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2013年03月20日

明治期の新聞にみる仁丹広告(2)

明治期の新聞にみる仁丹広告(2)

~仁丹の急成長と新聞広告~


前回ご紹介した仁丹の新聞広告の続編です。
今回は、明治38年に発売を開始した仁丹の急成長を新聞広告がどのように支えていたのかを見て行きたいと思います。

前回は大阪朝日をとりあげましたが、今回は当時大阪朝日と共に日本でもトップクラスの売り上げを誇り、広告にも積極的に取り組んでいた大阪毎日新聞を中心に見てみましょう。

大阪毎日での全面広告の掲載回数をカウントしてみると、仁丹販売年の明治38(1905)年は13回、翌39(1906)年は19回、明治40(1907)年が25回となりました。
明治41(1908)年になると、多い月では7回も掲載され、トータルでは48回、明治42(1909)年には52回にまでに達します。
また、時には2面繋がりの大きな広告が掲載されることもありました。
これらの数はあくまでも全面広告に限ったもので、小さな広告や半ページ程度のサイズの広告なども掲載されており、仁丹の広告が載らない日はほぼなかったと言ってよいと思います。

ちょっと一例をご紹介します。少し時代は下るのですが、大正3(1914)年8月2日の広告です。
この広告、まるで町名表示板みたいに見えませんか?


~大正3年8月2日 大阪毎日新聞より~


さて、仁丹はどの程度新聞広告に予算を投じていたのでしょうか。
内川芳美編[1976]『日本広告発達史(上)』では、雑誌「日本及日本人」明治43(1910)年8月1日号に寄せられた仁丹広告についての投書が紹介されています。

そこには、『広告費は年額十二万円と噂されて居るが、果して真ならば白瀬の南極探検隊が三個組織さるる。』と書かれていました。

明治37(1904)年、おおよそ20万部を売り上げていた大阪朝日新聞、大阪毎日新聞の定価は一カ月48銭、広告料は1行42銭でした。
その数年前のデータですが、明治34年ごろ、東京朝日新聞では全面広告を出すと150円の広告費だったそうです(日本電報通信社[1951]『広告五十年史』より抜粋)。
仁丹の広告費がいかに大きかったか御理解いただけるのではないかと思います。

※  ※  ※


当時、このような広告を展開したのは仁丹だけではありません。
他にも化粧品や医薬品を中心に、ライバルといいますか同じように広告に力を入れていた企業もあります。

ちょっと脱線しますが、仁丹と比較するという意味で、いくつかその中からご紹介してみましょう。

例えば現在のロート製薬の前身である山田安民薬房の「ロート目薬」、「胃活」の広告です。胃活のトレードマーク、仁丹となんか似てますね。


~明治42年10月1日 大阪毎日新聞より~



~明治39年6月1日 大阪毎日新聞より~



他にも、今でも現役の企業としては、たとえば「中将湯」、「ライオン歯磨き」なんかはおなじみの商品かと思います。

~明治42年11月5日 大阪毎日新聞より~



~明治43年5月1日 大阪毎日新聞より~


山崎兄弟商会の懐中薬「ゼム」は、当時は仁丹とならぶ懐中薬の売れ筋で、石川啄木の歌集「悲しき玩具」にも登場するそうです。


~明治39年4月8日 大阪毎日新聞より~



「脳丸」も同じく山崎兄弟商会が販売していました。こちらの本社は東京の山崎帝国堂(今でも便秘薬毒掃丸でおなじみです)。


~明治39年5月2日 大阪毎日新聞より~



人の横顔が非常にインパクトのある「健脳丸」は、大阪で今でも現役である丹平製薬による製品です(現在の健のう丸は便秘薬です)。


~明治39年5月18日 大阪毎日新聞より~



イヌがトレードマークだった「清快丸」を生産していた高橋盛大堂は、現在でも大阪で盛大堂製薬として営業されています。


~明治39年9月20日 大阪毎日新聞より~



小西久兵衛が製造していた栄養剤の「次亜燐」は、「人体の肥料 牛乳の数十倍」をキャッチコピーにしばしば全面広告を載せていました。こちらは相撲取りがマスコットキャラです。


~明治43年5月8日 大阪毎日新聞より~


当時の製品のマスコットやデザインには、非常に強いインパクトがありました。
脳に効くから頭を押さえる、頭のドアップ、胃腸薬なら胃のドアップ、淋病の薬は前かがみ…などなど。


~明治39年8月2日 大阪毎日新聞より~



~明治39年7月11日 大阪毎日新聞より~


ビスマルクの横顔の毒滅も、大礼服の外交官の仁丹も、同じように大きなインパクトがあったに違いありません。

※  ※  ※


これら広告の中でも、仁丹は広告の回数、量、内容ともにトップクラスでした。
とりわけ仁丹の全面広告は毎回デザインやコピーに趣向を凝らし、内容を変えたものを使用することが多く、どれも非常に面白い内容になっています。
他社の広告には一度使用した図案を使いまわすケースがしばしばみられたのとは大きな違いだと思います。

また、仁丹の新聞広告は、単に製品を宣伝するだけでなく、そこに様々な世代を対象にした企画を付け加えました。

たとえば、「仁丹ポンチ」という子ども向けの漫画。


~明治41年9月10日 大阪毎日新聞より~


また、全国の子供たちから習字を募集しています。面白いのはこの広告で「学校の生徒毎朝仁丹2、3粒づつ常用せば著しく記憶力を増進し物忘れせず」とアピールしていることです。


~明治42年3月2日 大阪毎日新聞より~



子供に限らない懸賞広告も出ました。
明治38(1905)年10月22日付の広告、これは仁丹を買わなくても新聞広告に10日間連載される問題の答えを応募すれば、賞品が当たる!というものです。
しかも、以前の記事を読み忘れた人のために、問題を改めて全部書いてあげるという優しさまで(笑)見せています。


~明治38年10月22日 大阪毎日新聞より~


義損や寄付もしばしば行われました。
明治43(1910) 年に起きた潜水艇事故の殉難者の記念碑作成、大火事への義損を募るものです。
この広告で注目したいのは、トータル3千円の寄付金のうち、2千円分は仁丹本舗が支出、残り1千円分はこれから7日間の仁丹購入を通じて一般消費者も寄付に参加できますよ、という点です。
現在も行われているCSR(企業の社会的責任)に絡んだ広告をいち早く行っていたことになりますね。


~明治43年5月11日 大阪毎日新聞より~



また、中国で起きた辛亥革命に対し仁丹を9万包寄贈したことを伝える広告です。


~明治44年11月24日 大阪毎日新聞より~



この後、翌年の1月には関係者から贈られた感謝の書が広告に載りました。

さらに仁丹はありとあらゆるシチュエーションに万能薬として効果がありますよ、というアピールがされました。
次の広告は大正3年5月19日のものですが、左下に書かれているのは、この年の2月11日からスタートした「金言広告」と呼ばれるもので、屋外広告や新聞広告には古今東西の著名人の「金言」がつけられました。


~大正3年5月19日 大阪毎日新聞より~


※  ※  ※


辛亥革命が起きた中国に9万包も仁丹を寄贈したのは、当時すでに森下仁丹が海外市場を積極的に狙って販売を進めていたからです。

さて、今回の記事、かなりボリュームが増えてきてしまいましたので、いったんこのあたりで終わりにするとして、どのように仁丹は海外市場に進出して行ったのか、海外では外交官の大礼服ロゴはどうなっちゃうのか、広告はどうしていたのか?

そのあたりを次回考えてみたいと思います。

~つづく~

京都仁丹樂會 idecchi




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