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2012年11月04日

正面通 ~仁丹町名表示板に見る近代史~

仁丹町名表示板が教えてくれる京都の近代史、第2弾は正面通です。


この2つ、「面」の字体が違います。俗字と正字。
正字の「面」は、正面通のうちの西本願寺~東本願寺間だけでしか見られないのですが、何か理由があったのでしょうか?

正面通について調べてみました。
”正面”とは東山区の方広寺の正面と言う意味で、現在は途中途切れながらも、方広寺前の大和大路から島原まで東西を横切っています。

しかし、そもそもは方広寺と西本願寺を結ぶ1本の通りだったそうです。イメージとしては次のようになります。



これは、秀吉が建造した方広寺大仏殿と、大阪より呼び寄せた本願寺(現在の西本願寺)を一直線に結ぶためだったようです。
そして、その後、秀吉の神格化を快く思わない家康がその間に東本願寺や枳殻邸を配置し、現在のような断続的な道路になったのだ、といくつかの書物では紹介しています。
何百年も昔のこと、その経過の真偽のほどは分かりませんが、しかし、少なくとも東本願寺と枳殻邸により1本の正面通が3つの区間に途切れることになったのは事実です。

そして、いつの間にかそれぞれの区間の呼び名が変わっていったようです。
東側の方広寺~枳殻邸間は従来どおりに「正面通」、真ん中の枳殻邸~東本願寺間は「中珠数屋町通」、西側の東本願寺~西本願寺間は「御前通」といったようにです。

したがって、次のように東から順に区間1、区間2、区間3と区切られたわけです。



それぞれのネーミングはもっともだと思います。
区間1は相変わらず方広寺の正面なので、そのまま名称を変える必要性はありません。
真ん中の区間2は、上珠数屋町通と下珠数屋町通の間に位置するので、中珠数屋町通となるのは当然のことです。
そして、区間3は西本願寺の門前町として成り立っているエリアのこと、敬意も込めて御前通となるのは、これまた然りです。ただ、北野天満宮から南へ延びる御前通もあるので紛らわしいですね。もし、両者が交わるようなことになっていればなおさらです。

これらの状況は様々な地図で確認することができました。次の地図もその一例です。


「京都衛戍地図(大正13年製版)」より

これではちょっと見にくいので、それぞれの区間を拡大すると、次のようになります。

区間1 方広寺~枳殻邸間 「正面通」


区間2 枳殻邸~東本願寺間 「中珠数屋町通」


区間3 東本願寺~西本願寺間 「御前通」


しかし、ここでも例の昭和3年5月24日の京都市告示により、これらの路線名がすべて「正面通」に統一されたのです。



なお、西本願寺~島原間は桶屋図子と言ったのですね。一緒に正面通へと昇格しています。

*  *  *  *  *


さて、これらの通り名の変遷と仁丹町名表示板との関係はどのようになっているのでしょうか?
告示前の旧名での仁丹はあるのでしょうか?

先ずは、方広寺~枳殻邸間の区間1です。
写真 ↓ は正面通を川端から方広寺方面を眺めたところです。



ここで出会うのが正面通の正面町の仁丹です。



俗字ではありますが、当然ながら正面通と表記されています。書き方も何も疑問はありません。

ちなみに、昭和4年4月1日から東山区になったエリアです。
仁丹の表記は下京区なので、それを手直しした痕跡が窺えます。

区間1を川端から正面橋を渡り、西へと進みます。



しばらくして出会う仁丹も正面通の表記が使われています。想定どおりですが。



さらに西へ進むと、ご覧 ↓ のように枳殻邸に突き当たります。なるほど、まさしく分断されています。



今度は枳殻邸の反対側へとぐるっと迂回し、再び正面通に復帰します。区間2の旧中珠数屋町通です。
この写真 ↓ は枳殻邸前から西に向かって撮ったものです。正面は東本願寺で、またまた分断されます。



この区間で出会えるのが、この ↓ 仁丹です。



上珠数屋町通や下珠数屋町通の表記があるなら、中珠数屋町通もとなりますが、正面通の表記です。
一般の地図ではこの区間2を正面通ではなく中珠数屋町通と記しているものが多いのですが、公称に律儀な仁丹町名表示板はしっかりと昭和3年5月の告示を守っていました。
過去においても中珠数屋町通と表記された仁丹はなかったようです。

参考までに上珠数屋町通と下珠数屋町通の仁丹 ↓ です。




次に東本願寺をこれまたぐるっと迂回して、反対側の正面通へと移動してみます。
この写真 ↓ は東本願寺裏手から西に向かって撮ったもので、突き当りが西本願寺です。



かつての御前通とはここのことですね。
ここでは多くの仁丹と出会えます。

↓ 左より、四本松町、東若松町、珠数屋町2枚です。この区間3の旧御前通では、正面通の「面」がなぜかすべて正字に変わります。



でも、右側の3枚、この「正面」の2文字に何か違和感を抱かないでしょうか? 
続く文字との間に筆使いの連続性がないというか、何か取って付けたような感じでバランスが悪いというか、墨の濃さが違うというか、、、 先入観の持ちすぎでしょうか。

そして、柳町 ↓ です。これはもう、「正面」の2文字に明らかに違和感ありです。いかにも後から書いたように、続く文字との間に連続性がありませんし、墨の濃さも薄いです。それにその2文字の周辺にはひっかき傷の痕跡も見られるのです。



さらに、堀川通に出て少し上がったところにあるこの堺町 ↓ の仁丹。
「正面」の2文字だけ色合いが薄いです。そしてここにも何かひっかき傷のようなものがあり、表面に凹凸ができています。
また、2本目の通り名には「通」なる文字は不要であり、公称の表記を厳格に守ってきた仁丹としては異例のルール違反です。



と言うことで、柳町と堺町の2枚、もしかしたら「御前通」と書かれていたものを「正面通」に修正したのではないか? そんな大胆な推理が浮かび上がってくるのです。

ひっかき傷は近づいて見たり、触ってみると分かるのですが、写真では分かりにくいですね。
そこで、コントラストなどをいじって際立たせてみたのが次の写真です。





いかがでしょう? 傷がいっぱい付けられているのがお分かりいただけると思います。 
この柳町と堺町の2点については、どうやら2文字分を削り取り、その上に白いペンキを塗って、そして「正面」なる2文字を巧みに乗せたと見えないでしょうか?
もしそうならば、削り取られた2文字は「御前」としか考えられません。
西本願寺の寺内町としては、遠くの見えもしない”正面”よりも、すぐ前に堂々とそびえ立ち、なおかつ商売にも密着した西本願寺の”御前”を選びたいのは当然です。
まったくの想像の域を出ないのですが、何か、そのあたりの事情を示しているような気がします。

さらに、最初は御前通と書かれていたとするならば、堺町の仁丹の場合、2本目の通り名にも関わらず「通」なる文字が加わっていることに頷けます。なぜならば、北野天満宮の「御前通」では住所表示の最初にきても後にきても「通」を省略しないことになっているからです。理由は分かりませんが、「御前通」だけの例外がここにも現れていたのかもしれません。

また、先の4枚並べた仁丹では、写真を拡大してもこのようなひっかき傷は見当たりません。これも全くの想像でしかないのですが、その部分、文字を入れずに保留していて、後から「正面」と書き足した、だからぎこちなさが残った、とまではあまりにもこじつけ過ぎでしょうか?

いずれにせよ、琺瑯仁丹の設置時期は昭和3年5月の告示の時期と微妙に重なり合っているような気がします。同時に森下仁丹側も告示の内容を敏感に受け止めていたのではないでしょうか。



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この記事へのコメント
正面通の旧御前通区間にある町名看板の後書きの『正面』の文字と元々から書かれている文字は書かれた方が同じではないかと思います。文字の濃さを考えずに見ますと文字のバランスや形が非常に似ています。だとすると、書き直しをする際に書かれた方がわざわざ設置されている場所まで赴かれた可能性があります。

ちなみに、大宮通から千本通間の町名看板は『正面通』ではなく、『丹波口駅前通』となっていますが、これでは正式名称ではありません。当時は国鉄丹波口駅が正面通にあったため、駅の場所が現在のように大通りに面しておらず、分かりにくいだろうということでこのような名称になったのでしょうか?
Posted by まっちゃ at 2012年11月12日 22:42
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