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2015年05月03日

全国津々浦々の考証(その7)

全 国 津 々 浦 々 の 考 証 (その7)
~東京で仁丹発見!!!⑤~


大正時代、森下仁丹により東京市とその周辺にも町名表示板が設置されていたという公文書と当時の古写真が発見されたことは、これまでの連載の中でご紹介してきたとおりです。9万枚を超える規模にはたいへん驚かされますが、それだけの大量の設置枚数にもかかわらず、なぜ東京では今日まで町名表示板が残されていないのでしょうか。それは東京を襲った関東大震災による家屋倒壊と焼失、そして戦時中の金属供出、東京大空襲による壊滅的な被害、ならびに戦前戦後に相次いで行われた町名地番整理などが影響していると考えられます。

大正7から9年にかけて森下仁丹により町名表示板が東京に設置されてからわずか数年後の大正12年9月1日、関東地域は大震災に見舞われました。東京でも地震そのものによる建物への被害があったばかりでなく、その後発生した大火災により、市域の約44%が焼失するという大惨事となりました。以前紹介した町名表示板が写りこんだ画像の東京貯蔵銀行にほど近い、銀座尾張町の交差点は、震災直後このような風景となりました。



岡田紅陽『東京震災写真帖』文山社、大正12年
(国会図書館近代デジタルライブラリー)


9万枚余りの町名表示板のうち、被災地域の多くでは町名表示板も同時に焼失してしまったものと思われます。

しかし、その後すぐに森下仁丹は町名表示板を再設置していたようです。
震災から2年後の雑誌にこのような文章があります。

人々は今尚記憶して居られるであらう。あの広い東京が見渡す限り一面の焦土と化し終つた当時。焼け跡を尋ねるに町名の見当が更らに附かず、如何に多くの人々が困惑したかと云ふ事実を。……
ところが、焦土の余熱も去らぬ日、早くも「仁丹」の商標を入れた町名札が元の如く焼け跡に立てられたと云ふ事実を気附かなかつたものもあるまい。あの仁丹の町名札のため当時の東京人がどれだけ便宜を受けたかは実に測り知られぬものがある。現在でも東京の街を歩るけば到る処の町角に矢張り仁丹の町名番地札が貼られてあつて、親切に吾れ吾れに道を教へてくれる。

一記者「広告を透して見たる事業界盛衰記(其二)仁丹と森下博の巻」
『事業と広告』大正14年8月号


これこそ「広告益世」の最たるものでしょう。震災後にどのような町名表示板がどの程度設置されたのかは資料不足のためまだ十分分かりませんが、少なくとも震災後も復旧の過程の中で森下仁丹が町名表示板を再設置し、それが役立っていたことは間違いないようです。


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その後、震災からの復興を目指した東京では、大々的な町名地番整理がされました。震災前後の尾張町2丁目周辺の地図を比較すると、その差は一目瞭然です。大正11年、昭和5年の地図を比較した下の図では赤のマル部分が尾張町2丁目にあたりますが、昭和5年の地図では町名は銀座6丁目に変わり、その周辺地域も含めて町名が一変していることがお分かりになるかと思います。





上:最新式大東京地圖番地入(大正11年) 下:京橋區全圖(昭和5年)
いずれも国際日本文化研究センター所蔵地図データベース(tois.nichibun.ac.jp/chizu/)


震災前、銀座は4丁目までしか存在せず、その南および銀座の西側には歴史的背景を持った町名が数多く存在していました。江戸時代の尾張藩による埋立工事に由来する尾張町もその一つです。しかし町名地番整理によって、銀座は南へと拡大し、また銀座西という新たな町名が出来上がっています。

たとえ震災の被害を免れた地域であっても、その後の町名地番の変更、また東京の拡大に伴う市への編入による住所の変更からは免れなかったと思われます。昭和7年には旧東京市周辺にあった5郡82町村が東京に編入されました。その際、新設された区名のもとで新たな住所表示が導入されることとなり、大々的に地名が変更されていきました。

『東京朝日新聞』昭和7年10月1日

一部抜き書きしますと、
今一日を以て東京市に編入された五郡八十二ヶ村は、大東京実現によつて、一斉に従来の町村名を廃し、新設区の下に新しき町名を以て呼称される…新町名は左の通りで、かつて八百八町といはれた大江戸は、一日から約二千の町を包容する訳である、尚東京市では近き将来において番地の一斉整理を断行する方針であるが、それまでは従来の番地のまゝである 


東京における町名表示板は詳細に番地まで記された形式ですから、東京への編入に伴う新しい区名への変更、町名の変更、また仮にそれらに変更がなかったとしても番地変更がされれば、以前のものは同じように使用することができません。旧来の住所表記の札が残されていれば、かえって混乱を招くばかりです。
東京とは対照的に、災害や戦争被害が限定的なものにとどまり、また行政による町名・地番の変更が行われなかったということが、京都で設置された町名表示板を「現役」にし続けている大きな要因であるともいえるのです。


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まだまだ謎は残ります。大正末から昭和初期にかけて、京都市内では木製のものに代わって琺瑯製の町名表示板の設置が進められました。震災からの復興や東京市の拡大、町名地番整理などが進められた後、同様の取り組みは東京市内では行われなかったのでしょうか。関東大震災直後に早速町名表示板を再設置していた森下仁丹であれば、その後の住所変更や東京市の拡大に対応して、琺瑯製の町名表示板に付け替えるくらいのことは実施してもおかしくはないはずです。

残念ながら現時点では、東京市内での琺瑯製の仁丹町名表示板に関する情報はないため、これについては検証のしようがありません。

しかしながら、他社により手掛けられたものに関しては現時点でも貴重な生き残りが存在しています。



戦前に設置された琺瑯製の町名表示板の数少ない生き残りの一つが、上の画像です。全国の琺瑯看板のデータを収集されているTMさんのサイトをもとに、現地に撮影に行かせて頂きました。仁丹のものではありませんが、こちらのスポンサーは、戦前に森下仁丹同様に全国に琺瑯製の屋外看板を積極的に設置した鈴木商店(のちの味の素社)です。

産業技術史資料共通データベースによれば、
「お椀マーク」は明治42年の商標登録以来、現在でも使われているお馴染みのものです。お椀型のほか短冊型柱掛け、横書き、五色看板、矢入り吊り看板など多種類ありました。中でも好評だったのは短冊型町名番地入りの看板だったということです。鈴木商店(のちの味の素社)は大正11年に、特約店から小売店まで全国すべての取扱店に「味の素」の看板を掲げるとの方針を立て、サイドカーに乗って全国くまなく巡回して看板を設置して回ったということです。
とあります。

戦後、芝区は他の区とともに港区となっており、この町名表示板に書かれた住所、番地も現在のものとは全く異なります。この1枚はよくぞ奇跡的に残ってくれたものだと感動します。おそらくこのような琺瑯製の表示板もまた戦前に数多く設置されていたのでしょう。しかしながら、それもまた、東京大空襲による被災と、その後の町名や区名の変更、番地の変更などに伴い、姿を消していったものと思われます。また、戦時中の金属供出も影響を与えたのかもしれません。京都市内で琺瑯製の町名表示板が残されている理由として、金属供出の例外事項として「琺瑯引きのもの」という条項があったことが関係しているのではないか、と以前の考察「戦争と仁丹町名表示板」で指摘したことがありますが、琺瑯引きであっても積極的な拠出の運動に巻き込まれたとすれば、町名表示板の運命は大きく変わります。この点はさらなる考察が必要であると思われます。

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京都仁丹樂會では、京都市内の仁丹町名表示板のみにとどまらず、東京はじめそのほか主要都市における仁丹町名表示板の痕跡探しを引き続き行っていきたいと考えています。何か情報をお持ちの方、また、奇跡的に残された現物をご存じだという方いらっしゃいましたら、是非とも樂會までご一報くださいませ。




京都仁丹樂會 idecchi


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Posted by 京都仁丹樂會 at 04:07│Comments(0)基礎研究
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