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2014年02月15日

智恵光院通(2/4) ~仁丹町名表示板に見る近代史~



智恵光院通探索の続きです。

現在、智恵光院通は、北は北大路通から南は竹屋町通までと紹介され、実際に京都市指定道路図でもそれが確認できます。しかし、実は時代によりまちまちだったようです。

例えば、 『角川日本地名大辞典』では、次のように解説されています。
「江戸期から見える通り名。京都市街西部を南北に走る。北は寺之内通から南は丸太町通まで。 <省略> 江戸初期には出水通、下立売通までで終わっていた。丸太町通までの貫通は昭和以後である。また幕末から明治にかけては、一条通から上長者町通にかけて武家屋敷になったり、そのあとが窮民授産所になったりして閉鎖されていた。 <省略> 」

また、平凡社の『京都市の地名 日本歴史地名体系27』では、
「日暮通と裏門通の間にあり、豊臣秀吉による京都市街改造後に開かれた。北は寺之内通から南は下立売通まで貫通。近世中期頃までは廬山寺通から以南であったらしく、「京羽二重」は「北はろさん寺通より、南へ一条通まで」とする。宝暦12年(1762)刊「京町鑑」も廬山寺通より下立売通までとし、 <省略> 」

といったように北端も南端も時代と共にコロコロ変わっているようです。前回とり上げた南部の変遷も考えれば、まさしく道路は生きているということを実感させます。

※     ※     ※


さて、今回は現在の北端とされる北大路通から南へと歩いてみました。



写真は大徳寺の門前から南を眺めたところです。
中央に延びていくのが智恵光院通、手前左右に横たわるのが北大路通です。
ここが智恵光院通だというような道路標識などは何もありませんでしたが、地図で確認しつつ南へと下がっていきました。

すると、こんな感じです。なかなか趣があります。



でも、智恵光院通なる表示はどこにも見当たらず、間違っていないか改めて地図を確認するほどでした。

鞍馬口通までやってきてようやく仁丹に出会えました。
上京区紫野東藤ノ森町
です。



その後も、この智恵光院通沿いに同じ「上京区紫野東藤ノ森町」が登場します。




現在で言う北区のエリアであり、公称表示どおりなのでこれで良いのですが、智恵光院通も鞍馬口通も名の通った通り名なので、

上京区 紫野東藤ノ森町 智恵光院通鞍馬口下ル

などと“通り名併記仕様”の仁丹が出現しても前例から言って不思議ではありません。
でも、今まで確認できた9枚もの東藤ノ森町の仁丹はすべて“町名だけ仕様”なのです。

※     ※     ※


鞍馬口からもう少し下がると東に入ったところに、かつてこのように隣り合う2枚の仁丹がありました。北区と上京区の境界です。




そのうちの1枚、上京区のものは褪色が激しくてすぐには読めませんが、近づくと

上京区大宮通西裏廬山寺上ル二丁目西入社突抜町

と表記されています。もし智恵光院通を使えば、

智恵光院通鞍馬口下ル三丁目西入社突抜町

となり、“大宮通の西の裏の通り” を基軸に置くより少しは分かりやすいのではと思うのですが、智恵光院通は採用されなかったわけですね。


ちなみに、この隣り合った仁丹があった場所は現在こんな感じになっています。







建て替えにより、北区の東藤ノ森町は消滅、上京区の社突抜町はお地蔵さんにくっ付きました。
状態の良くない個体ですが、綿々と町内で引き継がれている様子は、郷土愛を感じるというものです。


次はいよいよ通り名を使わなくてはならない上京区エリアへと入っていきます。

~つづく~

京都仁丹樂會 shimo-chan




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