京つう

歴史・文化・祭り  |洛中

新規登録ログインヘルプ


2012年11月21日

堀川通・油小路通 ~仁丹町名表示板に見る近代史~

南区で仁丹の探索をしているとき、非常に不思議な思いをしたことがありました。
この ↓ 仁丹です。



下京区となっていますが、今は南区の西九条池ノ内町です。
町名+通り名の”併記タイプ”で、肝心な部分の傷みがきついのですが、通り名としては
堀川通針小路上ル」となっています。

この仁丹を見たとき、 「えっ!堀川通?ここが?」 と驚いたものです。
場所はちょうど新幹線の南側、次の写真 ↓ の黄色い矢印の箇所にこの仁丹がありました。


ご覧のとおり、私たちの知っている堀川通とはあまりにもイメージが違います。

昭和28年の都市計画地図 ↓ で撮影場所を示せば黄色の矢印の箇所です。
そこは堀川通と言うよりも暗渠化される前の、河川としての「堀川」となっています。
その横に道が走っていますので、ここが堀川通と呼ばれていたのでしょう。


都市計画基本図 「京都駅」 大正11年測図 昭和10年修正測図 昭和28年修正 より

国鉄を潜り抜ける、あの大動脈の堀川通はまだ影も形もありません。

また、油小路通や八条通が広く拡張されているかのように記されていますが、「建設行政のあゆみ~京都市建設局小史~」(昭和58年3月 建設局小史編さん委員会)や「明細地図」によれば昭和28年の時点ではまだこれらは開通していませんので、都市計画地図としての計画という意味なのでしょう。

一方、国鉄以北の堀川通敷地については、予定地らしきものがラインで示され、家屋も密集しているかのように読めるのですが、これも前述の2つの資料からはすでに建物疎開がなされていたようです。
×印が多く見られるのがそういう意味なのでしょう。
 

それが昭和46年の都市計画地図 ↓ になると、次のように変わります。


都市計画基本図 「島原」 昭和38年8月測図 昭和46年11月修正 より


新幹線が開通し、堀川通も現在と同じように出現、JRを潜る辺りから東側へとシフトし、今度は油小路通を飲み込みながら八条通と交差、それ以南では拡幅された油小路通と名を変えます。

ただ、JR以北における堀川通の敷地が、先の昭和28年の地図に示されたものよりも若干西側に変わっています。その分、JRをくぐる際により斜めになったようです。
これは、用地買収などの紆余曲折の結果なのかもしれませんね。

「建設行政のあゆみ」によれば、七条~八条間は昭和35年に着工、”建物疎開後の整備だけにとどまらず、民家の立ち退きと、国鉄東海道本線との立体交差工事などに時間を要し”、昭和39年10月に完成したとあります。
つまりは、疎開跡地だけを利用しているのではなく、新たな立ち退きも必要としていたようです。
すでに戦後だけに、戦時中の非常時のようには立ち退きが容易に進まなかったのでしょう。

さらに、八条~九条間の油小路通拡張は昭和40年着工、昭和42年10月完成しています。
そして、最後は近鉄の高架化による立体交差へと進みました。

この写真 ↓ が八条通と交差し、油小路通へとなるところです。上の地図の赤い矢印の地点からの撮影です。



また、次の写真 ↓ は拡幅後の現在の油小路通を九条の陸橋から北に向かって撮影したものです。


実は、上の写真の黄色の矢印の箇所、すなわち油小路通の西側の面にも仁丹があるのです。
それが、これ ↓ です。


同じく併記タイプですが、しっかりと「油小路東寺道下ル」とあります。

油小路通の拡張は先の都市計画図や「京都市明細地図」によれば、東側の多くの家屋の立ち退きによってなされたことが分かるのですが、この仁丹もそれを物語っています。

*  *  *


さて、話を元に戻すと、先の西九条池ノ内町の仁丹は本来の堀川通の位置を示していたというわけです。

堀川の暗渠化は昭和49年から始まったそうですが、この元祖堀川通をJRを超えてそのまま北上していくと、さらに次 ↓ のような町名表示板が見られました。


仁丹ではありませんが、「堀川通」とあります。

さらに進むと、ここにも堀川通が健在です。



ただし、この写真 ↑ の隣り合わせの2枚の表示板は設置場所が左右逆でないと矛盾するのですが、とりあえずこの通りが堀川通であると認識されている、もしくは認識されていたことは間違いなさそうです。
現在の地図では西堀川通と表現しているものもあります。確かにこの方が支障がないと思います。

*  *  *


以上のように、仁丹町名標示板の表記と現実とのギャップをきっかけとして、京都のまちの近代史をここでも仁丹が教えてくれたというわけです。  


Posted by 京都仁丹樂會 at 22:10Comments(0)仁丹に見る近代史

2012年11月19日

堀川通・西中筋通 ~仁丹町名表示板に見る近代史~



ここは堀川正面。
堀川通を、西本願寺の反対側の歩道を北に向かって歩いています。
歩道の上に、そして正面通を跨ぐように総門がそびえている、ちょっと不思議な光景です。

仁丹町名表示板に見る京都の近代史第三弾、またまた下京区です。
先日の「まいまい京都」のガイドをきっかけに、このエリアにいささか深入りをしてしまいました。

さて、話はもう少し南側から始めます。
七条通から堀川通を北上し、北小路通と交わるとき、次のような仁丹に出会います。





北小路通西中筋東入丸屋町。 状態も字も非常に美しいですね。
でも、「西中筋通を東入? あれ? ここは堀川通だけど・・・」
と先ずは違和感を抱きます。
そして、その下にはライオンズクラブの標示板があります。



こちらは、 堀川通北小路上る丸屋町。 これなら納得です。

北上を続け、先ほどの総門を通り過ぎると、お香の老舗「薫玉堂」さんのビルに仁丹とライオンズクラブの町名表示板が一緒に掲げられています。




ご丁寧なことに2枚も、と最初は思いましたが、よく見ると表現が違っています。

仁丹は、西中筋通正面通上ル堺町
ライオンズクラブは、堀川通正面上る堺町 です。

またもや「西中筋通」の登場です。何やら曰くありげです。
どう見てもここは堀川通なのに・・・

さらに上ると、西中筋通が次々に現れました。ただし、これらはいずれもマジックによる追記です。でも、だからこそのこだわりを感じます。





*    *    *


西中筋通の歴史をご存じの方には、大変回りくどい説明となりましたが、実は今歩いているこの歩道こそが、かつての「西中筋通」だったのです。

そもそも西中筋通は、六条通~七条通間を堀川と並行して南北に走る550m程度の通りでした。それが、堀川通が西本願寺の北で東へとシフトする際に、西中筋通を飲み込み、堀川通の歩道にしてしまったというわけだったのです。

しかし、六条通~新花屋町通間、およそ100mについては現在も西中筋通は残っています。
次の写真 ↓ がその残存部分です。新花屋町通の手前から北方を撮ったものです。



逆に残存する西中筋通から南を向いて撮ったのが、次の写真 ↓ です。
堀川通が右側から突如として押し寄せ、西中筋通の延長線上が堀川通の歩道になっているのが分かります。


堀川通が西本願寺の北で東側にくねっとシフトしていく様子は、次の写真 ↓ のとおりです。



この写真は、天明年間(230年ほど前)に創業なさった表具の宇佐美松鶴堂さんから撮影させていただきました。
実は、「まいまい京都」の西寺内コースに参加させていただいたときのものです。
ちなみに、写真の左には新選組が一時期屯所として使用した太鼓楼が写っています。

*  *  *


西中筋通の残存区間をさらに北上してみると、真正面、すなわち西中筋通の始点に仁丹が見えます。次の写真 ↓ の黄色の矢印の個所です。


そこは六条通に面しているので、仁丹の住所表記は六条通で始まるのでしょうが、南北の通り名はどのようになっているのかと興味をそそられます。もしかして、西中筋頭?
近づいて見てみると、そうではなく、醒ヶ井東入でした。



醒ヶ井通は堀川通の1本東です。なるほどと納得しかけましたが、左側にすぐ見えるのは堀川通なのです。

地図を見ると、確かに醒ヶ井通は堀川通の1本東なのですが、それは五条通までであって、それよりも南では堀川通が東へとシフトし、醒ヶ井通をすでに飲み込んだ状態で、西本願寺の北までやってきていたのでした。
西本願寺前では西中筋通がそうであったように、その北側では醒ヶ井通も同じ運命を辿っていたのですね。

昭和28年の都市計画基本図では次のようになっていました。


都市計画基本図 「京都駅」 大正11年測図 昭和10年修正測図 昭和28年修正 より

今のような堀川通はまだ姿を現していません。
西本願寺の前にそれらしきスペースがありますが、これは明治時代にできた西本願寺独自の火除地です。その南北は家屋が密集しているかのようにこの地図では表されています。

しかし、実はこの火除地の南北の家屋は建物疎開が実施されていたようです。
それは「建設行政のあゆみ~京都市建設局小史~」(昭和58年3月 建設局小史編さん委員会)や「京都市明細地図」により確認できるところです。
火除地南部の現在の堀川通敷地の各町に×印が付されているのが、そういった意味なのかもしれません。

と言うことで、決して昭和28年の状況を正確に表している地図ではなさそうですが、醒ヶ井通の位置はしっかりと確認できました。この地図で赤い矢印のポイントが、”西中筋頭”にある先の佐女牛井町の仁丹設置場所です。
設置当時としては、「六条通醒ヶ井東入」で何ら支障なかったですし、むしろ当然だったことが分かりました。


次 ↓ は、昭和46年の都市計画基本図です。
すでに、堀川通の整備が終了している状況が分かります。醒ヶ井通は地図の上からも姿を消しました。西中筋通なる表示は歩道上にあります。

都市計画基本図 「島原」 昭和38年8月測図 昭和46年11月修正 より


戦時中の建物疎開は4次に亘って行われました。
ただし、昭和20年8月の第4次については着手するやすぐに終戦となっています。
この堀川通については最も規模の大きかった第3次で実施されています。着手されたのは昭和20年3月のことで、五条通や御池通とともに実施されました。

戦後は、これら建物疎開の跡地が荒れ放題だったそうで、「建設行政のあゆみ」にはその様子として次のような写真 ↓ が紹介されています。



戦後、他都市では同様にして生まれた疎開空地帯を元の所有者に返還するなどしたそうですが、京都市の場合は逆に大幹線道路として整備することを選択、堀川通については昭和28年3月になってようやく七条~鞍馬口間が完成したと記録されています。
かつての都市計画事業では道路の拡幅がなかなかできなかったのが、皮肉にも戦争により予定外の大幹線道路が一気に出来上がったことになりました。

<参考文献>
「建設行政のあゆみ~京都市建設局小史~」(昭和58年3月 建設局小史編さん委員会  


Posted by 京都仁丹樂會 at 07:12Comments(2)仁丹に見る近代史

2012年11月04日

正面通 ~仁丹町名表示板に見る近代史~

仁丹町名表示板が教えてくれる京都の近代史、第2弾は正面通です。


この2つ、「面」の字体が違います。俗字と正字。
正字の「面」は、正面通のうちの西本願寺~東本願寺間だけでしか見られないのですが、何か理由があったのでしょうか?

正面通について調べてみました。
”正面”とは東山区の方広寺の正面と言う意味で、現在は途中途切れながらも、方広寺前の大和大路から島原まで東西を横切っています。

しかし、そもそもは方広寺と西本願寺を結ぶ1本の通りだったそうです。イメージとしては次のようになります。



これは、秀吉が建造した方広寺大仏殿と、大阪より呼び寄せた本願寺(現在の西本願寺)を一直線に結ぶためだったようです。
そして、その後、秀吉の神格化を快く思わない家康がその間に東本願寺や枳殻邸を配置し、現在のような断続的な道路になったのだ、といくつかの書物では紹介しています。
何百年も昔のこと、その経過の真偽のほどは分かりませんが、しかし、少なくとも東本願寺と枳殻邸により1本の正面通が3つの区間に途切れることになったのは事実です。

そして、いつの間にかそれぞれの区間の呼び名が変わっていったようです。
東側の方広寺~枳殻邸間は従来どおりに「正面通」、真ん中の枳殻邸~東本願寺間は「中珠数屋町通」、西側の東本願寺~西本願寺間は「御前通」といったようにです。

したがって、次のように東から順に区間1、区間2、区間3と区切られたわけです。



それぞれのネーミングはもっともだと思います。
区間1は相変わらず方広寺の正面なので、そのまま名称を変える必要性はありません。
真ん中の区間2は、上珠数屋町通と下珠数屋町通の間に位置するので、中珠数屋町通となるのは当然のことです。
そして、区間3は西本願寺の門前町として成り立っているエリアのこと、敬意も込めて御前通となるのは、これまた然りです。ただ、北野天満宮から南へ延びる御前通もあるので紛らわしいですね。もし、両者が交わるようなことになっていればなおさらです。

これらの状況は様々な地図で確認することができました。次の地図もその一例です。


「京都衛戍地図(大正13年製版)」より

これではちょっと見にくいので、それぞれの区間を拡大すると、次のようになります。

区間1 方広寺~枳殻邸間 「正面通」


区間2 枳殻邸~東本願寺間 「中珠数屋町通」


区間3 東本願寺~西本願寺間 「御前通」


しかし、ここでも例の昭和3年5月24日の京都市告示により、これらの路線名がすべて「正面通」に統一されたのです。



なお、西本願寺~島原間は桶屋図子と言ったのですね。一緒に正面通へと昇格しています。

*  *  *  *  *


さて、これらの通り名の変遷と仁丹町名表示板との関係はどのようになっているのでしょうか?
告示前の旧名での仁丹はあるのでしょうか?

先ずは、方広寺~枳殻邸間の区間1です。
写真 ↓ は正面通を川端から方広寺方面を眺めたところです。



ここで出会うのが正面通の正面町の仁丹です。



俗字ではありますが、当然ながら正面通と表記されています。書き方も何も疑問はありません。

ちなみに、昭和4年4月1日から東山区になったエリアです。
仁丹の表記は下京区なので、それを手直しした痕跡が窺えます。

区間1を川端から正面橋を渡り、西へと進みます。



しばらくして出会う仁丹も正面通の表記が使われています。想定どおりですが。



さらに西へ進むと、ご覧 ↓ のように枳殻邸に突き当たります。なるほど、まさしく分断されています。



今度は枳殻邸の反対側へとぐるっと迂回し、再び正面通に復帰します。区間2の旧中珠数屋町通です。
この写真 ↓ は枳殻邸前から西に向かって撮ったものです。正面は東本願寺で、またまた分断されます。



この区間で出会えるのが、この ↓ 仁丹です。



上珠数屋町通や下珠数屋町通の表記があるなら、中珠数屋町通もとなりますが、正面通の表記です。
一般の地図ではこの区間2を正面通ではなく中珠数屋町通と記しているものが多いのですが、公称に律儀な仁丹町名表示板はしっかりと昭和3年5月の告示を守っていました。
過去においても中珠数屋町通と表記された仁丹はなかったようです。

参考までに上珠数屋町通と下珠数屋町通の仁丹 ↓ です。




次に東本願寺をこれまたぐるっと迂回して、反対側の正面通へと移動してみます。
この写真 ↓ は東本願寺裏手から西に向かって撮ったもので、突き当りが西本願寺です。



かつての御前通とはここのことですね。
ここでは多くの仁丹と出会えます。

↓ 左より、四本松町、東若松町、珠数屋町2枚です。この区間3の旧御前通では、正面通の「面」がなぜかすべて正字に変わります。



でも、右側の3枚、この「正面」の2文字に何か違和感を抱かないでしょうか? 
続く文字との間に筆使いの連続性がないというか、何か取って付けたような感じでバランスが悪いというか、墨の濃さが違うというか、、、 先入観の持ちすぎでしょうか。

そして、柳町 ↓ です。これはもう、「正面」の2文字に明らかに違和感ありです。いかにも後から書いたように、続く文字との間に連続性がありませんし、墨の濃さも薄いです。それにその2文字の周辺にはひっかき傷の痕跡も見られるのです。



さらに、堀川通に出て少し上がったところにあるこの堺町 ↓ の仁丹。
「正面」の2文字だけ色合いが薄いです。そしてここにも何かひっかき傷のようなものがあり、表面に凹凸ができています。
また、2本目の通り名には「通」なる文字は不要であり、公称の表記を厳格に守ってきた仁丹としては異例のルール違反です。



と言うことで、柳町と堺町の2枚、もしかしたら「御前通」と書かれていたものを「正面通」に修正したのではないか? そんな大胆な推理が浮かび上がってくるのです。

ひっかき傷は近づいて見たり、触ってみると分かるのですが、写真では分かりにくいですね。
そこで、コントラストなどをいじって際立たせてみたのが次の写真です。





いかがでしょう? 傷がいっぱい付けられているのがお分かりいただけると思います。 
この柳町と堺町の2点については、どうやら2文字分を削り取り、その上に白いペンキを塗って、そして「正面」なる2文字を巧みに乗せたと見えないでしょうか?
もしそうならば、削り取られた2文字は「御前」としか考えられません。
西本願寺の寺内町としては、遠くの見えもしない”正面”よりも、すぐ前に堂々とそびえ立ち、なおかつ商売にも密着した西本願寺の”御前”を選びたいのは当然です。
まったくの想像の域を出ないのですが、何か、そのあたりの事情を示しているような気がします。

さらに、最初は御前通と書かれていたとするならば、堺町の仁丹の場合、2本目の通り名にも関わらず「通」なる文字が加わっていることに頷けます。なぜならば、北野天満宮の「御前通」では住所表示の最初にきても後にきても「通」を省略しないことになっているからです。理由は分かりませんが、「御前通」だけの例外がここにも現れていたのかもしれません。

また、先の4枚並べた仁丹では、写真を拡大してもこのようなひっかき傷は見当たりません。これも全くの想像でしかないのですが、その部分、文字を入れずに保留していて、後から「正面」と書き足した、だからぎこちなさが残った、とまではあまりにもこじつけ過ぎでしょうか?

いずれにせよ、琺瑯仁丹の設置時期は昭和3年5月の告示の時期と微妙に重なり合っているような気がします。同時に森下仁丹側も告示の内容を敏感に受け止めていたのではないでしょうか。  


Posted by 京都仁丹樂會 at 16:24Comments(1)仁丹に見る近代史

2012年10月28日

3つの花屋町通 ~仁丹町名表示板に見る近代史~

1200年以上もの歴史が積もり積もった京都。
そんな京都のまちの、何百年も前のことをまるで見て来たかのように書かれたものが溢れている一方で、今私たちの目の前で展開している光景がきっちり説明できないもどかしさ。
まちを歩いていて、そんなことが多くないでしょうか?

仁丹町名表示板は、私たち京都で生まれ育った者も知らなかった、そんな京都の近代史、都市形成について教えてくれることがあります。

このような”仁丹が教えてくれる京都の近代史”を順次ご紹介したいと思います。

*  *  *  *  *  *

先ずは「花屋町通」の歴史です。


下京區花屋町通新町東入艮町 

この仁丹、次の写真の黄色の矢印の個所に設置されています。場所はちょうど、東本願寺境内の北西付近です。
写真の前後方向に延びるのが花屋町通、画面中央を左右に横切るのが新町通です。アングルは花屋町通新町西入から東山方面を撮ったものです。


この花屋町通は、東は河原町通の近くから、途中、中央市場で途切れるものの、最終的には阪急の西京極の駅前まで延々と続きます。
仁丹の設置場所は、花屋町通に面していて、新町通の交差点よりも東に設置されているので、設置場所としては完璧です。

ちなみに、町名にはルビが入っていて「ウシトラ」と読みます。
「艮」とは東北方向の方位を示す語句です。この場合は、西本願寺の寺内町における艮、つまりは東北を示しているのだそうです。

さて、ここから新町通を南へと下ります。上の写真で言えば、右へと入って行きます。
60mほど下ると、次の琺瑯仁丹に出会います。


下京區新町通花屋町下ル東若松町

非常に美しい状態で保たれています。そして、字もとても美しいです。


この東若松町の仁丹は、上の写真の黄色い矢印の個所に設置されています。前後に延びるのが新町通で、花屋町通から60mほど下がった場所から北を向かって撮っています。
この段階で、特に疑問に思うことはありません。
そして、画面左に延びる道へと入って行きます。西へと進むことになります。

すると、道路の北側ですぐに見つかるのがこの仁丹です。路地の入口に設置されています。情緒たっぷりです。



下京區花屋町通新町西入艮町


ここで 『アレ?なんで?』 と思いました。
一番最初に紹介しました仁丹は同じ通り名の組み合わせで、”東入艮町” でした。
だったら、先ほどの交差点の西側に設置されなくてはなりません。

でも、この通りのこの先で出会う仁丹はいずれも「花屋町通」と表現されているのです。

地図を見ると、この通りは「旧花屋町通」とあり、先ほどの1本北の広い通りが「花屋町通」と記されています。
なるほど、何らかの経緯あって、1本北の通りに花屋町通の名称を譲ったので、こちらは旧花屋町通と言う訳か、こちらが”本家”であって、仁丹はその当時に設置されたのかと納得します。

ところが、西洞院通に出ると、今現在の道路標識までもが「花屋町通」になっているではありませんか。
これが旧花屋町通となっていたら何も疑問を持たなかったのに。

それでは、1本北の広い花屋町通の道路標識はどうなっているの?と近づくとご覧のとおり、『新花屋町通』となっています。


どちらが花屋町通かという本家と総本家の争いで、旧花屋町通に軍配が上がった形です。
となると、この旧花屋町通に設置された花屋町表示の仁丹は今もこれで正しいということになります。

でも、花屋町通、旧花屋町通、新花屋町通と3つの花屋町通が登場したことになります。
一体、どのような経過があったのでしょうか?

そこで、先ずは、とっかかりとして「角川 日本地名大辞典 26 京都府上巻」を見てみると、こうありました。

   花屋町通・・・
『近世には堀川以東に籠屋町通(諏訪町通から新町通までか)、万年寺通(万年寺前の鍛冶屋町通から新町通まで)、花屋町通(新町通から堀川まで)の3つの通りが少しずつずれて存在していた。これらのうち、花屋町通は上珠数屋町通と合わせて左女牛通と記されたり(京雀・京羽二重)、万年寺通の一部とみなされたりした(宝暦町鑑)。 …省略… 明治になって、東本願寺の北方への拡張により、籠屋町通と万年寺通の烏丸通以西は消滅し、一方花屋町通は堀川以西へ伸びた。昭和になって、万年寺通が堀川まで延長され花屋町通と改称されると、新町通~堀川のもとの花屋町通は旧花屋町通と呼ばれるようになった。』

何か相当複雑そうですね。
また、現在の地図には東本願寺の境内北側の中に、「乾町」と「下柳町」がすっぽりと取り込まれています。
この2町についても、同じく角川日本地名大辞典ではこのように紹介されていました。

  乾町・・・
『明治26年、乾町の大部分は東本願寺の火除地となり、その後同28年、烏丸通と新町通の間に新道が開通し、同44年には火除地は東本願寺の築地内に入った』

  下柳町・・・
『明治25年、町内の人家が買収され、東本願寺の火除地となり、同年44年には東本願寺の築地内に入る。町名は存在するが事実上の廃町。』

以上のことをまとめると、次のような経過をたどったとなるでしょうか。
説明に適した地図がなかったので、とりあえずのイメージを表してみました。

先ずは、江戸から明治25年ぐらいにかけては次の【イメージ図 1】のようになっていたようです。
東本願寺と西本願寺の南北の広さはほぼ同じという印象なのですが、昔は東本願寺の方が狭かったようです。確かに地図でも確認できました。



明治25,26年頃になると、乾町と下柳町が家屋を撤去されて火除地になるとともに、万年寺通の烏丸~新町間と籠屋町通が消滅し、次の【イメージ図 2】のようになります。

花屋町通の堀川以西、すなわち西本願寺の北側への延伸は不確かですが、いくつかの地図を見るとどうもこの頃になされたようです。

そして、明治28年にこの火除地の北辺に改めて万年寺通が開通し、次の【イメージ図 3】のようになります。



さらに明治44年、火除地が東本願寺の境内に完全に組み込まれ、次の【イメージ図 4】のように現状に近づきます。



この状態のとき、基礎講座六 「設置時期」 ④ヨンヨンイチの検証 道路編でもご紹介しました「京都市告示第252号」が昭和3年5月24日に告示され、160本あまりの道路名について新名称などが定められました。その中に花屋町通も含まれており次のように定められています。

   新路線名 ・・・ 花屋町通
   旧   名 ・・・ 万年寺通
   起   点 ・・・ 河原町通唐物町458
   終   点 ・・・ 揚屋町32

これにより、実情は【イメージ図 4】と何ら変わりませんが、名称としては万年寺通が消滅し、段ずれを起こしながらも「花屋町通」として河原町付近から島原まで1本通ったということになりました。次の 【イメージ図 5】となります。



この時点では、新町~堀川間の段ずれはまだ解消しておらず、新花屋町通の開通を待たなければならなかったようです。当時の都市計画地図はこのあたりの状況をよく示していますので、次に揚げます。

先ずは昭和4年の都市計画地図です。昭和4年であれば、万年寺通ではなく花屋町通と記載されなくてはならないのですが、右の黄色い四角で囲んだようにまだ万年寺通の名称が残されています。

都市計画基本図 昭和4年(大正11年測図 昭和4年修正測図)
また、乾町や下柳町が東本願寺の境内に飲み込まれた様子も分かります。赤の四角の部分です。一方、左の黄色い点線で囲んだ部分には、新花屋町通の姿が何もありません。

次に昭和10年の都市計画地図です。状況は先の昭和4年の地図と変わっていませんが、ただ万年寺通が花屋町通と改められているのは分かります。

都市計画基本図 昭和10年(大正11年測図 昭和10年修正測図)


そして、まだ開通はしていませんが、昭和28年の地図でようやく新花屋町通が見え始めました。黄色の点線内です。
実は、新花屋町通の開通がいつだったのか調べたのですがよく分かりませんでした。
黄色の実線で囲んだのは、当時の花屋町通であり、今で言う通称旧花屋町通です。

都市計画基本図 昭和28年(大正11年測図 昭和28年修正測図)


以上が、3つの花屋町通の歴史のようです。

今回の件で、白黒はっきりさせようとばかりに様々な資料を漁ってみましたが、この3つの花屋町通の説明はもうくちゃくちゃといってもよいほどでした。
一般の地図を見る限りでは、「花屋町通」と「旧花屋町通」の2つだけが登場し、「新花屋町通」の名はありません。
「京都の大路小路(小学館)」にしてもそうです。
市民生活の上ではそれで十分だと思いますし、敢えて「新花屋町通」を持ち出すこともないのでしょう。

公称としては、次の京都市認定路線網図に示すとおり、新町~堀川間のみを「新花屋町通」と呼んでいます。

京都市認定路線網図より


そして、仁丹は昔も今も、「ここが本当の花屋町通だよ」と私たちに教えてくれています。  


Posted by 京都仁丹樂會 at 21:38Comments(2)仁丹に見る近代史