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2013年07月09日

設置範囲 最南端更新! ~仁丹町名表示板~

仁丹町名表示板の設置範囲のうち、旧市街地における最南端は「東九條札ノ辻町」だとしてきました。この写真です。



設置範囲については、『基礎講座 五.設置範囲 ②分布状況』で詳しく解説し、結果として次のようなデータをお示ししました。
※青字の部分はリンクしています※

・最東端    「左京區上髙野口小森町」
・西  端    「右京區花園八ッ口町」(消滅)
・突出最西端 「右京區秋街道町区域」 ※嵯峨野秋街道町
・最北端    「左京區上髙野大橋町」
・南  端    「下京區東九條札ノ辻町」(消滅)
・突出最南端 「下京區本町十九町目 本町通東福寺南門下ル」

旧市街地としての円陣のエリアから街道沿いのエリアが突出しているという捉え方です。
ただし、当時の京都市としての検証であり、伏見市は加えていません。

今回の記録更新は円陣の南端である「下京區東九條札ノ辻町」が更新されたというお話です。

それは、この仁丹町名表示板のおかげです。



               下京區西九條髙畠町 です。

設置されている場所は、京阪国道と十条通との交差点のすぐ西側です。
設置範囲の最南端が九条通から十条通へと一気に南下し、突出最南端「下京區本町十九町目」よりもさらに南に位置することが判明、果たして”突出最南端”なる表現が相応しいのかどうかという課題も出てきました。

※     ※     ※


私たちが把握した、事の発端はこうでした。
市中探索にかけては随一のデナ櫻さんが、何気なく見ていたアピカルイン京都さんのスタッフブログでその存在を知り、半信半疑で現地を訪れたところ、確かに今、存在していることが分かったのです。しかし、以前は気づかなかったので、埋蔵仁丹が復活したに違いないということになりました。
そこで、その経過を知りたいとばかりに、滋ちゃんがそのお宅に訪問して次のようなことが分かったのです。

『昔は家屋の1階に設置されていたが、外壁を修繕したときに取り外し、以来、2階のベランダの内側にずっと寝かされていた。それが何かの拍子に壁に立てかけられ、再び目に触れるようになった。』
ということでした。

滋ちゃんは、その貴重さを説き、ずっと大切にしてくださいとお願いをするとともに、さらに釘でしっかりと2階に取り付けるという保全活動まで行ったという次第です。

※     ※     ※


ところで、十条通にもあったとは意外でした。現在は南区ですが、表示板の行政区は「下京区」です。南区が下京区から分区したのは昭和30年なので、設置時期はそれ以前となりますが、琺瑯仁丹の設置は、『基礎講座六 「設置時期」⑫琺瑯仁丹の終期』で解説したようにせいぜい昭和10年までだと見込んでいます。

でも、そもそもその当時に設置するような家屋がこの近辺にあったのでしょうか?

例の如く、京都市の1/3000都市計画地図を見てきました。いずれも「吉祥院」からです。


↑ 大正11年側図

赤いがこの仁丹の場所です。はランドマークとして現在の南区役所の場所を記してみました。大正11年ではの場所には家屋は全く見られず、京阪国道はもちろん影も形もなく、周囲は一面田んぼであることが分かります。



 ↑ 昭和4年修正側図

昭和4年になると、京阪国道や十条通りの計画が登場し、近辺には家屋も姿を現しました。ただ、の場所にはまだ家屋が見えません。



 ↑ 昭和10年修正側図

そして、昭和10年、の場所にズバリ家屋が登場しました。
連棟の町家だったのではないでしょうか。


これらは事実をリアルタイムに記録する航空写真ではなく、あくまでも地図であることから、家屋の存在が厳格に表現されているとは限りませんが、都市計画地図であることから多少のタイムラグを織り込んでも、信ぴょう性の確度は他の地図より格段に高いと思います。

※     ※     ※


と、ここまで準備したところで、昭和2年当時の航空写真に触れることができました。
この ↓ 写真です。


 ↑ 京都市役所編 『空中より見たる京都市街図 写真』 より


昭和2年? 米軍撮影のものが最古なのでは?と思いがちですが、実は戦前にも撮影されていたのだそうです。
出典は、京都市役所編 『空中より見たる京都市街図 写真』 なる昭和4年発行の資料で、京都大学所蔵となっています。
さらに撮影日時については、日本造園学会のランドスケープ研究74における研究発表『昭和初期の京都市の写る空中写真の撮影時期の再検討』によって詳細に検討され、昭和2年の8月下旬から9月上旬だと結論付けられています。

ちょうど昭和4年の都市計画地図と酷似していますね。
写真の左上が府立第二中学校、その右下に煙たなびく煙突が河合染工場でしょうか?
そして、黄色の矢印の箇所に家屋が登場していることが写真でも分かります。
こうして見てみると、都市計画地図の精度の高さも裏付けていることになりそうです。


したがって、以上のことから、少なくとも昭和10年までにはこの西九条高畠町の仁丹は設置できたと言えそうです。

ただ私たちは、『基礎講座六「設置時期」⑬まとめ』でも解説しましたように琺瑯仁丹の設置時期として、つぎの3つの期間を考えています。

  ① 大正末期から昭和4年までの上京・下京時代における設置のピーク
  ② 昭和6年の左京区・右京区の追加設置
  ③ 昭和10年頃の例外的な追加設置

今回の西九条高畠町については、①の期間と言いたいところですが、このエリアの開発状況に応じて①~②にかけての期間に設置された公算が強いのではと考えます。

※     ※     ※


ところでもうひとつ、興味深いことがこれらの地図から読み取れました。
印のすぐ下に ―<・>―<・>―<・>― なる線が見えるかと思います。
十条通りの北側のラインのところです。
これはズバリ京都市域の境界線を表すラインなのです。

西九条高畠町は、大正7年4月1日の京都市エリア拡大のときに、京都市下京区に編入された上鳥羽村の一部だったのです。
そして、その南で上鳥羽村のうち京都市に編入されなかったエリアと隣接していました。
その後、昭和6年4月1日には上鳥羽村もすべて下京区に編入されましたが、それまでの大正11年や昭和4年の地図に入っている―<・>―<・>―<・>― なるラインは京都市エリアの南端を表しているのです。

仁丹町名表示板は町名が変わる場所、すなわち町界に設置されることが多いのですが、今回のこの西九条高畠町の仁丹は、まさしく京都市の入口に設置されていたとも考えられます。

以上のことから、今回の発見は、先日の梅津林口町と同様、仁丹町名表示板は京都市域に徹底的に設置されたのではという見方を補強することになりました。

参考資料 「京都市 地名・町名の沿革」1994年8月 京都市発行


~京都仁丹樂會 デナ櫻 ・ 滋ちゃん ・ idecchi ・ shimo-chan~




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この記事へのコメント
京阪国道十条ですか!
こうなると、物集女あたりも有望かもしれませんね。
Posted by 夏目ソージキ at 2013年07月09日 21:41
夏目ソージキさん、いらっしゃいませ。

>こうなると、物集女あたりも有望かもしれませんね。

なかったという根拠は何もありません。

ロクヨンイチ組、すなわち昭和6年4月1日に京都市に新たに編入されたエリアは次のとおりなのですが、このうちのいくつかで見つかっているので、他のエリアもあったのかも?ですね。

上賀茂邨、大宮村、鷹ヶ峰村、修学院村、松ヶ崎村、山科町、
吉祥院村、上鳥羽村、花園村、西院村、太秦村、梅ヶ畑村、嵯峨町、
梅津村、京極村、松尾村、桂村、川岡村、
伏見市、竹田村、深草町、堀内村、下鳥羽村、横大路村、納所村、
向島村、醍醐村

梅津が見つかったのだから、西院村や京極村で見つかっても当然ですよねぇ。
ただ、桂川を越えるのかどうか?
もし見つかったら大発見となるのです。
今のところ、
Posted by shimo-chan at 2013年07月09日 23:26
仁丹町名看板は本当に謎が多いですね。
今回のように1枚だけぽつんとあったり、街中でも人1人が通れるのがやっとの路地にあったりと、不思議です。
設置枚数・設置範囲が全く分からないので、こんなところにもあったのか!という予想外の発見があるのでしょうね。
Posted by まっちゃ at 2013年07月10日 12:32
今回ご紹介しました西九条高畠町は現在では南区ですが、南区は昭和30年9月1日に下京区から分区して誕生しました。

同様に北区もこの日、上京区から分区して誕生しています。

これらは昭和30年8月1日に公布された「京都市区及び区役所設置条例」に基づくものでした。

ところで今日、図書館で「京都市市政史」を見ていてとても驚きました。

この条例の原案では、北区は「北京区」、南区は「南京区」だったのだそうです。
最初はなぜ中国のことが書かれているのかと思いました。

議員から修正案が出され、北区・南区になったのだそうです。
Posted by shimo-chan at 2013年07月11日 07:07
10月22日に、「西九条高畠町」を求め地下鉄十条駅から十条通りを西へ。

国道十条で指摘の西北を探しましたが、探索技術低い私には中々発見

出来ず、近くの「飲み屋」「おたべ」で尋ねても判らず。 諦め掛けたた所

で、老婦人に逢い、尋ねましたら「あれでっしゃろか」と指さされたのが

「西九条高畠町」!この方の家の二階部。隣家の壁と横の段差で少し

凹んだ壁、雨樋で私には簡単に見いだせません。 又 只「西九条」では

探し出しは困難  楽会のblogの御陰です。

帰りは 堀川通り 蔵王町~川端町と歩き 池ノ内、志水、上夷、下糀

木津屋 と計8箇所で仁丹標と逢え、楽しい町歩きでした。

shimo-chann  有難うございました。
Posted by skykappa at 2013年10月25日 10:58
skykappaさん、いらっしゃいませ。

探索範囲をどんどん広げておられますね。

仁丹を探すために、今まで行ったことのないエリアへ行く。
それが結構、プチ旅気分になるのですよね。

これからも楽しんでください。
Posted by shimo-chan at 2013年10月26日 21:09
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