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2017年07月11日

仁丹樂會 大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(4)

~ 加茂町とともに生きる工場 ~


1917(大正6)年2月、仁丹第二工場は瓶原村井平尾で操業を開始しました。

井平尾の第二工場の全景*1

*樹木の成長、増改築などから昭和期の工場の模様


仁丹の原料生産実績は、操業翌年にはすでに年産16万トンレベルに達していました。

大正期の生産は一部「毒滅」の原料生産も入り混ぜておよそ年12万〜16万トン、日産では360~500トン。男子16~19人で操業する工場としては、かなりの生産能力を保持していたようです(『瓶原村文書』)。
昭和初期の仁丹粉末製造量*2は、大正期の半分程度に減少しています。
昭和5年 12,466貫(4万6700トン)
昭和7年 8,601貫(3万2300トン)
昭和13年 24,703貫(9万2600トン)
*2 『瓶原村統計要覧簿』より

この昭和13年当時の瓶原村の産業別生産額構成*2を見ると、農産物48.1%、工産物44.2%であり、隣村の当尾村がそれぞれ90.1%、1.5%に比して、際立って工産物の生産割合が高く、工業村としての瓶原村を特色づけるものです。

ちなみに、この工産物44.2%のうち、10.3%が仁丹粉末であり、森下1社で瓶原村の工産物の生産価額の比重を高めていたことがうかがわれます。
こうして製造された原料粉末は、大阪の第一工場にトラック輸送されました。


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太平洋戦争の戦局がしだいに悪化していく中、学童疎開に関して仁丹のエピソードを一つ。昭和20年3月、京都市伏見区の砂川国民学校と左京区の第四錦林国民学校の学童(第一次に83名、第二次に98名)が、加茂町、瓶原村、当尾村に集団疎開しました(『加茂小学校沿革史』、『恭仁小学校沿革史』、『第四錦林小学校沿革史』)。このときの瓶原村に疎開した砂川校の寮舎の献立をみると、

(昭和20年4月「学童集団疎開ノ綴」(『瓶原村文書』)より

まさに一汁一菜で、動物性たんぱく質は週一回の魚のみ。主食は少しの麦飯で、疎開児童に対する特別配給がなされていたものの十分ではなく、児童は常にお腹をすかしていました。そのときに、「仁丹などの薬まで食べた」といいます。仁丹が薬でなく、なんと子どものお腹の足しに使われたという悲しい時代を、第二工場に働く人たちはどのように思ったのでしょうか。 


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終戦から8年経った夏。戦禍を潜り抜けてきた第二工場に最大の苦難が訪れます。昭和28年8月14日夜、雷をともなった豪雨が南山城地方を襲いました。和束川上流で400ミリを越える豪雨が降り、和束川流域の土々平では上流集落から流れでた土砂と川の泥流によって、川と耕地の境目がなくなり、府道の不動橋も流出しました。

上:水没する船屋付近 下:西の集落



同時に下流の井平尾の第二工場が激しい濁流によって、岩盤ごとえぐりとられて建物の大半が倒壊。和束川に架けられていた鋼鉄製の仁丹橋は飴のように曲がりました。やや下流にあった国道163号線の菜切橋も流されました(八月災)。

和束川に崩落する第二工場


さらに、災害復旧の最中、9月25日の台風13号で山城地区に再び水害が到来。八月災より被害は少ないものの、二カ月もたたない二度目の被害に住民は二重の苦痛を味わうことになりました(九月災。『加茂町文書』)。和束川は山地から木津川までの距離が短く、しかも山が急であるので、山林から土砂が流出しやすい状況にあったことと、明治初期以来、頻繁に近代砂防工事がおこなわれ、山林の保護に尽力されたものの、太平洋戦争中に山林が乱伐され、この山林の荒廃が水害をここまで深刻にさせた遠因だったようです。



災害復旧には、流出家屋の罹災者に住宅を確保するため、京都府は災害府営住宅の建設に着手し、加茂町には10戸が割り当てられました(『京都新聞』昭28・10・28)。このうち、社宅を失った第二工場従業員5世帯が「昭和二十八年府営災害住宅管理の特例」にもとづく加茂町長の推薦によって特別入居しました(『加茂町文書』)。



この八月災と九月災を合わせた昭和28年南山城水害を、地元の方は「二十八災(にじゅうはちさい)」と呼び、教訓として今日まで語り継がれています。


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昭和30年頃には新しい工場、橋、堰の形ができてきました。再建にあたっては、当時の森下仁丹は大企業であるのと、村が誘致した企業が罹災したことから、府や国からも相応の補助が出た模様です。昭和32年頃には、被災前を上回る生産体制を確保しました。昭和38年頃になると、原料粉末の生産拠点としての役目はほぼ終えていた模様で、それ以降は、倉庫、原材料の保管場所として、細々と操業していたようです。やがて、昭和50年の大阪玉造工場の新装完成により、第二工場は閉鎖されました。現在も工場跡地は森下仁丹が所有し、草刈などの手入れはされていますが、仁丹橋の老朽化などもあって、今では橋の入口付近で門扉を閉ざし、ひっそりと佇んでいます。
参考文献: 『加茂町史 第一巻〜第五巻』




さて、次回は、いよいよ、奈良仁丹の探検記です。お楽しみに!
masajin
  

2017年06月24日

仁丹樂會 大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(3)

~ 加茂町に仁丹がきた ~

 加茂町の井平尾付近の風景がわかったところで、本題の「どうしてこの場所に工場を建てることになったのか」というお話しに入りましょう。今回の主役は森下博薬房の森下博社長と加茂村の土橋芳太郎村長の二人です。

 森下博薬房では、1908(明治41)年に大阪市玉堀町に第一製薬場を建設し、仁丹の一貫生産をおこなっていましたが、原料の製粉を担当する専用工場の必要に迫られていました。明治末~大正初めにかけて工業化が急速に進み、電気や蒸気機関を利用した動力が台頭してきましたが、設備・維持費はまだまだ高価なもので、新工場の主目的が「粉ひき」ということもあり、森下は水力による低コストの動力源を府内外に求めていたようです。
 一方、加茂町には、酒造業を営みながら1907(明治40)年9月から1915(大正4)年9月まで京都府会議員を務めた土橋芳太郎がいました(『京都府會史 大正時代資料』)。土橋は、府会の実力者で、決算調査委員長などに就き、殖産や数理に明るく、また、木津川の改修工事、恭仁大橋や笠置橋の架橋、久世橋の堤防修築などを指揮し、いわば河川利用のプロでもありました(『京都府議会歴代議員録』)。森下が製粉工場の用地を模索していた明治末~大正初期は、加茂町では郡是製糸の木津進出など、町域内産物に原材料を求めた各種の会社・工場がつぎつぎに創設された産業発展の萌芽期でもありました。同時に、鉄道の開業とともに、貨物保管および運送業、運輸会社の設立も相次ぎ、大阪から見て、加茂地区はもはや商圏内となっていたようです。

明治~大正期創立の会社・工場(加茂村)
  酒造業で土橋芳太郎の名前が・・・・


明治~大正期創立の会社・工場(瓶原村)
   森下第二製薬場で森下博の記載が・・・・

(各村『現勢調査簿』、『統計調査』、『京都府勧業統計報告』、『京都府統計書』より)


 この時代、府会実力者の土橋と、経済界の名士であった森下が、役職上で何らかの接触の機会があり、水利を求める森下の土地探し相談に、水利専門家の土橋が「それなら、我が地元にいいところがある」と、紹介を兼ねた誘致を進めたという場面が想像されます。このあたりのいきさつは、京都府立山城郷土資料館(ふるさとミュージアム山城)の田中淳一郎さんと木津川市教育委員会文化財保護課の芝野康之さんのお話を参考にさせていただきました。ありがとうございました。

山城郷土資料館 / 木津川市役所


 製粉用のタービンには大きな水力が必要ですが、木津川では水運や川幅の問題で堰造成が難しく、その点、木津川沿いの自然堤防の微高地であった瓶原地区には、距離が短いが水量豊富な川がいくつかあり、その中でも比較的流れの大きな和束川に白羽の矢が立てられたのでしょう。ただ、和束川といっても、井平尾より上流ではすぐに隣村の和束村(現在の京都府相楽郡和束町)に入るので、土橋としてはぎりぎり出自の加茂町側にせざるを得なかったのでしょう。それが現在の第二工場跡地です。

木津川側から微高地の瓶原方面をのぞむ


 土橋は、大正4年9月には府会議員を退いていますが、森下との話し合いから工場建設に至るまでの時期は現職府議として誘致に介入し、また、退任翌年の1916(大正5)年8月から1919(大正8)年1月までは加茂村長に就任していることから、1917(大正6)年2月の操業からフル生産に乗る時期の第二工場には行政責任者として関与をし続けたことでしょう。
 このように、井平尾での第二工場の建設は加茂町サイドの強い誘致によるものでしたので、誘致条件としてはかなり森下に有利なものであったことが想像されます。
 次回は、操業を始めた第二工場の生産の様子や最大の危機であった大水害、さらに加茂町との共生についてみていきましょう。
参考文献:『加茂町史 第一巻~第五巻』

masajin

  

Posted by 京都仁丹樂會 at 15:56Comments(0)トピックニュース仁丹に見る近代史

2017年06月15日

仁丹樂會大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(2)~ 工場跡周辺を訪ねる

前回のidecchiさんレポートで、「森下仁丹の第二工場」(建設当時の名称は「森下博薬房の第二製薬場」)の今昔の様子がわかりました。
そうなると次に、「どうして大阪の製薬会社があの場所を第二の工場に選んだの?選ぶにあたって誰と誰がどんなやりとりをしたの?あの場所で何をどれくらい造っていたの?そしてそもそも、あの切り立った場所に工場って建てられるの?」
………こんな疑問が出てくるのは当然ですね。これから3回にわたって、順次その謎を深堀りしていきましょう。


まず、最初に、もう一度地形を詳しく見ていきましょう。




国道24号の泉大橋から木津川の上流方向です。実にゆったりとした眺めです。




次に、樹木で見にくいですが府道44号の恭仁大橋から見た和束川と木津川の合流部です。




加茂町井平尾付近では、左から右に続く国道163号から府道5号が左に分岐します。三叉路向こうの家屋と山の斜面の間を和束川が左から右に流れています。




右奥に架かる菜切橋から和束川上流を見ると、この川が豪雨時に橋脚を超える勢いになるとはとても思えませんが、昭和28年8月の水害で流出を経験しました。第二工場はこの奥手です。




三叉路を和束川沿いに約500m遡上した対岸(左岸)の草地が第二工場跡地です。昭和28年の水害で流出したあとに付け替えられた二代目の仁丹橋も健在です。




この橋の真ん前に井平尾の道標がついています。この府道は大津、信楽に通じています。




ここからさらに100m上流に、第二工場の取水用に作ったと思われる高さ5m程度の堰があります。現在ではすっかり砂防ダムですね。




堰には取水口跡もあり、この水が製粉用タービンを回しました。




さらに、取水口から対岸に沿って第二工場への取水路もかろうじて残っています。




堰から200m遡ると、そこはもう和束町になり、つまり、第二工場は加茂町と和束町の境の、かろうじてぎりぎり加茂町、という場所に建てられたという、何やら訳あり話になりそうです。
こうして、第二工場の周辺の状況がわかったところで、では、どうしてこの、決して利便とはいいがたい場所に大阪の製薬会社がやってきたのでしょうか?このお話は次回に続きます。
masajin

  

2017年06月05日

仁丹樂會、大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(1)

わたしたち仁丹樂會では毎月一回定例会議を開いておりますが、5月は例会に代えて「大人の遠足」と題し、丸一日かけて現地調査を実施してきました!その様子をお届けします。


朝8時、東本願寺前に集合したのは滋ちゃん、ずんずん、ゆりかもめ、たけちゃん、masajin、idecchiの総勢6名、車2台に分乗して出発しました。
最初に向かったのは、京都府相楽郡瓶原村(現:木津川市加茂町)にあった「仁丹第二工場」の跡地です。創売からわずか数年で日本を代表する家庭薬となり、海外輸出も増加する中で(「明治期の新聞にみる仁丹広告(3)~海外進出と仁丹広告~」)、急増した生産量に対応するため、現在本社がある大阪玉造の第一工場だけで手狭となった森下仁丹は、製粉専門の第二工場を建設し、手作業で行っていた原料生薬の粉砕を、水力を利用した大規模な動力粉砕に一新することを目指しました。1917(大正6)年に完成し、和束川沿いの山間に張り付くように建てられた六百坪あまりの工場では、200メートル上流のダムから取りこんだ水を工場まで引き、ドイツシーメンス社の水力タービンでつくられた150馬力の動力が、500もの石臼を動かしたといいます(『森下仁丹80年史pp.60-61』、『仁丹須知』)。




森下博薬房[1921]『仁丹須知』より


京奈和道の終点木津インターから、国道163号を木津川に沿って上っていくと、有名な海住山寺、恭仁京跡などの歴史的スポットが続きます。そこからさらに府道5号線で和束町へ向かう少し手前、和束川の渓流沿いに工場跡はありました。この工場は1953(昭和28)年8月の集中豪雨で和束川が氾濫した際、いったん崩落してしまいます。その後再建され、1975(昭和50年)までは工場が存在していたようですが、現在はただの広場のような土地が広がっています。定期的に草刈りが行われているようでした。


上の写真左奥にみえるのが府道から工場跡地に渡ることのできる橋です。その名も「仁丹橋」。




敷地内には謎の物体が…。




こちらよく見ると、タイル張りのなかに何かタービンのようなものがついています。
何とこれ、第二工場の写真に載っている150馬力の原動機と同じではありませんか!『仁丹80年史』によれば、動力を電機や蒸気機関とせず、この水力タービンを用いたことにより安価な動力利用が可能となったそうで、同種のタービンは当時の日本でも珍しく大規模なものとして注目されていたとのことです。

森下博薬房[1921]『仁丹須知』


工場の対岸には、何やら石組みのようなものが…。


この石組、当時川にかけられていた橋の基礎部分です。現在の「仁丹橋」は昭和28年の水害で工場が崩落した後になってから新たにかけられた橋で、大正時代に工場が新設されたときには、このような立派な橋がかけられていたとのことです。

森下博薬房[1921]『仁丹須知』


工場跡地の入り口には、森下仁丹により「仁丹発祥の地」というブリキ板が取り付けられていましたが、かなり昔のもので傷みがひどく、曲がっている有様…。ささやかながら補修をし、訪問記念「仁丹工場跡」プレートを新たに取り付けて来ました。






**************

訪問してわたしたちが感じたのは、「なぜこのような場所に?」という疑問でした。山間の川沿いに張り付くように切り開かれた土地ですし、そもそも大都市まで運ぶにはあまりにも交通の便が悪そうな場所です。両工場の地理関係をgoogleマップに起こすと次のような感じになります。


『仁丹80年史』では、製粉を人力から動力粉砕に切り替えるという第二工場の建設は明治末から構想されており、その条件を満たす場所を探した結果、この土地が選ばれたとあります。この工場でのプロセスを経て、製粉された原料はトラック便で生駒山を越え第一工場に送られたそうです。また、建設に当たっては、ダムの建設で遡上できなくなるアユの稚魚を毎年10万尾上流に放流することなど、地元住民との交渉による信頼関係の構築が図られたそうです。


これらの文面を見ると、第一工場に相対的に立地が近く、かつ、水量が豊富で動力取水の便のよさそうなこの場所をあえて選定したように受け取れますが、このあたり、もう少し当時の事情を知る関係者の方からの情報が必要そうです。
そこでMasajinさんが早速現地の専門家への聞き取りを行ってくれました!その結果は次回!

京都仁丹樂會 idecchi

  

2015年09月29日

旧大宮通 探索記 その3

旧大宮通 探索記 その3

旧大宮通の探索記、最終回です。
第1話では旧(元)大宮通を歩いてみた様子、第2話では並行する大宮通を歩くとともに過去の地図も検証して、次のような変遷を経たことが分かりました。



それでは公称表示を頑なに守っていた仁丹町名表示板は、この近辺ではどのような表記になっていたかを調べてみましょう。

過去現在の記録には、次の数字のポイントに仁丹町町名表示板がありました。





先ずは「旧大宮通」に直接面した仁丹には次のようなものがありました。


      旧大宮通中立売上ル梨木町
      旧大宮通上長者町下ル藤五郎町
      旧大宮通下長者町上ル藤五郎町

いずれも1本目の通り名として「旧大宮通」を採用しています。

そして、旧大宮通から東西に少し入ったところでは、次のようになっていました。


      中立売通旧大宮東入飛弾殿町
      上長者町通旧大宮東入常陸町
      上長者町通旧大宮西入藤五郎町

いずれも直近の縦の通りとして「旧大宮通」を採用しています。

一方、大宮通はどのようになっていたでしょうか。
同じ表記のもの2枚ではありますが、大宮通に直接面していたものとして、次の2枚がありました。


      大宮通上長者町上ル和水町
      大宮通上長者町上ル和水町 

1本目の通り名として「大宮通」を採用しています。

そして、東西に入ったところでも次のように縦の通り名は「大宮通」でした。


       中立売通大宮西入新元町
     10 下長者町大宮西入清元町

余談ですが、10番の仁丹、下長者町通の「通」の字が抜けていますね。職人さんが書き漏らしたのでしょう。

肝心の“新大宮通”と呼ばれていた一条~中立売間におけるデータが欲しいところですが、あいにく把握されておりません。“大宮通中立売上ル糸屋町”などといった仁丹町名表示板がきっと存在したであろうと思うのですが。

以上から、琺瑯製仁丹町名表示板では「旧大宮通」と「大宮通」とは全く別の通りとして認知していたことが分かります。琺瑯製仁丹町名表示板が設置されたのは大正15年~昭和4年の間であり、第2話でご紹介したとおり大正2年の地図ですでに大宮通と元大宮通とが書き分けられていましたから、当然と言えば当然のことでしょう。


※     ※     ※


それでは、当ブログで度々参考にしている昭和3年の京都市告示第252号には今回の大宮通や旧(元)大宮通について何か記載があったのでしょうか? 調べてみると、次のようになっていました。


旧大宮通もしくは元大宮通の名称については、すでに整理済なのかその名はありませんでしたが、ここでは大宮通について定義されていました。
旧名の箇所に大宮通が3区間に分けて表示されています。①は上京区の今宮神社御旅所から二条城の北まで、②は二条城の南から九条通までと特に疑問などは浮かびません。
注目は③です。大徳寺通もかつては大宮通と呼ばれていたことでしょう。


※     ※     ※


昔の地図を見てみましょう。
日文研所蔵地図データベースにある「實地測量亰都市全圖(明治35年)」などが分かり易いかと思います。


日文研所蔵地図データベース「實地測量亰都市全圖(明治35年)」より

↑ 青い文字をクリックすると、当該地図にリンクします


先の告示における①の大宮通北端である上京区の「若宮竪町104」というのは地図のポイントA、現在で言うところの今宮神社御旅所の南西交差点付近と考えられます。

同じく告示の③でいう旧名大宮通の南端である「建勲道若宮横町131」はポイントB付近と考えられ、そこから大宮村のメインストリートCとなって北へ北へとクネクネと御園橋に通じています。市街の碁盤の目の中の大宮通の延長とは決して言えず、大宮村側から見て京のまちの大宮通に通じているといった意味合いの“大宮通”だったのではないでしょうか。それが、告示第252号により「大徳寺通」と名称変更されました。

一方、現在、京都市で一番長い商店街と言われる「新大宮商店街」を貫く現在の大宮通はまだこの地図では現れていません。地図のポイントAから北へとまっすぐ続く大宮通のことです。昭和に入ってからの区画整理で登場します。
非常に興味深いことに、このエリアでは商店街のある大宮通のことを“新大宮通”、大徳寺通のことを“旧大宮通”と呼ぶこともあり、今回テーマとした西陣界隈の“新大宮通”、“旧大宮通”と相通じるものがあります。

次の写真 ↓ がその“新大宮通”です。左上の商店街の幟にその名が見えます。



そして、次の写真 ↓ が大徳寺通です。京都らしからぬ、曲線を描きながらの通りが続きます。



※     ※     ※


ところで、大徳寺通を改めて歩いて驚きました。なんとここでは“旧大宮通”なる名称が今も健在なのです。電柱のプレート、神社の解説板、町内に掲げられた住宅地図、などすべて旧大宮通なのです。むしろ、大徳寺通の名称を見つけることができませんでした。


↑ 大徳寺通の電柱のプレート



↑ 久我神社の解説板



↑ 町内に掲げられた住宅地図


とりわけ電柱のプレートについては、先の地図のBポイント、すなわち大徳寺通の南端ですでに「旧大宮」で登場、大徳寺のすぐ横でも旧大宮、結局のところ上賀茂と西賀茂の分岐点であるDポイント近くまですべて旧大宮となっていました。ちなみに“新大宮”通における電柱は「大宮」となっています。このエリアでは公称の「大徳寺通」に対し、通称とも言うべき「旧大宮通」に完全に軍配が上がっているのでありました。

※     ※     ※


以上、仁丹町名表示板にある『旧大宮通』なる表記から端を発した探索でした。今回は一部現状と一致しなくなった表記の表示板、あるいは間違っていないが今となっては意外な表記の表示板のように、仁丹町名表示板自体がかつての京都のまちの姿を教えてくれるということにはなりませんでした。つまり、琺瑯製仁丹町名表示板の設置当時も現在も、上京区の旧(元)大宮通界隈のまちの姿は変わっていなかったという結論に終わりました。それでも今まで抱いていた疑問はすっきり解けました。(かと思えば、北区では新たな“旧大宮通”が登場したわけですが。)
他にも京都には『旧○○通』という名称が散見されます。これらと仁丹町名表示板との関連も調べれば何か面白い発見があるかもしれませんね。

~おわり~

~京都仁丹樂會 shimo-chan~



【参考】過去の関連ブログ記事
(青い文字は当該記事にリンクしています)

●現状と一致しないことで、忘れかけた近代史を教えてくれる仁丹町名表示板

七本松通について
七本松通 ~仁丹町名表示板に見る近代史~

今出川通について
仁丹町名表示板 「設置時期」 ④ヨンヨンイチの検証 道路編
日本交通学会エクスカーション

智恵光院通について
智恵光院通(1/4) ~仁丹町名表示板に見る近代史~

六条通について
六条通 1/3 ~仁丹町名表示板に見る近代史~


●今となっては意外な表記で、忘れかけた近代史を教えてくれる仁丹町名表示板

西中筋通について
堀川通・西中筋通 ~仁丹町名表示板に見る近代史~

花屋町通について
3つの花屋町通 ~仁丹町名表示板に見る近代史~

東山線通について
東山線通の謎 1/3 ~仁丹町名表示板に見る近代史~
  
タグ :旧大宮通


Posted by 京都仁丹樂會 at 08:28Comments(0)仁丹に見る近代史

2015年09月16日

旧大宮通 探索記 その2

旧大宮通 探索記 その2


「旧大宮通 探索記 その1」では、現在で言うところの元大宮通、すなわち旧大宮通をその北端である一条通から、南端である下長者町通までを歩いてみました。それでは、「旧大宮通」と並走する同じ区間の「大宮通」はどのようになっているのでしょうか? 次のイメージ図のAポイントおよびBポイントからの光景は以下のようになります。



先ずは一条通と中立売通間の中間地点であるAポイントからの眺めです。
次の写真 ↓ は北側を望んだ光景です。道幅は旧大宮通とは違い随分と広くなっています。右手の木々の繁るところが名和公園です。



同じくAポイントから南を眺めると次の写真 ↓ のようになります。



正面の白っぽい建物の前を横切るのが中立売通なのですが、そこを境に大宮通がきゅっと狭くなっているのが分かります。ちなみに信号機の右側の粋な建物は西陣のハローワークです。

※     ※     ※


中立売通を横切り、さらに下がったBポイントからの眺めはというと、この写真 ↓ のようになります。旧大宮通と同様の道幅です。昔ながらの通りなのでしょう。




このように、大宮通の一条~下長者町間では、中立売通を境にしてその北側と南側とでは全く違う顔を見せます。またその一方で、「旧大宮通」が並行して存在していることになります。これらの関係を道路の幅を強調して示すと次のイメージ図 ↓ のようになります。



いかがでしょう? 何となく大宮通と旧大宮通の関係が分かってきたような気がします。

元々は東西に多少の段ズレを起こしながらも南北を結んでいた大宮通のうち、一条~下長者町間では何らかの理由でその段ズレが解消され、南北まっすぐに繋がるようになった。そしてその新しいラインに大宮通の名を譲り、従前の大宮通は旧大宮通と称されるようになった。

そのような推理が成り立ちそうです。そのキーはやはり不自然に広い一条~中立売間にありそうです。

※     ※     ※


推理の裏を取ろうと資料を漁りました。
しかし、そのままズバリ記されたものはまだ発見できずにいます。ただ、複数の資料からちょうどこの辺りに「和泉町(いずみまち)通」なる名称の通りが存在していたことや、中立売通を境として北を「新大宮通」、南を「和泉町通」と称していた時代があったことを窺わせるものはありました。

そして、和泉町通については、「角川日本地名大辞典26京都府上巻」に次のように紹介されていました。
『京都市上京区聚楽学区内を大宮通に沿い南北に通じる通り名。・・・<中略>・・・大宮通のうち北は中立売通から南は下長者町通の部分を称していた。名称は、現在「和水(わすいちょう)」の町名が残るように聚楽第の周池であったことによる(坊目記)。』

また、一条~中立売間が不自然に広いことについては、「西陣・千両ヶ辻文化検定試験」に出題されているのを見つけました。出題者は、まいまい京都でガイドとしても活躍しておられる仲治實さんでした。その回答を要約すれば“千両ヶ辻の南側は古来より聚楽第城郭の影響で行止りになっていたが、明治32年のチンチン電車が中立売通を走るようになり、京都市の道路拡幅整備事業の一環として立ち退きにより現在の姿となった”とあります。電車の開通と関係していたとは思いもしませんでした。
ちなみに、チンチン電車とは、明治33年5月7日に中立売通を走ることになった京都電気鉄道株式会社のことで、後の京都市電北野線のことです。道路拡幅整備事業はその前年になされていたのかもしれませんね。

以上のことを、またまたイメージ図としてまとめると次のような ↓ 経過になるのではないでしょうか。

変遷イメージ図


※     ※     ※


一方、当時の地図ではどのようになっているのでしょうか? 上のイメージ図のようになっているのでしょうか? このような時に頼りになるのが、国際日本文化研究センター(日文研)の地図データベースです。

国際日本文化研究センター http://www.nichibun.ac.jp/ja/
所蔵地図データベース http://db.nichibun.ac.jp/ja/category/syozou-map.html
-青い文字の部分をクリックすると当該のサイトにリンクします(以下同様です)-


中立売通にチンチン電車が走り出した明治33年前後の地図を見てみることにしましょう。

先ずは電車開通前の「京都市図(明治28年)」からの抜粋です。


~日文献所蔵地図データベース「京都市図(明治28年)」より~


黄色い矢印の通りが、現在の旧大宮通を含んだ当時の大宮通です。東西に段ズレを起こしながらも南北を繋いでいることが分かります。そして、通り名は何も表示されていませんが白い矢印の通りが和泉町通のはずであり、赤い矢印の部分に注目すると共進織物会社なる建物の存在で北端が中立売通で止まっています。角川日本地名大辞典が記述する状況と一致します。

それが電車開通2年後である「實地測量亰都市全圖(明治35年)」http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2400.htmlになると和泉町通の北端が中立売通を突き抜け“新大宮通”が出現、南北がまっすぐ繋がるのです。ただし、この地図、やや不鮮明なので、今回の説明範囲においては内容的に全く同じである「京都市実地測量地図(明治42)」をここでは例として挙げておきます。

~日文献所蔵地図データベース京都市実地測量地図(明治42)より~


赤い矢印の箇所がいわゆる“新大宮通”で、名和長年碑の文字から名和公園の位置も分かり、現在私たちが見ている光景と同じになったことが確認できます。そしてこの“新大宮通”により従前の大宮通の東西への段ズレも解消されました。ただし、今回テーマとしているところの旧大宮通が相変わらず大宮通と表示されたままであり、新たに開通した新大宮通にも旧来の和泉町通にも何の名称も記されていません。

それが「京都市街全図(大正2年)」では、新大宮通が「大宮通」に、従前の大宮通が「元大宮通」と変更されています。


~日文献所蔵地図データベース「京都市街全図(大正2年)」より~


ところで、今までご紹介した地図では新大宮通、和泉町通の表現がどこにも出てきませんでしたが、和泉町通の表記のある地図も一応ありました。


~日文献所蔵地図データベース「実地踏測京都市街全図(明治44年)」より~
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/002754836-o.html


松屋町通と(旧)大宮通との間に「和泉町」なる表現が見られます。ただ、横神明~一条間の表現、すなわちあの広い空間が表現されていないなど疑問な点もあるのですが、そのあたりは真実をリアルタイムに切り取った航空写真との違いでしょう。

ところで、ついでに分かったことがありました。
次の写真 ↓ は一条通から北方を眺めた大宮通です。あの不自然に広くなっているところです。誰が見ても、左(西)側に大宮通がそもそもあって、右(東)側が何等かの理由で広げられたと考えるでしょう。しかし、意外なことに事実はその逆だったようです。右端(東側)が元々の大宮通であって、その西方が拡幅されたのでした。




以上、大宮通と旧(元)大宮通の関係を地図から検証してみましたが、その経緯は先の変遷イメージ図を裏付けられると言えるでしょう。


それでは、公称にとことん忠実だった仁丹町名表示板はこの近辺ではどのような表記になっていたのでしょうか? 次回はいよいよ仁丹町名表示板を見てみたいと思います。

~つづく~

~京都仁丹樂會 shimo-chan~
  
タグ :旧大宮通


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2015年09月10日

旧大宮通 探索記 その1

旧大宮通 探索記 その1




最初、何と読むのだろうと思いましたが、は「旧」の旧字体である「舊」のさらに俗字でした。したがって、写真の仁丹は「旧大宮通」という訳です。

仁丹町名表示板を求めてホウロウしていると、時折「旧」とか「元」などという表現に出くわすことがあります。本家、総本家、元祖などの語句と同じく何となく好奇心が湧くというものです。

今回は、以前よりずっと気になっていた「旧大宮通」について探索してみることにしました。旧というからには元祖大宮通?なのだろうかと。
3回に分けてご紹介します。


現在の地図によれば上京区を南北に通り抜ける大宮通のうち、一条通~下長者町通間で1本東に並走しているのが旧大宮通となっています。イメージとしては、次の図のようになります。


先ずは、現地を改めて歩いてみました。千両ヶ辻とも言われる今出川大宮から大宮通を下がっていきます。間もなく一条通だというところで、今までの一方通行の狭い大宮通に突如として、このような ↓ 広い空間が出現します。



写真の正面、黄色い矢印が大宮通、横断歩道が横たわるのが一条通です。そして今立っている場所が横神明通であり、横神明~一条間だけがこのように不自然に広くなっているのです。てっきり、戦時中の建物疎開かと思いましたが、京都市の「建設行政のあゆみ 京都市建設局小史」別添資料「建物疎開跡地利用計画図」には記録はなく、そうではなさそうです。理由は他にありました。詳細は続編で。

※     ※     ※


次に一条通を東に入り、初めてのT字路が旧大宮通の北端です。そこから南を望んだ旧大宮通はこんな ↓ 感じです。道幅は狭く、比較的古い町並みが残っています。町名で言えば下石橋南半町、庇町、梨木町界隈です。




もう少し下がっていくと右手に石柱に取り囲まれた公園があり、そこに京都市の広報板がありました。その住所表示も「旧大宮通」となっています。





この公園、石の鳥居もあって神社のうに見えるのですが、後醍醐天皇の側近となった武将、名和長年がこの地で足利尊氏軍と戦い討死した場所で、長らく「チョウ塚」と呼ばれていたものを明治時代に遺跡とされたところです。





そして、さらに昭和13年、同じ側近であった楠木正成に比べて知名度が低いのが残念と、地元の有志により石碑も建てられ公園として整備されたそうです。時あたかも太平洋戦争突入前夜、「大日本國防婦人會」の文字も見られ、戦意高揚の場としても使用されていたのであろう当時の面影も残っていました。




旧大宮通をさらに下がるとすぐに比較的広い道路と交差します。中立売通です。京都電気鉄道が明治33年にチンチン電車を付設した道路です。後の京都市電北野線です。ここに旧大宮通を冠した仁丹町名表示板が現存します。




上京区旧大宮通中立売上ル梨木町


※     ※     ※


中立売通を渡り、さらに旧大宮通を下がっていきます。今までと同様の道幅で続いていきます。




そして、上長者町通と交差した後、下長者町通で次の写真のように突き当りとなります。
ここが旧大宮通の南端です。




この付近に、旧大宮通と表記のある仁丹町名表示板がある一方で、京都市の広報板や電柱は「元大宮通」となっていました。








ちなみに、現在の一般の地図では「旧大宮」ではなく「元大宮」が使用されています。京都市の「京都市指定道路図提供システム」でも「元大宮通」となっていますので、今では元大宮通と呼ぶのが一般的なようです。

以上、とりあえずは旧大宮通を北端から南端までおよそ400mを歩いてみた様子です。
次回では、旧大宮通と大宮通との関係をひも解いてみたいと思います。

~京都仁丹樂會 shimo-chan~


~つづく~
  
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2014年11月13日

仁丹に見る近代史 ~東一条通~



仁丹と関係あるの?というような写真からスタートしますが、ここは東一条通の西の端、鴨川です。ということで、「仁丹の語る近代史」シリーズの今回のテーマは「東一条通」です。


↑ 東一条通 川端通から東方面を望む


京都のまちを歩いていて、不自然に広い道路に出会うことがしばしばあります。
東一条通も例外ではありません。
東大路から西へ歩けば、順に、イタリヤ会館、大学関係の洋館、旧左京区役所、第四錦林小学校、松井酒造、そして川端通に突き当たり、その向こうは鴨川です。

そして、通りに面して次のような仁丹が見られます。




シリーズの今までの話の流れからすると、不自然に広い通りは戦時中の建物疎開跡地を利用した道路だ、それを仁丹町名表示板が教えてくれる、となるのですが、ここ東一条通は当てはまりませんでした。鴨川に通じるので、てっきり消防道路としての建物疎開かと思ったのですが。

したがって、今回の仁丹はこじつけです。特に関連はありません。
強いて近代史に結びつけるならば、昭和3年の京都市告示252号で万里小路通が鞠小路通に名称変更となり、仁丹は新名称を使っているという程度でしょうか。

※     ※     ※

実は、東一条通が広い理由は、明治から大正にかけて行われた三大事業において、市電を通すつもりが実現できず、予算の付いた道路拡幅だけで終わってしまったからなのです。

次の資料をご覧ください。
大正3年に発行された「京都市三大事業誌〔図譜〕」にある、「電気軌道線 路線図」です。




赤く太い実線が三大事業により開通した市電の路線です。
市電のネットワークが誕生しつつありますが、まだ北大路通も西大路通もなく、北辺は今出川通の一部で終わっています。そして、この地図の北東部に点線で示された何やら違和感を抱くエリアがあります。

その東北部を拡大すると、次のようになります。


赤い点線が太いのと細いのと2種類ありますが、いずれも計画段階であることを示し、東大路丸太町から北上、百万遍に行くことなく東一条通で左折、そのまま東一条通を進み、なんと鴨川を渡って河原町通へ出て、次は今出川まで北上して烏丸今出川まで来ている既成線に接続しようというものだったのです。

そして、この2種類の点線、凡例によると太い点線は「未成線」として示されており、細い点線は「未特許計画線」と区別されています。これは、鉄道は自由に敷設できるものではなく国の認可が必要であり、後者の未特許計画線というのは、認可が下りていないという意味なのです。

では、認可が下りていないその理由は何かというと、帝国大学理工科物理教室で使われる電流計に、電車の電気が影響を及ぼすという申し立てがあったからだそうです。(思文閣出版 「みやこの近代化」 東北の欠けた循環街路 伊從勉 より)

このようなことから、三大事業で計画された東一条通の市電敷設は結局実現されませんでしたが、道路の拡幅だけは予算が組まれていた関係で先行してしまい、現在のような不自然に広い道路の出現となったのでした。(同じく 「みやこの近代化」 より)


なお、冒頭の鴨川の写真における画面中央は、橋が架かり市電が走っていたかもしれない空間だったのです。架橋計画は昭和2年の都市計画でも認められ、ずっと残っていましたが、平成22年の都市計画全体の見直しにともない、とうとう架橋計画は廃止されました。


↑ 東大路より鴨川方向を望む

~京都仁丹樂會 shimo-chan~


  


Posted by 京都仁丹樂會 at 21:39Comments(0)仁丹に見る近代史

2014年07月22日

新町通花屋町 上る?下る?



今回のテーマは、再び花屋町通です。
この写真は、東本願寺の西側、新町通を北に望んだ光景です。すぐ前に写っている左へと進む通りは花屋町通です。地図によっては「旧花屋町通」と表示されていることもあります。

京都の中心部では下図(左)のように東西南北の通りがいずれも一箇所で正確にクロスしているのが一般的ですが、たまに下図(右)のように少しずれて交差している場合もあります。多少のズレならば、上る下る/東入西入の通り名を組み合わせた住所表示は何ら支障はないでしょうが、このズレが大きくなるといささか問題が起こってきそうです。



それが、今回のテーマとした、新町通を境に南北に大きくずれる花屋町通です。
次の地図は、仁丹町名表示板が設置された昭和初期の新町通と花屋町通の状況です。


~京都市都市計画地図(大正11年側図 昭和4年修正側図)をベースに加工~

戦時中の建物疎開跡地を利用した、新町~堀川間の「新花屋町通」はまだ開通しておらず、花屋町通が新町通で大きくズレていることが分かります。
なお、一般の地図ではこの新花屋町通を花屋町通と表記し、従前の花屋町通を旧花屋町通と記していることも多くありますが、あくまでも正式な花屋町通は今でもこの地図のとおりの段ずれ状態のものを言い、新花屋町通は新町~堀川間のみです。「京都市認定路線網図提供システム」を見るとよく分かります。
でも、これらはあくまでも公称上の呼び方であって、連続性のある新花屋町通も当然に花屋町通だと認識するのが自然でしょう。

この様子を模式図的に表すと次のようになります。



※     ※     ※

さて、ようやく本題です。上の図の赤丸のエリアは、
  「新町通花屋町下る」  「新町通花屋町上る
のいずれなのでしょうか?

当時の様子が知れる「京都市明細図」では新町通の東西とも8軒前後の家があったことが記されており、それは今もあまり変わっていません。

「上る」でも「下る」でも、どちらも間違いとは言えないでしょうが、でも、新町通を北から南へ下がって来た人は「新町通花屋町上る」という表現で、最初に出くわす花屋町通(新町の東側)を越えることはしないのではないでしょうか?
逆に南から北へ上がって来た人は「新町通花屋町下る」の表現で、初めて出くわす花屋町通(新町の西側)を越えることはないのではないでしょうか?

では、仁丹町名表示板ではどのようになっていたのでしょう。その疑問を解いてくれる手掛かりがないかと調べてみました。次の図と写真をご覧ください。


とりあえず7枚ですが、この他にも埋蔵仁丹が少なくとも2枚あります。それにしてもこのエリアに9枚とは付け過ぎですね。“広告益世”の域を越えているような気がします。

さて、注目は④と⑤です。新町の西側の花屋町通を基準に「上る」と「下る」を決めています。まさしく、「上る」「下る」の“分水嶺”みたいです。
現在は④の仁丹はありませんが、かつての状況は次の写真のとおりでした。


                   
当会会員の滋ちゃんがずっと以前に花屋町通(新町の西側)から新町通に向かって撮ったものです。左が④、右が⑤です。

と言うことで、肝心の①と④の間の仁丹がもっと見つからなければ「上る」「下る」の実態は分からないようです。
ちなみに、埋蔵仁丹2枚のうちの1枚はコレです。現在は森下仁丹さんの資料室にあります。


まさに注目の「花屋町上る」なのですが、どこに設置されていたのか分からないのが残念です。仁丹の設置時は東本願寺の北側も花屋町通と認定されていたわけですから、そのラインよりも北側の艮町にも設置可能だったわけです。

※     ※     ※


以上のとおり、結局のところ仁丹町名表示板からは疑問を解くことはできませんでした。
そこで、この近辺の他の町名表示板を参考までに見てみると、次のような状況でした。



14の比較的新しいライオンズクラブさんの表示は、新花屋町通を花屋町通、本来の花屋町通を旧花屋町通と認定したかのように記載されています。1の学林町などは、両方の通り名を併記していて象徴的です。いずれも公称からは逸脱して、通称を使っていることになりますが、分かりやすいことは分かりやすいというのは事実ですね。

56は京都市の広報板です。
5は新花屋町通に面しているにも関わらず花屋町通です。困ったことに役所も公称を逸脱しています。でも、その法則に従うならば、新花屋町通のすぐ北にある6も花屋町通を使わなければならないはずですが、ずっと上の六条通から”下る”となっています。新花屋町通が開通していなかった時代ならば、六条下るという表現が相応しかったのかもしれません。それをそのまま踏襲しているのでしょう。結局、京都市の広報板は地元からの要望をそのまま受け入れているという印象を、他の地域の例からも受けます。

次に7は仁丹、8はアリナミン,910は中京堂のパンがスポンサーのものですが、いずれも本来の花屋町通を採用しています。公称どおりです。

最後の1112は、道路の標識です。さすがに同じ役所とは言え、広報板とは管理者が違うようでばっちり公称どおりです。

※     ※     ※


以上、結局のところ、新町通花屋町上る?下る?の疑問は解けませんでした。
ただ、昭和初期、いくら役所が公称を定めようとも周囲にお住いの方々にとっては長年、新町~堀川間だけが『花屋町通』だった訳ですから、おそらくは段ズレをおこしている区間は気持ちとして”花屋町通上る”だったのではという思いが強くなりました。
いずれにせよ、現在では「花屋町通」「新花屋町通」「旧花屋町通」の公称・通称入り混じった興味深いエリアではあります。住所表示を頼りに初めて訪れる人は、色んな表示に出くわして混乱するでしょう。これも京都の近代史のひとつであることを仁丹町名表示板を通して知ることができました。

~京都仁丹樂會 shimo-chan~

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 22:49Comments(2)仁丹に見る近代史

2014年03月23日

智恵光院通(4/4) ~仁丹町名表示板に見る近代史~

智恵光院通の最終回です。

前回は、かつて聖天町通なる通り名が存在していたこと、またその聖天町通は寺之内から上立売までの区間は智恵光院通と名乗っていたこともあり、2本の智恵光院通が存在した時期があったらしいことなどが分かりました。

さて、今回のスタートはここ↓、智恵光院通と寺之内通との接点からです。


立派な町家が正面に横たわる印象的なポイントです。ここに仁丹町名表示板があっても不思議ではないのですが、誰も確認できていません。
また、長らく智恵光院通の北端とされてきましたが、今は左(西)へ60mほど進めば道幅がかなり狭くなるものの再び智恵光院通が登場、北上して大徳寺へと導いてくれます。

※     ※     ※

さて、振り返って180度反対の南を望むと、このような↓光景が広がります。ガラッと雰囲気が変わります。上立売通を上がった辺りの伊佐町です。



かつてここに、次の仁丹がありました。20年以上前に当会の滋ちゃんが撮影したもので、今は建物ごとなくなってしまいました。



※     ※     ※

さらに下がって五辻通界隈です。
やはり歩道が備えられた広い道路ですが、西側は古い家並みが散見されました。


ちなみに、床屋さんの角にある2本の石柱は、かつての国旗掲揚台でしょうか?
刻まれた文字は何も見当たらないのですが。

※     ※     ※

次は今出川通を越え、中筋通、元誓願寺通と通り過ぎ、笹屋町通までやってきました。


この付近から少し西側にシフトするものの、これと言って代わり映えのない光景が続いてきました。正直言って、京都らしからぬ殺風景な道路です。

上京区を歩いていて出くわす、違和感のある、不自然な広さの道路。これが多くの方が持っている智恵光院通の印象ではないでしょうか?

※     ※     ※

実はここも戦時中の建物疎開の跡地を利用したものだったのですね。次の資料のとおりです。


~「建設行政のあゆみ 京都市建設局小史」別添地図「建物疎開跡地利用計画図」より~

赤、濃い青、緑の箇所が建物疎開に遭った場所です。
寺之内通から笹屋町通までは東側が、笹屋町通から下立売通までは西側が立ち退かされていることが分かります。
先ほどの笹屋町通付近の写真は、この資料の真ん中に「205」という数字が見えますが、ちょうどその辺りの写真です。智恵光院通が西へシフトしているのはこのためだったのでしょう。
ちなみに、水色の部分は第4次疎開計画として指定されていた箇所でしたが、終戦によりギリギリ難を逃れました。

仁丹町名表示板を探し求めてのまち歩きですが、このような状況ですから今回は期待はしていませんでした。冒頭の、智恵光院通を冠した伊佐町の仁丹町名表示板は奇跡的に残っていた貴重なものであったことが分かります。

※     ※     ※

笹屋町通を通り過ぎ、間もなく一条通に差し掛かろうというところにあるのが通り名の由来となった「智恵光院」です。



駒札には建物疎開で境内が随分と小さくなったことが書かれていました。



ちなみに、ここ智恵光院前之町にも「上京區智恵光院通一條上ル智恵光院前之町」なる琺瑯仁丹がかつて存在していたことが分かっています。

※     ※     ※

中立売通に出てきました。相変わらずの光景が続きます。



さらに南下するも、やはり同じ。山里町、須浜町、下山里町と続きますが仁丹町名表示板の存在は今まで誰も確認できていません。



※     ※     ※

そして、下長者町通との交差点で東側に現れるのが辰巳児童公園です。


何の変哲もない、普通の児童公園にしか見えないのですが、そこにはこのような石碑が建てられていました。戦時中の空襲の記録を後世に伝えるものでした。



京都市における空襲で最も被害の大きかったいわゆる西陣の空襲の、まさにここが中心地だったのです。



このの箇所がB29から投下された爆弾が落ちた場所なのです。

“京都は空襲に遭っていないから”とか、“あったが規模は小さかった”などと口を滑らす人を見かけますが、当時の凄惨な体験談を聞いたり読んだりしたら大いに反省されることでしょう。現在の光景からはとても想像できないことばかりです。

当時の様子は、例えば次のような文献に詳しく紹介されています。
 「戦争のなかの京都」 岩波ジュニア新書644 中西宏次
 「出水校百年史」 出水校百年史編纂専門委員会
 「語りつぐ京都の戦争と平和」 戦争遺跡に平和を学ぶ会 つむぎ出版

もちろん他にもまだまだあるでしょうが、文章のみならず、その場を通る人たちに永久に訴え続ける石碑の役割の大きさも実感しました。

※     ※     ※

「出水校百年史」では爆弾の落ちた場所として、亀木町、山本町、天秤丸町、秤口町、金馬場町、田村備前町などが挙げられています。石碑のの箇所がそれなのです。

そして、その様子は「京都市明細図」にも明らか表れていました。これら空襲の被害を受けた町内と建物疎開の跡地が色付けされないまま、ぽっかりと抜け落ちているのです。


~京都市明細図NW50より~

↑ 地図をクリックすると京都府立総合資料館の当該明細図にリンクしています


智恵光院通に沿うこの近辺は、建物疎開と空襲のダブルパンチを受けたことになります。このうち天秤丸町と秤口町以外は今も仁丹町名表示板が残っており、当時の様子を知っていることになります。

とりわけ出水通の金馬場町の仁丹は智恵光院通の名が入っており、まさに惨状を目の当りにしてきた証人のように見えます。劣化の激しさの原因は何なのかわかりませんが、ボロボロになってでも訴え続けているように思えてなりません。





※     ※     ※

出水通からもう少し下ると、智恵光院通のかつての南端である下立売通へと辿り着きました。
今回の話題の出発点に戻ってきてゴールです。

ここにも空襲の記憶を語り継ぐためのものがありました。山中油店さんの店頭です。庭に飛んできた爆弾の破片が展示されているのです。





そして、その傍らにも仁丹町名表示板が寄り添っているのでありました。


以上、4回に分けての智恵光院通探索記でした。最後の区間は戦争色の濃い話題となりました。

~おわり~

京都仁丹樂會 shimo-chan
  


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2014年02月28日

智恵光院通(3/4) ~仁丹町名表示板に見る近代史~

智恵光院通の3回目です。
前回は大徳寺前から智恵光院通を下がり、鞍馬口通を越えたあたりまでのお話しでした。

さて、今回は智恵光院通をさらに南下し北区から抜けて、上京区へと入ります。公称としては必ず通り名を使わなくてはならない上京区です。もし、この通りに面して仁丹町名表示板があるならば、必ず「智恵光院通」なる表記を最初に書かなくてはなりません。

しかしながら、仁丹は存在せず、すぐに東西の通りである廬山寺通と交差してしまいました。

かつてこの近辺で見つかった仁丹町名表示板は、廬山寺通智恵光院西入に「西社町」が、同じく東入に「中社町」がありました。次の2枚です。


おやおやどうしたことでしょうか? いずれも智恵光院通の名が出てきません。

「西社町」は“聖天町西入”となっています。聖天町通なる名称を持った通り名がかつて存在したのでしょうか? 確かに近くに聖天町はあります。
一方、「中社町」は “大宮西入二丁目” とずっと東にある大宮通から導いています。

ちなみに「西社町」のこの仁丹、かつてこのお寺(徳寿院)に設置されていました。


過去形にしなくてはならないのは、盗難に遭ったからです。仁丹の跡が日焼けせずに残っているのが写真からお分かりいただけるかと思います。その後、ネットオークションに流れ、今はとある有名な琺瑯看板研究家の手元にあります。

※     ※     ※


智恵光院通が出てこない、同様の現象は、もう1本南の交差点近辺でも見受けられました。
あいにくこの東西の通りには名称がないのですが、西入に「歓喜町」、東入に「西千本町」があります。このうち「西千本町」に次のような2枚の仁丹がありました。


またまた智恵光院通の存在を無視するかのように、遠くの大宮通から導いています。それもわざわざ ”上がって、西入って2丁目” です。
ちなみに左側の仁丹は家の建て替えのため姿を隠しましたが、町内で大切に保管されています。いつの日か再び現役復帰するかもしれません。

※     ※     ※


さて、この近辺の様子は次の地図のとおりです。


~京都市都市計画地図「船岡山」昭和4年 より~


青いラインは実線も点線も含めて、現在で言うところの「智恵光院通」です。
の西社町の表記に使われている聖天町通とは赤および青の点線のことだと考えられます。
でも、のポイントには今も聖天町の仁丹がありますが、話の流れからすると “聖天町通上立売上ル” とあって欲しいところですが、「上立売通智恵光院西入上ル」と青い実線の智恵光院通から導いています。聖天町自らが聖天町通を使っていません。聖天町通を使うよりも、上立売通と智恵光院通を使った方が分かりやすいと判断したのでしょうか。

ところで、面白い現象がありました。
青の実線の智恵光院通を南から上がって行けば寺之内通の大猪熊町で突き当り、続きはとなると寺之内通を少し西へ入れば見つかります。

ところが、点線部分の智恵光院通を北から下がってきて、寺之内通と出くわしたところ、ちょうどの箇所に来たとき、当然のことながらそのまま智恵光院通は南へ続いているとしか思えません。その眺めはこのような感じです。


構わずにそのまま直進してみると、のポイントに仁丹ではなくナショナルの表示板ですが、「智恵光院通寺之内下ル聖天町」がありました。
見やすいように改めてアップするとこのようなものです。


色褪せて読みにくいので、色調やコントラストなどを変えて文字を浮き立たせてみました。余談ですが、ナショナルハイファイラジオってあったのですね。

本題に戻りますが、つまり並行する区間で両方とも “智恵光院通” を名乗った時代があったようです。

このことについて前回挙げた『角川日本地名大辞典』では、智恵光院通の項目で
『上立売通からはこの筋の西に並んで北へ大徳寺の門前に至る通りがあり、かつてはこの通りの南端に西陣聖天と呼ばれる雨宝院のあることから、聖天町通と称したが、現在はこの筋も含めて智恵光院通という。』
なる解説が続いているのです。

どうやら本来の智恵光院通はやはり寺之内通までであって、仁丹町名表示板が設置された昭和初期には赤および青の点線部分が「聖天町通」と呼ばれたものの根付くことがないまま、今では「智恵光院通」に組み込まれて大徳寺へ至る通りとなった、そのように考えるとすべて納得できそうです。

~つづく~

京都仁丹樂會shimo-chan




  


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2014年02月15日

智恵光院通(2/4) ~仁丹町名表示板に見る近代史~



智恵光院通探索の続きです。

現在、智恵光院通は、北は北大路通から南は竹屋町通までと紹介され、実際に京都市指定道路図でもそれが確認できます。しかし、実は時代によりまちまちだったようです。

例えば、 『角川日本地名大辞典』では、次のように解説されています。
「江戸期から見える通り名。京都市街西部を南北に走る。北は寺之内通から南は丸太町通まで。 <省略> 江戸初期には出水通、下立売通までで終わっていた。丸太町通までの貫通は昭和以後である。また幕末から明治にかけては、一条通から上長者町通にかけて武家屋敷になったり、そのあとが窮民授産所になったりして閉鎖されていた。 <省略> 」

また、平凡社の『京都市の地名 日本歴史地名体系27』では、
「日暮通と裏門通の間にあり、豊臣秀吉による京都市街改造後に開かれた。北は寺之内通から南は下立売通まで貫通。近世中期頃までは廬山寺通から以南であったらしく、「京羽二重」は「北はろさん寺通より、南へ一条通まで」とする。宝暦12年(1762)刊「京町鑑」も廬山寺通より下立売通までとし、 <省略> 」

といったように北端も南端も時代と共にコロコロ変わっているようです。前回とり上げた南部の変遷も考えれば、まさしく道路は生きているということを実感させます。

※     ※     ※


さて、今回は現在の北端とされる北大路通から南へと歩いてみました。



写真は大徳寺の門前から南を眺めたところです。
中央に延びていくのが智恵光院通、手前左右に横たわるのが北大路通です。
ここが智恵光院通だというような道路標識などは何もありませんでしたが、地図で確認しつつ南へと下がっていきました。

すると、こんな感じです。なかなか趣があります。



でも、智恵光院通なる表示はどこにも見当たらず、間違っていないか改めて地図を確認するほどでした。

鞍馬口通までやってきてようやく仁丹に出会えました。
上京区紫野東藤ノ森町
です。



その後も、この智恵光院通沿いに同じ「上京区紫野東藤ノ森町」が登場します。




現在で言う北区のエリアであり、公称表示どおりなのでこれで良いのですが、智恵光院通も鞍馬口通も名の通った通り名なので、

上京区 紫野東藤ノ森町 智恵光院通鞍馬口下ル

などと“通り名併記仕様”の仁丹が出現しても前例から言って不思議ではありません。
でも、今まで確認できた9枚もの東藤ノ森町の仁丹はすべて“町名だけ仕様”なのです。

※     ※     ※


鞍馬口からもう少し下がると東に入ったところに、かつてこのように隣り合う2枚の仁丹がありました。北区と上京区の境界です。




そのうちの1枚、上京区のものは褪色が激しくてすぐには読めませんが、近づくと

上京区大宮通西裏廬山寺上ル二丁目西入社突抜町

と表記されています。もし智恵光院通を使えば、

智恵光院通鞍馬口下ル三丁目西入社突抜町

となり、“大宮通の西の裏の通り” を基軸に置くより少しは分かりやすいのではと思うのですが、智恵光院通は採用されなかったわけですね。


ちなみに、この隣り合った仁丹があった場所は現在こんな感じになっています。







建て替えにより、北区の東藤ノ森町は消滅、上京区の社突抜町はお地蔵さんにくっ付きました。
状態の良くない個体ですが、綿々と町内で引き継がれている様子は、郷土愛を感じるというものです。


次はいよいよ通り名を使わなくてはならない上京区エリアへと入っていきます。

~つづく~

京都仁丹樂會 shimo-chan

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 07:30Comments(0)仁丹に見る近代史

2014年01月18日

智恵光院通(1/4) ~仁丹町名表示板に見る近代史~



この仁丹町名表示板は、昨夏、佐々木酒造さんの酒蔵に設置させていただいたものです。
その時の詳細は「佐々木酒造さんに仁丹町名表示板設置!」 をご覧ください。
↑ リンクしています

そして、その場所は、次の地図の印のポイントです。確かに「椹木町通智恵光院東入」の場所に合致しています。しかし、実は、この仁丹は元々は印のポイントにあったものでした。

【地図 1】

~「出水校百年史」掲載の地図を加工~


印のところにあった頃の写真が、次のものです。現在で言うところの椹木町通智恵光院西入の場所から、東方に向かっての光景で、白い矢印の箇所にこの仁丹が設置されていました。ですから、表記が間違っているのか、それとも設置場所が移動したとばかり思っていました。



ところが、“智恵光院通の位置が変わったのではないか?”という、まっちゃさんからのご指摘がありました。確かに智恵光院通は広く、しかも中村公園の前で斜めにシフトしているあたり、京都の通りとしては不自然です。これは建物疎開などと関連していそうです。そこで調べたところ、まっちゃさんのおっしゃるとおりであることが分かりました。

※     ※     ※


先の地図1において、水色のラインが現在で言うところの智恵光院通ですが、これと並行する赤いラインの通りが智恵光院通と呼ばれていた時期があったのです。

これについては、の4枚もの仁丹町名表示板が訴えていたことに早く気付くべきでした。いずれも赤いラインが智恵光院通でないと説明が付かない表記です。とりわけ、はまさに赤いラインの通りに面して設置されていたものなのですから。

ちなみに、は現存していますが、は十数年前に当会会員の滋ちゃんが記録したもので現存はしていません。

※     ※     ※


さて、この付近の変遷を調べてみました。
先ず、智恵光院通はそもそも明治になるまでは北端を寺之内通、南端を下立売通とする区間の通りでしかありませんでした。したがって、赤いラインの通りも、また中村公園の横の斜めの通りも存在していませんでした。
当時のイメージは、日文研の所蔵地図データベースにある次の「大正最近実測京都市新地図」がよく表しているのではないかと思います。

【地図 2】

~「大正最近実測京都市新地図 大正2年(1913年)より~
地図をクリックすると日文研の当該データベースにリンクします

ただし、この地図は大正2年発行のもので、明治初期のものではありません。でも、着目しているエリアが明治時代の変化をほとんど補足しておらず、今回の説明には便利なのであくまでも参考として取り上げました。

青のラインで囲んだところがその着目のエリアです。
現在で言えば、二条城北小学校、すなわち元々の出水小学校などがあるエリアで、内側には通りは何もなく、東は日暮通、西は浄福寺通、北は下立売通、南は丸太町通となっています。
そして、北から延びてきた智恵光院通は下立売通でピタリと止まっています。
これが明治当初のこのエリアの姿だったはずです。

また、緑のラインで囲んだところが、地図1におけるの仁丹が集中して設置されているエリアです。

地図2の青のライン内が地図1で示されるような現状へと移り変わっていく様子は、「出水校百年史」(1969年出水校百年史編纂専門委員会発行)に次のように分かりやすく解説されていました。

『智恵光院通
北は北大路通より南は竹屋町通まで。もと南は下立売通までであったが、明治8年(1875)中務町ができたとき丸太町通まで開通し、さらに昭和4年(1929)竹屋町通まで開通した。但し現在では戦時中に開通した西院町の新道の方を智恵光院通とよんでいる。』

以降、下立売通に基軸を置いて各町について解説され、中務町については次のような説明がされています。

『中務町
下立売通下ル出水校周辺をいう。町名は大内裏の中務省・陰陽寮の旧地によるものです。中世は聚楽第の附属地でしたが、のちに徳川幕府の用地となり、明治維新までは所司代下屋敷があったことはさきに述べた通りです。明治3年(1870)地は官に収め、その後民間に払い下げ、同8年(1875)中務町としました。』


また、椹木町通については、
『椹木町通
東は烏丸通りより西は千本通まで。平安京中御門大路にあたり、一つに待賢門通ともいわれた。もと日暮通まででしたが、明治37年(1904)出水校の移転によって千本通まで開通しました。』


と言うことで、地図1における南北の赤いラインの通りは明治8年に生まれ、やや西へシフトするものの、智恵光院通の延長という位置づけが与えられたのでしょう。その後明治37年には東西の椹木町通が開通し、東西がつながったようです。

※     ※     ※


次の写真がその赤いラインで示した旧智恵光院通の現状です。と同時に仁丹町名表示板が設置された当時の智恵光院通です。

  ↓ 下立売通を東から西へ望む 右側が山中油店さん


  ↓ 旧智恵光院通を下立売通から南を望む


  ↓ 旧智恵光院通を丸太町通から北を望む


そして、昭和4年に竹屋町通まで開通したとあるのは、大礼記念博覧会の西会場跡の区画整理により誕生したという意味でしょう。
でも、現在の智恵光院通とは連続性がないので、丸太町~竹屋町間についてはいまひとつイメージが薄いのではと思いますが、確かに地図1のの場所には次のような町名表示がありました。



※     ※     ※


一方、建物疎開については、『建設行政のあゆみ 京都市建設局小史』の別添地図「建物疎開跡地利用計画図」で確認できました。

【地図3】


中央の緑色の部分が現在の中村公園です。赤で記された部分が建物疎開の跡地を道路として使用したことを意味し、ちょうど中村公園の西側が斜めに走っており、現在目の前で見ている次の写真の光景に合致するようになります。



以上が、中村公園近辺の明治維新と第二次世界大戦との影響が混在したまちの姿の移り変わりでした。これも仁丹町名表示板が教えてくれた、京都の近代史ではないでしょうか。

※     ※     ※


なお、余談となりますが、旧出水小学校の横で、こんな ↓ 面白い住所表示を見つけました。
場所は地図1におけるのポイントです。


例の如く京都市広報板です。唖然としました。

のポイントを正しく表記するならばこうなるでしょう。

丸太町通を使うならば   ・・・ 丸太町通智恵光院西入上る中務町
智恵光院通を使うならば ・・・ 智恵光院通丸太町上る西入上る中務町
椹木町通を使うならば   ・・・ 椹木町通智恵光院西入上る中務町

丸太町通と椹木町通との組み合わせはあり得ませんよね。

もし、旧智恵光院通という表現ができるのであれば、"旧智恵光院通椹木町上る中務町"と最もシンプルな表現となります。

※     ※     ※


以上が智恵光院通の第1回でした。4回に分けて紹介させていただきます。以降は下立売通以北の探索です。
すでにお気づきかもしれませんが、智恵光院通の北端は元々は寺之内通だったのが現在では北大路通となっています。このあたり、仁丹町名表示板がどのようになっているか興味のあるところです。

~京都仁丹樂會 shimo-chan~

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 17:33Comments(3)仁丹に見る近代史

2013年10月06日

六条通 3/3 ~仁丹町名表示板に見る近代史~

六条通を西から東へと進み、烏丸通までやって来ました。
もうここで途切れて終わりかと言った雰囲気になるのですが、7,8mほど南へとシフトしてさらに東へと続きます。と同時に、ここにきてようやくその存在を誇示するかのように道路標識も登場しました。




六条通は烏丸通をはさんでガラッとその表情を変えるのです。

次の写真 ↓ の中央の狭い通りが、今まで進んできた六条通です。烏丸通から西を向いた光景です。



そして、この写真 ↓ がこれから進もうとする六条通です。烏丸通から東を向いた光景です。



もう今までの情緒たっぷりの六条通ではありません。つまりは建物疎開の跡地なのです。
正面の白い建物のすぐ手前が南北の東洞院通です。
現在の六条通は東洞院通に出ると、南へ数メートルほどシフトして、さらに東進します。

※     ※     ※


さて、烏丸通を越えて東洞院通まで進んでみました。するとこんな感じです。
手前の黄色いラインで印を付けたのが現在の六条通。
一方、かつての六条通は赤いラインで示したように東洞院を介して北側へと段違いになっていたのです。



その様子は、京都市明細図が一目瞭然で説明してくれています。


~京都市明細図SE05より 地図をクリックすると現物にリンクします~

白い囲みの中を注目してください。
白の ↑ で示した通りがかつての六条通です。緑や赤で着色されているのが戦後も残った家屋。そして、白い囲みの中央を横断する着色されていない帯状の部分が建物疎開の跡であり、黒い線のまま残っているのが撤去されてしまった家屋です。
地図の画像をクリックすると京都市明細図の該当場所にリンクしますので、拡大してじっくり見ていただけます。

※     ※     ※


さて、東洞院通を少し上がり、かつての六条通を進むことにします。すると再び風情のある通りに戻りました。


そして、ありました。ここにも六条通を冠した力強いタッチの仁丹が1枚。


六條通間ノ町西入塗師屋町


門扉に、ここが元祖六条通と言わんばかりに残されていました。いいですねぇ。このような形で大切にされて残るのも。郷土心のひとつの現れに見えます。
さらに応援するかのように、電柱にも「六条通」のプレートが設置されていました。



それでは、今現在の六条通の電柱にはどのようなプレートが付いているのでしょうか? 気になったので、見に行ってみました。
すると「新六条」となっており、あちらが本家ですとあっさり認めているのでありました。



※     ※     ※


再び、本家六条通に復帰し、間之町通を越え、高倉通へとやってきました。左手には明細図にも載っていた高倉幼稚園があります。



高倉を越えてさらに六条通を東へと進みます。なんだか行き止まり?といった雰囲気になります。


電柱のプレートは引き続き六条通となっています。




行き止まりに見えた六条通は、そのまま通り抜けができて、南北を斜めに伸びた富小路通、すなわちかつての下寺町通へと出ることができました。



※     ※     ※

富小路通に出ると、右を見ても左を見ても、六条通の続きらしい通りは見当たりません。
南北にシフトを繰り返して続いてきた六条通ももはやこれまでと言った光景です。
六条通のもうひとつの呼称であった魚棚通が、ここ富小路通を東の端としていたことに納得です。

でも、昭和3年の京都市告示第252号では、この魚棚通とさらに ”市姫通” も加えて六条通にしてしまいました。市姫通とは市比売神社前の通りのことなのでしょう。それなら、この富小路通を今度は北へ数十メートル行ったところです。

その場所が、ここ ↓ です。東側に道が開け、正面は河原町通に当たります。そのすぐ手前には右手に市比売神社があり、左手に1/3で紹介しました六条通を冠した仁丹が2枚あります。


 

ここを六条通の延長とするのはいささか無理があるようですが、2枚の仁丹のみならずライオンズクラブさんの表示板も賛同していました。この界隈では告示第252号のまま元祖六条通が今も生き続けているようです。




そして、いよいよ市比売神社へと辿り着き、河原町通に出たところで今回のミニトリップは終了です。




※     ※     ※


ところで、告示第252号では六条通の起点を”梅湊町”としていましたので、河原町を越えた地点までを指していたようです。
その貴重な様子を滋ちゃんが記録しておられました。次の写真 ↓ です。


六條通河原町東入平居町


以上、ひとまち交流館の前にあって現在の六条通に面しているにも関わらず”上ノ口上ル”となっている仁丹、なんとなく不自然な広さの六条通、市比売神社の前にある六条通を冠した仁丹などから疑問を持った六条通でしたが、結局、仁丹町名表示板の導きによって、戦前の京都のまちの形が分かりました。これもまた、仁丹町名表示板が京都の近代史を教えてくれる好例ではないでしょうか。

~おわり~
京都仁丹樂會 shimo-chan
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 11:10Comments(0)仁丹に見る近代史

2013年09月28日

六条通 2/3 ~仁丹町名表示板に見る近代史~

前回、ひとまち交流館界隈の六条通に興味を持って調べているうちに、改めて六条通を端から端まで歩いてみたくなりました。


ここが現在の六条通の西側のスタート地点です。黄色い ↑ の部分がそれです。堀川通から東に向かって撮っています。
戦時中の堀川通の建物疎開以前は、この画面中央にも町家がいっぱい軒を並べていたことでしょう。

中へ入っていきます。五条通や七条通も建物疎開や拡築される前はこのような狭さだったのでしょうね。とても味わい深いものがあります。




早速、仁丹登場です。


六條通醒ヶ井東入佐女牛井町


「醒ヶ井東入」とありますが、すぐ西側の縦の通りは堀川通にしか見えません。
でも、実は、堀川通の東側歩道がかつての醒ヶ井通だったのです。だから仁丹の表記と設置場所はこれで正しいのです。
建物疎開跡地が堀川通として利用されたとき、この付近では醒ヶ井通が飲み込まれるような形となりました。この仁丹町名表示板はそのような歴史があったことを私たちに教えてくれているのです。

詳細は、『堀川通・西中筋通 ~仁丹町名表示板に見る近代史~』 もご覧ください。青字の部分からリンクしています。

※     ※     ※


東へほんの少し進んだところで、次の仁丹が登場。


六條通油小路西入西若松町

よく見ると、仁丹設置用の台枠が設えてあるのですね。このように大切にされている仁丹を見ると、郷土愛が現れているようにも感じます。

※     ※     ※


油小路通を渡ると、左手に「油小路東入」の仁丹を発見。



六條通油小路東入卜味金佛町


町名には一部ルビが入っています。「卜味金佛町」は “ぼくみかなぶつちょう” と読みます。
この仁丹は六条通を西から東へ歩くと見つかるのですが、逆コースでは見つけることはできません。

さらにほんの少し進むと、今度は右手に卜味金佛町と同じ油小路東入ではあるものの「西若松町」の仁丹に再び出会います。先ほどの西若松町は油小路西入でした。


六條通油小路東入西若松町


地図を見ると、ちょうどこの先の新町通までは六条通が南北の町界になっています。
ここも、建て替えられた後に再び設置されたことが分かり嬉しくなります。

ところで、この仁丹、近づいてじっくり見ると、何だか「六條」の2文字の背後に削った痕跡があるように見えませんか?




傷の様子が分かりやすいようにと色合いやコントラストを変えてみたのが上の写真です。同じようなことは正面通でも散見されました。もしかしたら、最初は「魚棚通」と書かれていたものを、昭和3年の京都市告示第252号によって後に「六條通」へと書き換えたのかもしれませんね。


※     ※     ※


東中筋通に出てきました。ここからの六条通はしばらくの間、カラー舗装に変わります。六条商店街です。



左手が天使突抜四丁目、右手が学林町なのですが、あいにく仁丹に出会うことなく西洞院通へと出てしまいます。

ここで右手を眺めると「西洞院通六條下ル西側町」の仁丹、正面を向くと「西洞院通 六条下る 花屋町上る 東側町」と表記されたライオンズクラブのプラスチック製町名表示板があります。“六条下る” でも “花屋町上る” でもどっちでもいいよというのが、京都の町名表示の面白さです。


西洞院通六條下ル西側町





※     ※     ※


西洞院を越えて、六条商店街をさらに進みます。
錦や古川町のようなアーケードはなく、空の見える庶民的な商店街。この雰囲気、大好きです。



※     ※     ※


次に出会う南北の通りは若宮通です。



保護色になっていてちょっと分かりにくいのですが、黄色い ↑ のところに仁丹があります。


六條通若宮東入上若宮町


仏具屋町通ではなく、若宮通が使われています。

ここで右手を覗くとこのような光景が展開していました。この日は若宮町にある若宮八幡宮のおまつりだったようで、まるで地蔵盆のように子供たちが楽しそうに走りまわっていました。



※     ※     ※


さて、若宮通を過ぎ、六条通をさらに東へと進みますが、次の新町通に出たところで一旦途切れます。真正面にあるのは「白山湯」です。地下水を汲み上げての“天然名水”を謳い、男湯よりも女湯の方が広く、しかも女湯には露天風呂もあるのです。女性贔屓のお風呂屋さんですね。




新町通に出たらほんの少し下がります。


お風呂屋さんのお隣は床屋さんというパターンが多いのですが、こちらは「招福亭」さんという大衆食堂がありました。チェーン店ではないこのような町のお店が美味しいんですよね。出前の“おかもち”もズラッと並んでいてきっと地域の人気店なのでしょう。



※     ※     ※


先ほどの六条通から新町通を20mほど下がると、再び六条通が始まります。



この辺り、先日の「まいまい」の逆ルートとなるのですが、仁丹がきっとあるという匂いがプンプンするものの出会うことはないのです。でも、こんな光景もあってほのぼのとします。六条通って本当に庶民的です。



※     ※     ※

室町通へとやってきました。ここはお馴染みの“三枚が辻”です。




六條通室町西入西魚屋町
六條通室町東入東魚屋町
室町通六條上ル堺町


六條通で始まる2枚は力強いタッチで書かれていますが、室町通のは細くて字配りが良くないですね。書き手が違ったのでしょう。そう言えば、先ほどの「六條通若宮東入上若宮町」から力強い太い字になっています。

室町通を越えてさらに東へと向かうと、右手の新潟旅館さんにも三枚が辻と同じ表記の仁丹がありました。


六條通室町東入東魚屋町


しかし、どうしたというのでしょう? 文字が薄いです。
琺瑯仁丹は褪色性に非常に優れていると常日頃説明しているところですが、実は何枚か、ごく一部ではあるのですが、不思議なことに文字部分の褪色が著しい個体が存在しています。墨の成分か何か原因があるのでしょうね。

でも、先ほどから見ているものと字の太さや筆跡などが変わらないので、同時に設置されたものなのでは・・・と頭を傾げながら歩いていると、今度はすぐに左手に再び力強く濃い六条通の仁丹が登場します。ものすごく力強い筆使いじゃありませんか。


六條通烏丸西入北町


と言うことで、烏丸通までやってきました。




~つづく~

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Posted by 京都仁丹樂會 at 18:10Comments(0)仁丹に見る近代史

2013年09月24日

六条通 1/3 ~仁丹町名表示板に見る近代史~

京都の近代史を教えてくれる仁丹町名表示板、今回のテーマは「六条通」です。
3回に分けてご紹介します。



まちで仁丹町名表示板を見つけても、ただボーと見ているだけではその意味するところに気づきません。まぁ、これは反省を込めて自分自身に言っているようなものなのですが・・・

お酒の好きな人ならばご存知かと思いますが、他のお店では手に入れにくいお酒がこれでもかといっぱい置いてあるのが「名酒館タキモト」さんです。六条通の河原町を西に入ったところにあります。そう言えばこの辺りの六条通はいささか不自然な広さですよね。



そして、六条通と河原町通とが合流するのが、ここ ↓ 「ひとまち交流館」の前です。



この場所から西を向くと次のような光景が見えます。



正面に延びるのが六条通、手前に横たわるのが河原町通です。真ん中奥に少し見える茶色い建物が先ほどのタキモトさんです。そして、黄色の→の箇所に設置されているのが次の仁丹です。


河原町通上ノ口上ル本塩竃町

そもそも、この仁丹を見たときに疑問に思わなくてはなりませんでした。この場所に設置するならば「河原町通六条下ル」であろうと。でも、「上ノ口上ル」なのです。確かに1本南に上ノ口通はありますが、ここは六条通に隣接しているではないですか。

※    ※    ※


一方、この付近で六条通と記された仁丹で思い出したのが、ここ市比売神社でした。



市比売神社の隣や向かい側には、次のような仁丹がありました。





いずれも力強い筆使いで書かれた全く同じ表記です。


六條通河原町西入本塩竃町
    


六条通に設置されていないのに、六条通の仁丹。しかも1枚でなく2枚も。
今までの経験則で言えば、 “これは仁丹が正しい。仁丹は80年以上前からそこでじっとしている。変わったのは周囲のまちなのだ!” というわけです。

同様のことはもう何度か経験しました。七本松通に花屋町通など。

※    ※    ※


やはり、現在の広い六条通は建物疎開の跡地でした。
このとおり、「建物疎開跡地利用計画図」と合致しました。黄色の ↑ の部分が現在広くなっている六条通です。そして、黄色の ← が菊浜小学校、現在のひとまち交流館の場所です。黄色い丸で囲んだ箇所には「六條通」の名があり色も付いていないことから、建物疎開の予定地ではなかったことが分かります。


~『建設行政のあゆみ 京都市建設局小史』 別添地図「建物疎開跡地利用計画図」 より~

この付近の建物疎開の様子は次の『京都市明細図』でも確認することができます。


~京都市明細図SE06より~

黒い線で描かれた建物が戦前はあったが戦後はなくなっているものを示します。現在の六条通は存在していませんし、その部分の寺院の建物も随分と消えていることが分かります。
画像をクリックすると明細図にリンクしていますので、さらなる詳細は現物でご確認いただければと思います。

※    ※    ※


先の昭和3年5月24日の京都市告示第252号では、六条通の旧称は魚棚通と市姫通となっていました。起点は「河原町通梅湊町83‐1」、終点は「醒ヶ井通左女牛井町172」とあります。現在の住宅地図を見ると、前者はひとまち交流館そのものの地番、後者は現在の六条通が堀川通に合流する地点にちょうど残っています。状況が変わっているでしょうから、あくまでも参考程度ですが。


この当時の六条通のルートを次の大正13年の地図に描いてみました。
青いラインがそれです。東西に1本筋の通っていない、段違いを繰り返す線形になっています。だからでしょう、「魚棚」の文字が2か所にご丁寧に書かれています。黄色のラインで示したのが、建物疎開の跡地を利用した現在の六条通部分です。従来よりも少し筋が通りました。この時、路線名の変更がさらになされたことでしょう。
なお、赤の星印が市比売神社の場所で、ここに六条通と表記された仁丹が今も2枚残っています。


~京都衛戍地図(大正13年)より~


※    ※    ※


ところで、ここまで調べて新たな疑問が生じました。

『まるたけえびすにおしおいけ』で始まるかの有名な歌は、『せったちゃらちゃらうおんだな、ろくじょうさんてつとおりすぎ、しちじょうこえれば』と続くわけですが、この場合の六条通って一体どこのことなのでしょう?

“せった”は雪駄屋町通で現在の楊梅通です。“ちゃらちゃら”は鍵屋町通、そして順番から言えば魚棚があって六条となるのでしょうが、この両者はイコールと考えるのでしょうか?

古い地図はどれを見ても六条通の表記がありません。でも、市電北野線には「西六條」なる電停が西洞院正面にあります。上の地図で緑色の ↑ で示したところです。

なんだか、六条通って不思議ですね。


さて、そうこう考えているうちに、六条通を改めて歩きたくなりました。

~つづく~

京都仁丹樂會 shimo-chan
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 21:29Comments(0)仁丹に見る近代史

2013年09月05日

告示第252号の不思議 3/3 ~仁丹町名表示板~

仁丹町名表示板が新旧路線名のいずれを使用しているか? その第3弾です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  <p.168> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



上京区の「妙心寺道」と「上ノ下立売通」との関係では、仁丹はすべて旧名称である「上ノ下立売通」を使用しています。これが7枚もあるのです。

左京区の「春日北通」と「春日通」との関係では、5枚の仁丹すべてが新名称である「春日北通」を使用、中京区の西方である「太子道」と「旧二条通」との関係でも、5枚の仁丹すべてが新名称である「太子道」を使用していました。ちなみに、旧二条通の名称は出世稲荷前のバス停として先日復活したことは記憶に新しいところです。



「春日北通」 「上ノ下立売通」 「太子道」 が使用されている仁丹


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  <p.169> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



このページについてはすべて新旧名称に変更がないので、手がかりはありません。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  <p.170> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



このページはなかなか興味深い情報が満載でした。

先ず、「渋谷通」と「馬町通」との関係では、8枚もの仁丹すべてが新名称である「渋谷通」を使用しています。

昭和4年の都市計画地図でも「魚棚通」と記されている六条通は28枚もの大量の仁丹がすべて新名称の「六条通」を使用しています。ただし、市比売神社近辺にある六条通と記された仁丹は現状と一致していないので、道路の付け替えがあったようです。これも仁丹が教えてくれる京都の近代史、変遷を調べてみようと思います。

長年親しまれたであろう「萬年寺通」も新名称「花屋町通」に統一されています。花屋町通の仁丹はまさに32枚もあります。東部の萬年寺に近い部分だけでも萬年寺通と記されていても不思議ではないのですが、この付近もすべて花屋町通に統一されていました。

「正面通」と「中珠数屋町通」や「御前通」との関連は、『初めてのガイド「まいまい京都」』や『正面通 ~仁丹町名表示板に見る近代史~』   でもご紹介したように、すべて新名称の「正面通」が使用されています。

最後に「醍醐道」と「滑石越道」との関連においても新名称である『醍醐道』が使用されています。



「六条通」「渋谷通」「花屋町通」「醍醐道」 が使用されている仁丹



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  <p.171> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



最後のページです。ここでも新名称である『東寺道』や『九条大路』の使用が認められました。




「東寺道」 「九条大路」 が使用されている仁丹


※     ※     ※


以上、 2 9本の通りにおいて、仁丹町名表示板が新旧いずれの通り名を採用しているのかチェックすることができました。

しかし、そもそも地元ではこの公報が言うような旧路線名を使っていたのでしょうか?
告示前の電話帳で、直近のものとして大正15年8月1日現在のものを見ることができました。そして、半分程度ですが1枚めくりして様子を見てみました。


~ 京都電話番号簿 大正15年8月1日現在 京都中央電話局 より抜粋 ~


確かに旧路線名を多く見かけました。

特に注目していたのは、佛具屋町通と若宮通の関係です。いずれも江戸時代からある名称とのことなので、これらが混在しているのかどうかに関心を持っていました。結果は、若宮通とあるのを1件見つけたものの、佛具屋町通の方がポピュラーだったようです。
仁丹はマイナーだけど新名称である若宮通を使用したことになります。

西高瀬川や東高瀬川、下寺町や万年寺もあります。

市比売神社などは、市姫通下寺町東入なる表現になっていますが、今もすぐ近隣にある複数の仁丹は新名称の六条通が使われています。

正面通に統一される前の中珠数屋町通や御前通も見られますが、佛具屋町通御前通下ルなどは、両方とも旧名称です。

※     ※     ※


さて、仁丹町名表示板の路線名採用結果をまとめると次のような表となりました。




黄色に色付けした通り名が仁丹町名表示板が採用している通り名と、その枚数です。
4本の通りのみが旧路線名で表記されていましたが、圧倒的多数が新路線名が採用されていたことが分かりました。
つまり、告示の内容が色濃く反映されていたというわけです。何か行政からの影響力を感じずにはおれません。

※     ※     ※


琺瑯仁丹のおよそ95%は、その設置時期が大正14年~昭和4年3月31日の間にあります。この期間のうち、最後の半年ほどの間には、昭和3年9月に博覧会、11月に御大典がありました。広告の効果を考えれば、どうせならこれまでに設置を終えたいものです。さらに御大典が終わると分区作業が本格化していきます。中京区や東山区と変わるエリアにわざわざ上京区や下京区と書いて設置していくとは考えにくくなります。

さて、ここからは完全な推測です。推理に推理を重ねているので、何かひとつ覆ると崩れてしまいます。

上記のように考えると、琺瑯仁丹の設置時期は大正14年~昭和3年9月の間という可能性が高まることになります。でも、この3年間のうち、昭和3年5月の告示後4か月間に設置が集中したと考えるのは不自然であり、物理的な困難さも出てきます。

となると、告示前から告示の内容で設置していた、すなわち森下仁丹もしくは同社から請け負った業者は告示の内容を事前に知っていたと考えなければなりません。告示前のことですから、“こうなるはずだ”という見込みの状態ではあったでしょうが。

もしそうであれば、行政と強く結びついていたということになります。木製仁丹の時代にすでにそのような関係が築きあげられていても不思議ではありません。

idecchiさんの発表では、木製仁丹の時代は警察署への届出が必要だったようです。琺瑯仁丹のときも監督行政庁が警察署だったかどうかは分かりませんが、やはり行政への届出と許可が必要だったのだと思います。

公共性を持たさなければ屋外広告をやりにくくなった森下仁丹。
一方、御大典を控え、世界恐慌の中であっても道路の拡築や市電の敷設などハード面のインフラ整備に躍起となっていた行政。でも、全国から多くの人々が訪れることを考えれば、住所表示というソフト的なインフラはあるに越したことはないと考えていたかもしれません。
ここに両者の思惑が一致し、公称表示を遵守することや京都に相応しいデザインなどを条件に、まちの辻辻への設置を認めたと考えてはいかがでしょうか? 公称から外れる記載は小文字で書くなど、公称表示に頑なにこだわっている様子は、何かこのような約束を守っているということをアピールしているかのようです。

こうして、まさにお墨付きを得たと言わんばかりに貼りまくられたであろう仁丹町名表示板。そこには、持ちつ持たれつの関係があったのではないかと近頃考えるようになってきました。

あくまでも推理であり、今後これらを裏付ける資料が出てくるのか、はたまた反証が出てきて打ち砕かれるのか分かりませんが。

※     ※     ※


最後に、興味深い新聞記事をいくつかご紹介しましょう。


~昭和3年6月14日 京都日出新聞より~


御大典記念京都大博覧会の東会場と西会場の起工式の広告です。博覧会は9月20日から始まっています。そのわずか3カ月程度前に起工式とは驚きます。また、この清水組は入札で破格に安い価格を提示し、受注したそうです。

さらに驚いたのは次の記事でした。


~昭和3年8月20日 京都日出新聞より~


三条通の蹴上~東大路間の拡築のためようやく立ち退きが始まったことを報じています。要人の泊まる都ホテルとの関連で必要性があったようです。博覧会の始まる1か月前、御大典までも3カ月を切っています。さすがに、5月の市議会ではやきもきする議員から追及されていたようで、こんな記事もありました。


~昭和3年5月19日 大阪朝日京都版より~


ちなみに、三条通立退開始の記事には奈良電や新京阪の話題も見られます。両者とも御大典までに京都へ届かそうと急ピッチで工事を進めていました。そして、奈良電(現:近鉄京都線)は残念ながら昭和3年11月10日の即位式には間に合わず11月15日に京都まで開通、新京阪(現:阪急京都線)は、わずか9日前の11月1日にかろうじて西院の地上に仮駅を作ってなんとか間に合わせました。さらに、その4日後の11月5日には市電が円町から西院までやってきて、大阪方面からの人出を博覧会西会場、御所、東会場へと運ぶルートがぎりぎりセーフで完成したというわけです。

以上のように、かなり切羽詰まった、余裕のない当時の様子が見えてきます。行政としては猫の手も借りたいほどではなかったのでしょうか。

仁丹町名表示板に関する直接的な記録がない以上、その謎を知るためには、外堀を埋めるように当時の京都のまちの様子を知り、そして仁丹に思いを馳せる、そんな地道な作業を続けていくしかないようです。

~おわり~

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2013年08月17日

告示第252号の不思議 2/3 ~仁丹町名表示板~

引き続き、仁丹町名表示板が告示第252号の新旧路線名いずれを使用しているかの検証です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  <p.162> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



高瀬川を挟んで、東側を東木屋町通や東高瀬川通、西側を西木屋町通や西高瀬川通などと、まちまちに呼ばれていたのでしょう、それを前者を木屋町通、後者を西木屋町通と統一したのかな?と考えました。高瀬川通を用いた仁丹がないことから、おそらくは統一後の名称で表記されているのだろうと解釈して、「木屋町通」の仁丹が7枚、「西木屋町通」の仁丹が6枚あるものとしました。

「河原町通」は今出川通から八条通までの区間を表しています。三大事業で拡築の対象とされた通りです。南北に河原町通、下寺町通、南北貫通道路と呼び方が異なっていたのを1本化したという意味なのでしょう。このうち路線名が変わったと言えるのは下寺町通と南北貫通道路の2本ですが、これがどこを指すのか今一つもやもやしています。次の地図をご覧ください。


↑ 日文研所蔵地図データベース 『最新京都市街地図(大正9年)』 より 



↑ 日文研所蔵地図データベース 『最近実測京都市街全図(大正14年)』 より 


いずれも日文献の所蔵地図データベース(古地図)からです。地図をクリックするとリンクしています。

1枚目の地図では、河原町通を北側から見て五条通を越えて南西へと角度を変える部分を「下寺町通」としています。さらにその1本西側にも同じく「下寺町通」の表記がり、下寺町通が2本あることになっています。

2枚目の地図では、東側の市電の通っている方を「新寺町通」と表現しています。ちなみに「京都市明細地図」では、もう1本東側の京電廃線跡を「新寺町通」としていました。

このとおり、やや混沌としているのですが、いずれにしても告示の旧名称としてあげている下寺町通は、現在の河原町通のうちの五条通よりも南の部分と考えて間違いなさそうです。なお、南北貫通道路なる名称は全く手掛かりはありませんでした。

以上のことから河原町通なる表記の仁丹を比較するのは、五条通よりも南に設置されていたものに限定しましたが、それでも10枚の仁丹が新名称である「河原町通」を使用していました。

「富小路通」の旧名称の欄にも「下寺町通」が登場しますが、これは先の2枚の地図でいうところの、西側にある下寺町通、すなわち富小路通延長線上に位置する通りのことなのでしょう。それらを「富小路通」と統一したものと考えられます。富小路通を使った仁丹は12枚確認できていますが、いずれも五条通よりも北側ですので、ここでは判定には使えませんでした。



「木屋町通」 「西木屋町通」 「河原町通」 が使用されている仁丹



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  <p.163> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



衣棚通のうち、上京区の上御霊前通から一条通までの区間、すなわち室町学区と中立学区を貫く部分は旧名「木ノ下町通」だったとあります。この区間で確認できている仁丹8枚はすべて新名「衣棚通」でした。

下京区の佛具屋町通にいたっては、告示後の昭和4年版都市計画地図でさえもしっかりと「佛具屋町通」と記されているにも関わらず、佛具屋町通の仁丹は1枚も存在せず、18枚すべての仁丹が「若宮通」でした。いずれの通り名も古くから見られるようですので、告示前はいずれがより多く使われていたのか、その実績に興味を持ってしまいます。


「衣棚通」 「若宮通」 が使用されている仁丹



↑ 告示後も旧路線名である「魚棚通」「佛具屋町通」「御前通」のままの都市計画地図「京都駅」昭和4年修正測図



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  <p.164  p.165> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






p.164は新旧変更のなかった路線名が続くのですが、次のp。165にまたがって黒門通が4列分登場します。黒門通は北は今出川の1本南である元誓願寺通から、南は京都駅の近くまで続くのですが、途中、二条城や西本願寺など4つの区間に分断されています。この公報からは最も北の区間は元々「黒門通」と呼ばれていたようですが、それよりも南の他の区間は「新シ町通」と呼ばれていたようです。では、仁丹はどうだったかというと、現在の中京区である区間では旧名の「新シ町通」使用が3枚、現在の下京区である区間では新名称の「黒門通」が使用されていました。
ここに来て初めて旧名称使用の仁丹が登場したわけですが、続く壬生通と坊城通においても旧名称の「坊城通」が使用されていました。


↑ 告示後も旧路線名「新シ町通」のままの都市計画地図「四条烏丸」昭和4年修正測図


最後は「後院通」です。四条大宮から千本三条までの、京都としては珍しい斜めの通りです。余談ですが、市電の千本線は当初、千本三条からそのまま千本通を下がっていく計画だったのが反対に遭い、四条大宮まで斜めに走ることになりました。そして、途中には壬生車庫が設けられたので「車庫前通」と名付けられて納得です。さて、ここでは「下京區 坊城通 後院通 下ル 壬生馬場町」なる仁丹が見つかっています。2本目の通り名に“通”なる文字が付くのはルール違反ではありますが、新名称を使っていると判断できます。それにしても、斜めに走る通りとの交差部分から“下る”という表現も興味深いですね。



「黒門通」 「後院通」  「新シ町通」 が使用されている仁丹




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  <p.166> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



新旧の名称が変わっている路線が多いのですが、仁丹が確認できているのは「下ノ森通」と「相合図子通」との関係のみでした。ここでは8枚の仁丹すべてが旧名の「相合図子通」です。なお、正確には仁丹町名表示板では「相合ノ図子通」と表記されています。、『仁丹町名表示板「設置時期」 ④ヨンヨンイチの検証 道路編』では、これを旧名称ではないかのように説明しましたが、この「相合図子通」に相当するものとして訂正しなくてはいけないようです。



「相合図子通」 が使用されている仁丹



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  <p.167> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



ここでは、仁丹町名表示板に関わるものは「東今出川通」と「今出川通」との関係のみで、6枚の仁丹が新名である「東今出川通」を使用しています。この件についても、『仁丹町名表示板「設置時期」 ④ヨンヨンイチの検証 道路編』で取り上げています。




「東今出川通」 が使用されている仁丹


~つづく~

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2013年08月11日

告示第252号の不思議 1/3 ~仁丹町名表示板~



これは昭和3年7月21日の京都日出新聞の記事です。
丸太町通のうちの聚楽廻り東町2番地から聚楽廻り西町183番地に至る部分を豊楽(ほうらく)通と名称変更する旨を京都市は7月19日付け公報で告示したと知らせています。

豊楽通? 聞いたことありません。ご存知の方おられるでしょうか?

地番の場所が今と同じとは限りませんが、現在の住宅地図によれば丸太町通のうちの七本松~千本間の1本南、わずか東西300m程度の通りではないかと思います。
そこにはちょうど史跡平安宮豊楽殿跡もあることから、おそらく間違いないでしょう。

とにかく現場を歩いてみました。ここがその通りです。



かつて「豊楽通」だったという手がかりは何もありませんでしたが、「旧丸太町通」なる表示が電柱に残っていました。



市電がこの付近を開通したのが昭和3年6月15日のこと、市電開通で新設された通りに丸太町通の名を譲り、代わりに「豊楽通」の名を授けられたのでしょうか?

市電の開業については、次のような記事がありました。

↑ 大阪朝日京都版 昭和3年6月4日 


前年の8月22日から用地買収に乗り出し、10月10日起工、翌年すなわち昭和3年3月31日までに竣工する予定だったようです。”例の如くおくれにおくれ”という表現が、当時の京都市の工事の状況を物語っているようです。
そして、開業日の写真です。場所はどこなのでしょうね?長い工場のような建物があります。

↑ 京都日出新聞 昭和3年6月16日 


そして同年9月からは近くの主税町界隈が御大典記念博覧会西会場ともなっています。
豊楽通の命名は、これら市電の開通や博覧会の開催など、当時の京都のまちの大きな動きと関連していたのかもしれませんね。

これらの変遷は次の都市計画地図を見比べることからも分かりました。


↑ 京都市都市計画地図「聚楽廻り 大正11年測図」より

これは大正11年の都市計画地図です。市電の丸太町線が東からやってきて千本通で止まっています。赤で囲った部分がそもそもの丸太町通で、後の豊楽通だと考えられます。



↑ 京都市都市計画地図「聚楽廻り 大正11年測図 昭和4年修正測図」より

昭和4年の都市計画地図です。市電丸太町線が道路の拡築とともに西へと延びました。ただ、史跡平安宮豊楽殿跡を避けるためだったのでしょうか、やや北へと振られています。また、御大典記念博覧会の西会場跡がぽっかりと白く浮かび上がっています。



↑ 京都市都市計画地図「聚楽廻り 大正11年測図 昭和27年修正測図」より

そして、昭和27年の都市計画地図では御大典記念博覧会の跡地は、現在私たちが目にする姿に変わっています。


もし、豊楽通なる通り名が入った仁丹町名表示板が存在していたのなら、設置時期の裏付けに重要な手掛かりになるところですが、今のところこの通りに面して設置されているのは町名タイプのこの仁丹のみです。



※     ※     ※


さて、興味は尽きませんが、今回のテーマはこの豊楽通ではないのです。
当ブログで何度か引き合いに出している昭和3年5月24日付け京都市告示第252号についてなのです。209本もの区間で通り名の確定や変更をした告示です。時期的にその背景はきっと御大典であろうと思い、その裏付けのため当時の新聞を調べてみました。でも、載っていないのです。京都日出新聞をこの告示の前後3カ月ほど探しました。特に告示のあった5月24日の前後1週間は2度3度、さらには京都日日新聞や大手紙も探してみましたが、何も見つからないのです。

たった1本の豊楽通は告示から2日後に報じられて、209本もの通りについて一切触れられていない。誠に不思議な話ではありませんか。京都歴史資料館の資料室でも尋ねてみましたが、内容が市民生活に密接したものだからそんなはずはなかろう、告示の前後半年分は探すべきだと助言をいただきましたが、告示日からの間隔が開くにつれて気力も失せてしまいました。また、都市計画委員会の議事録も見せていただきましたが、手掛かりは得られませんでした。

当時、市民にどのように広報したのか不思議ですが、それよりも興味のあることは仁丹町名表示板との関わりです。
この告示は、通り名の新名称、旧名称、起点と終点を209本の区間について示しています。中には新名称も旧名称も同じものが多数含まれてはいますが、新旧で変更のあった通り名について、仁丹町名表示板がどちらを使用しているかに注目です。これで、設置時期が絞れないかと考えたのです。

それでは、詳細に検討に入りたいと思います。
先ず、1ページ目に当たるp.160です。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  <p.160> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



ひとつの区間が縦書き1列で示されており、上から順に新路線名、旧名、起点、終点となっています。ここで、ピンク色のマーカーで囲った列は、新旧名称が異なるもの、つまりは路線名が変更されたもので、注目すべき路線というわけです。そして、オレンジ色で塗った路線名が仁丹町名表示板が使っていた路線名、数字がその枚数を表しています。

このp.160では、2本目の路線において新名称の『鹿ケ谷疏水通』が、この起点・終点の間で使用されていたことが1枚確認されています。
同様にそれぞれの区間において、「黒谷西道」ではなく『黒谷通』を使った仁丹が4枚、「吉田山東道」も「廣道」も当該区間で『岡崎通』と表記されているのがそれぞれ1枚と4枚存在していました。確かに昔の地図には広道と記入されていますが、仁丹はこれを岡崎通と表記しているのです。


「黒谷通」 「岡崎通」 が使用されている仁丹


結局、このp.160ではすべて新名称が使われていました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  <p.161> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



次にp.161です。
先ずは東大路通です。百万遍辺りから泉涌寺辺りまでの区間がすでに示されていますが、旧名の「東山通」のゼロに対して、『東大路通』はなんと25枚も確認されています。今も親しまれている東山通なる呼び名は一切使われずすべて新名称というわけです。もし、地元で聞きながら書いたとしたならば、きっと東山通も混じるはずです。このあたり、何かの影響を受けているように感じます。ちなみに”東山線通”については、詳しくは 『東山線通の謎 1/3』をご参照ください。
                                      ↑ リンクしています

『鞠小路通』は漢字が変わっただけですが、これも新名称の表記で6枚の仁丹が確認されています。

その他このページでは、大原道、敦賀街道、師団街道、下鴨本通、鞍馬街道などの通りも見えますが、あいにく仁丹は確認されていません。


「鞠小路通」 「東大路通」 が使用された仁丹


このような手法で順次検証していきたいと思いますが、長くなるので3編に分けました。続きは次回に。

~つづく~

京都仁丹樂會 shimo-chan
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 20:51Comments(2)仁丹に見る近代史

2013年02月25日

東山線通の謎 3/3 ~仁丹町名表示板に見る近代史~

結局のところ・・・

「東山線通」なる仁丹町名表示板が見られた界隈を少し探索してみました。
すると次のような興味深いものを見つけることができました。

先ずは初代徳成橋の欄干の一部のようです。



大正2年5月竣工とありますので、ずばり市電東山線が疏水を越えた時点と一致しています。

そして、満足稲荷神社にも次のような鳥居がありました。
市電が神社の前を走り出して8カ月後、大正2年11月の建立です。



鳥居は市電の開通と直接関係するものではありませんが、地域の方々の気持ちの盛り上がりが見えてきそうです。東寺町通拡幅で立ち退かれた方は複雑な心境だったでしょうが、地域全体としては東山通と市電東山線の開通は好意的に受け止められていたのではないでしょうか。

※  ※  ※


ところで、「東山線通」なる表現は、仁丹町名表示板では確認できましたが、実際のところ住所の表現として使用されてきた実績はあったのでしょうか?

そこで、思いついたのが当時の電話帳です。大正8年の電話帳を見てみました。
すると、次のような発見がありました。

~京都中央電話局発行「京都電話番号簿 大正8年6月改」より~

今回話題にしたエリアでは、
   東山線通三條上ル一丁目
   東山通仁王門下ル
があり、「東山線通」と「東山通」なる表現が混在しています。
また、他のエリアにおいても、
   東山線通古門前上ル
   東山通松原上ル
などと混在はしているものの旧小堀通界隈でも新たに「東山線通」を使っていたケースも発見できました。      

電話帳を1枚めくりで全ページを調べたわけではなく、統計的にどうだったのかまでは言えないのですが、確かに「東山線通」なる表現が使われていたのは事実だったようです。

※  ※  ※


公称表示に頑なな仁丹町名表示板に「東山線通」と記されていると短期間でも公称としての時期があったのかと考えてしまいますが、今のところそのような記録に接することはできず、電話帳のデータからしても、どうやらエリア限定の、しかもその内の一部の人が使っていた通称だったと考えるのが自然なようです。
新たな南北の通りが出現し、それが東山通と命名されたとしても、認知度としては市電東山線の通りといった方が伝えやすかったのかもしれません

市電開通を知らせる京都日出新聞が”三条大橋東四丁目”と表現するように、それまでは東山通が存在しなかったわけですから、現在のような東山三条などと表現できなかったわけです。
ちなみに、大正10年になってからの新聞記事でも、事件現場を伝えるのに”仁王門東山線”としているものもありました。


加茂川を”加茂川筋”と、白川を”白川筋”と通り名に見立てるような表現に似ており、東山線を一種のランドマーク的な捉え方をしていたものと考えられます。


以上、大変長くなりましたが、結局のところ何の解決にも至りませんでした。

そして、
  ・公称を守る仁丹がなぜ「東山線通」なる表現を受け入れたのか
  ・なぜ「東山線通」なる仁丹はいずれも商標が上のタイプなのか
  ・「東山通」なる琺瑯仁丹は1枚も存在しなかったのか
  ・木製仁丹がもしあったのなら、東山線通、東山通、どちらの表現か

というような疑問は、何一つ解説しないまま、謎は謎のまま継続課題となって残りました。


京都仁丹樂會 shimo-chan

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 23:19Comments(0)仁丹に見る近代史