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2012年11月19日

堀川通・西中筋通 ~仁丹町名表示板に見る近代史~



ここは堀川正面。
堀川通を、西本願寺の反対側の歩道を北に向かって歩いています。
歩道の上に、そして正面通を跨ぐように総門がそびえている、ちょっと不思議な光景です。

仁丹町名表示板に見る京都の近代史第三弾、またまた下京区です。
先日の「まいまい京都」のガイドをきっかけに、このエリアにいささか深入りをしてしまいました。

さて、話はもう少し南側から始めます。
七条通から堀川通を北上し、北小路通と交わるとき、次のような仁丹に出会います。





北小路通西中筋東入丸屋町。 状態も字も非常に美しいですね。
でも、「西中筋通を東入? あれ? ここは堀川通だけど・・・」
と先ずは違和感を抱きます。
そして、その下にはライオンズクラブの標示板があります。



こちらは、 堀川通北小路上る丸屋町。 これなら納得です。

北上を続け、先ほどの総門を通り過ぎると、お香の老舗「薫玉堂」さんのビルに仁丹とライオンズクラブの町名表示板が一緒に掲げられています。




ご丁寧なことに2枚も、と最初は思いましたが、よく見ると表現が違っています。

仁丹は、西中筋通正面通上ル堺町
ライオンズクラブは、堀川通正面上る堺町 です。

またもや「西中筋通」の登場です。何やら曰くありげです。
どう見てもここは堀川通なのに・・・

さらに上ると、西中筋通が次々に現れました。ただし、これらはいずれもマジックによる追記です。でも、だからこそのこだわりを感じます。





*    *    *


西中筋通の歴史をご存じの方には、大変回りくどい説明となりましたが、実は今歩いているこの歩道こそが、かつての「西中筋通」だったのです。

そもそも西中筋通は、六条通~七条通間を堀川と並行して南北に走る550m程度の通りでした。それが、堀川通が西本願寺の北で東へとシフトする際に、西中筋通を飲み込み、堀川通の歩道にしてしまったというわけだったのです。

しかし、六条通~新花屋町通間、およそ100mについては現在も西中筋通は残っています。
次の写真 ↓ がその残存部分です。新花屋町通の手前から北方を撮ったものです。



逆に残存する西中筋通から南を向いて撮ったのが、次の写真 ↓ です。
堀川通が右側から突如として押し寄せ、西中筋通の延長線上が堀川通の歩道になっているのが分かります。


堀川通が西本願寺の北で東側にくねっとシフトしていく様子は、次の写真 ↓ のとおりです。



この写真は、天明年間(230年ほど前)に創業なさった表具の宇佐美松鶴堂さんから撮影させていただきました。
実は、「まいまい京都」の西寺内コースに参加させていただいたときのものです。
ちなみに、写真の左には新選組が一時期屯所として使用した太鼓楼が写っています。

*  *  *


西中筋通の残存区間をさらに北上してみると、真正面、すなわち西中筋通の始点に仁丹が見えます。次の写真 ↓ の黄色の矢印の個所です。


そこは六条通に面しているので、仁丹の住所表記は六条通で始まるのでしょうが、南北の通り名はどのようになっているのかと興味をそそられます。もしかして、西中筋頭?
近づいて見てみると、そうではなく、醒ヶ井東入でした。



醒ヶ井通は堀川通の1本東です。なるほどと納得しかけましたが、左側にすぐ見えるのは堀川通なのです。

地図を見ると、確かに醒ヶ井通は堀川通の1本東なのですが、それは五条通までであって、それよりも南では堀川通が東へとシフトし、醒ヶ井通をすでに飲み込んだ状態で、西本願寺の北までやってきていたのでした。
西本願寺前では西中筋通がそうであったように、その北側では醒ヶ井通も同じ運命を辿っていたのですね。

昭和28年の都市計画基本図では次のようになっていました。


都市計画基本図 「京都駅」 大正11年測図 昭和10年修正測図 昭和28年修正 より

今のような堀川通はまだ姿を現していません。
西本願寺の前にそれらしきスペースがありますが、これは明治時代にできた西本願寺独自の火除地です。その南北は家屋が密集しているかのようにこの地図では表されています。

しかし、実はこの火除地の南北の家屋は建物疎開が実施されていたようです。
それは「建設行政のあゆみ~京都市建設局小史~」(昭和58年3月 建設局小史編さん委員会)や「京都市明細地図」により確認できるところです。
火除地南部の現在の堀川通敷地の各町に×印が付されているのが、そういった意味なのかもしれません。

と言うことで、決して昭和28年の状況を正確に表している地図ではなさそうですが、醒ヶ井通の位置はしっかりと確認できました。この地図で赤い矢印のポイントが、”西中筋頭”にある先の佐女牛井町の仁丹設置場所です。
設置当時としては、「六条通醒ヶ井東入」で何ら支障なかったですし、むしろ当然だったことが分かりました。


次 ↓ は、昭和46年の都市計画基本図です。
すでに、堀川通の整備が終了している状況が分かります。醒ヶ井通は地図の上からも姿を消しました。西中筋通なる表示は歩道上にあります。

都市計画基本図 「島原」 昭和38年8月測図 昭和46年11月修正 より


戦時中の建物疎開は4次に亘って行われました。
ただし、昭和20年8月の第4次については着手するやすぐに終戦となっています。
この堀川通については最も規模の大きかった第3次で実施されています。着手されたのは昭和20年3月のことで、五条通や御池通とともに実施されました。

戦後は、これら建物疎開の跡地が荒れ放題だったそうで、「建設行政のあゆみ」にはその様子として次のような写真 ↓ が紹介されています。



戦後、他都市では同様にして生まれた疎開空地帯を元の所有者に返還するなどしたそうですが、京都市の場合は逆に大幹線道路として整備することを選択、堀川通については昭和28年3月になってようやく七条~鞍馬口間が完成したと記録されています。
かつての都市計画事業では道路の拡幅がなかなかできなかったのが、皮肉にも戦争により予定外の大幹線道路が一気に出来上がったことになりました。

<参考文献>
「建設行政のあゆみ~京都市建設局小史~」(昭和58年3月 建設局小史編さん委員会



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この記事へのコメント
私が住んでいる下京区ということで、大変興味深く読ませていただきました。

仁丹町名看板は道路拡張前の京都の姿を十数文字で伝えている生き証人と言えるのではないかと思います。そして、この道路拡張の中で姿を消した仁丹町名看板も数多くあるのではないでしょうか。
このような事を考えてしまうと、仁丹町名看板がいったい何枚設置されていたのか、ますます謎が深まってしまいそうです。
そして、道路拡張で姿を消したはずの仁丹町名看板がどこかで大切に保存されていることを期待しています。
Posted by まっちゃ at 2012年11月19日 12:36
>道路拡張で姿を消したはずの仁丹町名看板がどこかで大切に保存されていることを期待しています。

私も、いずれこのようなことが起こりはしないかと期待しています。
Posted by shimo-chan at 2012年11月19日 21:25
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