2014年09月09日
鞆の浦 仁丹探訪記(4)
鞆の浦 仁丹町名表示板 探訪記(4)
鞆の浦の仁丹町名表示板探訪記、もう少し続きます。まだ発見していないものは残る次の6枚となりました。
鞆城跡入口
桝屋清右衛門宅前
旧魚屋萬蔵宅前
鞆の津ミュージアム前
小烏神社前
鞆中学校入口
これらをどのように回れば効率的なのか分からないまま、とりあえず、まだ歩いていない鞆の町の中心地へと進んでみました。
ほぼ次の赤いラインに沿ったコースだとお思い下さい。
実際は迷いながら「あっ、ここさっき通ったとこや」とか「あっ、ここの道、入ってみたい」と言った感じで結構な右往左往をしてしまいました。
先ずは原町を縦断です。比較的新しい家の多い住宅街ですが、昭和レトロな雰囲気が随所に見られます。
そして、こんな光景に出くわしました。思わず「えっ!」と声が出てしまいそうでした。
花も素敵ですが、格子窓に琺瑯看板がズラリです。
日本石油のコーモリ、龍野のヒガシマル。
そして大阪市のマーク?と思われるのがミナト練炭。大阪港界隈に工場があったのでしょうか?
でも、一番の驚きはこの仁丹でした。
『台湾土産のコースター』でご紹介した琺瑯看板の現物です。色々な出会いがあるものです。
※ ※ ※
鞆の浦にはお寺や神社がとても多く、歴史の重みをいやおうなく感じますが、小烏(こがらす)の森古戦場跡という場所がありました。
路地も続き、なかなか良い雰囲気です。
解説板によれば、正平4年(1349年)、足利直冬の軍勢800と足利氏中央軍の軍勢1500とがここにあった森で衝突、直冬側が壊滅したそうです。
残る6枚の仁丹町名表示板に「小烏神社前」というのがあったので、おそらくこの付近なのでしょう。古戦場跡から少し南下し、そして西に入ったところで案の定発見しました。
10枚目 鞆町鞆 小烏神社前 鍛冶町
室町時代からある神社のようで、鳥居は享和元年の建立のようです。
鍛冶町とあるように、鍛冶職人の氏神でもあるそうです。鞆の浦は江戸時代より錨や船具など鍛冶の町としての顔も持ち、来る途中のバス停に「鉄鋼団地前」という工場群があったのですが、ルーツは鍛冶産業なのかもしれませんね。
※ ※ ※
さらに少し西に進むとあるのが、「鞆の津ミュージアム」です。
ここで11枚目の発見です。
11枚目 鞆町鞆 鞆の津ミュージアム前 鍛冶町
この時点で時刻は午後4時50分。残念ながらミュージアムを見学する余裕はなく、ここもお預けです。
※ ※ ※
次なるターゲットは「鞆城跡入口」です。実は南側の入り口近辺では発見することができなかったので、北口界隈にあるのではと再チャレンジの仁丹です。
となると多分、この辺りかな?と北側の入口をキョロキョロ見渡しても見つからず、おかしいなぁと振り返ったところに、そのすぐ目の前にありました。京都でもよく味わったパターンです。
12枚目 鞆町鞆 鞆城跡入口 関町
※ ※ ※
残るは「桝屋清右衛門宅前」と「旧魚屋萬蔵宅前」、そして「鞆中学校入口」となりました。
中学校の場所は分かるとして、先の2か所です。
時刻は間もなく5時、間違いなくピンポイントで向かわなければなりません。
でも、やはりそこは鞆の浦、その道中に和洋入り乱れてのこんな町並み、こんな看板、こんなお店に出くわして、色々な誘惑に呼び込まれてしまうのでありました。
すごく重厚な日本建築に出会うかと思えば、モダンな洋風建物もあります。
なんともエキゾチックな雰囲気です。
銀行も、一見シンプルですが、よくよく見ると結構細やかなデザインが施されており、さぞハイカラな建物として注目されたことでしょう。
こんなお店も。建物は洋、看板は和、そしてショウウインドウには紺野美沙子さんが。
そして、やっぱり気になるのが保名酒のお店。
ちなみに、こんな琺瑯看板もありました。
~つづく~
京都仁丹樂會 滋ちゃん・たけちゃん・shimo-chan
Posted by 京都仁丹樂會 at 22:03│Comments(0)
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