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2013年09月05日

告示第252号の不思議 3/3 ~仁丹町名表示板~

仁丹町名表示板が新旧路線名のいずれを使用しているか? その第3弾です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  <p.168> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



上京区の「妙心寺道」と「上ノ下立売通」との関係では、仁丹はすべて旧名称である「上ノ下立売通」を使用しています。これが7枚もあるのです。

左京区の「春日北通」と「春日通」との関係では、5枚の仁丹すべてが新名称である「春日北通」を使用、中京区の西方である「太子道」と「旧二条通」との関係でも、5枚の仁丹すべてが新名称である「太子道」を使用していました。ちなみに、旧二条通の名称は出世稲荷前のバス停として先日復活したことは記憶に新しいところです。



「春日北通」 「上ノ下立売通」 「太子道」 が使用されている仁丹


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  <p.169> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



このページについてはすべて新旧名称に変更がないので、手がかりはありません。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  <p.170> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



このページはなかなか興味深い情報が満載でした。

先ず、「渋谷通」と「馬町通」との関係では、8枚もの仁丹すべてが新名称である「渋谷通」を使用しています。

昭和4年の都市計画地図でも「魚棚通」と記されている六条通は28枚もの大量の仁丹がすべて新名称の「六条通」を使用しています。ただし、市比売神社近辺にある六条通と記された仁丹は現状と一致していないので、道路の付け替えがあったようです。これも仁丹が教えてくれる京都の近代史、変遷を調べてみようと思います。

長年親しまれたであろう「萬年寺通」も新名称「花屋町通」に統一されています。花屋町通の仁丹はまさに32枚もあります。東部の萬年寺に近い部分だけでも萬年寺通と記されていても不思議ではないのですが、この付近もすべて花屋町通に統一されていました。

「正面通」と「中珠数屋町通」や「御前通」との関連は、『初めてのガイド「まいまい京都」』や『正面通 ~仁丹町名表示板に見る近代史~』   でもご紹介したように、すべて新名称の「正面通」が使用されています。

最後に「醍醐道」と「滑石越道」との関連においても新名称である『醍醐道』が使用されています。



「六条通」「渋谷通」「花屋町通」「醍醐道」 が使用されている仁丹



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  <p.171> ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



最後のページです。ここでも新名称である『東寺道』や『九条大路』の使用が認められました。




「東寺道」 「九条大路」 が使用されている仁丹


※     ※     ※


以上、 2 9本の通りにおいて、仁丹町名表示板が新旧いずれの通り名を採用しているのかチェックすることができました。

しかし、そもそも地元ではこの公報が言うような旧路線名を使っていたのでしょうか?
告示前の電話帳で、直近のものとして大正15年8月1日現在のものを見ることができました。そして、半分程度ですが1枚めくりして様子を見てみました。


~ 京都電話番号簿 大正15年8月1日現在 京都中央電話局 より抜粋 ~


確かに旧路線名を多く見かけました。

特に注目していたのは、佛具屋町通と若宮通の関係です。いずれも江戸時代からある名称とのことなので、これらが混在しているのかどうかに関心を持っていました。結果は、若宮通とあるのを1件見つけたものの、佛具屋町通の方がポピュラーだったようです。
仁丹はマイナーだけど新名称である若宮通を使用したことになります。

西高瀬川や東高瀬川、下寺町や万年寺もあります。

市比売神社などは、市姫通下寺町東入なる表現になっていますが、今もすぐ近隣にある複数の仁丹は新名称の六条通が使われています。

正面通に統一される前の中珠数屋町通や御前通も見られますが、佛具屋町通御前通下ルなどは、両方とも旧名称です。

※     ※     ※


さて、仁丹町名表示板の路線名採用結果をまとめると次のような表となりました。




黄色に色付けした通り名が仁丹町名表示板が採用している通り名と、その枚数です。
4本の通りのみが旧路線名で表記されていましたが、圧倒的多数が新路線名が採用されていたことが分かりました。
つまり、告示の内容が色濃く反映されていたというわけです。何か行政からの影響力を感じずにはおれません。

※     ※     ※


琺瑯仁丹のおよそ95%は、その設置時期が大正14年~昭和4年3月31日の間にあります。この期間のうち、最後の半年ほどの間には、昭和3年9月に博覧会、11月に御大典がありました。広告の効果を考えれば、どうせならこれまでに設置を終えたいものです。さらに御大典が終わると分区作業が本格化していきます。中京区や東山区と変わるエリアにわざわざ上京区や下京区と書いて設置していくとは考えにくくなります。

さて、ここからは完全な推測です。推理に推理を重ねているので、何かひとつ覆ると崩れてしまいます。

上記のように考えると、琺瑯仁丹の設置時期は大正14年~昭和3年9月の間という可能性が高まることになります。でも、この3年間のうち、昭和3年5月の告示後4か月間に設置が集中したと考えるのは不自然であり、物理的な困難さも出てきます。

となると、告示前から告示の内容で設置していた、すなわち森下仁丹もしくは同社から請け負った業者は告示の内容を事前に知っていたと考えなければなりません。告示前のことですから、“こうなるはずだ”という見込みの状態ではあったでしょうが。

もしそうであれば、行政と強く結びついていたということになります。木製仁丹の時代にすでにそのような関係が築きあげられていても不思議ではありません。

idecchiさんの発表では、木製仁丹の時代は警察署への届出が必要だったようです。琺瑯仁丹のときも監督行政庁が警察署だったかどうかは分かりませんが、やはり行政への届出と許可が必要だったのだと思います。

公共性を持たさなければ屋外広告をやりにくくなった森下仁丹。
一方、御大典を控え、世界恐慌の中であっても道路の拡築や市電の敷設などハード面のインフラ整備に躍起となっていた行政。でも、全国から多くの人々が訪れることを考えれば、住所表示というソフト的なインフラはあるに越したことはないと考えていたかもしれません。
ここに両者の思惑が一致し、公称表示を遵守することや京都に相応しいデザインなどを条件に、まちの辻辻への設置を認めたと考えてはいかがでしょうか? 公称から外れる記載は小文字で書くなど、公称表示に頑なにこだわっている様子は、何かこのような約束を守っているということをアピールしているかのようです。

こうして、まさにお墨付きを得たと言わんばかりに貼りまくられたであろう仁丹町名表示板。そこには、持ちつ持たれつの関係があったのではないかと近頃考えるようになってきました。

あくまでも推理であり、今後これらを裏付ける資料が出てくるのか、はたまた反証が出てきて打ち砕かれるのか分かりませんが。

※     ※     ※


最後に、興味深い新聞記事をいくつかご紹介しましょう。


~昭和3年6月14日 京都日出新聞より~


御大典記念京都大博覧会の東会場と西会場の起工式の広告です。博覧会は9月20日から始まっています。そのわずか3カ月程度前に起工式とは驚きます。また、この清水組は入札で破格に安い価格を提示し、受注したそうです。

さらに驚いたのは次の記事でした。


~昭和3年8月20日 京都日出新聞より~


三条通の蹴上~東大路間の拡築のためようやく立ち退きが始まったことを報じています。要人の泊まる都ホテルとの関連で必要性があったようです。博覧会の始まる1か月前、御大典までも3カ月を切っています。さすがに、5月の市議会ではやきもきする議員から追及されていたようで、こんな記事もありました。


~昭和3年5月19日 大阪朝日京都版より~


ちなみに、三条通立退開始の記事には奈良電や新京阪の話題も見られます。両者とも御大典までに京都へ届かそうと急ピッチで工事を進めていました。そして、奈良電(現:近鉄京都線)は残念ながら昭和3年11月10日の即位式には間に合わず11月15日に京都まで開通、新京阪(現:阪急京都線)は、わずか9日前の11月1日にかろうじて西院の地上に仮駅を作ってなんとか間に合わせました。さらに、その4日後の11月5日には市電が円町から西院までやってきて、大阪方面からの人出を博覧会西会場、御所、東会場へと運ぶルートがぎりぎりセーフで完成したというわけです。

以上のように、かなり切羽詰まった、余裕のない当時の様子が見えてきます。行政としては猫の手も借りたいほどではなかったのでしょうか。

仁丹町名表示板に関する直接的な記録がない以上、その謎を知るためには、外堀を埋めるように当時の京都のまちの様子を知り、そして仁丹に思いを馳せる、そんな地道な作業を続けていくしかないようです。

~おわり~

京都仁丹樂會 shimo-chan



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この記事へのコメント
地道な作業、お疲れ様でした。
おっしゃるとおり、地名看板が、少なくとも京都では、仁丹と行政の二人三脚で設置されていったようですね。

ところで、大正15年の電話帳(逓信省の許可があったはず)に、上賀茂も掲載されているんですね。その当時から京都市と上賀茂村は一体化が進んでいたのでしょうか。
Posted by 夏目ソージキ at 2013年09月06日 11:41
夏目ソージキさん、コメントありがとうございます。

>その当時から京都市と上賀茂村は一体化が進んでいたのでしょうか。

あの仁丹のあった南野々神町も含む、昭和2年からの洛北土地区画整理事業も上賀茂村を含んでいたことになりますし、大正15年の都市計画地図には松ヶ崎村に京都市の浄水場がすでに設けられていますので、京都市への編入は昭和6年まで待たなければならないものの、上賀茂村・松ヶ崎村・修学院村などの周辺区域の一体化が進んでいた、もしくは進もうとしていたというのが実態なのでしょうね。
Posted by shimo-chan at 2013年09月14日 09:29
仁丹の話ではないのですが、新聞記事に出ていた奈良電こと「奈良電気鉄道」のお話です。当初は地下線で京都に乗り入れる予定だったのですが伏見の酒造会社から「地下水が枯れる」と言われ急遽、高架構造に変更、この計画変更で用地買収を行わねばならず工期は延び延びとなり、京都駅付近の高架線を「コンクリート製高架橋」では無く「木製高架橋(ティンバートレッスル)」として急造し昭和の御大典に間に合わせたと言います。それを昭和30年代まで使い続けたとか。電車が走るとギシギシ音を立て、今にも壊れるのではないかと怖かったそうです。
Posted by よさみのみやけ at 2014年07月06日 13:06
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