2013年09月28日
六条通 2/3 ~仁丹町名表示板に見る近代史~
前回、ひとまち交流館界隈の六条通に興味を持って調べているうちに、改めて六条通を端から端まで歩いてみたくなりました。
ここが現在の六条通の西側のスタート地点です。黄色い ↑ の部分がそれです。堀川通から東に向かって撮っています。
戦時中の堀川通の建物疎開以前は、この画面中央にも町家がいっぱい軒を並べていたことでしょう。
中へ入っていきます。五条通や七条通も建物疎開や拡築される前はこのような狭さだったのでしょうね。とても味わい深いものがあります。
早速、仁丹登場です。
「醒ヶ井東入」とありますが、すぐ西側の縦の通りは堀川通にしか見えません。
でも、実は、堀川通の東側歩道がかつての醒ヶ井通だったのです。だから仁丹の表記と設置場所はこれで正しいのです。
建物疎開跡地が堀川通として利用されたとき、この付近では醒ヶ井通が飲み込まれるような形となりました。この仁丹町名表示板はそのような歴史があったことを私たちに教えてくれているのです。
詳細は、『堀川通・西中筋通 ~仁丹町名表示板に見る近代史~』 もご覧ください。青字の部分からリンクしています。
東へほんの少し進んだところで、次の仁丹が登場。
よく見ると、仁丹設置用の台枠が設えてあるのですね。このように大切にされている仁丹を見ると、郷土愛が現れているようにも感じます。
油小路通を渡ると、左手に「油小路東入」の仁丹を発見。
町名には一部ルビが入っています。「卜味金佛町」は “ぼくみかなぶつちょう” と読みます。
この仁丹は六条通を西から東へ歩くと見つかるのですが、逆コースでは見つけることはできません。
さらにほんの少し進むと、今度は右手に卜味金佛町と同じ油小路東入ではあるものの「西若松町」の仁丹に再び出会います。先ほどの西若松町は油小路西入でした。
地図を見ると、ちょうどこの先の新町通までは六条通が南北の町界になっています。
ここも、建て替えられた後に再び設置されたことが分かり嬉しくなります。
ところで、この仁丹、近づいてじっくり見ると、何だか「六條」の2文字の背後に削った痕跡があるように見えませんか?
傷の様子が分かりやすいようにと色合いやコントラストを変えてみたのが上の写真です。同じようなことは正面通でも散見されました。もしかしたら、最初は「魚棚通」と書かれていたものを、昭和3年の京都市告示第252号によって後に「六條通」へと書き換えたのかもしれませんね。
東中筋通に出てきました。ここからの六条通はしばらくの間、カラー舗装に変わります。六条商店街です。
左手が天使突抜四丁目、右手が学林町なのですが、あいにく仁丹に出会うことなく西洞院通へと出てしまいます。
ここで右手を眺めると「西洞院通六條下ル西側町」の仁丹、正面を向くと「西洞院通 六条下る 花屋町上る 東側町」と表記されたライオンズクラブのプラスチック製町名表示板があります。“六条下る” でも “花屋町上る” でもどっちでもいいよというのが、京都の町名表示の面白さです。
西洞院を越えて、六条商店街をさらに進みます。
錦や古川町のようなアーケードはなく、空の見える庶民的な商店街。この雰囲気、大好きです。
次に出会う南北の通りは若宮通です。
保護色になっていてちょっと分かりにくいのですが、黄色い ↑ のところに仁丹があります。
仏具屋町通ではなく、若宮通が使われています。
ここで右手を覗くとこのような光景が展開していました。この日は若宮町にある若宮八幡宮のおまつりだったようで、まるで地蔵盆のように子供たちが楽しそうに走りまわっていました。
さて、若宮通を過ぎ、六条通をさらに東へと進みますが、次の新町通に出たところで一旦途切れます。真正面にあるのは「白山湯」です。地下水を汲み上げての“天然名水”を謳い、男湯よりも女湯の方が広く、しかも女湯には露天風呂もあるのです。女性贔屓のお風呂屋さんですね。
新町通に出たらほんの少し下がります。
お風呂屋さんのお隣は床屋さんというパターンが多いのですが、こちらは「招福亭」さんという大衆食堂がありました。チェーン店ではないこのような町のお店が美味しいんですよね。出前の“おかもち”もズラッと並んでいてきっと地域の人気店なのでしょう。
先ほどの六条通から新町通を20mほど下がると、再び六条通が始まります。
この辺り、先日の「まいまい」の逆ルートとなるのですが、仁丹がきっとあるという匂いがプンプンするものの出会うことはないのです。でも、こんな光景もあってほのぼのとします。六条通って本当に庶民的です。
室町通へとやってきました。ここはお馴染みの“三枚が辻”です。
六條通で始まる2枚は力強いタッチで書かれていますが、室町通のは細くて字配りが良くないですね。書き手が違ったのでしょう。そう言えば、先ほどの「六條通若宮東入上若宮町」から力強い太い字になっています。
室町通を越えてさらに東へと向かうと、右手の新潟旅館さんにも三枚が辻と同じ表記の仁丹がありました。
しかし、どうしたというのでしょう? 文字が薄いです。
琺瑯仁丹は褪色性に非常に優れていると常日頃説明しているところですが、実は何枚か、ごく一部ではあるのですが、不思議なことに文字部分の褪色が著しい個体が存在しています。墨の成分か何か原因があるのでしょうね。
でも、先ほどから見ているものと字の太さや筆跡などが変わらないので、同時に設置されたものなのでは・・・と頭を傾げながら歩いていると、今度はすぐに左手に再び力強く濃い六条通の仁丹が登場します。ものすごく力強い筆使いじゃありませんか。
と言うことで、烏丸通までやってきました。
~つづく~
ここが現在の六条通の西側のスタート地点です。黄色い ↑ の部分がそれです。堀川通から東に向かって撮っています。
戦時中の堀川通の建物疎開以前は、この画面中央にも町家がいっぱい軒を並べていたことでしょう。
中へ入っていきます。五条通や七条通も建物疎開や拡築される前はこのような狭さだったのでしょうね。とても味わい深いものがあります。
早速、仁丹登場です。
六條通醒ヶ井東入佐女牛井町
「醒ヶ井東入」とありますが、すぐ西側の縦の通りは堀川通にしか見えません。
でも、実は、堀川通の東側歩道がかつての醒ヶ井通だったのです。だから仁丹の表記と設置場所はこれで正しいのです。
建物疎開跡地が堀川通として利用されたとき、この付近では醒ヶ井通が飲み込まれるような形となりました。この仁丹町名表示板はそのような歴史があったことを私たちに教えてくれているのです。
詳細は、『堀川通・西中筋通 ~仁丹町名表示板に見る近代史~』 もご覧ください。青字の部分からリンクしています。
※ ※ ※
東へほんの少し進んだところで、次の仁丹が登場。
六條通油小路西入西若松町
よく見ると、仁丹設置用の台枠が設えてあるのですね。このように大切にされている仁丹を見ると、郷土愛が現れているようにも感じます。
※ ※ ※
油小路通を渡ると、左手に「油小路東入」の仁丹を発見。
六條通油小路東入卜味金佛町
町名には一部ルビが入っています。「卜味金佛町」は “ぼくみかなぶつちょう” と読みます。
この仁丹は六条通を西から東へ歩くと見つかるのですが、逆コースでは見つけることはできません。
さらにほんの少し進むと、今度は右手に卜味金佛町と同じ油小路東入ではあるものの「西若松町」の仁丹に再び出会います。先ほどの西若松町は油小路西入でした。
六條通油小路東入西若松町
地図を見ると、ちょうどこの先の新町通までは六条通が南北の町界になっています。
ここも、建て替えられた後に再び設置されたことが分かり嬉しくなります。
ところで、この仁丹、近づいてじっくり見ると、何だか「六條」の2文字の背後に削った痕跡があるように見えませんか?
傷の様子が分かりやすいようにと色合いやコントラストを変えてみたのが上の写真です。同じようなことは正面通でも散見されました。もしかしたら、最初は「魚棚通」と書かれていたものを、昭和3年の京都市告示第252号によって後に「六條通」へと書き換えたのかもしれませんね。
※ ※ ※
東中筋通に出てきました。ここからの六条通はしばらくの間、カラー舗装に変わります。六条商店街です。
左手が天使突抜四丁目、右手が学林町なのですが、あいにく仁丹に出会うことなく西洞院通へと出てしまいます。
ここで右手を眺めると「西洞院通六條下ル西側町」の仁丹、正面を向くと「西洞院通 六条下る 花屋町上る 東側町」と表記されたライオンズクラブのプラスチック製町名表示板があります。“六条下る” でも “花屋町上る” でもどっちでもいいよというのが、京都の町名表示の面白さです。
西洞院通六條下ル西側町
※ ※ ※
西洞院を越えて、六条商店街をさらに進みます。
錦や古川町のようなアーケードはなく、空の見える庶民的な商店街。この雰囲気、大好きです。
※ ※ ※
次に出会う南北の通りは若宮通です。
保護色になっていてちょっと分かりにくいのですが、黄色い ↑ のところに仁丹があります。
六條通若宮東入上若宮町
仏具屋町通ではなく、若宮通が使われています。
ここで右手を覗くとこのような光景が展開していました。この日は若宮町にある若宮八幡宮のおまつりだったようで、まるで地蔵盆のように子供たちが楽しそうに走りまわっていました。
※ ※ ※
さて、若宮通を過ぎ、六条通をさらに東へと進みますが、次の新町通に出たところで一旦途切れます。真正面にあるのは「白山湯」です。地下水を汲み上げての“天然名水”を謳い、男湯よりも女湯の方が広く、しかも女湯には露天風呂もあるのです。女性贔屓のお風呂屋さんですね。
新町通に出たらほんの少し下がります。
お風呂屋さんのお隣は床屋さんというパターンが多いのですが、こちらは「招福亭」さんという大衆食堂がありました。チェーン店ではないこのような町のお店が美味しいんですよね。出前の“おかもち”もズラッと並んでいてきっと地域の人気店なのでしょう。
※ ※ ※
先ほどの六条通から新町通を20mほど下がると、再び六条通が始まります。
この辺り、先日の「まいまい」の逆ルートとなるのですが、仁丹がきっとあるという匂いがプンプンするものの出会うことはないのです。でも、こんな光景もあってほのぼのとします。六条通って本当に庶民的です。
※ ※ ※
室町通へとやってきました。ここはお馴染みの“三枚が辻”です。
六條通室町西入西魚屋町
六條通室町東入東魚屋町
室町通六條上ル堺町
六條通で始まる2枚は力強いタッチで書かれていますが、室町通のは細くて字配りが良くないですね。書き手が違ったのでしょう。そう言えば、先ほどの「六條通若宮東入上若宮町」から力強い太い字になっています。
室町通を越えてさらに東へと向かうと、右手の新潟旅館さんにも三枚が辻と同じ表記の仁丹がありました。
六條通室町東入東魚屋町
しかし、どうしたというのでしょう? 文字が薄いです。
琺瑯仁丹は褪色性に非常に優れていると常日頃説明しているところですが、実は何枚か、ごく一部ではあるのですが、不思議なことに文字部分の褪色が著しい個体が存在しています。墨の成分か何か原因があるのでしょうね。
でも、先ほどから見ているものと字の太さや筆跡などが変わらないので、同時に設置されたものなのでは・・・と頭を傾げながら歩いていると、今度はすぐに左手に再び力強く濃い六条通の仁丹が登場します。ものすごく力強い筆使いじゃありませんか。
六條通烏丸西入北町
と言うことで、烏丸通までやってきました。
~つづく~
京都仁丹樂會 shimo-chan
Posted by 京都仁丹樂會 at 18:10│Comments(0)
│仁丹に見る近代史