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2013年07月13日

明治期の新聞にみる仁丹広告(7)

明治期の新聞にみる仁丹広告(7)
行政による広告規制と仁丹


シリーズで書いてまいりましたこのトピックもいよいよ佳境です。前回までで森下仁丹が新聞広告・屋外広告に膨大な費用をかけ、また、当時広告を重視した他の企業と共に、非常に大きな影響をもったがゆえに、景観上の批判・懸念も生んできたことをお伝えして来たかと思います。

まずはこちらの広告をご覧ください。大正5(1916)年5月14日の大阪毎日新聞です。東京全市7000本、さらに大阪全市の電柱広告について、電柱広告は全て古今東西の先人たちの格言や世界各国のことわざなどを書き込んだ「金言広告」に置き換える、という発表です。


このような全面広告が出るに至った背景は何だったのでしょうか。今回は、屋外広告に対して行政からどのような規制がなされたのか、また仁丹はそれにどのように対応していったのか、に焦点を当ててみたいと思います。

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仁丹が展開した広告の一つに電柱を使った広告があります。
1888(明治21)年に送電を開始した東京電燈を皮切りに、大阪、名古屋にも電燈会社ができ、相次いで送電事業がはじまります。その電柱への広告は、1890(明治23)年には警視庁から東京電燈株式会社に電柱広告の許可が出され、また、同年の大阪朝日新聞には電灯広告事務所による電柱の広告が載せられていることから見ても、この時期には電柱への広告が始まっていたようです。(谷峯蔵[1989]『日本屋外広告史』)
1901(明治34)年、東京に電柱広告の専門取次業者の電燈広告社が設立されました。当時の電柱広告は2段に分かれており、上段は行燈式、下段は電柱に直接塗りつけ(または巻きつけ)た塗広告だったそうです。
左の画像は1890(明治23)年6月25日に大阪朝日新聞に載った電灯広告事務所の広告、右の画像は1903(明治36)年11月13日の東京朝日新聞に載った電燈広告社の広告です。



電燈広告社の亀田満福の回想によると、当時電柱広告を一番多く使用したのは「仁丹」で都内に3000本、次いで花王石鹸が1000本、その他、実業之日本や婦人世界などが3―400本くらいの広告を掲載していたとのことです。ちなみに、仁丹から広告を受注した当時、総売り上げが三百万とすると、その三分の一、すなわち百万円を宣伝費として使用したと聞いていたといいます。(内川、同上。原資料、亀田満福[1960]『電柱広告六十年』)。

「くすりや本舗」「仁丹の館」様のブログによると、京都市内を映した絵葉書の中にも、仁丹の広告のついた電柱の様子がわかるものがあります。橋弁慶山が写っている絵はがきです。詳細はリンク先をご覧ください。

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おそらく、大阪をはじめ関西からはじまった広告は、次いで関東でも展開されたと思われますが、それに対して当局から「待った」がかかりました。1909(明治42)年3月31日の読売新聞にその模様が報じられています。

内容を書き起こしてみます。
○電柱広告の制裁
 去月中旬頃より市中目抜きの場所に電柱に例の広告の斬新奇抜を以て鳴る森下仁丹の広告が赤色の輝やく計り塗立てられしを見たるが此程警視庁より市内交通警察に妨害ありとて強硬なる塗替へ命令を電燈会社へ向けて発せらる依つて今事の茲に及べる経過を報道せんに
▲抑もの発端 森下博薬房に※(一文字読めず)は両三年前来名古屋、大阪、神戸等の市中電柱に売薬仁丹の広告をなして大いに人目を惹き好果を得たれば之を機として東京へも侵入せんとし昨年末東京電燈会社電柱広告一手請負所なる京橋区弓町三丁目の電燈広告社へ向ふ一ヶ年の契約にて電柱の賃貸借をなしたり而して広告趣向及び塗立は森下出入の日本橋薬研堀川田美術看板店が請負ひ本年二月中旬頃より白地に売薬「毒滅」の商像たるビスマークの像を画き其上へ更に赤字で「仁丹」と記して頗る得意の色あり始めは
▲本所等の場末 の電柱にのみ広告し居たりしが追々京橋日本橋と繁華の地にも及せしかば警視庁は本月上旬電燈会社へ内諭を発し会社は直に電燈広告社へ向け其旨伝達し尚ほ目下着手中のものは一時塗立を中止す可しと注意したり然るに広告社は言を左右に托して荏苒今日に至るも更に塗換へる模様なきのみか依然塗立を続行なし再度警視庁の命令を煩すに至れり
(中略)
▲広告社の言分 (中略) 本社は森下に対し毫も醜関係等之れ無く現に向ふ一ヶ年の契約にて未だ広告料一銭も受取り居らず故に一本二円と見て六千円内外の損害なり云々、と
▲警視庁強硬 因に電柱広告なるものは明治卅九年の春電燈会社の名義の下に左記条項の範囲内に於て警視庁より許可を得たり
 色は必ず白若くは紺に限る事
 文字は黒若くは白に限る事
 商品名と屋号と番地の外には記さざる事
公安を害し市街の風致を傷ふを禁ずる事は勿論なるが今回の事件は其第二項目に該当す此故に広告社及び森下より先頃来躍起と警視庁へ哀訴嘆願なし居るも警視庁にては中々強硬に出て居る模様にて或は此処数日を出ずして電柱の仁丹は其姿を消すに至るやも知る可らず」
~1909(明治42)年3月31日 読売新聞~


この記事が示すところは非常に興味深いものと思われます。まず、「そもそもの発端」として、3年前あたりから、森下仁丹は名古屋、大阪、神戸などで電柱に仁丹の広告を出していたこと、42年2月頃から東京でも同様の広告を展開しようとし、その内容は白地に「毒滅」のビスマルクの像を描き、その上に赤字で「仁丹」と書いていたこと、東京でも最初は本所あたりからはじまったものが次第に繁華街にも展開され、それに対して、明治39年の許可内容から反するものであると警視庁がクレームを入れたことが分かります。さらに、広告の請負業者が「一本二円と見て六千円内外の損害なり」といっていることから、おおよそ3千本ほどは同様の広告がつけられたものと思われます。これは先ほどの電燈広告社亀田満福の回想とも重なる本数です。

前回ご紹介した東京朝日新聞の連載「醜悪なる屋外広告」の3回目でもこの事件に触れています。
「読者のうちには未だ記憶のおとろへざる人も多からう、仁丹及び毒滅の発売者は昨年東京市中幾千本の電柱に人間の感情に対して恐るべき害毒ある色を以て其の広告を書きはじめ、市内の重なる処は殆ど其の広告が出来上つて了つたのを、其に対する吾人の有害なる説明と警視庁の命令とによつて忽ち此の広告を消滅せしめた事がある、一大市内の電柱に残らず一種の商品の広告を出すとは、広告の出し方が商業的でない殆ど無法である」
~1910(明治43)年6月17日、東京朝日新聞~

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当時、全国各地で商業活動が活発になるにつれ、その広告手法として屋外看板を用いる企業が急増しました。ただし前回みたように、その広告が街中に氾濫すると、景観上の懸念等が高まり、当局は広告の出し方について一定のルールを定めるようになりました。「東京朝日新聞」には、1907(明治40)年7月に発布した京都府令が紹介されています。
「道路河川其他公衆の自由に往来出入する事を得る地及之に面したる場所に建設し又は掲出したる広告塔広告札及看板の類にして公安風俗を紊り又は風致を害し若くは危険の虞ありと認むるときは所轄警察官署に於て之が移転改造又は除却を命ずることあるべし
前項の命令に従はざる者は拘留又は科料に処す」
~1910(明治43)年7月6日『東京朝日新聞』「醜悪なる屋外広告(16)※正しくは17」~


この京都府令がベースとなっていると思われますが、その4年後、さらに詳細に規制を定めた、京都府令第136号「広告物取締法施行規則」(1911(明治44)年8月11日)と、京都府訓令第54号「広告物取締法令施行手続」(明治44年8月22日)が作られています。どのような規制であったのか、文面を詳しく見てみたいと思います。(旧字は改めています)

広告物取締法施行規則

第一条 左ノ各号ノ一ニ該当スル場所ニ広告物ノ表示其他之ニ関スル物件ノ設置ヲ為スコトヲ得ス但慈善其他公益ノ為メニスル広告物ニ限リ之カ表示若ハ設置ヲ許可スルコトアルヘシ 
 一 御陵ヨリ三町以内御墓ヨリ一町以内
 二 公園、社寺仏堂境内

社寺仏堂ノ類カ其境内ニ於テ祭典法要説教等其事務ノ為メニスル広告物ノ表示其他之ニ関スル物件ノ設置ヲ為ス場合ニハ前項ヲ適用セス

第二条 左ノ各号ノ一ニ該当スル場所ニ広告物ノ表示其他之ニ関スル物件ノ設置ヲ為サムトスルモノハ其位置、期間並ニ物件ノ材質、形状、模様及寸法ヲ記シタル図面ニ工事仕様書ヲ添ヘ所轄警察署ニ願出許可ヲ受クヘシ変更セムトスルトキ亦同シ(以下略)

第三条 略

第四条 広告物件ニシテ褪色、剥離若ハ破損シタルトキハ速ニ之ヲ改修又ハ除却スヘシ

第五条 許可ヲ受ケ又ハ許可ヲ要セサル場所ニ広告物ノ表示其他之ニ関スル物件ノ設置ヲ為シタル場合ト雖所謂所轄警察官署ニ於テ美観又ハ風致ヲ保存スル為必要アリト認ムルトキハ其物件ニ対シ位置ノ変更若ハ改修除却ヲ命又ハ許可ヲ取消スコトアルヘシ

第六条 略

広告物取締法令施行手続

第一条 左ノ各号ノ一ニ該当スル場所又ハ物ニ広告物件ノ設置ヲ許可スヘカラス但シ神仏ノ祭祀法要慈善其他公益ノ為メニスルモノ又ハ特に美観若ハ風致ヲ害スル虞ナシト認ムヘキモノハ此限リニアラス
 一 勝地、旧蹟
 二 公園、勝地、旧蹟、鉄道、軌道又ハ汽船ノ航路等ヨリ明カニ望見シ得ヘキ田圃堤塘山面其他林藪ノ周囲但シ停車場、停留所構内及其構外二十間以内ノ場所ヲ除ク
 三 京都市内ニ於ケル高瀬川及堀川ノ水路ニ沿フタル場所
 四 鴨川ノ水路ニ沿フタル場所但シ柳原町以北北上賀茂村以南
 五 保津川ノ水路ニ沿フタル場所但シ桂村以北保津村以南
 六 宇治川ノ水路ニ沿フタル場所但シ宇治町以東
 七 鉄製電柱、煙突、塀籬又ハ樹木


第二条 広告物件ハ左ノ製作装置ニ依ルモノニアラサレハ之カ設置ヲ許可スルヘカラス
 一 建造物ノ側壁ニ設置スルモノハ額面様ノ製作物等ニハ粗造ナラス且地上ヨリ高サ八尺以上ノ場所ニ取付クルモノ
 二 地上ニ設置スルモノハ裏面ノ骨組等ヲ露出セシメス且脚部支柱等不体裁ナラサルモノ
 三 電柱ニ纏著スルモノハ地上ヨリ高サ七尺以下ノ場所トシ且広告物ヲ以テ電柱ノ其部分ヲ全部包被セシメ赤、白、黒ノ地色ナラサルモノ
 四 形状、模様、彩色ハ雅趣ヲ帯ヒ且褪色シ易カラサルモノ例セハ禽獣草木其他優美ノ絵画類ハ概シテ差支ヘナキモ動物ノ内臓白骨其他「毒滅」「仁丹」「大学目薬」「次亜燐」ノ類ニシテ見苦シキモノハ許可セサルコト
 五 材質は腐食又ハ破損シ易カラサルモノ
 (以下略)
~京都府警察部編纂、帝国地方行政学会『京都府警察法規』1927 (昭和2)年所収~

これら二つの規制の文言をみますと、明治44年の時点で、あまりにも市内に氾濫しすぎた屋外看板に対して、かなり厳格な規制を加えようとしていたようです。
施行手続の文面が非常に興味深い点は、設置が規制されるべき場所をかなり細かく規定していることです。京都市内には今でもいたるところに宮内庁が管理している皇室関連の墓所や塚が存在しています。そこから一町以内は看板禁止、となると、当然かなりの場所に影響が出ます。また、神社仏閣、景勝地、主要な河川沿いなども禁止されていますので、とりわけ神社仏閣、皇室ゆかりの陵墓、歴史上の史跡が多い京都においては、屋外広告を出すことは極めて難しくなります。

さらに、その形状の指定です。「毒滅」「仁丹」「大学目薬」「次亜燐」ノ類ニシテ見苦シキモノハ許可セサルコトとあるのです。他の大手売薬の商品とともに(以前紹介した新聞記事広告をご参照)、毒滅や仁丹のインパクトありまくりのビスマルク、外交官は「見苦しい」とのことで許可されない、というのです。これでは仁丹・毒滅などのロゴとデザインだけの広告をだすことは認められないということになります。
しかしながら、たとえば仁丹の町名表示板についていえば、真如堂近くの看板があるのは、陽成天皇の神楽岡東陵の真裏ですし、南禅寺や西陣の聖天さんの壁につけられているものなど、寺社境内に現存するものもあります。これはどう理解すればよいのでしょうか。
こちらは南禅寺の門につけられている仁丹です。


また、先日の「まいまい京都 仁丹コース第3弾」でのゴール地点だった上品蓮台寺にも、縦書きの仁丹が付いています。

先ほどの京都府令にもう一度戻ってみますと、「条件付き」で認められる場合についてもいくつか記述があります。先ほど設置を認めないとした場所については、「神仏の祭祀法要、慈善そのほか公益のため」「景観を損なう恐れがない場合」に限り条件付きで認めるとしているのです。
とりわけ御大典などの大型イベントに伴い、日ごろ歩き慣れない京都訪問者の急増が予想された時期です。不慣れな道を巡る人々にとって、今自分がどの通り・ロージを歩いているのかを知るためには、通り名や町名が示されている表示板が不可欠となります。この観点からみると、仁丹の町名表示板は、京都来訪者・そして京都市民にとってさえも、市内を歩き回るために重要な位置情報を示しているという点で「公益」にかなうものです。また、木製に続いて設置された琺瑯びきの表示板は、現在でも美しさを保っているものが多いことからもわかるように、腐食・破損しづらいものとなっています。
私見ですが、仁丹による町名表示板が京都市内を席巻した背景の一つに、明治40年代に進んだ屋外広告への規制強化と、その中で例外として認められる条件としての「公益性」があったのではないか、と思われるのです。
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最後に、この新聞広告をご覧ください。1914(大正3)年に全国各紙に掲載された有名な広告「広告革新の宣言」です。

~1914(大正3)年2月11日、大阪毎日新聞~

「今や時代は広告を見るにも何物かを得んとする傾向あるに際し幣舗は社会の公益を念とし奮然今後の仁丹広告には東西古今の格言俚諺を併掲す…」
という言葉が書かれています。これ以降、仁丹による新聞広告には、かならずその紙面の隅に、様々な思想家や著名人の格言、ことわざなどが加えられるようになりました。

たとえば、1918(大正7)年元旦の東京朝日新聞の1面広告のアップをご覧ください。



上杉鷹山の言葉や西欧の諺などが金言として載せられています。また、右側のコピーですが「仁丹は原薬の精選を生命とし、金言による薫化済世を使命とす」と書かれています。以前連載の中で紹介した「仁丹の世界号」では、「我等は最善を尽せる製品を弘く世界に開拓し以て国益の増進を目的とす 薬味の精選を生命とせる仁丹は今や内地の如く海外到る処に賞讃せられつゝあり」と両側に記されていますが、この頃にはまだ、広告による薫化云々という文面は新聞広告上には見られません。

電柱広告も、冒頭ご紹介した電柱広告革新宣言に示される通り、単に商品名・ロゴだけが書かれたものではなく、下に金言が書かれたものへと変わっていきます。森下仁丹の広告ギャラリーにも、金言広告がついた電柱広告の写真が載せられています。




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日本国内におけるビジネスが活発となり、様々な商品の販売方法およびそれを宣伝するためのメディアが多様化する中、屋外広告という手法は明治末になり爆発的に広まりました。一方、その氾濫による景観や風紀などへの影響を懸念する声も高まり、行政による規制が強まりました。様々な手段での広告手法を模索する企業は対応を迫られます。森下仁丹は、「町名表示板を通じて京都を訪れる人々、生活する人々の利便性に寄与する」、という「公益性」を前面に打ち出すことで、この規制に対応したのではないでしょうか。森下仁丹の「広告益世」の思想の実践という点からすると、その最も早い事例が、京都の町名表示板であったといえるのではないでしょうか。この点をさらに補強する資料が出てこないかどうか、更に調査を進めていきたいと思います。何か進展があり次第、ブログでご報告します。

京都仁丹樂會 idecchi


  

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2013年07月02日

明治期の新聞にみる仁丹広告(6)

明治期の新聞にみる仁丹広告(6)
広告への批判意見:東京朝日新聞の連載


しばらくの御無沙汰でしたが、明治期の新聞広告を一つの題材に、当時の情勢を見ながら森下仁丹の広告戦略とそれが仁丹の町名表示板に至る流れを明らかにしてみよう、という試みの第6弾になります。
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さて、前々回は新聞記事を題材に、大型の広告塔や市内に溢れた仁丹の大型看板をご紹介しました。そもそも大型看板が街頭に登場したのはいつぐらいからなのでしょうか。最初に大型看板が話題となったのは明治20年代後半、タバコ業界で覇を競った「天狗煙草」の岩谷松平、「サンライズ・ヒーロー」タバコの村井兄弟商会当たりだと思われます(八巻俊雄[1992]『日本広告史』)。岩谷は銀座で最大の大型看板を掲げ、それに対抗して村井兄弟商会は、1895(明治28)年、京都で開かれた第4回内国勧業博覧会の開催に際し、大文字山の山腹に五百円あまりを投じて「サンライス・ヒーロー」の野立て看板(一文字ずつ山腹に一列に並んだ看板)を建てたそうです。明治28年4月27日の読売新聞では、「布団着て寝たる姿の東山も隠れるほどに途轍もなき大招牌」と書かれています。ところが、風致に問題ありとの苦情が来たこと、加えて両陛下の行幸があるとのことで御所から見えてしまう看板が目障りになるとの声も出てきたことから、結局撤去されることになったようです。これに対して読売新聞では「吾人も山神水霊に代りて喜ぶべし」としています。この辺りから大型の看板は世に出るようになったようです。
同じく、第4回内国勧業博の際には、京都で初めて四条大橋に電飾看板が登場し、1901(明治34)年ごろにはキリンビールが新橋駅入り口近くに社名のかな文字6字を電球で点滅させるなどしています(八巻俊雄[1992]『日本広告史』)。

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これだけありとあらゆる町中に大型看板が並ぶことになると、当然それに対して賛否両論、いろいろな声が上がってきます。たとえば、1902(明治35)年の『日本』には
「ヒーロー、サンライス、アロイロナート、麦酒、葡萄酒、石鹸、売薬ありとあらゆる商品広告を肆(ほしいまま)に鉄道沿路、山紫水明の地に押し立て、偏(ひとえ)に人目をひかんとするの手段は、洵(まこと)に苦々しき次第。」
との投書が載っています(内川芳美編『日本広告発達史 上』)。

批判意見の最も辛辣な例を挙げておきましょう。当時、仁丹のみならず様々な広告媒体が町中に溢れていましたが、それに批判的な意見として、東京朝日新聞にはその名も「醜悪なる屋外広告」なるタイトルの連載記事が1910(明治43)年6月15日から19回にわたって連載されました。
 その第1回(この回のみ「醜怪なる屋外広告」と言うタイトル)では、「我が日本人全体にとつて此処に一つ斬新な重大問題がある、実は外でもない屋外の広告に関する事だ」という書き出しで始まり、「(中略)今や汽車の行く處なら都会に遠き百姓の田畑庭先にも広告が立てられて、浮世離れた生活の樵夫百姓等にも此の問題が関係を及ぼして居る」というのです。何が問題なのでしょうか。2回目ではその問題点が示されています。「社会学的商業学的立場から見て広告なるものは絶対的に必要なものには相違ない」としながらも、「併し一面においては社会の有機体のすべての方面に多大の害毒を与へて酒や阿片や身体の機能を弱らす如く広告が社会の機能を抓き乱して終に非常に悪くする、悲しい哉日本の今日の屋外広告の状態は稍其の域に到達せんとして居る」というのです。

この連載では、東京、大阪、京都など主要都市における屋外広告の景観への悪影響が批判されました。ビールや清酒の看板であったり、ゼム、大学目薬、健脳丸など、以前新聞広告でご紹介した多くの医薬品メーカーとともに、屋外広告に力を入れる仁丹も、その槍玉にあげられてしまいます。仁丹の屋外看板はよほど全国的、かつ規模が大きかったのでしょう、写真付きのものも含め、名古屋共進会前に建てられた看板(連載2回目)、電柱広告(3回目)、新橋近くの屋外看板(8回目:写真左)、上野公園前の広告建築(9回目 なんと醜広告として紹介!:写真右)、京都の屋外看板(17回目)などが批判の対象となっています。



上野の看板、かなり大きなものだったようですが、この新聞掲載の写真ではいまいち様子が分かりません。仁丹が写り込んだ絵はがきを収集、紹介されておられる(この分野では随一の方だと思います)、「くすりや本舗」「仁丹の館」様のブログでは、上野広小路の絵葉書をご紹介されています。おそらくこれが東京朝日の批判記事に写っている仁丹の看板かと思われます。

この仁丹による看板に対して東京朝日は次のように批判します。
「此の仁丹の広告も屋上の広告建築である。何人でも上野公園に到る者で此の広告の刺激を受ざる者はいない、此の屋上に仁丹広告が九面ある、何故に東京の市民は日本唯一の一大公園へ行きに帰りに仁丹の九面の醜広告から強烈なる刺激を受なければならぬか、日本唯一の公園の入口に何故風致を害する広告を建築させておくか、今仮に此の広告の形式を調べて見るのに、只々一個の屋上に丈余の大広告を八面飾り附け更に其の中央に一面電気広告の為めに大なる文字を飾るとは、余りに過大過多なる広告ではないか、広告は本来告知的のものであるなら、此の如く過多過大の広告は不必要ではないか。」

~1910(明治43)年6月24日 東京朝日新聞「醜悪なる屋外広告(9)」~

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とりわけ、風光明媚がウリの京都における屋外広告に対しても東京朝日は厳しい批判をあびせます。
京都の回ではどのような言われようだったのか、参考までにそこに載せられていた写真と併せてご紹介します。写真には五条大橋とその東詰北側に仁丹の看板(上写真)、南側に大阪行きのりばとの看板が見えます(下左写真)。もうひとつはアサヒビールの看板、当時都ホテルの前の屋根の上に載っていたようです(下右写真)。



もう少し解像度のよさそうな画像を探していて見つけたのが、シリーズ4回目でも紹介した森安正編『絵はがきで見る京都』(光村推古書院)所収の絵はがきに写っている五条大橋の画像です。京阪の大阪行き電車乗り場(当時は五条始発)の左(北)側に、仁丹の大きな看板が見えます。



「醜悪なる屋外広告(16) ※原文ママ、本当は17回目です
京都の屋外広告取締 京都の趣味の破毀者

屋外広告の取締に就いては遊覧客が集合する様な名所古蹟のある国では既に非常に厳重なる取締規則が出来て居る、其の最も厳重なのがあるのは京都府と奈良県とだ。参考の為めに京都府令を示さう。
道路河川其他公衆の自由に往来出入する事を得る地及之に面したる場所に建設し又は掲出したる広告塔広告札及看板の類にして公安風俗を紊り又は風致を害し若くは危険の虞ありと認むるときは所轄警察官署に於て之が移転改造又は除却を命ずることあるべし…(略)…右の府令及び告諭は屋外広告取締規則として十分なものだ。
右の府令と告諭とによれば京都市には醜悪なる屋外広告を立て得る余地は全く無い、然るに事実は之に反して屋外広告が都市の天然の風致及び市街の体裁を損じて居る事が頗る多い。
三條通り松原通り五條通りの如きは醜悪なる広告で市の外観を打こはして居る。殊に残念なのは都ホテルの目の前に屋根の上に大なる朝日ビールがある、ホテルに宿泊する欧米人が眺めて彼のビール瓶を取除て欲しいと云へり、又日本人は都会組織を知らぬ看板だと眺めて居る。
京都では橋の風致が京都人士に多大な影響を与へるのだから、市の名所古蹟を大切にすると同時に橋の風致を保存すべきだ。然るに京都では有名な橋詰は広告を以て蔽はれて居る、例へば五條の橋詰の如きは不潔な小さい家屋に大きな醜悪な広告で此の通り、風致も何もあった物でない。殊に五條橋詰の大阪行電車の停留場の如きは其建築の粗悪劣等無趣味実に言語に絶して居る。又大阪行乗場と書いた大きな看板の殺風景さ加減と云ったら話にならぬ。京都には前掲の如き厳重な取締規則があるのに何故警察署では之を活用しないか、又日本唯一の旧帝都に市庁に於て何故市の外観取締役を設けないか。
若し京都市街の風致を商人や下劣無趣味な実業家の為すが儘にしておくと、京都特色の美的工芸品は年々下等なものとなると云ふ事に感付ぬらしい。嗚呼残念な事だ。
京都市民よ京都の美術工芸品の製作動力たる趣味には東山が大なる影響を与える事を知れ、又人が其影響を受くるのは橋の上に於ける眺望なる事をも知れ。而して京都の趣味養成の為めに早く此醜悪なる広告を取除けよ。」

~1910(明治43)年7月6日、東京朝日新聞~


…なんとまあ、厳しい批判でしょうか。ここまで言われる程、当時の屋外広告はありとあらゆる場所でその宣伝技術を競っていました。さて、町名表示板が設置される経緯とこれらの動きはどのようにかかわってくるのでしょうか。次回は行政当局の広告規制について考えてみたいと思います。
~つづく~


京都仁丹樂會 idecchi

  

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2013年05月12日

明治期の新聞広告からみる仁丹(5)

明治期の新聞広告からみる仁丹(5)
仁丹発売当初の新聞広告費


仁丹発売当初の明治期を中心に、新聞広告から仁丹の広告戦略に迫ってみようというシリーズのうち、以前(明治期の新聞広告からみる仁丹(2))御紹介した新聞広告費につきまして、当時の様子が分かる資料に出会えましたので、今回は番外編というか補足編として書かせて頂きます。
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毎年恒例、みやこめっせで開かれる「春の古書大即売会」に行ってきました。



春がみやこめっせ、夏が下鴨神社、秋が百万遍、と京都の古書好きな方にはおなじみのイベントですね。
ご興味のある方、是非京都古書研究会さんのブログもご覧ください。

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お目当ては当然、京都がらみの資料もしくは仁丹がらみの資料です。
こんなものをみつけました。



「仁丹時報」という、販売店向けに仁丹が出版していたちょっとしたチラシがあります。定期的に変更される販売規定や、キャンペーンのお知らせ、その時に使う景品等の案内が載せられているものです。
このチラシには「仁丹時報」のタイトルはありませんが、販売店向けのお知らせであることは間違いありません。販売から四年ほど、明治四十二年三月二十日の日付が入っています。

発売以来四年間の売り上げの変遷なんかが書かれていて、さらに今年の目標みたいなものまで書かれています。




おもしろかったのが、こちら。なんと新聞広告の費用が書かれているのです。



書き起こしてみます。
「●卸し直(値)段改正に就て
仁丹は薬味の完全を唯一の生命として絶対に原料を棟撰致居候より勢ひ元価に著しき差異を来し、且つ一般材料の騰貴に因りて毒滅とも従来の卸し直(値)段にては愈々不引合の場合に立至り候為め已む無く今回前項の通り割合を改正仕候次第に御座候間宜布御承認被下度候尚ほ一面拡張費の膨張は年々に甚しきを加へ、試に其一例を挙ぐれば

   ▲仁丹の第一年即ち卅八年中に掲出の行数と料金

 大阪朝日新聞広告 二萬九四六四行 一萬二、三七四圓八八〇
 大阪毎日新聞広告 一萬三六二一行   五、七二〇圓八二〇  一行定価四十貮銭
   
   計      四萬三千八十五行    金壹萬八千〇九十五圓七拾銭
   ▲仁丹の第四年即ち昨四十一年中に掲出の行数と料金

 大阪朝日新聞広告 五萬二〇五一行 三萬九〇三八圓二五〇 …一行定価七十五銭
 大阪毎日新聞広告 四萬三九二五行 二萬八五五一圓二五〇 …一行定価六十五銭
   
   計      九萬五千九百七十六行  金六萬七千五百八十九圓五拾銭

以上の如く四倍に近く出費の膨大は固より右両新聞のみに非ずして幣舗が絶へず掲出する東京の九新聞及び全国にて貮百四拾余新聞の広告費も殆ど同一比例に増進し、其他全国に普及せしめつゝある各種の看板及び種々雑多の拡張材料等の失費も亦年々三倍四倍と激増致来り居候幣舗の苦痛幾重にも御賢察を賜り度候

乍去広告を多くする程多く品の捌けるは申迄も無き儀にして殊に幣舗が本年は昨年に比らべ三倍以上の大運動を遂行せむとするもの実に現況の数倍に発展するの余地綽々たるが故にして、眞に間断なく全力を尽すべく候へば
今回の割引改正が一見御不利の様思召候はんも
要するに幣舗は誓つて仁丹毒滅共に其売れ数を激増せしめ候に付従つて御純益は従来より数倍すべく候間何卒情状御酌み取り下され度候」


つまり、原料価格が上がっちゃったのに加えて広告大キャンペーンを打ってますので費用掛かります、すみませんが卸価格値上げさせてください。広告打ちまくってるのでその分絶対売上増えますから、よろしく~ねっ。ってことですね。新聞の掲載行数と費用まで書かれていて、当時の広告費がよくわかる資料だと思います。大阪朝日・大阪毎日がツートップだったようですが、関東の主要紙、それから地方紙でも積極的に広告を打っていたことが分かります。

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なお、東京大学総合研究博物館画像アーカイヴス 日本の新聞広告3000(明治24年-昭和20年)というサイトでは、戦前までの期間の各地の新聞に掲載された広告がスキャンされており、検索も可能です。「仁丹」で検索すると202件のヒットがありました。全国およびアジアで発行されていた日本語新聞でも掲載されていたことが分かります。

他にもいくつか「仁丹時報」買ってきました。面白そうな内容が載っていたらまたご紹介しようと思います。

~つづく~


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2013年04月26日

明治期の新聞にみる仁丹広告(4)

明治期の新聞にみる仁丹広告(4)
~屋外広告をめぐって~

明治期を中心に新聞記事から仁丹を探っていこうという企画の第4弾です。

森下仁丹は広告に非常に力を入れていましたが、その一つの柱が新聞広告、もう一つの柱が屋外広告でした。大正時代の広告事情について仁丹宣伝部長(当時)の谷本弘氏は次のように語っています。

「仁丹の広告費は大正十二年がレコードであったと思ふ。おそらく百万円を突破したことだろう。その中新聞広告が六分、他の広告費が四分の割合である。新聞広告は大きい程効果的であり、一頁広告よりもニ頁広告の方が効果が多い。…(中略)…仁丹の一頁広告は、明治四十年頃と思ふが、その頃は一頁広告を出す毎に赤飯を焚いて、尾頭のついた魚と一緒に、之を社員全体に出して大にそれを祝った位だった。」~日本電報通信社『日本新聞広告史』昭和15年より~


さて、これら広告のうち、前回明治期の新聞にみる仁丹広告3)にも少しだけ紹介した、屋外広告が当時どの程度のものだったのかを今回は考えてみたいと思います。


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たとえば前回紹介した「仁丹の支那号」の写真左上のものは、天津に設置された大看板、なんとその大きさ90畳です。でかい!!



また、こちらの記事は明治41(1908)年に大阪毎日新聞に掲載された見開き2面の広告「仁丹販売店の大繁昌」です。仁丹の大きな看板とその脇にある仁丹毒滅の販売代理店にお客が群がる様子が描かれています。仁丹はじめ薬品を販売していた小売店にどのような看板が付けられていたのか、おおよそ知ることができます。



アップで見てみると、ひとつは右側の仁丹の大看板、そして店先にぶらさがっている仁丹の看板、よくみるとその下に毒滅の看板もついていますね。


~明治41(1908)年7月3日、大阪毎日新聞より~



この広告に描かれているような看板は、日本全国の仁丹販売店に取り付けられていったものだと思われます。たとえば、京都府立総合資料館の「京の記憶ライブラリ」で公開されているデジタル資料のうち、「石井行昌撮影写真資料」は、京都在住の石井行昌によって明治20年代から大正10年頃までに撮影した写真が収録されています。そのうちの一枚、北野天満宮の前を撮影したものには、タバコや薬を販売する店舗の軒先に掲げられている仁丹看板が写っています。



また、当時の仁丹が写っている古写真や絵ハガキ、グッズなどを収集されていらっしゃる「仁丹の館」様のブログをご覧いただくと、様々な古写真には店頭、電柱、野球場のスコアボードなど、様々なところに仁丹看板が写り込んでいることを見ることができます。たとえば、葬列風景の後ろに大きな仁丹看板が写り込んでいる 古写真 などは秀逸だと思います。
またこちらも素晴らしいです。仁丹が全国の売薬店舗に対して、店の軒先看板を全て費用は仁丹持ちで取り付けます、とうたった 広告 になっています(出所については未確認です。また調査させて頂きます)。


**********



ちなみに、上の写真にもある北野天満宮からスタートして上七軒、柏野へと仁丹を巡る「まいまい京都」のツアーは6月2日に行われます。申し込まれた方、お楽しみに!!


**********



これら看板のうち、大型のものは関西のどのあたりに建てられていたのでしょうか。一つのヒントとなる広告がありました。これはアメリカからの観光団を歓迎する旨、そして関西を観光される際には、仁丹看板も見ていってね、という旨の英文が載せられた広告です。



赤で囲った部分、以下のような英語の説明文が書かれています。



簡単に訳してみると、
「以下の場所もぜひとも訪問先に加えてください
京都 
四条に仁丹三色点滅看板/堀川に仁丹イルミネーション看板/京都駅近くに大型の鉄製仁丹看板/京都・大阪間の高槻駅近辺に大型仁丹看板
大阪 
梅田駅に二面の仁丹三色点滅看板大型鉄製看板/道頓堀に仁丹三色点滅看板/千代崎橋に仁丹イルミネーション看板/天神橋に仁丹イルミネーション看板/大阪・神戸間の神崎駅(現:尼崎駅)近くに大型仁丹看板
神戸 
湊川に仁丹イルミネーション看板
他にも、東京、横浜、名古屋、熊本そのほか主要都市にもイルミネーション看板が、また日本の鉄道沿線には大型の鉄製看板が数えきれないほどあります」
~「歓迎 友邦米国人大観光団」明治43(1910)年3月5日、大阪毎日新聞より~


京都にも三色イルミネーションの看板が付けられていたようです。どのようなものだったのか、今では想像するほかありません…と言いたいところですが、当時の写真や絵ハガキをたどるとそのヒントが出てくるのではないか?ということで、森安正編『絵はがきで見る京都――明治・大正・昭和初期』(光村推古書院)という素晴らしい本が出ておりますので、そこで紹介されている四條大橋を撮った絵はがきを確認させていただきました。

1枚目の四條大橋、なんとまだ京阪電車も、南座の大きな建物も、レストラン菊水の建物も建っていません。京阪電車が上を走っていない時点で大正4年より前ということは確定です。



そこにはネオンサインのような「仁丹」の文字が見えます。少しアップにしてみると、お分かりになるでしょうか。



もう少し時代が下る2枚目の四條大橋の絵葉書では、京阪電車が路上を走っており、四條大橋も架け替えられています。「レストラン菊水」も出来ましたが皆さんおなじみの南座が建て替えられておりませんので、大正15年から昭和4年の間のどこかということになります。



こちらでは仁丹の看板は南座の脇、今のにしんそばの松葉さんの上あたりにあったことが分かります。



どちらのものが三色ネオンか、絵はがきだけでは断言できませんが、新聞広告に書かれていた四条の三色看板はこれらのどちらかかもしれません。



梅田駅のイルミネーション看板については、仁丹広告の中でも取り上げられています。「東洋第一の仁丹電気広告燈(イルミネーション)はこれ!」というタイトルです。宣伝文句が実に面白い!!




「奇妙!不思議!!大不思議!!!●諸君!若しも人間、以外に文字を書くものがあったらばナント奇妙の骨頂ではありませぬか、諸君よ梅田の駅前に立て試に西方の空を眺めよ●まばゆきばかりの朱塗の高塔峨々として雲際に聳て居る若し夫れ之を夜間に見ば諸君は人ならずして仁丹の文字を書く大不思議を此塔の中間に認むるであらふ●此発明は本舗が実に莫大の費用を投じ苦心惨憺の結果に出たもので彼の赤青白の三色の電光が代りがわり仁丹の筆法を追て活動変色し行くに至っては流石の●キリスタン バテレンもあっと驚く霊妙不思議の仕掛である本舗は之と同式のイルミ子ーションを客年東京にも増設したが●今日は恰も新嘗祭、大阪見物の方々は何は兎もあれ土産話に必らず見よ書方活動式仁丹のイルミ子ーション」
~明治42(1909)年11月23日、大阪毎日新聞より~



同じような広告塔は東京にも作られました。こちらは東京朝日新聞です。

「弊舗は昨年来三府其他有数の都市に対し単式イルミネーションにて仁丹広告の掲示を開始し過般京坂両地には更に数色一斉点滅式を増設せしが今回前記神田明神(開花楼上)に装置せし、書方活動式三色イルミネーションは客冬多額の賞を懸けて発明し当春以来大阪道頓堀にて多大の好評を博したものなり」

とのこと。イルミネーションの動き方が書き順通りに図示されています。


~明治41(1908)年10月12日、東京朝日新聞より~




**********



これだけ広告が盛んになると、当然出てくるであろう広告に対する行政の規制ですとか広告への反発の話をそろそろ書きたいのですが、ボリュームが増えてしまいましたので、今回はこの辺で。


~つづく~


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2013年03月28日

明治期の新聞にみる仁丹広告(3)

明治期の新聞にみる仁丹広告(3)

~海外進出と仁丹広告~


時代背景や広告活動など、幅広く様々な分野から仁丹町名表示板のナゾに迫ろうと、明治期の新聞広告を調べ始めました。今回はその第3回です。

少し時代は下り、大正初めの新聞広告が中心になりますが、海外進出を積極的に進めた仁丹の様子を新聞広告から見てみたいと思います。

まずご覧いただきたいのは、大正2(1913)年8月28日の大阪毎日新聞に見開き2面で掲載された「仁丹の世界号」です。


~大正2年8月28日 大阪毎日新聞より~


この広告は主要各紙にも同様のものが載っています。
東京朝日では1面サイズで載ったのですが、さすが大阪、こちらは2面ものです。
しかも後にも紹介している広告と併せて、3回連続で2面ものの広告が載りました。

国内販売のみならず積極的に海外販売も行った仁丹は、その売り上げを急増させています。
広告の真ん中には毎年の売り上げの伸びを示す棒グラフが描かれています。
一番右の棒が明治38年で、左へと順次進み、一番左の棒が大正2年のものです。

販売を始めた明治38年の売り上げが11万4320円であったのに対し、大正元年が232万7070円、2年にはなんと前年の倍近い401万9190円の売り上げを記録しています。

また周囲には中国、東南アジア、インド、南米など様々な地域での仁丹のロゴが示されています。いくつか例としてピックアップしましょう。



ちなみに、その1年前にも同じような「仁丹の世界号」が掲載されました(大正元(1912)年9月19日)。こちらは、各地の広告がロゴと説明書きを加えた形で掲載されています。両サイドのコピーも趣旨は同じですが微妙に文面が異なります。


~大正元年9月19日 大阪毎日新聞より~


※  ※  ※

仁丹は発売2年後の明治40(1907)年には輸出部を設け、世界各国で仁丹の商標登録を行うとともに、まず中国を足掛かりに海外市場開拓を目指しました。
商品名「仁丹」は、『森下仁丹80年史』によると、ネーミング当初から中国語圏の市場を狙ったものであったとされています。

さらに明治44(1911)年にはインドのボンベイに代理店契約をし、従業員を派遣、翌45年にはボンベイ支店を開設するなど、インドにも積極的に売り込みを仕掛けました。『80年史』によると、大正10(1921)年頃にはインド全土で代理店50、販売店5000軒の販売網を作り上げ、中国市場に並ぶ大市場となったそうです。

特に売れ行きの多かったインドや中国の様子が分かるのが、大正2(1913)年8月22日、24日に相次いで掲載された2面繋がりの広告、「仁丹の印度号」「仁丹の支那号」です。


~大正2年8月22日 大阪毎日新聞より~



~大正2年8月24日 大阪毎日新聞より~


こちらでは、現地の販売代理店の様子、各地の大掛かりな広告の紹介やキャンペーンの様子も写真付きで紹介されています。

たとえばインドでは、国王殿下も常用していること、熱帯地域で暑さをしのぐためにも仁丹が有効であることを宣伝したうえで、各地における看板や広告の例が載っています。
右下のボンベイ市内の看板、インド版とはいえ日本と全く同じ漢字の仁丹が描かれています。

中国でも同様に多くの広告が打たれています。上海の博覧会で出された仁丹のロゴ入りの門、上海にはそれぞれ50畳の大きさの「仁」「丹」の看板、天津ではなんと90畳サイズの巨大仁丹看板など。左下は新聞の印刷画像のクオリティが分かりづらいですが、広告隊の写真が載っています。

※  ※  ※


明治42(1909)年4月1日には面白い広告を出しています。
こちらは大阪朝日新聞ですが、普段は横顔しか見えない仁丹の外交官が、なんと全身像で描かれています。


~明治42年4月1日 大阪朝日新聞より~


世界各国の人たちが仁丹を絶賛しているという図です。
ちなみに、大正10年には外国で登録された仁丹の商標の数は、なんと136件にも達したそうです。

この全身が映っている仁丹外交官、実はその1年前にデビューしています。
明治41(1908)年8月15日付広告なんですが、赤痢やコレラなどの悪疫を製品の香りだけでグニャグニャにしてしまう仁丹外交官が実にカッコイイ!!


~明治41年8月15日 大阪毎日新聞より~


リアルな全身外交官たちならば、先日当ブログでアップした「森下仁丹120周年記念コンサート」の写真をご覧いただければと思います。社員の皆さんがその装いをしておられ大いに注目を浴びていました。

※  ※  ※


明治43(1910)年3月1日の大阪毎日新聞では、仁丹外交官が可愛い坊やになっています。その坊やが乗っているのは世界地図が書かれた地球の自転車。前かごには毒滅も載っているのがお分かりでしょうか。


~明治43年3月1日 大阪毎日新聞より~


※  ※  ※


もうひとつも明治45(1912)年6月5日の大阪毎日新聞です。
「仁丹は今や万国に発展しつつあり」というおっちゃんの周り、世界各国の切手の写真が国名と共に貼られています。両脇に説明書きがあり、「郵便の到る処仁丹あり」として、この写真が世界各地の仁丹代理店から来た手紙に貼ってあった切手の写真であることが書かれています。
仁丹の躍進の様子がわかるかと思います。

~明治45年6月5日 大阪毎日新聞より~




~つづく~

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2013年03月20日

明治期の新聞にみる仁丹広告(2)

明治期の新聞にみる仁丹広告(2)

~仁丹の急成長と新聞広告~


前回ご紹介した仁丹の新聞広告の続編です。
今回は、明治38年に発売を開始した仁丹の急成長を新聞広告がどのように支えていたのかを見て行きたいと思います。

前回は大阪朝日をとりあげましたが、今回は当時大阪朝日と共に日本でもトップクラスの売り上げを誇り、広告にも積極的に取り組んでいた大阪毎日新聞を中心に見てみましょう。

大阪毎日での全面広告の掲載回数をカウントしてみると、仁丹販売年の明治38(1905)年は13回、翌39(1906)年は19回、明治40(1907)年が25回となりました。
明治41(1908)年になると、多い月では7回も掲載され、トータルでは48回、明治42(1909)年には52回にまでに達します。
また、時には2面繋がりの大きな広告が掲載されることもありました。
これらの数はあくまでも全面広告に限ったもので、小さな広告や半ページ程度のサイズの広告なども掲載されており、仁丹の広告が載らない日はほぼなかったと言ってよいと思います。

ちょっと一例をご紹介します。少し時代は下るのですが、大正3(1914)年8月2日の広告です。
この広告、まるで町名表示板みたいに見えませんか?


~大正3年8月2日 大阪毎日新聞より~


さて、仁丹はどの程度新聞広告に予算を投じていたのでしょうか。
内川芳美編[1976]『日本広告発達史(上)』では、雑誌「日本及日本人」明治43(1910)年8月1日号に寄せられた仁丹広告についての投書が紹介されています。

そこには、『広告費は年額十二万円と噂されて居るが、果して真ならば白瀬の南極探検隊が三個組織さるる。』と書かれていました。

明治37(1904)年、おおよそ20万部を売り上げていた大阪朝日新聞、大阪毎日新聞の定価は一カ月48銭、広告料は1行42銭でした。
その数年前のデータですが、明治34年ごろ、東京朝日新聞では全面広告を出すと150円の広告費だったそうです(日本電報通信社[1951]『広告五十年史』より抜粋)。
仁丹の広告費がいかに大きかったか御理解いただけるのではないかと思います。

※  ※  ※


当時、このような広告を展開したのは仁丹だけではありません。
他にも化粧品や医薬品を中心に、ライバルといいますか同じように広告に力を入れていた企業もあります。

ちょっと脱線しますが、仁丹と比較するという意味で、いくつかその中からご紹介してみましょう。

例えば現在のロート製薬の前身である山田安民薬房の「ロート目薬」、「胃活」の広告です。胃活のトレードマーク、仁丹となんか似てますね。


~明治42年10月1日 大阪毎日新聞より~



~明治39年6月1日 大阪毎日新聞より~



他にも、今でも現役の企業としては、たとえば「中将湯」、「ライオン歯磨き」なんかはおなじみの商品かと思います。

~明治42年11月5日 大阪毎日新聞より~



~明治43年5月1日 大阪毎日新聞より~


山崎兄弟商会の懐中薬「ゼム」は、当時は仁丹とならぶ懐中薬の売れ筋で、石川啄木の歌集「悲しき玩具」にも登場するそうです。


~明治39年4月8日 大阪毎日新聞より~



「脳丸」も同じく山崎兄弟商会が販売していました。こちらの本社は東京の山崎帝国堂(今でも便秘薬毒掃丸でおなじみです)。


~明治39年5月2日 大阪毎日新聞より~



人の横顔が非常にインパクトのある「健脳丸」は、大阪で今でも現役である丹平製薬による製品です(現在の健のう丸は便秘薬です)。


~明治39年5月18日 大阪毎日新聞より~



イヌがトレードマークだった「清快丸」を生産していた高橋盛大堂は、現在でも大阪で盛大堂製薬として営業されています。


~明治39年9月20日 大阪毎日新聞より~



小西久兵衛が製造していた栄養剤の「次亜燐」は、「人体の肥料 牛乳の数十倍」をキャッチコピーにしばしば全面広告を載せていました。こちらは相撲取りがマスコットキャラです。


~明治43年5月8日 大阪毎日新聞より~


当時の製品のマスコットやデザインには、非常に強いインパクトがありました。
脳に効くから頭を押さえる、頭のドアップ、胃腸薬なら胃のドアップ、淋病の薬は前かがみ…などなど。


~明治39年8月2日 大阪毎日新聞より~



~明治39年7月11日 大阪毎日新聞より~


ビスマルクの横顔の毒滅も、大礼服の外交官の仁丹も、同じように大きなインパクトがあったに違いありません。

※  ※  ※


これら広告の中でも、仁丹は広告の回数、量、内容ともにトップクラスでした。
とりわけ仁丹の全面広告は毎回デザインやコピーに趣向を凝らし、内容を変えたものを使用することが多く、どれも非常に面白い内容になっています。
他社の広告には一度使用した図案を使いまわすケースがしばしばみられたのとは大きな違いだと思います。

また、仁丹の新聞広告は、単に製品を宣伝するだけでなく、そこに様々な世代を対象にした企画を付け加えました。

たとえば、「仁丹ポンチ」という子ども向けの漫画。


~明治41年9月10日 大阪毎日新聞より~


また、全国の子供たちから習字を募集しています。面白いのはこの広告で「学校の生徒毎朝仁丹2、3粒づつ常用せば著しく記憶力を増進し物忘れせず」とアピールしていることです。


~明治42年3月2日 大阪毎日新聞より~



子供に限らない懸賞広告も出ました。
明治38(1905)年10月22日付の広告、これは仁丹を買わなくても新聞広告に10日間連載される問題の答えを応募すれば、賞品が当たる!というものです。
しかも、以前の記事を読み忘れた人のために、問題を改めて全部書いてあげるという優しさまで(笑)見せています。


~明治38年10月22日 大阪毎日新聞より~


義損や寄付もしばしば行われました。
明治43(1910) 年に起きた潜水艇事故の殉難者の記念碑作成、大火事への義損を募るものです。
この広告で注目したいのは、トータル3千円の寄付金のうち、2千円分は仁丹本舗が支出、残り1千円分はこれから7日間の仁丹購入を通じて一般消費者も寄付に参加できますよ、という点です。
現在も行われているCSR(企業の社会的責任)に絡んだ広告をいち早く行っていたことになりますね。


~明治43年5月11日 大阪毎日新聞より~



また、中国で起きた辛亥革命に対し仁丹を9万包寄贈したことを伝える広告です。


~明治44年11月24日 大阪毎日新聞より~



この後、翌年の1月には関係者から贈られた感謝の書が広告に載りました。

さらに仁丹はありとあらゆるシチュエーションに万能薬として効果がありますよ、というアピールがされました。
次の広告は大正3年5月19日のものですが、左下に書かれているのは、この年の2月11日からスタートした「金言広告」と呼ばれるもので、屋外広告や新聞広告には古今東西の著名人の「金言」がつけられました。


~大正3年5月19日 大阪毎日新聞より~


※  ※  ※


辛亥革命が起きた中国に9万包も仁丹を寄贈したのは、当時すでに森下仁丹が海外市場を積極的に狙って販売を進めていたからです。

さて、今回の記事、かなりボリュームが増えてきてしまいましたので、いったんこのあたりで終わりにするとして、どのように仁丹は海外市場に進出して行ったのか、海外では外交官の大礼服ロゴはどうなっちゃうのか、広告はどうしていたのか?

そのあたりを次回考えてみたいと思います。

~つづく~

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2013年03月04日

明治期の新聞にみる仁丹広告(1)

明治期の新聞にみる仁丹広告(1)

~発売当初の新聞広告~

森下仁丹が京都市内に町名表示板を次々と貼っていったのは、既に御存じのとおり、「広告益世」なる思想のもとでと、社史などでは説明されています。

当時の森下仁丹は、町名表示板の他にも、全国各都市の店先に仁丹の看板を取り付けたり、大都市に広告塔を建設したり、新聞に大々的に広告を載せたりと、宣伝活動に非常に力を入れていました。

京都仁丹樂會では、まだまだナゾの多い町名表示板が京都で広まっていった経緯について、当時の新聞報道も一つの手掛かりとして研究していこうとしています。
そこで、同じ大礼服マークの仁丹ロゴが様々な形で登場している新聞広告を題材に、仁丹の販売開始直後の宣伝活動と販売の急速な拡大がどのようなものであったのか、何回かに分けて御紹介したいと思います。

※  ※  ※

現在の大手3紙(読売、朝日、毎日)は、いずれも発刊以来の新聞をデータベース化しています。大きな図書館や研究機関、大学図書館などでは利用可能かもしれません。

その中で、たとえば読売新聞のデータベースで「仁丹」と言う検索ワードで検索をしてみると、明治40(1907)年7月6日のものが最初にヒットします。
読売のデータベース上では、仁丹の発売から5年後の明治43(1910)年には、年間を通じて全33回仁丹の広告が掲載されており、そのうち全面広告は13回も行われています。

仁丹が発売された当初から新聞広告を掲載していたはずなのでは?と思った方、その通りです。仁丹創業者の森下博は、昭和15年の『広告論叢』なるもので次のように述べています。

明治三十八年の紀元節に出した我が仁丹の創売広告は勿論、その五ヶ年前に発売の毒滅の広告も既に扱ふて頂いたのであるから…
~森下博「萬年社と我が仁丹」萬年社編『広告論叢』第二十九輯、昭和十五年 より~


ただし、この創売広告が何を指しているのかは不明です。発売日の紀元節前後では広告の掲載はありません。

仁丹は新聞広告の展開にあたって、明治23年6月に大阪に設立された広告代理店萬年社と緊密な関係を築いていました。

※  ※  ※

さて、萬年社との緊密な関係のもと、どのような新聞広告が出されたのでしょうか。

朝日新聞のデータベースで「仁丹」をキーワードに検索をすると、明治38年10月10日の「東京朝日新聞」の広告が最初という結果になります。
しかし、この検索では当時紙面・広告の内容が全く異なっていた「大阪朝日新聞」の広告まではヒットしてきません。
また、主要各紙の中でも大阪朝日新聞は、懸賞を出して広告デザインを企業に競わせるなど、新聞広告とそのデザインの質の向上に非常に力を入れていました。

そこで大阪朝日新聞の紙面を仁丹の発売が始まった明治38年2月11日以降見ていくと、明治38年だけでも仁丹(当時は森下博薬房)は広告を45回掲載しています(何回かは毒滅と共同のもの)。
しかもそのうち全面広告がなんと29回もあるのです。

初めて仁丹が登場するのは、5月10日の次の全面広告です。

~明治38年5月10日 大阪朝日新聞より~


「完全なる懐中薬」「消化と毒けし」をキャッチコピーに、開発に関わった学者、またその効果を証明する学者、陸海軍の軍医総監のお墨付きまで付いています。

「博士の懐中薬と御指名を乞」という表現も面白いですね。当時の薬品の広告には、その効果を示すために権威ある学者さんの名前を大々的に打ち出すことが多くありました。これは仁丹より5年前に発売した毒滅でも同じです。

※  ※  ※

その1週間後の17日、仁丹は次の全面広告を掲載します。

~明治38年5月17日 大阪朝日新聞より~


前回よりももっと凛々しい感じがします。
上部の「JINTAN」の模様もかっこいい!顔の陰影がついて彫りも深い感じですね。

※  ※  ※

続いて19日には公園の池でしょうか、その傍らに大きな仁丹の看板が立っています。

~明治38年5月19日 大阪朝日新聞より~

※  ※  ※

さらに26日には、大きな仁丹の看板を描いている人の構図で全面広告が描かれています。
こちらは森下仁丹HP上の歴史博物館、広告ギャラリーにも載っていました。

~明治38年5月26日 大阪朝日新聞より~


よく見ると右奥にビスマルクの「毒滅」も描かれているところが面白いですね。


このように仁丹は一カ月の間に4回も全面広告を載せていることになります。
8月は何と7回です。

当時、大阪朝日新聞の紙面は10面程度で広告に割けるスペースは3面程度でした。
多くの企業は小さなサイズの広告を載せるケースが多く、全面広告を載せていたのは化粧品や医薬品の企業を中心として、せいぜい月に1―2回程度でした。
他の企業と比較しても、仁丹がいかに広告に力を入れていたかが分かるかと思います。

※  ※  ※

さて、以上の4枚、よく見て頂くとロゴが微妙に違うことが分かりますでしょうか。
1枚目は英語表記がTHE JINTAN、そして大きな漢字の仁丹の脇にはハングルとカタカナの表記があります。
これは仁丹HPによると輸出用のロゴとのことですが、更に時代が下ると輸出国向けに様々な文字の仁丹が登場します(これは次回)。

英語表記もただのJINTANと書いた3番目のように微妙に違いますし、1枚目以外では漢字の脇の表記は、ひらがなで「志゛んたん」と書かれており、左側にはお墨付きがつけられています。

※  ※  ※

最後の画像は次の明治38年5月10日に「大阪毎日新聞」に掲載された方の仁丹です。

~明治38年5月10日 大阪毎日新聞より~


1枚目の写真の大阪朝日と同じ日付にもかかわらず、広告の説明文が違っているのが分かりますでしょうか。

さらに、こちらの仁丹ロゴには、ハングルの表記はなく、お墨付きや製造元の森下博薬房の説明文が書かれています。

おそらく、発売当時はまだ明確なロゴの中身まで厳密には規定されておらず、一面広告をレイアウトする上でいろいろな調整がされながら、また図案の下絵を書いた担当者、版木を彫った職人の表現の微妙な違いで、表情や細かいデザインのレイアウトが異なったものだと思われます。

次回はそんな仁丹広告の面白いものをいくつか見つくろってご紹介したいと思います。

~つづく~

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