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2016年09月18日

仁丹と文学散歩 ~その15 蘭 郁二郎 ~

仁丹と文学散歩 ~その15 蘭 郁二郎 ~


科学小説を独立したジャンルに押し上げたのは、海野十三と蘭郁二郎です。血湧き肉踊る戦前の海外の空想科学映画などに刺激を受けた蘭は、次々と新発明、怪兵器を登場させることで、独自の作品世界を構築しました。さらに蘭は、クリーンエネルギー、核エネルギーなど、人間の生活そのものにも興味を持っていました。しかし、核には危険な匂いを嗅ぎ取っていたようで、『宇宙爆撃』(1941年、未発表)では、極大宇宙と極小宇宙の奇怪な強迫観念にとり憑かれ、原爆で地球を破壊しようとする技術者を登場させます。磁気学研究所ボルネオ支所の村尾は、“原子爆弾による元素の置換”などという得体の知れぬ研究に没頭するある日、水銀の小粒が一夜にして、床に落とすとカチ、カチと弾み、叩くと割れる怪異現象を目の当たりにし、興奮収まらぬ手紙を日本の上司に送ります。


僕の実験室で大異変が起ったのです。(中略)その大異変というのは実験材料として置いた一粒の水銀が、いつの間にか忽然として自然変質をしてしまったのです。愕くべきことです。純粋な水銀が、得体の知れぬものになってしまったのです。(中略)僕がぎょっとしている間に、石井さんは手許にあった金槌で叩き潰してしまいました、そしてこの水銀は茶色の粉となってしまいました。なんという愕くべきことでしょう。僕は急いで他の水銀を調べました、しかしその他の水銀には一向変化が認められません、この粉砕された一粒だけが変質しているのです。この怪異は何を物語っているのか。・・・・僕は宇宙爆撃の恐怖が裏書きされたように思われます。つまりこの水銀の中の電子には、我々の地球以上の高度な科学があったのだ、そしてやがて自分たちの宇宙がこの僕によって爆撃されることを予知して、その前に、自らの力によって自分の宇宙体系を爆砕し変換せしめてしまったのではないか、




室温で唯一の液体金属である水銀には、水の6.6倍というその強い表面張力により、表面をできる限り小さくしようとする性質があります。そのため、仁丹くらいの大きさにすると、ほぼ正円に近づきます。これを利用して、水銀の一粒を仁丹とすり替える婚約者の可愛いいたずらが生真面目な科学者に「物理学上の大発見」と誤解させる姿は、銀色の仁丹の中身が茶色だという小事実も付加されて何とも笑いを誘います。また、その変化した水銀のエネルギーが何やら軍事用の巨大破壊兵器を連想させるのは、戦争を目前にした蘭自身の武者震いの波動なのかもしれません。昭和19年1月5日、台湾の高雄基地を発ったダグラス機は、濃霧の中、寿山に激突しました。同乗した報道班員作家の蘭郁二郎、30年の生涯でした。(完)

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タグ :蘭 郁二郎


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2016年06月11日

仁丹と文学散歩 ~その14 木村 荘八 ~

仁丹と文学散歩 ~その14 木村 荘八 ~
   

明治5年の築地火災がきっかけで、明治十年代の銀座煉瓦街が建設されたのを皮切りに、関東大震災、第二次大戦と相次ぐ大被害を受けながら、東京は不死鳥のように蘇り、復興、発展してきました。この東京で、時代に取り残された庶民の暮らし、移ろいやすい風俗の断片を、下町の侘しい情調、雰囲気とともに、ペン画で培った濃淡を効かせた雅趣豊かな筆致によって見事に再現したのが、木村荘八の『東京の風俗』(昭和24年、毎日新聞社)です。『墨東綺譚』の挿絵でも知られる木村は、本作を単なる印象記や懐古趣味で終わることなく、そこに史的展望をも重ねている、見事な文明批評に仕立てました。その中の「九、広告」で、戦後まもなく、東京鉄道局が各駅構内の広告をランク付けし、選賞を貼り出したことに、「街頭美術」や「広告技術」興隆の貢献者として賛辞を送っています。

この五月初め(昭和廿二年)に東京鉄道局が主催して、主として鉄道各駅の構内に人目を誘ふ広告板、ポスターの類を、選にかけて、一等、二等など、その出来栄えの等級を明かにする企てを試みたのは有意義のことだつた。(中略)。五月の広告選賞の結果は、早速新橋駅ホームなどに公表されて、その広告の現品もそれぞれ駅に等級を示して張出されたから、東京の人の、眼にされた方もあつたらう。
 街頭美術に公知の前で等級がついて示されたといふことに、年代記風な意味があつた。(中略)例へば
「仁丹」の、ひげをはやした礼服の人物の胸像は、街頭美術として選賞したならば、何等ぐらゐに入つただらうか。あるひはゼムのひし形の顔だとか、大学眼薬の眼鏡をかけた顔とか、花王石けんのしやくれた月形の横顔、さかのぼつては煙草のオールドの勧進帳を読む弁慶の像など……



木村自身、ビクターの首を傾げる白犬や、ジレットの涼しげな顔剃り絵なども入選、と自己採点しています。広告(広ク告グル)とは、多少なり響きの強いもので、人目だけでなく、記憶に相当浸み透る作用を持つようです。木村は当時の少年としては少数派の通過儀礼として、標語や宣伝看板に興じました。中でも目を強く誘われたのは、石町の角にある土蔵の白壁に麻裃の老人が、両手に酒瓶をつかんで破顔する広告絵でした。後年、木村はこの銘酒「雪月花」の老人の、八方にらみの眼は忘れられないと述懐しています。仁丹の大礼服や大学目薬の顔を、単に広告にとどめず、街頭美術と標榜した木村の審美眼は、戦災で破壊された東京を、雑踏と混沌の中で地息を吐き、呼吸する生命体のように浮かび上がらせています。

次回は、蘭 郁二郎 を訪ねてみましょう。

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タグ :木村荘八


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2016年05月24日

仁丹と文学散歩 ~その13 正岡 容 ~

仁丹と文学散歩 ~その13 正岡 容 ~
  

明治大正から昭和への寄席・落語の名人たちの話芸を書き残した正岡容は、その緻密で、かつ変幻自在な運筆から、江戸文芸・江戸芸能のパロディ作家・江戸通として陽気に賛美される反面、その過激な言動から否定的な評価、解釈もまた受けるようです。そのような毀誉褒貶の中で自ら傷つき、放浪し、鬱積した執念を諧謔の閑文字に綴りつづけました。この矛盾する姿が、友好のあった落語家桂米朝のもう一つの顔の上方芸能の学者の源を形成し、俳優小沢昭一の放浪芸の役作りのに連結していきました。昭和18年の随筆集『随筆 寄席風俗』は大正末年の江戸の寄席風景を描いたもので、その中の一編「百面相」には、高座の上で百なまこ(=目かづら)や、ありあわせの小道具を使って多様な人物や生き物の表情やしぐさを滑稽に演じる‘百面相’という座敷芸が登場します。この滑稽技を得意とする芸人松柳亭鶴枝の、飛び跳ね転げまわる姿が、桟敷席の笑いと涙を誘います。



鶴輔からなった今の鶴枝も、しかし、けっして愚昧でもない。第一、楽に時代と一緒に歩いているところに、先代同様の怜悧を感じる。この頃、高座中真っ暗にして紅青いろいろの花火を焚いたりすることも、ますます百まなこ精神からは邪道なわけだが、凝ってあたわざりし思案だとも思えない。この男のでは、 仁丹の広告 が、時代的で妙に好きだ! 兵隊さんの行軍も先代のそれとちがって、もはや新世紀のカーキ色なることが大正味感が感じられていい。近頃、さらにその行軍から想いついて、マラソン競走を同じ段どりでみせている。まだ兵隊ほどこなれないが、いだてんの合方をひかせてやるのなど、いよいよ大正風景で愉快である。



鶴枝が大礼帽に髭の目かづらに変えると、客がすぐに「ああ、あれか」と頷くほど、仁丹の軍人姿は市中の風景に同化していたようです。ただ、軍服を明治期の先代鶴枝のような礼装ではなく、大正になって平時着用として採用されたカーキ色にしたのは現鶴枝の先代を超えたい工夫でした。芸人と聴衆とが掛け合いに興じる大衆寄席の活気の肩越しにも、これから続く、長く、暗い道のりが影を落としています。ライバルで、瓜生岩子の銅像や、らっぱ節の村長の吉原参りを持ち芸にした同じ百面相の福園遊は、今の時代とは縁なき衆生として正岡の同情を買っています。大正末期ですら、もう〝明治は遠く〝になっていたようです。

次回は、木村荘八 を訪ねてみましょう。

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タグ :正岡 容


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2016年05月05日

仁丹と文学散歩 ~その12 海野 十三 ~

仁丹と文学散歩 ~その12 海野 十三 ~
  

中学時代に図書委員であった北杜夫は、その役割を利用して学校図書館の海野十三の空想科学小説を自ら貸出し、占有していました。また手塚治虫少年も海野に熱狂し、のちに海野のSF感覚を受け継ぎ、それを視覚化した作品を数多く残しました。科学的裏付けを重視する海野の作風は、SFと共に推理探偵小説でも発揮されます。その一つが『電気看板の神経』(昭和5年、博文館)です。カフェ「ネオン」で連続する女給の感電殺人事件。その感電死の真相をネオンが暴露する筋立ては、海野お得意の科学知識を駆使したもので、瞬きする電気看板の恐怖と、科学オンチの電気恐怖症の男の登場という取り合わせが一種の笑いを誘います。

あの電気看板はいつも桃色の線でカフェ・ネオンという文字を画いている。あれは普通の仁丹広告塔のように、点いたり消えたり出来ない式のネオン・サインなのだ。そしてあの電気看板は毎晩、あのようにして点けっぱなしになっている。(中略)。それだのに、けさ方、二時二十分にあの電気看板が、ほんの一秒間ほどパッと消えちまったのだ。そのあとは又元のように点いていたが……。停電なら、外に点っている沢山の電燈も一緒に消えるはずじゃないか。ところが、パッと消えたのはここの電気看板だけさ。二時二十分にふみちゃんが殺される。電気看板がビクリと瞬く――気味がわるいじゃないか。僕は、はっきり言う。あの電気看板には神経があって、人間の殺されるのが判っていたのだ。そして僕にその変事を知らせたのに違いないんだ。」



ここでは仁丹広告塔が、窓から見える街中のさりげない風景として、また、点滅ネオン広告塔の代名詞として登場します。点滅する仁丹広告塔を遠景に据え、消えるはずのない近景のカフェの常灯看板が瞬停したことを、その瞬間に首に電極を当てる残虐で巧妙な殺人の立証に誘引する構成は、いかにも電気技師・海野の面目躍如たる発想です。当時は、機械技術の進歩により、科学技術に楽観的な感想を持つ世相の反面、電気や電波といったものに拒否反応を示す人々も存在しました。海野は科学を妄信するのでなく、峻厳な、非人情な、本当の科学精神を探ろうとしました。作品の随所に科学を活用するものの心得についての意見をさり気なく挿入するのも、子供のままごとのような「科学する心」信者への冷静な皮肉が漂う海野作品の特徴と一つといえるでしょう。

次回は、正岡 容 を訪ねてみましょう。

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タグ :海野十三


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2016年03月15日

仁丹と文学散歩 ~その11 加能 作次郎 ~

仁丹と文学散歩 ~その11 加能 作次郎 ~
  

自らの少年期の難苦を描いた加能作次郎の処女作『世の中へ』(大正7年、読売新聞連載)は、出生地の能登に盛んな浄土真宗的な諦念に由来する穏やかな、人情味のある私小説で、自然主義後派の流れを汲む現実的で、広がりの大きい作品です。十三歳の作次郎は、継母に気兼ねする父親を憚り、ほとんど逃げ出すように故郷の山河に別れを告げ、四條橋の西詰めで宿屋を営む伯父を頼って京都に出ました。先に京都に出た姉と過ごす京都の雑踏は、商家の丁稚にとって、緊張と疲労が解けやらぬものでしたが、店務めは漁仕事からみれば退屈と窮屈そのものでした。そんなある八月の日盛りの中、まだ街の東西も知らず、言葉もろくに聞き取れない丁稚は、西洞院蛸薬師の伯父の妾宅まで、使いに出されます。小さな背中に背丈ほどの大包みを荷う恰好は、まるで亀が後脚に立って蠢いているようでした。


~大正10年頃の新京極~


私が來て間もない頃であつた。或る日私は使にやられた。眞中に四つ目の紋を、一端に浪華亭と白く染め抜いた一反風呂敷に、夜具か何かを嵩高かさだかに包んだ私の身體よりも大きな包みを背負つて、私は敎へられた通り、辻々の電信柱に貼つてある町名札を見ながら、西へ西へとよちよちと歩いて行つた。それが私が使に出された始めての經驗であつた。そして、もう四條通りも端に近い或る町の、狹い露地奥の小さなしもた家で、私はその大きな包みを下した。私は家の中へは上らなかつたが、入口の土間に立つて居ながら、奥の方に子供でも生んで寢て居るらしい若い女の姿を見た。それがお信さんであつた事が後になつて解つた。

道を尋ねる術も知らず、そんな勇気もない丁稚が唯一頼りにし、迷子にならず路地一つ間違いもしなかった「町名札」とは、一体何でしょう。大正10年3月に東京市は京都市に市の費用で施設した町名番地札の照会を出し、その返書に京都市は、「町名札は該当なし。町による道標は稀にあるが年月、予算は不明。各町には仁丹が貼付した町名札あり」としています。つまり、町や市製の町名札ではどうやらなさそうです。では、京都市もその存在を認めた仁丹の町名表示板のことでしょうか。しかし、京都での仁丹町名表示板は設置対象が家屋であり、辻々の電柱には貼られていないことから、それでもないようで、残念ながらその正体はつかめません。田舎から出てきて間もない少年を、迷わず行き先に導く水先案内となった“作り人知らず”の町名札は、今では京都の辻々を行き来した大正人の眼底に残るのみです。
次回は、海野十三を訪ねてみましょう。

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タグ :加能作次郎


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2016年02月21日

仁丹と文学散歩 ~その10 島崎 藤村 ~

仁丹と文学散歩 ~その10 島崎 藤村 ~
  

56歳の大正12年、藤村は脳溢血で倒れました。その後保養が欠かせなくなった藤村は取材を兼ねて足繁く旅行に出かけるようになります。翌年から取りかかる『夜明け前』の準備の寸前旅行として、次男で欧州留学を控えた二十歳の雞二を同行して、昭和2年7月に山陰に向かいました。その翳りある語感とは裏腹に、ふくよかな人情と風情を包摂する「山陰」は藤村の視線を独占しました。この時の滞在記が『山陰土産』(昭和2年、大阪朝日新聞連載)です。



城崎の湯船で聞いた北但馬地震からの復興の残響も冷めやらぬまま、境港から港間を継ぐ定期船に岡田汽船会社の社員らと乗船した両名は、疲れきった筋肉や神経を清く新たにするような日光と海風が身に浸み渡るのを覚えながら、やがて凪の出雲浦を過ぎ、波立つ外洋の雲津、七類へ差し掛かります。

鯨ヶ浦を過ぎ、雲津を過ぎた。[中略]岡田丸では、舳に立つ老船長が自分で舵機をとつて、舵夫の代理までも勤めてゐるが、それが却つて心易い感じを乘客に與へた。何となく旅の私達まで氣も暢び々々として來た。
 いつの間にか同行の古川君の顏が甲板の上に見えなかつた。同君も船に慣れないかして、船室の方へ休みに降りて行つたらしい。そのうちに、鷄二もうつとりとした眼付をして海の方を眺めてゐるやうになつた。
「どうしたい。」  「なんだか僕もすこし怪しくなつた。」  「こんなおだやかな海で醉ふやうなことぢや、船には乘れないな。」
 私は渡邊君から分けて貰つた
仁丹などを鷄二に服ませ、少し甲板の上を歩いて見ることを勸めた。


~大正3年5月1日 大阪毎日より~


明治38年の発売以来、「健胃」や「毒消」の能書に加えて、病気でない人の必携剤、少時も懐中を離すべからず、といった類の群発広告による「仁丹効能」の刷り込みが奏功し、車船中でのありふれた“胸の不快感や酔い止め”と“仁丹必携”との短絡的な意義付けが、当時日常的に認識されていたようです。船酔いした雞二のような「無病の人」に同行者が何の躊躇もなく、至極自然に仁丹を勧める情景がそれを物語っています。大阪駅を端緒とした山陰の旅は、十六話の津和野で中学の友人たちと酒を酌み交わし、暮れ行く停車場で、発車が迫った小郡行の汽車に乗り込むところで終わります。山陰記の余韻を残したまま、藤村は大作『夜明け前』に対峙しはじめました。

次回は、加能 作次郎 を訪ねてみましょう。
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2015年12月20日

仁丹と文学散歩 ~その9 木下 杢太郎 ~

仁丹と文学散歩 ~その9 木下 杢太郎 ~


旧制高等学校生の太田正雄は、農夫生活の作詞を機に、『樹下に瞑想又は感嘆する愚なる農夫の子』の意味で「木下杢太郎」と名乗りました。その後東大医学部に進んだ杢太郎は、明治43年3月29日から4月3日の6日間、関西に滞在し、その時の印象を紀行文『京阪聞見録』(三田文學会、1910年)にまとめました。神戸の名所絵を見るような異人館に幻滅し、町人という一階級しかないような大阪に雑踏酔いした杢太郎の目には、訪れた京都はひとえに他郷人のために町の計をなしているように見え、異人たちが無抵抗に溶け込んだ風景に驚きを覚えます。都踊が始まるまでの時間つぶしに入った鴨川の四條橋畔のレストランから、河原で繰り広げられる友禅流しの作業を眺め、職人の鮮やかな手捌きと、流れに遊ばれる友禅ムスリンの躍動を、科学者らしい緻密な分析で綴っています。その風景とは、

目の下に見える四條の橋を紹介しよう。「嶋臺」といふ酒薦の銘が大杉に向河岸の屋根を蔽うてゐる。そこに赤い旗があつて白く「豊竹呂昇」と染め抜いてある。まだ燈の點かぬ仁丹がものものしげに屋根の上に立つ。欄干の電燈の丸い笠は滑石の光澤で紫色に淀んで居る。その下を兵隊が通る。自動車、人力、荷車、田舎娘の一群が通る。合乗に二人乗つた舞子の髷が見える。かみさんの人が下女を連れて芝居の番附を澤山に手に持つてゐるのが通る。二人の女に、各一人の男が日傘を翳しかけてやつてゐるのが通る。あれは祇園の家々の軒を「ものもお、ものもお」と紙を配りながら大聲で誰とかはんのお妹はんが云々と呼んでいく人達であらう。(中略)。ああ河岸にはじめて燈が點いた。予等は之から歩かねばならぬ。「おお、ねえさん、それぢや勘定!」(四月三日、京都にて。)





杢太郎の京都滞在と同時期の明治43年7月11日消印の絵葉書「京都四條磧夕涼」には、南座前の河原で、燈が入って酔客を抱えた夕涼みの屋形船や出店を跨ぐようにして、大形な大礼服の仁丹看板が二本の柱で屹立しているのが見えます。杢太郎が見た名酒の看板や女義太夫興行の幟旗もこの華やいだ雰囲気の奥に沈んでいるのでしょう。胸元の「仁丹」に煌々と燈が入り、川面を照らした二文字が、水の流れでかき消される様が、いかにも涼しげです。杢太郎はあたりが暮れなずむ頃に、勘定をして店をあとにしましたが、果たして仁丹の電飾を見ることができたのでしょうか。

次回は、島崎藤村 を訪ねてみましょう。

~京都仁丹樂會 masajin~

  


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2015年11月29日

仁丹と文学散歩 ~その8 芥川 龍之介 ~

仁丹と文学散歩 ~その8 芥川 龍之介 ~


現代日本語の文章を完成させたといわれる芥川龍之介。彼の文体はいわゆる何々主義といった野暮で規格立ったものとは距離を置き、「現代の口語文」に徹した“お喋り”言葉の創造にありました。とくに、身辺雑記のような随筆にその真髄がよく表れています。しかし、私小説という文学のファシズムが台頭した大正の時代、芥川はそのエゴイズムの渦に翻弄され、そして、彼の自死をもって昭和が始まったとも言われます。雑誌「新小説」に掲載の『葱(ねぎ)』(1920、春陽堂書店)では、女給お君と、お君の元に通う無名の芸術家田中との、耽美主義とは異なる清貧な美の世界が眼に見るような文章で展開します。田中は、とうに閉催したサアカスにお君を誘い出します。お君は田中の潜伏した思惑など知る由もありません。

「お君さんには御気の毒だけれどもね。芝浦のサアカスは、もう昨夜でおしまいなんださうだ。だから今夜は僕の知つている家へ行つて、一しよに御飯でも食べようじやないか。」「さう、私どつちでも好いわ。」お君さんは田中君の手が、そつと自分の手を捕へたのを感じながら、希望と恐怖にふるへている、かすかな声でかう云つた。と同時に又お君さんの眼にはまるで「不如帰」を読んだ時のやうな、感動の涙が浮かんできた。この感動の涙を透して見た、小川町、淡路町、須田町の往来が、如何に美しかつたかは問ふをまたない。歳暮大売出しの軍隊の音、目まぐるしい仁丹の広告電燈、クリスマスを祝ふ杉の葉の飾り、蜘蛛手に張つた万国々旗、飾窓の中のサンタ・クロス、書店に並んだ絵葉書や日暦―すべてのものがお君さんの眼には、壮大な恋愛の歓喜をうたいながら、世界のはてまでも燦びやかに続いて・・・・。




田中の嘘の瞳に、場末の二階家に敷かれた二組の色布団を見たお君は、亡羊となるものの、道行途中の町角の八百屋で、一束の葱の「四銭」という余りの至廉な札を見て、突如として惰眠から目覚めます。お君の小刻みに震える感動の表象となった仁丹の広告電燈は、神田明神下にあった料亭「開花楼」の電飾でしょう。明治41年、開花楼の屋上に「仁丹」の文字が書き順に浮かぶ書方活動式三色イルミネーションの広告が表れました。開花楼には芥川ら多くの文人墨客が集い、熱い談義が交わされました。赤青白と目まぐるしく変化する広告電燈は、十六歳のお君の不安、感動、ためらい、の交錯する心情を相補的に響映させる脇役を演じています。この広告塔も関東大震災により、お君の涙の雫を抱えたまま、その役割を終えました。

次回は、木下杢太郎を訪ねてみましょう。

~京都仁丹樂會   masajin~

  


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2015年11月03日

仁丹と文学散歩 ~その7 坂口 安吾 ~

仁丹と文学散歩 ~その7 坂口 安吾 ~

 人は誰しも、運命鑑定や占い師の前に立つと、赤裸々な姿を看破される不安と、予言の持つ宿命的な暗影を持った圧迫感を感じないほど理性的ではないようです。坂口安吾は『女占い師の前にて』(1938年、文藝春秋社)の中で、中学生のとき、知り合いの易者の妻から出し抜けに、「お前さんは色魔だね」と、坂口自身が知る以前に自らの本性を看破されます。無表情を装っても内心の動揺と顔面の不動との均り合いの悪さにより、思わず気分を悪くします。同様に、均斉の典型である寺院の宏壮な伽藍に見える単調な均斉と重心の裏にも、その均斉を生み出すためのあらゆる不均斉がともすれば崩れ乱れ出す危うさを持っています。この、均斉と不均斉のいわば心理的なせめぎ合いについては、本書が掲載された『文学界』の後記で、河上徹も「文学の行われる場は心理の場以外に絶対にない」と直言しているほどです。伏見深草に住んだ坂口は、ある日、均斉を求めて黄檗山万福寺を巡ります。

 黄檗山万福寺は隠元の指揮によって建築された伽藍であります。私は隠元が元来支那の人であるのを知らずにゐて、この寺の宝物をみるに及び、彼が異邦の人であるのを知ると同時に、彼が支那から帯同した椅子や洗面器の類ひを見て、彼に対する親しさを肉体的なものにまで深めるやうな稀れな感傷のひとときを持つたりしました。私は隠元の思想に就いては知りません。わづかに白雲庵発行の精進料理のパンフレットによつて彼の思想の一端に触れただけにすぎませんから、いはば仁丹の広告を読んで医学一般を論じるやうな話ですが、私は隠元が好きなのです。



 坂口は、仁丹の広告だけで医学知識を論じる軽薄さを皮肉を込めた比喩にして、隠元思想に対する自らの知識不足を弁明しています。困惑した坂口の脳裏にとっさに仁丹の効能書きが浮かぶほど、当時の仁丹は自然同化していたようです。現在の仁丹は厚労省の承認医薬部外品で、分類(「口中清涼剤」)、使用目的、剤型、効能又は効果の範囲が明記されていますが、それ以前は、「効能・効果」に制限、規制はなく、新聞や街頭(電柱など)ポスター、チラシで宣伝効果を狙った広告表記が時代背景を伴って展開されていました。明治の発売当初の赤粒時代は「懐中薬・毒けし」、大正ではコレラの予防として「消化・毒けし」と変化し、徐々に“消化・健胃”の色が濃くなります。薬の能書きが時代を反映する一例といえましょう。広告の向こうに、原稿の筆休めに仁丹に手を伸ばす坂口の背中が見えるようです。

 次回は、芥川龍之介を訪ねてみましょう。

~京都仁丹樂會 masajin~
  
タグ :坂口安吾


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2015年10月11日

仁丹と文学散歩 ~その6 永井 荷風~

仁丹と文学散歩 ~その6 永井 荷風~


関東大震災から昭和初期にかけて東京での荒廃した女性の虚無性をどこまでも写実的に描いたものに、永井荷風の『つゆのあとさき』(1931、中央公論社)があります。谷崎潤一郎は、男女の痴情の世界を、肉欲的な淫蕩な物語として最も脱俗超世間的な態度で描いた、と評しています。荷風に見出された谷崎は、主人公君江が見せる冷たさ、不気味さに翻弄される作家清岡の乾ききったニヒリズムに、往年の享楽主義の搾り糟のような滓を体感したようです(『永井荷風氏の近業について』(1931、改造社)。銀座の女給で私娼の君江、君江に翻弄される清岡、それと内縁の妻鶴子の、それぞれの愛憎のめまぐるしい交錯模様、君江に手玉にとられているのは十分に承知しているが、それでも執着を放擲しない清岡の堕天使的な衝動感、これらが罹災の埃の残る東京という町でリアルに迫ってきます。

清岡は、名声高い文学者の恋人であることに君江が頓着すらしないことや、関係を絶っても翌日から他の男に平気で乗り換える君江に心底腹を立て、報復の念を胸中に沸き立たせながら、君江の家に向かいます。始末の付け様を摸索するものの、まさか髪を切ったり、顔に疵をつけるわけにもいかず、数ヶ月病気に伏せるのを待つしかない、などあれこれ思案しながら、歩を運びます。


そんなことを考へながら足の向く方へとふらふら歩きながら、ふと心づいて行先を見ると、燈火の煌々と輝いている處は市ケ谷停車場の入口である。斜に低い堀外の町が見え、またもや眞暗に曇りかけた入梅の空に仁丹の廣告の明滅するのが目についた。君江の家はあの廣告のついたり消えたりしてゐる横丁だと思ふと、一昨日から今夜へかけてまづ三日ほど逢わないのみならず、先刻富士見町で藝者から聞いたはなしも思ひだされるがまゝ、兎に角そつと樣子を窺つて置くに若くはないと思定め、 堀端を歩いて、いつもの横町をまがつた。



しかし、運悪く君江は不在で、代わりに間貸し家の老婆に出くわし、勧められるまま無駄を過ごし、用を成さずに引き上げる羽目になります。市ヶ谷駅のそばの電飾の仁丹の広告板が、四五日ごとに女のもとに通う男の目印となり、その明滅は女の在/不在とあたかも同調する効果を演出しています。君江の姿態を眼窩に巡らせ、仁丹広告を見上げる清岡の猜疑心で膨らんだ心臓の鼓動が、電飾の明滅と共振して、どんどん増幅してくる様子が、緊張感を孕んだ文章で迫ります。ここでは、仁丹広告は電飾宣伝のランドマークとしての顔と、男女の澱んだ愛欲劇の廻り舞台役、のダブルキャストとして登場しています。 

次回は、坂口安吾を訪ねてみましょう。
~京都仁丹樂會 masajin~

  
タグ :永井荷風


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2015年09月23日

仁丹と文学散歩 ~その5 宮本 百合子~

仁丹と文学散歩 ~その5 宮本 百合子~


昭和5年(1930年)。世界恐慌が起きて日本も失業と農業危機が深刻化し、労働者、農民の活動に支配権力の弾圧のせめぎあいの陰で、軍国主義の発露である戦争へのざわめきが刻々と押し寄せていました。この切迫した鼓動を自らにベクトル化したのが宮本百合子の『刻々』(1951年、中央公論社)です。百合子はこの年、3年にわたるソビエト旅行から帰国し、直ちに日本プロレタリア作家同盟に加盟し、翌年に日本共産党に入党しました。この自覚的階級的活動は、その後の百合子の生涯にわたって展開される弾圧抵抗の原動力に連鎖していきます。百合子は1932年、日本プロレタリア文化連盟を襲った大弾圧で検挙され、80日間拘留されたのをはじめとして、計3回検挙投獄の苦難を受けましたが、それら権力による弾圧がかえって百合子の運筆を促す反作用を加速しました。

百合子の拘留中に中川という看守長がひんぱんに声をかけてきます。目の前でわざと特高に電話をかけ、次のめぼしき連行者を指示し、権力を誇示してみせます。

自分(註:百合子のこと)を椅子にかけさせておき、「ちょっとすみませんが田無を呼び出して下さい」と、特高に目の前で電話をつながせた。「ア、もしもし中川です。明日の朝早く細田民樹(註:小説家)をひっぱっておいてくれませんか。え、そうです。細田は二人いるが、民樹の方です。ついでに家をガサっておいて下さい。――じゃ、お願いします」 そんな命令をわざわざきかせたりした。「――これも薯づるの一つだ」 そして、嘲弄するように、「マ、そうやってがんばって見るさ」 ポケットから赤いケースに入った仁丹を出して噛みながら言った。




看守長の権威主義と収監者へのおもねりの間に見られる相反性が、獄中の殺伐感をうまく緩和しています。しかし、『刻々』は当時の特高警察の取調べを暴露したため検閲を通らず、掲載の見合わせを余儀なくされ、結局発刊までに18年を要した、と夫の宮本顕治(元共産党委員長)は述懐しています。当時、仁丹は口なぐさめ、口腔清涼用にタバコと一緒にポケットに常備する人が多く、食後、喫煙後や会話途切れの一服、いわゆる‘生活における間(ま)’として愛用されたようです。看守長は百合子に、空威張りで負け惜しみを込めた皮肉を飛ばしながら、無意識にポケットを探りました。弁舌では百合子にかなわず、悔し紛れに思わず仁丹にすがろうとした姿が滑稽です。また、薄暗い房内に浮かぶ仁丹ケースの‘赤色’が、まるでレンブラントの「夜警」の‘光り’を彷彿とさせるような、鮮やかな色彩効果を放つと同時に、仁丹の‘間’としての役回りを十分に果たしています。

次回は、永井荷風を訪ねてみましょう。

~京都仁丹樂會 masajin~

  


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2015年08月28日

仁丹と文学散歩 ~その4 太宰 治~

仁丹と文学散歩 ~その4 太宰 治~


太宰治は最初の小説集出稿に十年をかけ、その間に百篇の小説を破棄し、原稿用紙五万枚を費やして、残ったのはわずか六百枚。それが短編集『晩年』(1936年、文芸春秋社)です。初めての小説に“晩年”と題したのは、これが遺著となると予感したからです。その中の一編「思い出」は、当時の太宰を悩ませていた薬物中毒の混沌とした意識のもとで、自らを人間とは思われていないという、のちの『人間失格』に通底する自己喪失を蒸留させた刹那主義の表出したもので、井伏鱒二が、甲上の出来だと賛辞を奉じた秀作です。




ある日、少年の村にきたサーカスの中に、一人のくろんぼ(註:黒人を指す差別的表現ですが原作のまま掲載)少女がいました。真っ赤な角を生やし人を食うと噂をする村人を少年は嘲笑し、前夜にこっそり小屋に忍び込み、少女が暗闇の檻の中で刺繍をする姿に、侮蔑とかすかな期待を覚えます。興行の曲目が進行し、やがて村人の怒号と拍手の中で半裸の少女が舞台に滑り出てきます。その姿を見たとき、

“少年は、せせら笑ひの影を顏から消した。刺繍は日の丸の旗であつたのだ。少年の心臟は、とくとくと幽かな音を立てて鳴りはじめた。(中略)。くろんぼが少年をあざむかなかつたからである。ほんたうに刺繍をしてゐたのだ。日の丸の刺繍は簡單であるから、闇のなかで手さぐりをしながらでもできるのだ。ありがたい。このくろんぼは正直者だ。燕尾服を着た仁丹の鬚のある太夫(註:団長)が、お客に彼女のあらましの來歴を告げて、それから、ケルリ、ケルリ(註:少女の名)、と檻に向かつて二聲叫び、右手のむちを小粹に振つた。むちの音が少年の胸を鋭くつき刺した。太夫に嫉妬を感じたのである。くろんぼは立ち上がつた。”

少年は、少女が日の丸の旗をくれるに違いないと信じていました。しかし翌日、少女の姿はなく、サーカスの幌馬車は少女を檻に詰めたまま村を去りました。団長の慰みものになりながら旅を続ける少女を、“あれはただの女だ、普段は檻を出て皆と遊んだり、たばこをふかしている、そんな女だ”と繰り返し自嘲することで、自らの性の刹那的な焦燥を塗りつぶす小年が、村はずれで立ち尽くしていました。


~明治42年7月3日の大阪朝日新聞に掲載された広告より~

文学作品を旅すると、緊張する場面や、扇情的、屈折的、厭世的、実に様々な場面で、突然ぽつんと「仁丹」という文字に遭遇することがあります。そのいかにも無防備な出現と、日常的な存在感に感心させられます。団長の「仁丹」鬚も、当時の口ひげ男性の代名詞として市民生活の景色にさりげなく溶け込み、「大礼服(燕尾服)の仁丹の鬚」としてどこでも見かけるような、身近な存在だったようです。

次回は、宮本百合子を訪ねてみましょう。

~京都仁丹樂會  masajin~
  


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2015年07月12日

仁丹と文学散歩 ~その3 高見順~

仁丹と文学散歩 ~その3 高見 順~


日記は三日と続かないものの代表です。この日記を小学生から56歳でガンに仆れるおよそ50年間書き続けたのが高見順です。しかも高見の日記は1日分が一つの短編になるような長いものもあり、結局、原稿用紙にしておよそ1万4千枚になりました。なかでも注目されるのは日本で一番忘れがたい年といわれる昭和20年の日記です。高見の没後に夫人の尽力で『敗戦日記』(1991年、文芸春秋社)としてまとめられました。


~昭和20年8月8日 毎日新聞より~

敗戦色が濃く、国民全体に焦燥と諦観が指数関数的頂点に達した昭和20年8月6日、広島は原爆を被弾しました。高見は、8月8日付毎日新聞の「広島に少数の新型爆弾を投下・・・・、各所に火災発生・・・・、今後は少数機といへども軽視することなく・・・・」という淡々とした記事を見て、「これでは、みんなのんびりするのは当たり前だ」とその被害抑制報道を嘆いています。当時高見は、久米正雄、川端康成、中山義秀らと『文学報国』という文庫本を発行し、執筆した文人仲間が交代で売り子までしていました。その売れ行きの不振を嘆いている時に、原爆が話題になりました。そのときの様子を9日の日記にこう書き留めています。

朝、久米家へ行った。文庫の支払金計算。川端さん、中山夫妻も来る。不還本がひどく多い。原子爆弾の話が出た。仁丹みたいな粒で東京がすっ飛ぶという話から、新爆弾をいつか「仁丹」と呼び出した。「そのうち、横須賀にも仁丹が来ますな」「二里四方駄目だというが、するとまあ助かりますかな」
昼食後、今日は私の当番なので、妻と店へ行く。いつもながらの繁盛である。「仁丹」が現われても、街に動揺はない。


大本営や新聞は、あくまで「小型の新型爆弾」で通し、爆弾の威力をつとめて矮小化していますが、高見ら文人はすでに原子爆弾という表現をしているところに、当時の教養人たちの透視力がのぞかれます。東京市では原爆直後ですら動揺も少なく、空襲の焼け跡を片付けるそばでいつも通り飲み屋は営業中、という平常と恐怖が混在する雰囲気でした。ただ、高見たちも、原爆の図体そのものは報道通り小型爆弾と認識したらしく、困惑気味に原爆を小粒でピリッとする「仁丹」にたとえています。この日記と同日に長崎にも原爆が投下されています。後日この小粒の本性を知った高見は、「仁丹」と比喩した自身をどう処したのでしょう。高見の膨大な日記の中で、「仁丹」という文字が現われたのはこの終戦の8月9日という歴史的な日だけ、というのも何かの因縁かもしれません。

次回は、太宰 治を訪ねてみましょう。

~京都仁丹樂會   masajin~
  
タグ :高見順文学


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2015年06月20日

仁丹と文学散歩 ~その2 水上 勉~

仁丹と文学散歩 ~その2 水上 勉~


浄瑠璃の一つに、「壺阪霊験記」があります。目の不自由な按摩師の沢市が妻のお里の信心と壷阪寺の霊験により、目が見えるようになったという感涙語りです。

十歳で若狭を出て京都の寺に入った水上勉は、中学を出た後、寺を抜け出し、行商や下駄屋の店番などを転々としました。この若くして体験した庶民の生活感覚が勉の体液となり、のちの市井の息吹を漂わせる筆遣いを育む要因となりました。

勉は、小さい時に家を飛び出し、職を転々と変えていった貞一という叔父に、強い共感を持ったようで、この叔父を題材にした作品をいくつか書いています。叔父は目の悪い母(勉の祖母)に壺阪霊験記のレコードを聴かせたり、眼病にご利益があるといって柳谷観音に祖母を連れて行ったりしています。この話を想起して書いたのが、『壺阪霊験記』(1953)です。この中の短編「下駄と仁丹」で、母と祖母が下駄の鼻緒を結んでいる傍らで、髪結い亭主づらの祖父がわめいている場面が出てきます。

~仁丹時報147号(昭和8年2月11日)より~


それは、
祖父が道楽をしたころのやつし金冠ののぞく前歯をみせながら、「はぁい、仁丹じゃ、仁丹じゃ。子供らこっち、大人はあっち、おっ母んやお父つぁんをよんでこいや」と高声でいっていた声がいまも耳にのこっている。ぼくは、この祖父から、小さな穴のある板金のサジでひと掬いの仁丹さえ、貰ったことはなかった。だが不思議に味だけはおぼえている。祖母か、母のどちらかにねだって、祖父のいないスキに口に入れたものだろう。その味は祖父が大声でいうほどのものでなくて、にっきと金平糖に似た甘味がまじっていて、二つ三つ舌にのせていただけで色がおち、口の中は真っ赤になった。
という印象的な文章です。

文章背景からおそらく昭和10年前後と思われる時代の仁丹は、現在のように銀白色ではなく、その上に甘味をつけた赤いニッキをまぶしていたようで、仁丹を信玄袋の中の缶にいれ、仁丹がちょうどはまる穴のあいたサジですくって口に入れるという、当時の食べ方、道具などがうかがえます。なぜか祖父はこの袋を片時も手放さず、祖父が中風で寝込んだ時に勉が袋を内緒で開けて仁丹をつまみ食いしたところ、仁丹のほかに下駄の鼻緒が出てきました。それは若い女物の別珍の鼻緒でした。祖父が決して信玄袋を祖母に見せなかった訳と男女の愛憎を、若年の勉がそれとなく気づく、細やかな描写がうねっています。

次回は、高見 順を訪ねてみましょう。

~京都仁丹樂會  masajin~
  
タグ :文学水上勉


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2015年06月07日

仁丹と文学散歩 ~その1 堀 辰雄~

仁丹と文学散歩 ~その1 堀 辰雄~




仁丹町名表示板への人の思い入れは十人十色です。
よく知らないが聞いたことはある人、思わず笑顔がこぼれて回顧に耽る人、まるで我が子のように行方を見守る人、ほっとけはおけずに保護活動に奔走する人、人、人。

この、いわば一企業の販促品を端緒とする看板が、なぜ、人々の生活史の琴線に触れる存在となって、それぞれのノスタルジーを刺激するのでしょうか。この答えを探るヒントとして、これから、文学作品における仁丹の描写場面を掘り起こして、作家たちと仁丹とのかかわりを読み解く旅に出発してみませんか。


この旅の最初の登場者は堀辰雄です。
堀は明治37年に東京麹町に生まれ、幼年期を向島小梅町で過ごしました。幼年期は近くの牛島神社や三囲神社で遊んでいたようで、その近くには一時、森鴎外も居を構えていました。昭和4、5年頃には川端康成も横浜桜木町から浅草にくると、堀の家に立ち寄ったようで、武田鱗太郎も訪問客の一人でした。

その堀が幼年期の思い出をまとめたのが、『幼年時代』(1938)です。
その中の「口髭」という章で堀は、母の面影に重なる煙草屋のおよんちゃんというおばさんとの悲哀を述懐しています。また、子供のころに口髭を生やした人に好感を持っていて、それが煙草屋からの帰り道にある仁丹看板の口髭姿を見るたびにうれしくなった様子を生き生きと描写しています。

その場面は、

“・・・・そのおよんちゃんの間借りしている煙草屋からの帰りみち、駒形の四つ辻まで来ると、ある薬屋の上に、大きな仁丹の看板の立っているのが目のあたりに見えた。私はその看板が何んということもなしに好きだった。それにも、大概の仁丹の広告のように、白い羽のふわふわした大礼帽をかぶり、口髭をぴんと立てた、或えらい人の胸像が描かれているきりだったが、その駒形の薬屋のやつは、他のどこよりも、大きく立派だった。それで、私はそれが余計に好きだったのだ。そして帰りがけにそれを見られることが、そうやっておばさん達のところへ母に連れ立って行くときの、私のひそかな悦びになってもいた。・・・・”

と表現されています。


自分の恵まれた子供時代と対照的であったおよんちゃんとの切ない時の流れを連想させるランドマークとして、四つ辻にあった仁丹看板を心の奥深く刻み込んだ堀の幼児期の心情が、てらいのない文章で綴られています。堀の幼い記憶にも仁丹看板が淡く、そして苦い回想の光を投げかけているのがよく伝わってきます。

 
次回は、水上勉を訪ねてみましょう。

京都仁丹樂會  masajin
  
タグ :文学堀辰雄


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