現在、とりあえずは取材攻勢は一段落した気配ですが、盗難届が出ている“未解決事件”はまだまだ残っています。一日も早い解決と、再び元の場所に掲げられ現場復帰することを祈っています。

※     ※     ※


以上の一連の動きを改めて時系列に並べると次のようになります。


2014/12/27(土) 真盛町盗難記事当ブログにアップ
2015/ 1/ 4(日) 上七軒歌舞会 公式FB で紹介される
2015/ 1/ 8(木) 朝日放送「キャスト」
2015/ 1/27(火) 西千本町盗難発覚
2015/ 2/ 4(水) 毎日新聞朝刊
2015/ 2/ 4(水) 読売テレビ「すまたん」 辛坊治郎さんによる毎日新聞紹介
2015/ 2/ 5(木) 関西テレビ 「スーパーニュースアンカー」
2015/ 2/ 5(木) 盗難に遭った西千本町 ネットオークションに登場
2015/ 2/ 6(金) フジテレビ 「とくダネ!」
2015/ 2/16(月) 毎日放送「VOICE」 憤懣本舗
2015/ 2/17(火) オークションに出た西千本町 戻る
2015/ 2/17(火) 京都新聞夕刊
2015/ 2/17(火) TBS 「Nスタ」
2015/ 2/18(水) 毎日新聞朝刊
2015/ 2/18(水) 関西テレビ 「スーパーニュースアンカー」
2015/ 2/24(火) 毎日新聞東京本社夕刊


何度も訴えていることですが、京都の仁丹町名表示板はボンカレーやオロナミンCなどの琺瑯看板と同列のコレクションアイテムではありません。今も現役で世の中に役立っている公共物です。また、住所の表示板なのですから、そのこと自体でどこにあった物かが分かりますが、さらに当会では過去20年間に集めた1,400件近くのデータベースを管理しており、例え同じ住所表記のものでも筆跡や特有の錆や傷からほぼ間違いなく個体の判別ができ、どこに設置されていたものかが分かります。

今回は一連の報道のお蔭もあって西千本町の1枚に関しては何とか解決しましたが、逆に盗難を恐れての埋蔵化が進むなど本末転倒の現象も起こってしまいました。京都の仁丹町名表示板は現地にあってこそ『歴史的・文化的・景観的価値』が備わるのです。市民の、また町内の資産を売買の対象とするなど誰にもできないことではないでしょうか? 早く元のように安心して掲げられる環境に戻って欲しいものです。

~京都仁丹樂會~

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 12:14Comments(1)トピックニュース

2015年02月21日

大阪にも埋蔵仁丹が

当ブログをご覧になった大阪市の石田さんから、“大阪にも埋蔵仁丹があるよ” とその写真を提供してくださいました。このようなものです。


~ご提供 大阪市の石田さん~

貴重な情報、ありがとうございました!

京都の仁丹町名表示板のことを調べるには、他都市の仁丹町名表示板はもちろんのこと、ある程度はその他一般の町名表示板のことも知っておかなくてはなりません。
大阪の仁丹町名表示板は、京都市のようにたくさんは残っておりませんが、設置された当時はたくさんあったように思います。

それは、現存する町名表示板が大阪市内の広い範囲から見つかることでもわかります。
設置時期が、大阪特有の許可証(「仁丹町名表示板大阪市の場合」 リンク先参照)を参考にするならば、昭和26年3月16日。これは戦争も終わって6年たっています。もっと残っていても良さそうなものなのに。

ですが、大阪は京都のように住所が通り名ではないところから、町名が変われば、古い看板は、ややこしいだけの邪魔者になってしまいます。昭和40年3月、大阪市は住所の表示をわかりやすく合理的に改める『住居表示に関する法律』を施行し、その中で仁丹町名表示板は、舞台を去らなければならなかったのでしょう。


~昭和40年新しい住居表示の整備(写真で見る大阪市100年より)~


そう考えると、今ある大阪仁丹町名表示板は、歴史のすきまをくぐり抜けた貴重な生き証人とも言えます。今回のように、消滅を免れ、埋蔵していただいていたことは、ほんとうに奇跡と言えます。ありがとうございました。

※     ※     ※


今回ご提供のデータ3件を入れて次のような表をつくりました。
ここで言う赤仁丹・黒仁丹ですが、京都市では商標の色使いは1種類なのに対し、大阪市では2種類が確認されています。「赤仁丹」とは大礼服の中の仁丹なる文字が赤色のもの、黒仁丹とはそれが黒色のものを私たちはそう呼んでいます。



ご覧のように現在のデータからは、赤仁丹と黒仁丹は区毎に基本的に使い分けされていることがわかります。これらをさらに地図で表すと次のようになります。




ちなみに、京都市では同じ商標でもその位置が上に描かれているのと下に描かれているのがあり、それぞれ“学区”というかつての小学校の通学区域毎に顕著に分かれているのですが、そのことを思い起こさせます。( 「永遠のテーマ 商標の上と下」 リンク先参照)

なお、旭区においては次のように赤仁丹と黒仁丹の両方が見つかっています。



他区においても、今はまだ見つかっていないだけで、もしかしたら両方あったのかもしれません。今後のデータの“発掘”が待たれるところです。

~京都仁丹樂會 ゆりかもめ~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 08:48Comments(1)トピックニュース

2015年02月14日

西千本町 無事戻る!


去る1月下旬、突然姿を消し、そして、そのおよそ2週間後には某有名ネットオークションに出品されてしまった、西陣の西千本町の仁丹町名表示板。

オークションも終了し、その後どうなってしまったのかと心配されている方も多いのではないかと思います。

でも、ご安心ください!警察が頑張って捜査をしてくださり、またそれを応援する方のお力もあって無事に戻ってきたのです!さらには、近々、再設置される模様です。

とりあえずこの件についてはホッとしましたが、これですべて解決という訳にはいきません。
この近辺ではまだ10枚ぐらいが行方不明のままですし、年末からの盗難騒ぎのおかげで下京区では盗難を恐れて埋蔵化されてしまったものも複数あることが確認されました。

現役であってこそ意味のある、価値のある仁丹町名表示板、安心して堂々と掲げられる環境に早く戻って欲しいものです。

京都仁丹樂會

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 23:14Comments(4)トピックニュース