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2015年03月10日

全国津々浦々の考証(その1)

全 国 津 々 浦 々 の 考 証 (その1)
~引用され続けるフレーズ~


京都の仁丹町名表示板に関心を持ち、森下仁丹株式会社に問い合わせをされる個人や報道関係者は以前よりしばしばあります。
そして、返ってくる答えにはどうやら次の2つの決まり文句があるようです。


まずひとつは、『戦時中の空襲で資料は焼失してしまい詳しく分からない。』
確かに、そうかもしれません。

そしてもうひとつは、次のフレーズです。
『町名の表示がないため、来訪者や郵便配達人が家を捜すのに苦労しているという当時の人々の悩みに応え、1910年(明治43年)からは、大礼服マークの入った町名看板を辻々に揚げ始めた。当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり、今日でも戦災に焼け残った街角では、昔ながらの仁丹町名看板を見ることができる』
~「総合保健薬仁丹から総合保健産業JINTANへ 森下仁丹100周年記念誌」より~


これは、1995年6月に発行された森下仁丹100周年記念誌からの一節で、次のような見開きの右側のページ中段真ん中辺りに記載されているのです。

全国津々浦々の考証(その1)



注目すべき部分をピックアップするとこの↓ようになります。
全国津々浦々の考証(その1)


そして、このフレーズは多くの個人のブログはもとより新聞記事、テレビ報道などに何度も何度も繰り返し、そのまま引用されてきました。
おまけに京都の琺瑯製仁丹町名表示板の写真が添えられているものですから、京都の琺瑯仁丹は明治43年からある!100年前からある!との誤解も生まれています。(ちなみに、ここに掲載された琺瑯仁丹は、昨年の年末に盗難に遭ったあの上七軒の真盛町の仁丹です。)

1974年発行の「森下仁丹80年史」には町名表示板のことには一切触れられておらず、100周年記念誌で初めて登場したこのフレーズ、今のところ唯一の公式見解と言え、時間的に制約のある報道関係などがそのまま使うことも無理のないところです。

しかしながら、今、改めて100周年記念誌のこの部分を読むとなると、仁丹町名表示板の研究が深まるにつれ新たに知ることとなった様々な事柄が思い起こされ、100%そのまま受け入れ難くなってくるのです。



琺瑯製と木製

京都の仁丹町名表示板には琺瑯製と木製とがあります。どちらが先に設置されたかとなるともちろん木製でしょう。そもそも広告用の琺瑯看板が安価に制作できるようになって一般的に普及し出したのは日本琺瑯工業連合会発行「日本琺瑯工業史」によると大正末期となりますので、明治43年というのは木製のことになります。

京都の琺瑯製仁丹町名表示板が写っている写真で最も古いものは、ずんずんさんが発見された大正14年2月18日撮影というものでした。
↑ 青い文字の部分をクリックするとリンクします 以下同様

では、木製は京都ではいつ頃から設置され出したのでしょうか?
それは大正元年頃のようです。idecchiさんが発見された大正元年9月2日の京都日出新聞における読者投稿欄「落し文」により分かりました。

大正元年ならば100周年記念誌で言うところの“明治43年頃”ともほぼ符号することになるでしょう。したがって、少なくとも京都の琺瑯製仁丹町名表示板を100年前からと言うのは明らかに勇み足と言うわけです。



大阪、東京、京都、名古屋、そして日本全国津々浦々

『大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり』

今、仁丹町名表示板の現物が実際に見つかっているのは、大阪、京都、大津、奈良、八尾の5都市のみで関西圏以外では1枚も見つかっていません。ただし、八尾は形も違い別格ですが。

ここで例示された大都市、東京と名古屋ではなぜ全く見つからないのでしょうか? 現物は無理としても古写真に写り込んでいてもよさそうなものです。
また、全国津々浦々ならばもっともっと見つかるのではないでしょうか? かの琺瑯看板研究の第一人者、佐溝力さんにしてもそのような情報には触れておられませんし、今のネット時代に全く情報がないのも非常に不自然なことです。



戦災だけが原因か?

『今日でも戦災に焼け残った街角では、昔ながらの仁丹町名看板を見ることができる』

暗に京都や奈良のことを言っているのでしょうが、戦災の少なかった全国津々浦々はこれらだけではありません。にも関わらず前述のとおり関西の5都市でしか見つかっていません。戦災は確かに最大の要因でしょうが、住居表示という後日的な政策も、表示板減少の一因になった場合があったのではないでしょうか。

住居表示とは、昭和37年に施行された「住居表示に関する法律」により合理的に定められた住所の表示方法のことで、それを実施するかどうかは各市町村の判断に任せられています。
“合理的に”というのは、従来、町名と地番(○○番地といった土地の番号)で場所を特定していたものを、広い道路や河川といった物理的に区切りやすいブロックに分け、そのブロック内で例えば時計回りに1,2,3と順番に住居番号を付番していくものです。

地番と違って住居番号は順番に並んでいるので、土地不案内の人からしたら分かり易いでしょうが、一方でそのブロック内に存在した昔ながらの歴史ある町名は消滅してしまい、○○丁目○○番○○号といった味気ない表現に変わります。金沢市や大津市で旧町名復活の話題がありましたが、これらは住居表示により消えた町名の再現なのです。もし、京都市で住居表示が実施されていたのであれば、何百という町名がなくなっていたところでしょう。

また、住居表示を実施するとその自治体は表示板を設置する義務が生じ、すでに設置されていた旧町名の表示板は紛らわしいだけ、ことごとく撤去される運命となったでしょう。

京都市に仁丹町名表示板が断トツに多く残っているのは、住所表示のバラエティさから元々多くが設置されたこと、戦災が少なかったこと、そして住居表示が実施されなかったこと、これらすべてが原因なのではないでしょうか。

なお、国土地理院に住居表示の詳しい解説があります。
電子国土基本図(地名情報)「住居表示住所」の閲覧・ダウンロード
これによると、京都府内では亀岡市と長岡京市の一部だけが住居表示を実施していることが分かります。



人々の悩みに応え、明治43年から

『町名の表示がないため、来訪者や郵便配達人が家を捜すのに苦労しているという当時の人々の悩みに応え、1910年(明治43年)から』

広告は世の中の為にならなければならないという“広告益世”なる思想の実践例として紹介されているようですが、しかし、その前段として明治後期に様々な店舗が派手な屋外広告合戦を繰り広げ、景観問題を引き起こしたことも背景にあったのではないのでしょうか。

そして、景観を守るため、屋外広告を規制する法律ができましたが、公益性のある看板なら設置しやすいという状況が新たに生まれ、町名表示を兼ねた広告看板へと展開されていった、という見方もできるのです。

詳しくは、当ブログの次の記事をご覧ください。
(参照先 明治期の新聞にみる仁丹広告(6)  明治期の新聞にみる仁丹広告(7)


以上のとおり、重箱の隅をつつくようなことばかり記しましたが、でも、唯一の公式見解には何らかの根拠があっはずです。そしてそこには真実の一端が潜んでいるとも言えるでしょう。本当に名古屋や東京にもあったのか?本当に関西以外の津々浦々にもあったのか?今後のさらなる研究が待たれるところです。


しかし、この後、驚きの出来事や研究結果が!

-つづく-

~京都仁丹樂會shimo-chan~



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Posted by 京都仁丹樂會 at 07:10│Comments(6)基礎研究
この記事へのコメント
いつも記事楽しみに致しております。御前下立売上った谷口モーターズ
北角の看板が、最近無くなりましたが、心配です。全体に古色の味のある看板でした。店に尋ねる事は出来ませんでした。お尋ねですが、以前確か、上に仁丹マークがあり、寺町と表示された看板が、ヤフーオークションに出ておりましたが、何方の地域の物ですか、宜しくお願い致します。個人的には、広島ではないかと推察しております。
Posted by やっくん at 2015年03月10日 13:56
>やっくんさま

以前確か、上に仁丹マークがあり、寺町と表示された看板が、ヤフーオークションに出ておりましたが、何方の地域の物ですか、宜しくお願い致します。

それは、滋賀県の町名表示板ですよ。それと、御前通下立売上ったとこの表示板は「御前通下立売上ル三丁目東入西上之町」でしょうか?
Posted by デナ櫻 at 2015年03月10日 21:19
有難う御座います、広島にも寺町が在りまして、大津から調べれば良かったです。スッキリしました。そうです、西上之町です。しかし天神さん界隈の無くなり具合を見ていると、700枚は切っているのではないかと考えてしまいます。今回の件で色々な功罪が一段と鮮明化してきました。現在の自然体で掲示されている以上、月日と共に減少する事も致し方の無い処なのでしょうか。
Posted by やっくん at 2015年03月11日 09:31
はじめてコメントさせて頂きます。タケクリと申します。やっくんさんの心配されていた仁丹ですが、デナ櫻さんのご指摘の西上之町です。2月27日の時点で見当たりませんでした。補足させて頂きますと、谷口モータースさんより200メートルほど上がった井上モータースさんの北側の壁にあったのですが…私も心配しておりました。埋蔵だとまだいいのですが。
反対に、北町の仁丹が瑞饋御輿保存会集会所に復活しております!
Posted by タケクリタケクリ at 2015年03月13日 23:05
タケクリさん、いらっしゃいませ。

>北町の仁丹が瑞饋御輿保存会集会所に復活しております!

情報、ありがとうございます。
今度、見に行ってみます。

無くなったと思っていたものの復活なのか、埋蔵と確認していたものの現役復帰なのか、まだその存在を知らなかったものの登場なのか、楽しみです。
Posted by shimo-chanb at 2015年03月18日 07:07
タケクリさん、情報ありがとうございました。
本日、ようやく瑞饋御輿保存会集会所を見に行く時間が取れ、確認することができました。
なるほど、この北町の仁丹町名表示板は、設置場所が移ったのですね。
これなら安全です。
Posted by shimo-chan at 2015年04月19日 18:13
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