2012年05月05日
仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」 ⑥木製の終期
~木製仁丹の終期は大正7,8年?~
木製仁丹が明治43年直後から設置が始まったと仮定して、さて、いつまで木製で続けられたのでしょうか?
木製仁丹の終期、それは当然ながら琺瑯仁丹の始期よりも以前のはずです。
これらはお互いにリンクしあっているはずなので、そのいずれかが分かれば他方のヒントになるでしょう。
そのアプローチとして、先ずはトレードマークに含まれる「仁丹」の文字フォントの違いに注目してみました。
木製はまるで真面目な習字のお手本のような書体ですが、琺瑯製ではデフォルメされてデザイン性が強くなっています。
このデフォルメされたデザインは社史によれば昭和2年からの商標とされています。
森下仁丹100周年記念誌「仁丹からJINTANへ」より
しかし、80年史の中の大正11年とされる広告塔の写真にはすでにこの新デザインが登場しているのです。
「森下仁丹80年史」より
写真のキャプションは「大正11年 当時東洋随一の高さ地上33メートルの東京上野大広告塔」とあります。
この”大正11年”というのは通常撮影年を表すものと思われますが、昭和2年からの商標が大正11年に既に使用されていたのでしょうか? そのようなことはあり得るのでしょうか?
次にこの疑問を解くため、当時の新聞の広告ではどのようになっているか探索してみました。
すると大正15年4月1日を境に毛筆書体からこのデフォルメされた書体に変わっていることを発見しました。
当時の広告は、「仁丹」「仁丹のハミガキ」「仁丹の体温計」を“三大名物”として常に3点セットで宣伝しているのですが、それぞれの商品名毎に異なるデザインが採用されており、それらすべてを融合したようなものが昭和2年からとされている新商標のデザインに結びついているような気がします。
様々な広告媒体を見ていると、「仁丹」の文字部分のみならず髭の長さやカーリング、勲章などなど厳格に商標どおりというわけではなく、適宜デザインされていることが分かるのです。
昭和2年からとされる商標ではありますが、実は広告におけるデザインが先行していたのかもしれません。
と考えると、先の広告塔も大正11年撮影としてもおかしくないわけです。
したがって、デザイン上のみで言えば琺瑯仁丹は少なくとも大正11年以降は出現可能であり、それがすなわち現段階における琺瑯仁丹の始期の上限であり、同時に木製仁丹の下限でもあると言えます。
ところで、80年史には終期を考えるうえでヒントになる次のような記述がありました。
宣伝に対する並々ならぬ熱の入れようを窺わせます。
・発売と同時に突出し看板を全国の薬店の店頭に取り付けていった。全従業員は宣伝員であるという一貫した考え方で、彼らは全国の薬店をくまなく訪問して回った。かくて突出し看板は、数年のうちに全国津々浦々の薬店にゆきわたり(以下省略)
・突出し看板とともに、鉄道沿線の野立看板、そのほか人目につくあらゆる空間を利用して屋外看板を設置していった。そしてその際、これらの屋外看板の取り付けは、業者まかせではなく、すべて従業員が自分たちの手で実施するものであった。
・発売3年目の明治40年に開設された東京倉庫の仕事のほとんどは宣伝広告の仕事であり、特に看板の取り付けという業務であった。
「森下仁丹80年史」より
いかがでしょうか。
これらの記述は、設置はだらだらと長い期間をかけてなされたのではなく、スピード感をうかがわせます。
きっと京都もこの調子で毎日毎日来る日も来る日も取り付けられていったことでしょう。
そして、数年もあれば京都の町中に行きわたったのではないでしょうか。
これらのことから、木製仁丹の始期を明治43年頃としたら、せいぜい大正5,6年までには一段落していたのではないのでしょうか。
これを裏付ける非常に興味深い資料も見つかりました。次回にご紹介します。
ただ、木製仁丹の終期となると、4月9日付け「琺瑯の下から木製が!」でご紹介したとおり、大正7年4月1日に京都市に編入された上京区紫野上柏野町の例がありますので、追加的に大正7,8年頃となるのではと考えられます。
2012.5.12 一部修正 詳しくはコメントをご覧ください
Posted by 京都仁丹樂會 at 06:05│Comments(1)
│設置時期
この記事へのコメント
一部修正のお知らせ
2012年5月5日にアップしました「木製仁丹の終期」について、一部上書き修正しましたのでお知らせします。
これは4月9日付け「琺瑯の下から木製が!」の内容を加味し、より正確にしたものです。
1行目のサブタイトル
<修正前>
~木製仁丹の終期は大正5,6年?~
↓
<修正後>
~木製仁丹の終期は大正7,8年?~
最後の3行
<修正前>
これらのことから、木製仁丹の始期を明治43年頃としたら、終期はせいぜい大正5,6年までではないのでしょうか。
これを裏付ける非常に興味深い資料も見つかりました。次回にご紹介します。
↓
<修正後>
これらのことから、木製仁丹の始期を明治43年頃としたら、せいぜい大正5,6年までには一段落していたのではないのでしょうか。これを裏付ける非常に興味深い資料も見つかりました。次回にご紹介します。
ただ、木製仁丹の終期となると、4月9日付け「琺瑯の下から木製が!」でご紹介したとおり、大正7年4月1日に京都市に編入された上京区紫野上柏野町の例がありますので、追加的に大正7,8年頃となるのではと考えられます。
2012年5月5日にアップしました「木製仁丹の終期」について、一部上書き修正しましたのでお知らせします。
これは4月9日付け「琺瑯の下から木製が!」の内容を加味し、より正確にしたものです。
1行目のサブタイトル
<修正前>
~木製仁丹の終期は大正5,6年?~
↓
<修正後>
~木製仁丹の終期は大正7,8年?~
最後の3行
<修正前>
これらのことから、木製仁丹の始期を明治43年頃としたら、終期はせいぜい大正5,6年までではないのでしょうか。
これを裏付ける非常に興味深い資料も見つかりました。次回にご紹介します。
↓
<修正後>
これらのことから、木製仁丹の始期を明治43年頃としたら、せいぜい大正5,6年までには一段落していたのではないのでしょうか。これを裏付ける非常に興味深い資料も見つかりました。次回にご紹介します。
ただ、木製仁丹の終期となると、4月9日付け「琺瑯の下から木製が!」でご紹介したとおり、大正7年4月1日に京都市に編入された上京区紫野上柏野町の例がありますので、追加的に大正7,8年頃となるのではと考えられます。
Posted by 京都仁丹樂會 at 2012年05月12日 13:01