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2013年07月13日

明治期の新聞にみる仁丹広告(7)

明治期の新聞にみる仁丹広告(7)
行政による広告規制と仁丹


シリーズで書いてまいりましたこのトピックもいよいよ佳境です。前回までで森下仁丹が新聞広告・屋外広告に膨大な費用をかけ、また、当時広告を重視した他の企業と共に、非常に大きな影響をもったがゆえに、景観上の批判・懸念も生んできたことをお伝えして来たかと思います。

まずはこちらの広告をご覧ください。大正5(1916)年5月14日の大阪毎日新聞です。東京全市7000本、さらに大阪全市の電柱広告について、電柱広告は全て古今東西の先人たちの格言や世界各国のことわざなどを書き込んだ「金言広告」に置き換える、という発表です。


このような全面広告が出るに至った背景は何だったのでしょうか。今回は、屋外広告に対して行政からどのような規制がなされたのか、また仁丹はそれにどのように対応していったのか、に焦点を当ててみたいと思います。

**********

仁丹が展開した広告の一つに電柱を使った広告があります。
1888(明治21)年に送電を開始した東京電燈を皮切りに、大阪、名古屋にも電燈会社ができ、相次いで送電事業がはじまります。その電柱への広告は、1890(明治23)年には警視庁から東京電燈株式会社に電柱広告の許可が出され、また、同年の大阪朝日新聞には電灯広告事務所による電柱の広告が載せられていることから見ても、この時期には電柱への広告が始まっていたようです。(谷峯蔵[1989]『日本屋外広告史』)
1901(明治34)年、東京に電柱広告の専門取次業者の電燈広告社が設立されました。当時の電柱広告は2段に分かれており、上段は行燈式、下段は電柱に直接塗りつけ(または巻きつけ)た塗広告だったそうです。
左の画像は1890(明治23)年6月25日に大阪朝日新聞に載った電灯広告事務所の広告、右の画像は1903(明治36)年11月13日の東京朝日新聞に載った電燈広告社の広告です。



電燈広告社の亀田満福の回想によると、当時電柱広告を一番多く使用したのは「仁丹」で都内に3000本、次いで花王石鹸が1000本、その他、実業之日本や婦人世界などが3―400本くらいの広告を掲載していたとのことです。ちなみに、仁丹から広告を受注した当時、総売り上げが三百万とすると、その三分の一、すなわち百万円を宣伝費として使用したと聞いていたといいます。(内川、同上。原資料、亀田満福[1960]『電柱広告六十年』)。

「くすりや本舗」「仁丹の館」様のブログによると、京都市内を映した絵葉書の中にも、仁丹の広告のついた電柱の様子がわかるものがあります。橋弁慶山が写っている絵はがきです。詳細はリンク先をご覧ください。

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おそらく、大阪をはじめ関西からはじまった広告は、次いで関東でも展開されたと思われますが、それに対して当局から「待った」がかかりました。1909(明治42)年3月31日の読売新聞にその模様が報じられています。

内容を書き起こしてみます。
○電柱広告の制裁
 去月中旬頃より市中目抜きの場所に電柱に例の広告の斬新奇抜を以て鳴る森下仁丹の広告が赤色の輝やく計り塗立てられしを見たるが此程警視庁より市内交通警察に妨害ありとて強硬なる塗替へ命令を電燈会社へ向けて発せらる依つて今事の茲に及べる経過を報道せんに
▲抑もの発端 森下博薬房に※(一文字読めず)は両三年前来名古屋、大阪、神戸等の市中電柱に売薬仁丹の広告をなして大いに人目を惹き好果を得たれば之を機として東京へも侵入せんとし昨年末東京電燈会社電柱広告一手請負所なる京橋区弓町三丁目の電燈広告社へ向ふ一ヶ年の契約にて電柱の賃貸借をなしたり而して広告趣向及び塗立は森下出入の日本橋薬研堀川田美術看板店が請負ひ本年二月中旬頃より白地に売薬「毒滅」の商像たるビスマークの像を画き其上へ更に赤字で「仁丹」と記して頗る得意の色あり始めは
▲本所等の場末 の電柱にのみ広告し居たりしが追々京橋日本橋と繁華の地にも及せしかば警視庁は本月上旬電燈会社へ内諭を発し会社は直に電燈広告社へ向け其旨伝達し尚ほ目下着手中のものは一時塗立を中止す可しと注意したり然るに広告社は言を左右に托して荏苒今日に至るも更に塗換へる模様なきのみか依然塗立を続行なし再度警視庁の命令を煩すに至れり
(中略)
▲広告社の言分 (中略) 本社は森下に対し毫も醜関係等之れ無く現に向ふ一ヶ年の契約にて未だ広告料一銭も受取り居らず故に一本二円と見て六千円内外の損害なり云々、と
▲警視庁強硬 因に電柱広告なるものは明治卅九年の春電燈会社の名義の下に左記条項の範囲内に於て警視庁より許可を得たり
 色は必ず白若くは紺に限る事
 文字は黒若くは白に限る事
 商品名と屋号と番地の外には記さざる事
公安を害し市街の風致を傷ふを禁ずる事は勿論なるが今回の事件は其第二項目に該当す此故に広告社及び森下より先頃来躍起と警視庁へ哀訴嘆願なし居るも警視庁にては中々強硬に出て居る模様にて或は此処数日を出ずして電柱の仁丹は其姿を消すに至るやも知る可らず」
~1909(明治42)年3月31日 読売新聞~


この記事が示すところは非常に興味深いものと思われます。まず、「そもそもの発端」として、3年前あたりから、森下仁丹は名古屋、大阪、神戸などで電柱に仁丹の広告を出していたこと、42年2月頃から東京でも同様の広告を展開しようとし、その内容は白地に「毒滅」のビスマルクの像を描き、その上に赤字で「仁丹」と書いていたこと、東京でも最初は本所あたりからはじまったものが次第に繁華街にも展開され、それに対して、明治39年の許可内容から反するものであると警視庁がクレームを入れたことが分かります。さらに、広告の請負業者が「一本二円と見て六千円内外の損害なり」といっていることから、おおよそ3千本ほどは同様の広告がつけられたものと思われます。これは先ほどの電燈広告社亀田満福の回想とも重なる本数です。

前回ご紹介した東京朝日新聞の連載「醜悪なる屋外広告」の3回目でもこの事件に触れています。
「読者のうちには未だ記憶のおとろへざる人も多からう、仁丹及び毒滅の発売者は昨年東京市中幾千本の電柱に人間の感情に対して恐るべき害毒ある色を以て其の広告を書きはじめ、市内の重なる処は殆ど其の広告が出来上つて了つたのを、其に対する吾人の有害なる説明と警視庁の命令とによつて忽ち此の広告を消滅せしめた事がある、一大市内の電柱に残らず一種の商品の広告を出すとは、広告の出し方が商業的でない殆ど無法である」
~1910(明治43)年6月17日、東京朝日新聞~

**********

当時、全国各地で商業活動が活発になるにつれ、その広告手法として屋外看板を用いる企業が急増しました。ただし前回みたように、その広告が街中に氾濫すると、景観上の懸念等が高まり、当局は広告の出し方について一定のルールを定めるようになりました。「東京朝日新聞」には、1907(明治40)年7月に発布した京都府令が紹介されています。
「道路河川其他公衆の自由に往来出入する事を得る地及之に面したる場所に建設し又は掲出したる広告塔広告札及看板の類にして公安風俗を紊り又は風致を害し若くは危険の虞ありと認むるときは所轄警察官署に於て之が移転改造又は除却を命ずることあるべし
前項の命令に従はざる者は拘留又は科料に処す」
~1910(明治43)年7月6日『東京朝日新聞』「醜悪なる屋外広告(16)※正しくは17」~


この京都府令がベースとなっていると思われますが、その4年後、さらに詳細に規制を定めた、京都府令第136号「広告物取締法施行規則」(1911(明治44)年8月11日)と、京都府訓令第54号「広告物取締法令施行手続」(明治44年8月22日)が作られています。どのような規制であったのか、文面を詳しく見てみたいと思います。(旧字は改めています)

広告物取締法施行規則

第一条 左ノ各号ノ一ニ該当スル場所ニ広告物ノ表示其他之ニ関スル物件ノ設置ヲ為スコトヲ得ス但慈善其他公益ノ為メニスル広告物ニ限リ之カ表示若ハ設置ヲ許可スルコトアルヘシ 
 一 御陵ヨリ三町以内御墓ヨリ一町以内
 二 公園、社寺仏堂境内

社寺仏堂ノ類カ其境内ニ於テ祭典法要説教等其事務ノ為メニスル広告物ノ表示其他之ニ関スル物件ノ設置ヲ為ス場合ニハ前項ヲ適用セス

第二条 左ノ各号ノ一ニ該当スル場所ニ広告物ノ表示其他之ニ関スル物件ノ設置ヲ為サムトスルモノハ其位置、期間並ニ物件ノ材質、形状、模様及寸法ヲ記シタル図面ニ工事仕様書ヲ添ヘ所轄警察署ニ願出許可ヲ受クヘシ変更セムトスルトキ亦同シ(以下略)

第三条 略

第四条 広告物件ニシテ褪色、剥離若ハ破損シタルトキハ速ニ之ヲ改修又ハ除却スヘシ

第五条 許可ヲ受ケ又ハ許可ヲ要セサル場所ニ広告物ノ表示其他之ニ関スル物件ノ設置ヲ為シタル場合ト雖所謂所轄警察官署ニ於テ美観又ハ風致ヲ保存スル為必要アリト認ムルトキハ其物件ニ対シ位置ノ変更若ハ改修除却ヲ命又ハ許可ヲ取消スコトアルヘシ

第六条 略

広告物取締法令施行手続

第一条 左ノ各号ノ一ニ該当スル場所又ハ物ニ広告物件ノ設置ヲ許可スヘカラス但シ神仏ノ祭祀法要慈善其他公益ノ為メニスルモノ又ハ特に美観若ハ風致ヲ害スル虞ナシト認ムヘキモノハ此限リニアラス
 一 勝地、旧蹟
 二 公園、勝地、旧蹟、鉄道、軌道又ハ汽船ノ航路等ヨリ明カニ望見シ得ヘキ田圃堤塘山面其他林藪ノ周囲但シ停車場、停留所構内及其構外二十間以内ノ場所ヲ除ク
 三 京都市内ニ於ケル高瀬川及堀川ノ水路ニ沿フタル場所
 四 鴨川ノ水路ニ沿フタル場所但シ柳原町以北北上賀茂村以南
 五 保津川ノ水路ニ沿フタル場所但シ桂村以北保津村以南
 六 宇治川ノ水路ニ沿フタル場所但シ宇治町以東
 七 鉄製電柱、煙突、塀籬又ハ樹木


第二条 広告物件ハ左ノ製作装置ニ依ルモノニアラサレハ之カ設置ヲ許可スルヘカラス
 一 建造物ノ側壁ニ設置スルモノハ額面様ノ製作物等ニハ粗造ナラス且地上ヨリ高サ八尺以上ノ場所ニ取付クルモノ
 二 地上ニ設置スルモノハ裏面ノ骨組等ヲ露出セシメス且脚部支柱等不体裁ナラサルモノ
 三 電柱ニ纏著スルモノハ地上ヨリ高サ七尺以下ノ場所トシ且広告物ヲ以テ電柱ノ其部分ヲ全部包被セシメ赤、白、黒ノ地色ナラサルモノ
 四 形状、模様、彩色ハ雅趣ヲ帯ヒ且褪色シ易カラサルモノ例セハ禽獣草木其他優美ノ絵画類ハ概シテ差支ヘナキモ動物ノ内臓白骨其他「毒滅」「仁丹」「大学目薬」「次亜燐」ノ類ニシテ見苦シキモノハ許可セサルコト
 五 材質は腐食又ハ破損シ易カラサルモノ
 (以下略)
~京都府警察部編纂、帝国地方行政学会『京都府警察法規』1927 (昭和2)年所収~

これら二つの規制の文言をみますと、明治44年の時点で、あまりにも市内に氾濫しすぎた屋外看板に対して、かなり厳格な規制を加えようとしていたようです。
施行手続の文面が非常に興味深い点は、設置が規制されるべき場所をかなり細かく規定していることです。京都市内には今でもいたるところに宮内庁が管理している皇室関連の墓所や塚が存在しています。そこから一町以内は看板禁止、となると、当然かなりの場所に影響が出ます。また、神社仏閣、景勝地、主要な河川沿いなども禁止されていますので、とりわけ神社仏閣、皇室ゆかりの陵墓、歴史上の史跡が多い京都においては、屋外広告を出すことは極めて難しくなります。

さらに、その形状の指定です。「毒滅」「仁丹」「大学目薬」「次亜燐」ノ類ニシテ見苦シキモノハ許可セサルコトとあるのです。他の大手売薬の商品とともに(以前紹介した新聞記事広告をご参照)、毒滅や仁丹のインパクトありまくりのビスマルク、外交官は「見苦しい」とのことで許可されない、というのです。これでは仁丹・毒滅などのロゴとデザインだけの広告をだすことは認められないということになります。
しかしながら、たとえば仁丹の町名表示板についていえば、真如堂近くの看板があるのは、陽成天皇の神楽岡東陵の真裏ですし、南禅寺や西陣の聖天さんの壁につけられているものなど、寺社境内に現存するものもあります。これはどう理解すればよいのでしょうか。
こちらは南禅寺の門につけられている仁丹です。


また、先日の「まいまい京都 仁丹コース第3弾」でのゴール地点だった上品蓮台寺にも、縦書きの仁丹が付いています。

先ほどの京都府令にもう一度戻ってみますと、「条件付き」で認められる場合についてもいくつか記述があります。先ほど設置を認めないとした場所については、「神仏の祭祀法要、慈善そのほか公益のため」「景観を損なう恐れがない場合」に限り条件付きで認めるとしているのです。
とりわけ御大典などの大型イベントに伴い、日ごろ歩き慣れない京都訪問者の急増が予想された時期です。不慣れな道を巡る人々にとって、今自分がどの通り・ロージを歩いているのかを知るためには、通り名や町名が示されている表示板が不可欠となります。この観点からみると、仁丹の町名表示板は、京都来訪者・そして京都市民にとってさえも、市内を歩き回るために重要な位置情報を示しているという点で「公益」にかなうものです。また、木製に続いて設置された琺瑯びきの表示板は、現在でも美しさを保っているものが多いことからもわかるように、腐食・破損しづらいものとなっています。
私見ですが、仁丹による町名表示板が京都市内を席巻した背景の一つに、明治40年代に進んだ屋外広告への規制強化と、その中で例外として認められる条件としての「公益性」があったのではないか、と思われるのです。
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最後に、この新聞広告をご覧ください。1914(大正3)年に全国各紙に掲載された有名な広告「広告革新の宣言」です。

~1914(大正3)年2月11日、大阪毎日新聞~

「今や時代は広告を見るにも何物かを得んとする傾向あるに際し幣舗は社会の公益を念とし奮然今後の仁丹広告には東西古今の格言俚諺を併掲す…」
という言葉が書かれています。これ以降、仁丹による新聞広告には、かならずその紙面の隅に、様々な思想家や著名人の格言、ことわざなどが加えられるようになりました。

たとえば、1918(大正7)年元旦の東京朝日新聞の1面広告のアップをご覧ください。



上杉鷹山の言葉や西欧の諺などが金言として載せられています。また、右側のコピーですが「仁丹は原薬の精選を生命とし、金言による薫化済世を使命とす」と書かれています。以前連載の中で紹介した「仁丹の世界号」では、「我等は最善を尽せる製品を弘く世界に開拓し以て国益の増進を目的とす 薬味の精選を生命とせる仁丹は今や内地の如く海外到る処に賞讃せられつゝあり」と両側に記されていますが、この頃にはまだ、広告による薫化云々という文面は新聞広告上には見られません。

電柱広告も、冒頭ご紹介した電柱広告革新宣言に示される通り、単に商品名・ロゴだけが書かれたものではなく、下に金言が書かれたものへと変わっていきます。森下仁丹の広告ギャラリーにも、金言広告がついた電柱広告の写真が載せられています。




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日本国内におけるビジネスが活発となり、様々な商品の販売方法およびそれを宣伝するためのメディアが多様化する中、屋外広告という手法は明治末になり爆発的に広まりました。一方、その氾濫による景観や風紀などへの影響を懸念する声も高まり、行政による規制が強まりました。様々な手段での広告手法を模索する企業は対応を迫られます。森下仁丹は、「町名表示板を通じて京都を訪れる人々、生活する人々の利便性に寄与する」、という「公益性」を前面に打ち出すことで、この規制に対応したのではないでしょうか。森下仁丹の「広告益世」の思想の実践という点からすると、その最も早い事例が、京都の町名表示板であったといえるのではないでしょうか。この点をさらに補強する資料が出てこないかどうか、更に調査を進めていきたいと思います。何か進展があり次第、ブログでご報告します。

京都仁丹樂會 idecchi




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この記事へのコメント
idecchiさん、大作の発表お疲れ様でした。

『色は必ず白若くは紺に限る事
 文字は黒若くは白に限る事
 商品名と屋号と番地の外には記さざる事』

京都の仁丹町名表示板に使用されている色は、
木製ならば、白、黒、赤
琺瑯ならば、白、黒、紺、そしてちょこっと赤。

記載内容は、商標と住所表示のみで、キャッチコピーなし。

これらは、東京での経験や行政とのやりとりも生かした手法なのかもしれませんね。

木製仁丹の設置時期は、せいぜい明治43年~大正7,8年の間だと見込んでいますので、時系列的にも矛盾はしません。

様々な角度から仁丹町名表示板の謎に迫って行こうというひとつの試みとして、非常に意義深い発表でした。

直接記録されたものがない以上、当時の様子を知る作業がいつしか設置時期の確度を上げていくことになろうかと思います。

焦らず、楽しみながら資料の探索を続けましょう。
Posted by shimo-chan at 2013年07月13日 09:54
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