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Posted by 京つう運営事務局 at

2018年02月12日

馬町空襲と仁丹町名表示板

平成が30年目を数えました。皆さまは清々しくこの新年を迎えられたことと拝察いたします。
京都仁丹樂會は今年も仁丹町名表示板の保存活動を通じて、様々な疑問や謎の追求・解明に邁進してまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

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さて、新春早々に、あっと驚くようなニュースが飛び込んできました。
2018年1月9日から27日まで、京都女子大学文学部史学科坂口ゼミによる「伝えたい記憶・写真に見る京都・馬町空襲の被害地図」の展示会が同大学図書館で始まりましたが、その展示写真の一枚に、なんと被爆で崩れ落ちる寸前の民家の2階に仁丹町名表示板がレンズに向かって立ち尽くしているではありませんか。

空爆直後の東山区上馬町周辺




昭和20年1月16日午後11時過ぎ、米軍のB29一機が東山区の馬町上空に到来しておよそ250発の爆弾を投下しました。これは京都府下でこれ以後8月13日までに312回、死傷者800余名、被災者1500余名を数える京都空襲の最初の被災でした。馬町空襲では上馬町、瓦役町、下馬町周辺で死者41名、負傷者48名、被災家屋316戸、被災者729名を数える大惨事となりました※。東大路渋谷通の交差点を東に入ったすぐ南側の旧修道小学校(現在の京都市立東山総合支援学校)の正門内には、被災69年後の2014年1月16日に修道自治連合会“馬町空襲を語り継ぐ会”によって建立された「馬町空襲の地」の碑が、当時の悲惨さを静かに語っています。
※日本の空襲編集委員会:『日本の空襲―六 近畿』、三省堂(1980)

旧修道小学校(現在の京都市立東山総合支援学校)の正門




学校内の「馬町空襲の地」の碑(2014年1月16日建立)




この事実は官憲等の手で厳重に報道規制されましたが、それをかいくぐって写真に収めた篤志家達により貴重な記録が残りました。今回の展示会はそれら記録の分析と新たに発見された写真等を被災地図と照合して発表されたものです。
集められた14枚の馬町空襲写真の中の一枚に、倒壊した建物の瓦礫で溢れる道路のそばでかろうじて全壊を免れた民家があり、その2階にはっきりと「下京区澁谷通東大路東入三丁目下ル上馬町」と読み取れる仁丹町名表示板が残っています。悲惨な崩壊しか写っていない写真群の中で、すっくとカメラレンズに正対するその居住まいは、ひときわ鮮烈な印象を感じさせます。
この写真は、現在の京都女子大学と京都女子高校の間の南北の道を北上し、東西に走る渋谷通と交差する場所の西南角地の民家を、東南から西に向かって写したものです。その民家も被災後すぐに取り壊されました。
被爆からちょうど73年。仁丹町名表示板があった場所は、京都女子大学の学生会館となり、アカデミックで華やかな雰囲気が漂うおしゃれなエリアに変貌しています。


被爆写真と同じアングルから撮影(2018年1月14日)。一方通行表示の上あたりにあった。




この馬町空襲写真に見られる仁丹町名表示板には、2つの大変重要な意味があります。
それは、
   
⦁ 空襲で被爆したことが確認された唯一の仁丹町名表示板であること
 米軍の空爆を受けた仁丹町名表示板は、後にも先にもこれしか確認されていません。直接被弾したわけではありませんが、この無傷の仁丹町名表示板の存在が、逆に被災の酷さを際立たせています。

⦁ 旧修道学区で不在とされた町域で実在していた仁丹町名表示板であること
 樂會の調査では旧修道学区では、上馬町、下馬町、瓦役町は仁丹町名表示板の空洞地区となっていましたが、少なくとも上馬町には、昭和20年1月16日の空襲までは確実に存在していたという証となる貴重な仁丹町名表示板です。
 
この仁丹町名表示板もまた、戦争被害者(?)なのかも知れません。

masajin 
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 04:15Comments(1)トピックニュース