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2012年05月19日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」⑧琺瑯仁丹と御大典

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」⑧琺瑯仁丹と御大典


~ 昭和の御大典との関連は? ~


ヨンヨンイチ、すなわち昭和4年4月1日までに旧上京・下京エリアの全域に隈なく設置されたと考えられる琺瑯仁丹。それでは、一体どれほどの数が設置されたのでしょうか?試みに考えてみました。

戦争による建物疎開や戦後の大規模開発により、現在と昭和初期とでは随分と様子も違っているでしょうが、現在の行政区の中では上京区が最も当時の姿に近いのではないでしょうか。その上京区を例にあげると、町名が約580町あります。そのうち現在過去において琺瑯仁丹の設置が確認できたのは、そのうちの約45%にあたる260町です。しかもひとつの町名に対して1枚の表示板とは限りません。2枚、3枚と複数枚設置されたケースも数多くあります。
ちなみに、2枚設置は60町、3枚設置は20町、4枚設置は7町、5枚設置は3町、そして下丸屋町は6枚設置、仁和学区の北町は7枚設置でした。残りのおよそ160余りの町は1枚しか確認できていませんが、複数枚設置されていたとしても何ら不思議なことではありません。そして、リストを整理していくと、すべての町に設置されたであろうと確信が強まるばかりです。

それは他の区も同様だったはずです。旧上京・下京エリアにあった町名の数はおよそ2,000です。複数枚の設置を考えたら、2,000の2倍3倍といった枚数の表示板が設置されていたのかもしれません。幻の“八枚ヶ辻”なる都市伝説!?も考えれば、もっと行くかもしれませんね。

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」⑧琺瑯仁丹と御大典

これは森下仁丹が京都に対してとてつもないエネルギーを投入したことを示しているのではないでしょうか。広告益世の思想で設置された仁丹町名表示板ですから、京都は広告をする上でも価値があり、公共の役に立つということでも大きな意味があったということになります。
では、当時の京都の位置づけとはいったいどのようなものだったのでしょうか?

ちょうどその頃の京都はと言えば、三大事業や土地区画整理事業の進捗によりまちの骨格が完成に近づき、観光客の誘致にも大いに力を注いでいました。そして何と言っても昭和の御大典とその記念事業としての博覧会を抜きには考えられません。

御大典は昭和3年11月10日、京都御所にて執り行われた昭和天皇の即位の礼です。日本全国から関係者のみならず、非常に多くの国民も京都を目指したことが記録されています。当時の京都日出新聞を紐解くと、その何日も前からカウントダウンするかのうように、皇室、政府、海外からの来賓の動きはもちろんのこと、京都の町の様子や市民の様子などを様々な角度から詳細に伝えています。

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」⑧琺瑯仁丹と御大典
~前日である昭和3年11月9日の京都日出新聞夕刊第一面~

記念事業の博覧会は京都市が主催し、岡崎公園の東会場、上京区の主税町界隈の西会場、国立博物館の南会場などをパビリオンとして9月20日から約3か月間開催されました。来場者は339万人を上回ったとされています。右京中央図書館に所蔵されている昭和3年6月発行の『御大典と京見物』なる書籍は、地方からの来訪者に対して博覧会会場への交通を懇切丁寧に説明し、ついでに京見物もしてくださいといったスタンスで執筆されています。まさしく当時のニーズに沿ったガイドブックだったのであろうと思われますし、また今読む者を当時の京都にワープさせてくれます。

また、京都を目指したのは人だけではありませんでした。新京阪鉄道(現在の阪急京都線)や奈良電気鉄道(現在の近鉄京都線)も御大典に間に合わせるべく突貫工事を行ってどうにかこうにか開業したのでした。

以上、例を挙げればきりがありませんが、都(みやこ)が東京に移って60年も経つというのに、当時の京都はまだまだ物や人を集める大きな力を持っていたことが分かります。

当時の国民の精神面については、それを窺える非常に興味深い記録を見つけました。民族学者宮本常一の『私の日本地図14 京都』の中の「関東人の京参り」という次のような一文です。

昭和21年であったと思うが、東海道線湯河原駅の近くに鍛冶屋という所在があり、そこへいったことがある。ムラの70歳から上の老人たち7、8人に集まってもらって話を聞いたのだが、その折、どこまで旅をしたかについてきいてみると、「京は京参りといって必ず参ったものだ」という。たいていは伊勢参りを掛けた旅であった。さて東京は、ときいてみると、「ハァ江戸かね、江戸は見物じゃ。江戸へはまだ行ったことがないね」という老人がほとんどであった。この言葉におどろいてしまった。江戸が東京になって80年もたっているのに、感覚的にはまだ江戸としてうけとめている。そしてその江戸には、いったことがないという。それで私はこの話を何回も方々で話してみた。関東平野に住むものでも、これに近い感覚も持っていた百姓の老人は少なくなかった。つまり日本の一般民衆は意外なほど京都を聖なる地として強く印象していたのである
~宮本常一『私の日本地図14 京都』 関東人の京参り より~

いかがでしょう。京都から湯河原を見たらもうほとんど東京といった感覚ですが、当の湯河原から見たらまだまだ心の中の中心は京都だったのですね。また、御大典当日の京都の様子を伝える昭和3年11月11日の京都日出新聞では、一般民衆の次のような行動も紹介しています。

鉄道市電でも 一斉万歳を叫ぶ
赤誠と喜悦を胸に籠め
轟く皇礼砲を合図に

10日午後3時!京都駅では…(省略)…待合室で列車を待ち合わせていた紳士も田舎びたお上りさんも老いも若きも男も女も皆同時刻前となるや胸にあふれた赤誠と喜悦がそうさせたのであろう、誰の指図も受けず三々五々駅前広場に集まり一団となって遥か御所を拝みながら声高らかに天皇陛下万歳を斉唱した。…(省略)…一方市電車内では同時刻に出雲橋畔の号砲合図に車掌の発声で乗客全部が起立万歳を斉唱し今日の佳き日を寿ほいだ
~京都日出新聞 昭和3年11月11日 より 旧字体は現行のものに変更~

このような当時の国民感情、西日本は広島県出身の森下博にしてみても、森下仁丹の社員にしてみても、同じであったことでしょう。

「仁丹町名表示板」と「御大典」、昭和4年4月1日直前に京都に注がれたこの2つの大きなエネルギーを結び付けて、琺瑯製は御大典に間に合わせるべく昭和元年から3年11月までの間に一気に設置された、と考えたくなるものです。御大典と博覧会のために多くの人が京都を訪れることになり、京都独特の住所表現を分かりやすく伝える、まさしく広告益世です。本来は行政が行うべきインフラ整備のひとつかもしれませんが、森下仁丹が買って出た、もしくは良い表現ではありませんが行政が利用した一面もあるのかもしれません。私たちも当初、そのように考えていました。

が、しかし、詳しくは次回にご紹介しますが、新たな資料の出現により琺瑯仁丹の設置が大正時代まで遡ることが判明したのです。御大典の話をここまで引っ張っておきながら恐縮ですが、琺瑯仁丹の設置は御大典が直接の契機となったのではなく、それよりももっと以前から行われていたのです。もちろん、あくまでもそれは琺瑯製設置の始期であって、昭和に入ってから御大典を意識して爆発的に増えた、という見方もできるかもしれません。引き続き新たな資料を探し求め、より精度を高めたいと思います。

最後に、御大典当日の京都日出新聞朝刊に掲載された森下仁丹の広告です。なんと、見開き2ページという力の入れようです。右の細かい文字は皇族の系譜を表したものです。

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」⑧琺瑯仁丹と御大典
~京都日出新聞 昭和3年11月10日 より~



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Posted by 京都仁丹樂會 at 22:01│Comments(5)設置時期
この記事へのコメント
そういえば、主税町には現在仁丹看板が見受けられませんね。かつては存在したのでしょうか。もし、これまでもなかったのであれば、市中において設置が盛んであったのが、昭和の大典以前であったという証左になりうるかも知れませんね。
Posted by うら at 2012年06月26日 00:30
あの大きな主税町にないはずがないと、2度3度通ったのですが、やっぱり見つかりませんでした。
現在だけでなく、過去も報告がありません。
おそらくは御大典および博覧会に間に合わせるべく、と言ったところだったのでしょうか。

すぐ南側の西ノ京小堀町にはあるのですけどね。

でも、出世稲荷の西側も主税町であり、博覧会の西会場となったエリアではありませんから、もしかしたらこの辺りにはあったのかもしれませんね。
Posted by shimo-chan at 2012年06月26日 21:16
>でも、出世稲荷の西側も主税町であり、博覧会の西会場となったエリアではありませんから、もしかしたらこの辺りにはあったのかもしれませんね。

申し訳ございません。自分で書いておきながら恐縮ですが、日文献の地図データベースにある昭和3年の「大典記念京都市街地図」によれば、その可能性もなさそうです。

というのは、西会場のすぐ南側は市立二条高等女学校、そしてさらにその南に府立第二高等女学校がすっぽりと占めていました。
前者は現在の二条中学校、後者は朱雀高校の敷地です。

ということは、本当に主税町の仁丹は存在しなかったのかもしれませんね。
Posted by shimo-chan at 2012年06月28日 20:51
横から失礼します。

私も同じことを思って探したことがありますが、
主税町の仁丹は見たことがありません。

大正15年に京都市衛生試験所(現在の京都保健衛生専門学校)が
主税町910番地に移転してきているので、

少なくても番地910以下の主税町(竹屋町通以南、出世稲荷の西あたり)は
大正以前に町地化されたと思われます。

仁丹、元々はあったんでしょうかなぁ。
Posted by まいまい at 2012年06月28日 23:27
まいまいさん、いらっしゃいませ。

主税町に仁丹はあったか?
あったらあったらでスゴイと思いますし、なかったらなかったでやっぱりとこれまた非常に興味深い話となりますね。

ところで、なかなかの通のご様子、”横から”とはおっしゃらずに仁丹に対する、いろいろな思いを今後ともご披露くださいね。

謎の多い仁丹町名表示板については様々なテーマで語り合えると思います。基礎講座はその受皿でもあります。今後ともよろしくお願いします。
Posted by shimo-chan at 2012年06月29日 22:07
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