京つう

  歴史・文化・祭り  |  洛中

新規登録ログインヘルプ


2012年10月28日

3つの花屋町通 ~仁丹町名表示板に見る近代史~

1200年以上もの歴史が積もり積もった京都。
そんな京都のまちの、何百年も前のことをまるで見て来たかのように書かれたものが溢れている一方で、今私たちの目の前で展開している光景がきっちり説明できないもどかしさ。
まちを歩いていて、そんなことが多くないでしょうか?

仁丹町名表示板は、私たち京都で生まれ育った者も知らなかった、そんな京都の近代史、都市形成について教えてくれることがあります。

このような”仁丹が教えてくれる京都の近代史”を順次ご紹介したいと思います。

*  *  *  *  *  *

先ずは「花屋町通」の歴史です。


下京區花屋町通新町東入艮町 

この仁丹、次の写真の黄色の矢印の個所に設置されています。場所はちょうど、東本願寺境内の北西付近です。
写真の前後方向に延びるのが花屋町通、画面中央を左右に横切るのが新町通です。アングルは花屋町通新町西入から東山方面を撮ったものです。


この花屋町通は、東は河原町通の近くから、途中、中央市場で途切れるものの、最終的には阪急の西京極の駅前まで延々と続きます。
仁丹の設置場所は、花屋町通に面していて、新町通の交差点よりも東に設置されているので、設置場所としては完璧です。

ちなみに、町名にはルビが入っていて「ウシトラ」と読みます。
「艮」とは東北方向の方位を示す語句です。この場合は、西本願寺の寺内町における艮、つまりは東北を示しているのだそうです。

さて、ここから新町通を南へと下ります。上の写真で言えば、右へと入って行きます。
60mほど下ると、次の琺瑯仁丹に出会います。


下京區新町通花屋町下ル東若松町

非常に美しい状態で保たれています。そして、字もとても美しいです。


この東若松町の仁丹は、上の写真の黄色い矢印の個所に設置されています。前後に延びるのが新町通で、花屋町通から60mほど下がった場所から北を向かって撮っています。
この段階で、特に疑問に思うことはありません。
そして、画面左に延びる道へと入って行きます。西へと進むことになります。

すると、道路の北側ですぐに見つかるのがこの仁丹です。路地の入口に設置されています。情緒たっぷりです。



下京區花屋町通新町西入艮町


ここで 『アレ?なんで?』 と思いました。
一番最初に紹介しました仁丹は同じ通り名の組み合わせで、”東入艮町” でした。
だったら、先ほどの交差点の西側に設置されなくてはなりません。

でも、この通りのこの先で出会う仁丹はいずれも「花屋町通」と表現されているのです。

地図を見ると、この通りは「旧花屋町通」とあり、先ほどの1本北の広い通りが「花屋町通」と記されています。
なるほど、何らかの経緯あって、1本北の通りに花屋町通の名称を譲ったので、こちらは旧花屋町通と言う訳か、こちらが”本家”であって、仁丹はその当時に設置されたのかと納得します。

ところが、西洞院通に出ると、今現在の道路標識までもが「花屋町通」になっているではありませんか。
これが旧花屋町通となっていたら何も疑問を持たなかったのに。

それでは、1本北の広い花屋町通の道路標識はどうなっているの?と近づくとご覧のとおり、『新花屋町通』となっています。


どちらが花屋町通かという本家と総本家の争いで、旧花屋町通に軍配が上がった形です。
となると、この旧花屋町通に設置された花屋町表示の仁丹は今もこれで正しいということになります。

でも、花屋町通、旧花屋町通、新花屋町通と3つの花屋町通が登場したことになります。
一体、どのような経過があったのでしょうか?

そこで、先ずは、とっかかりとして「角川 日本地名大辞典 26 京都府上巻」を見てみると、こうありました。

   花屋町通・・・
『近世には堀川以東に籠屋町通(諏訪町通から新町通までか)、万年寺通(万年寺前の鍛冶屋町通から新町通まで)、花屋町通(新町通から堀川まで)の3つの通りが少しずつずれて存在していた。これらのうち、花屋町通は上珠数屋町通と合わせて左女牛通と記されたり(京雀・京羽二重)、万年寺通の一部とみなされたりした(宝暦町鑑)。 …省略… 明治になって、東本願寺の北方への拡張により、籠屋町通と万年寺通の烏丸通以西は消滅し、一方花屋町通は堀川以西へ伸びた。昭和になって、万年寺通が堀川まで延長され花屋町通と改称されると、新町通~堀川のもとの花屋町通は旧花屋町通と呼ばれるようになった。』

何か相当複雑そうですね。
また、現在の地図には東本願寺の境内北側の中に、「乾町」と「下柳町」がすっぽりと取り込まれています。
この2町についても、同じく角川日本地名大辞典ではこのように紹介されていました。

  乾町・・・
『明治26年、乾町の大部分は東本願寺の火除地となり、その後同28年、烏丸通と新町通の間に新道が開通し、同44年には火除地は東本願寺の築地内に入った』

  下柳町・・・
『明治25年、町内の人家が買収され、東本願寺の火除地となり、同年44年には東本願寺の築地内に入る。町名は存在するが事実上の廃町。』

以上のことをまとめると、次のような経過をたどったとなるでしょうか。
説明に適した地図がなかったので、とりあえずのイメージを表してみました。

先ずは、江戸から明治25年ぐらいにかけては次の【イメージ図 1】のようになっていたようです。
東本願寺と西本願寺の南北の広さはほぼ同じという印象なのですが、昔は東本願寺の方が狭かったようです。確かに地図でも確認できました。



明治25,26年頃になると、乾町と下柳町が家屋を撤去されて火除地になるとともに、万年寺通の烏丸~新町間と籠屋町通が消滅し、次の【イメージ図 2】のようになります。

花屋町通の堀川以西、すなわち西本願寺の北側への延伸は不確かですが、いくつかの地図を見るとどうもこの頃になされたようです。

そして、明治28年にこの火除地の北辺に改めて万年寺通が開通し、次の【イメージ図 3】のようになります。



さらに明治44年、火除地が東本願寺の境内に完全に組み込まれ、次の【イメージ図 4】のように現状に近づきます。



この状態のとき、基礎講座六 「設置時期」 ④ヨンヨンイチの検証 道路編でもご紹介しました「京都市告示第252号」が昭和3年5月24日に告示され、160本あまりの道路名について新名称などが定められました。その中に花屋町通も含まれており次のように定められています。

   新路線名 ・・・ 花屋町通
   旧   名 ・・・ 万年寺通
   起   点 ・・・ 河原町通唐物町458
   終   点 ・・・ 揚屋町32

これにより、実情は【イメージ図 4】と何ら変わりませんが、名称としては万年寺通が消滅し、段ずれを起こしながらも「花屋町通」として河原町付近から島原まで1本通ったということになりました。次の 【イメージ図 5】となります。



この時点では、新町~堀川間の段ずれはまだ解消しておらず、新花屋町通の開通を待たなければならなかったようです。当時の都市計画地図はこのあたりの状況をよく示していますので、次に揚げます。

先ずは昭和4年の都市計画地図です。昭和4年であれば、万年寺通ではなく花屋町通と記載されなくてはならないのですが、右の黄色い四角で囲んだようにまだ万年寺通の名称が残されています。

都市計画基本図 昭和4年(大正11年測図 昭和4年修正測図)
また、乾町や下柳町が東本願寺の境内に飲み込まれた様子も分かります。赤の四角の部分です。一方、左の黄色い点線で囲んだ部分には、新花屋町通の姿が何もありません。

次に昭和10年の都市計画地図です。状況は先の昭和4年の地図と変わっていませんが、ただ万年寺通が花屋町通と改められているのは分かります。

都市計画基本図 昭和10年(大正11年測図 昭和10年修正測図)


そして、まだ開通はしていませんが、昭和28年の地図でようやく新花屋町通が見え始めました。黄色の点線内です。
実は、新花屋町通の開通がいつだったのか調べたのですがよく分かりませんでした。
黄色の実線で囲んだのは、当時の花屋町通であり、今で言う通称旧花屋町通です。

都市計画基本図 昭和28年(大正11年測図 昭和28年修正測図)


以上が、3つの花屋町通の歴史のようです。

今回の件で、白黒はっきりさせようとばかりに様々な資料を漁ってみましたが、この3つの花屋町通の説明はもうくちゃくちゃといってもよいほどでした。
一般の地図を見る限りでは、「花屋町通」と「旧花屋町通」の2つだけが登場し、「新花屋町通」の名はありません。
「京都の大路小路(小学館)」にしてもそうです。
市民生活の上ではそれで十分だと思いますし、敢えて「新花屋町通」を持ち出すこともないのでしょう。

公称としては、次の京都市認定路線網図に示すとおり、新町~堀川間のみを「新花屋町通」と呼んでいます。

京都市認定路線網図より


そして、仁丹は昔も今も、「ここが本当の花屋町通だよ」と私たちに教えてくれています。



同じカテゴリー(仁丹に見る近代史)の記事画像
仁丹樂會 大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(4)
仁丹樂會 大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(3)
仁丹樂會大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(2)~ 工場跡周辺を訪ねる
仁丹樂會、大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(1)
旧大宮通 探索記 その3
旧大宮通 探索記 その2
同じカテゴリー(仁丹に見る近代史)の記事
 仁丹樂會 大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(4) (2017-07-11 13:18)
 仁丹樂會 大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(3) (2017-06-24 15:56)
 仁丹樂會大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(2)~ 工場跡周辺を訪ねる (2017-06-15 00:37)
 仁丹樂會、大人の遠足(現地調査)その1 仁丹第二工場編(1) (2017-06-05 00:44)
 旧大宮通 探索記 その3 (2015-09-29 08:28)
 旧大宮通 探索記 その2 (2015-09-16 22:47)

この記事へのコメント
仁丹町名表示板そのものに関する、広いそして深い探求結果、いずれも大変興味深く読ませていただきました。

今回は従来とは趣を変えて、通り名の探索ということで、これも面白かったです。
《このような”仁丹が教えてくれる京都の近代史”を順次ご紹介したいと思います。》
とされますが、さらに近世・中世・古代にまで遡れると思います。
京都仁丹樂會が本道とする地名表示板の研究以外に、時おりは今回のような内容の記事を、読み物的な感じで取り上げられることを楽しみにしています。

町名表示板は、「行政区名」・「通り名」・「町名」と地名情報が満載の代物です。それらから何をどの程度まで掘り起こせるか、興味は尽きないという感じがします。
それらの一つ一つが「古都京都の研究」となるのではないでしょうか。

地名探索や由来の詮索というのは、今回取り上げられた「花屋町通」でも判るように、簡単には断定できないところにが面白さであり、また奥深さでもあるように思います。
複数の見方・考え方があっても、読み物ということであれば両論併記などというしち面倒臭いことは不要で、エイヤッと平気で断定してしまえます。
大いに期待しています。
Posted by 酒瓮斎 at 2012年11月04日 11:04
酒瓮斎さん、コメントありがとうございます。
励みになります。

おっしゃるとおり、仁丹町名表示板にはネタがぎっしり詰まっています。
でも、何をするにも先ずは「基礎研究」をしてからでないとという思いがありました。基本を押さえて初めて、自由奔放に楽しいことができると考えていました。それが「基礎講座」でした。

まだまだ様々な角度から楽しめると思います。
探索していてついでに見つかる興味深いものもたくさんあります。
仁丹を探すことが、いつのまにか京都のまち自体にどっぷりとはまってしまう、それが京都における仁丹町名表示板の魅力ですよね。
Posted by 京都仁丹樂會京都仁丹樂會 at 2012年11月05日 22:55
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。