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2015年08月10日

京都人の方向・方角についての意識

京都人の方向・方角についての意識


 どういうわけか、京都の人々は、北へ向かうことを「上ル」(あがる)、南に向かうことを「下ル」(さがる)と言い表します。この表現は、京都の街の研究に不可欠とされる『京町鑑』(宝暦12年刊)の記述にも見られます。
 また、京都市内の街角で見かける馴染みの「仁丹町名表示板」の表記にも、この表現を見て取れます。


 さらに、北を「上(かみ)」、南を「下(しも)」とも言い慣わしてきました。
 このような表現は、観光や仕事で京都を訪れる人々にとって、大いに戸惑いを覚えることのようです。
 方角や方向についてのこのような考え方や意識は、どうして生まれたのでしょうか?
 京都の地誌などの資料をもとに、勝手な想像と思案を巡らせて、読み物に仕立てましたのでご覧ください。


1. 「上」と「下」、「上ル」と「下ル」

 平安京の宮城(大内裏)は、その正殿である大極殿は南に面して設けられ、天皇の玉座である高御座(たかみくら)もやはり南に向けて据えられていました。
 そして、大内裏の四方に始めはそれぞれ3門ずつ、あわせて12門が設けられました。(のちに、東と西に各1門ずつを加えた14門となります)
 南側の三つの門のうち、正門に当たる朱雀門の前から南に向けて、メインストリートの朱雀大路が平安京の玄関口である羅生門まで延びていました。
 この朱雀大路を中心軸として、東側を「左京」、西側を「右京」というように、東と西に区分けした地域概念がありました。

 ところが、平安京建都からまだかなり早い時期に、京都盆地の地勢的な環境が影響して、湿潤な低地であるため居住に適さない西部の「右京」域が、特にその南部が衰退してしまいます。
 それに照応するように、東部の「左京」を中心とした都市域へと変化してゆきます。ついで、その左京域は一條大路を越えて北ヘ、また、鴨川を越えて東へと拡大してゆきます。

 やがて、中世になると、この左京域を南と北に区分けする新たな地域概念が現れます。そして、「上(かみ)・下(しも)」「上京・下京」という表現が用いられるようになりました。
 それに伴うように、北へ向かうことを「上ル(あがる)」、南に向かうことを「下ル(さがる)」と言い表すようにもなったようです。

 因みに、寛文5年(1665)刊『京雀』にある記述を引いておきます。
 「それ田舎にては京のかたを上(かみ)といひ 奥のかたを下(しも)といふ 京にては北をかみといひ みなみを下(しも)といふ 天子のましますところ いづ國よりさして申すにも上方(かみがた)といへり」
 なお、中世以降近世までは、京都を南北に分つ上京と下京の境界は、現在の二条通でした。そして、近代に入った明治2年には、その境界が三条通へと変わりました。


2. ついでに「上つ方」と「下つ方」

 平安京の大内裏をはじめ、中世の室町幕府、近世の聚楽第、そして禁裏(御所)や二条城など、時の政治を動かす統治機関のほとんどが、主に京都の都市域北部である「上(上京)」に設けられました。そして、その周辺には公家や、大名・武家の邸が所在し、そうした人々の需要に応じる手工業者や商人が集住しました。
 一方、南部の「下(下京)」でも、諸役所とともに貴族や武家の屋敷が構えられましたし、鎌倉時代に新しく興隆した新仏教の諸寺院の多くが建立されました。けれども、何と言っても「下(しも)」の地域的な特徴としては、市中最大の商工業地域として目覚ましく発展したことで目立ちます。

 それはそうと、「上(かみ)と下(しも)」という言葉には、身分や地位の高下といった意味もあります。
 また、「上つ方」という言葉は、天皇や公家などの身分・地位の高い人のことを言うとともに、御所が所在する上京方面のことをも指します。
 似た言葉に、政府や幕府などの政治を行う機関を「御上(おかみ)」ということもあります。これは、敬い恐れかしこまって言う言葉です。そういった畏怖の対象としては、「やまのかみ」(頭の上がらない自分の妻)というのも居ます。(おっとっとー、脱線しました) 
 他方、「下つ方」という言葉は、身分や地位の低い下々(しもじも)、つまり一般庶民のことを指します。

 
3. それでは結論(なんと大げさな!)

 とまあ見てきたことから、京都で地域を南北に区分けして、「上(かみ)」「下(しも)」と言い、また、方向を指して「上ル(あがる)」「下ル(さがる)」と言い慣わしてきた理由としては、
 ① その昔、京の都の北部と南部では、その主な機能・役割が異なることともに、そこ
  に携わる人々の身分の高下といったことも関係しているように思われます。
 ② 京都盆地は北から南(正確には南南西に)に傾斜しており、主要な河川は概ね南流
  しています。このような川の上流と下流、そして、地形的な高・低も、「上(かみ)
  と下(しも)」という表現に関係しているのかも知れません。

 と考えましたが、見当はそう違っていないだろうと思います。・・・が、さてどんなものでしょう? 「与太を飛ばすな!」などと、固いことは言わないでください。

4. 最後に「東入」と「西入」

 次の「仁丹町名表示板」の写真をご覧下さい。



 「東入」(ひがしいる)、あるいは「西入」(にしいる)と、特に変わった言い方をしているわけではありません。
 しかし、表記の仕方の異なっているところが面白いのです。
 はじめに掲げた写真に見るように「上ル」「下ル」の場合には、送り仮名「ル」を付けています。
 しかし、何故なのか判らないところですが、「東入」「西入」には「ル」を付けていないのです。この点は、『京町鑑』の記述でも同様です。


~京都仁丹樂會 酒瓮斎~







Posted by 京都仁丹樂會 at 07:07│Comments(0)
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