2015年09月16日
旧大宮通 探索記 その2
旧大宮通 探索記 その2
「旧大宮通 探索記 その1」では、現在で言うところの元大宮通、すなわち旧大宮通をその北端である一条通から、南端である下長者町通までを歩いてみました。それでは、「旧大宮通」と並走する同じ区間の「大宮通」はどのようになっているのでしょうか? 次のイメージ図のAポイントおよびBポイントからの光景は以下のようになります。
先ずは一条通と中立売通間の中間地点であるAポイントからの眺めです。
次の写真 ↓ は北側を望んだ光景です。道幅は旧大宮通とは違い随分と広くなっています。右手の木々の繁るところが名和公園です。
同じくAポイントから南を眺めると次の写真 ↓ のようになります。
正面の白っぽい建物の前を横切るのが中立売通なのですが、そこを境に大宮通がきゅっと狭くなっているのが分かります。ちなみに信号機の右側の粋な建物は西陣のハローワークです。
※ ※ ※
中立売通を横切り、さらに下がったBポイントからの眺めはというと、この写真 ↓ のようになります。旧大宮通と同様の道幅です。昔ながらの通りなのでしょう。
このように、大宮通の一条~下長者町間では、中立売通を境にしてその北側と南側とでは全く違う顔を見せます。またその一方で、「旧大宮通」が並行して存在していることになります。これらの関係を道路の幅を強調して示すと次のイメージ図 ↓ のようになります。
いかがでしょう? 何となく大宮通と旧大宮通の関係が分かってきたような気がします。
元々は東西に多少の段ズレを起こしながらも南北を結んでいた大宮通のうち、一条~下長者町間では何らかの理由でその段ズレが解消され、南北まっすぐに繋がるようになった。そしてその新しいラインに大宮通の名を譲り、従前の大宮通は旧大宮通と称されるようになった。
そのような推理が成り立ちそうです。そのキーはやはり不自然に広い一条~中立売間にありそうです。
※ ※ ※
推理の裏を取ろうと資料を漁りました。
しかし、そのままズバリ記されたものはまだ発見できずにいます。ただ、複数の資料からちょうどこの辺りに「和泉町(いずみまち)通」なる名称の通りが存在していたことや、中立売通を境として北を「新大宮通」、南を「和泉町通」と称していた時代があったことを窺わせるものはありました。
そして、和泉町通については、「角川日本地名大辞典26京都府上巻」に次のように紹介されていました。
『京都市上京区聚楽学区内を大宮通に沿い南北に通じる通り名。・・・<中略>・・・大宮通のうち北は中立売通から南は下長者町通の部分を称していた。名称は、現在「和水(わすいちょう)」の町名が残るように聚楽第の周池であったことによる(坊目記)。』
また、一条~中立売間が不自然に広いことについては、「西陣・千両ヶ辻文化検定試験」に出題されているのを見つけました。出題者は、まいまい京都でガイドとしても活躍しておられる仲治實さんでした。その回答を要約すれば“千両ヶ辻の南側は古来より聚楽第城郭の影響で行止りになっていたが、明治32年のチンチン電車が中立売通を走るようになり、京都市の道路拡幅整備事業の一環として立ち退きにより現在の姿となった”とあります。電車の開通と関係していたとは思いもしませんでした。
ちなみに、チンチン電車とは、明治33年5月7日に中立売通を走ることになった京都電気鉄道株式会社のことで、後の京都市電北野線のことです。道路拡幅整備事業はその前年になされていたのかもしれませんね。
以上のことを、またまたイメージ図としてまとめると次のような ↓ 経過になるのではないでしょうか。
変遷イメージ図
※ ※ ※
一方、当時の地図ではどのようになっているのでしょうか? 上のイメージ図のようになっているのでしょうか? このような時に頼りになるのが、国際日本文化研究センター(日文研)の地図データベースです。
国際日本文化研究センター http://www.nichibun.ac.jp/ja/
所蔵地図データベース http://db.nichibun.ac.jp/ja/category/syozou-map.html
-青い文字の部分をクリックすると当該のサイトにリンクします(以下同様です)-
中立売通にチンチン電車が走り出した明治33年前後の地図を見てみることにしましょう。
先ずは電車開通前の「京都市図(明治28年)」からの抜粋です。
~日文献所蔵地図データベース「京都市図(明治28年)」より~
黄色い矢印の通りが、現在の旧大宮通を含んだ当時の大宮通です。東西に段ズレを起こしながらも南北を繋いでいることが分かります。そして、通り名は何も表示されていませんが白い矢印の通りが和泉町通のはずであり、赤い矢印の部分に注目すると共進織物会社なる建物の存在で北端が中立売通で止まっています。角川日本地名大辞典が記述する状況と一致します。
それが電車開通2年後である「實地測量亰都市全圖(明治35年)」http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2400.htmlになると和泉町通の北端が中立売通を突き抜け“新大宮通”が出現、南北がまっすぐ繋がるのです。ただし、この地図、やや不鮮明なので、今回の説明範囲においては内容的に全く同じである「京都市実地測量地図(明治42)」をここでは例として挙げておきます。
~日文献所蔵地図データベース京都市実地測量地図(明治42)より~
赤い矢印の箇所がいわゆる“新大宮通”で、名和長年碑の文字から名和公園の位置も分かり、現在私たちが見ている光景と同じになったことが確認できます。そしてこの“新大宮通”により従前の大宮通の東西への段ズレも解消されました。ただし、今回テーマとしているところの旧大宮通が相変わらず大宮通と表示されたままであり、新たに開通した新大宮通にも旧来の和泉町通にも何の名称も記されていません。
それが「京都市街全図(大正2年)」では、新大宮通が「大宮通」に、従前の大宮通が「元大宮通」と変更されています。
~日文献所蔵地図データベース「京都市街全図(大正2年)」より~
ところで、今までご紹介した地図では新大宮通、和泉町通の表現がどこにも出てきませんでしたが、和泉町通の表記のある地図も一応ありました。
~日文献所蔵地図データベース「実地踏測京都市街全図(明治44年)」より~
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/002754836-o.html
松屋町通と(旧)大宮通との間に「和泉町」なる表現が見られます。ただ、横神明~一条間の表現、すなわちあの広い空間が表現されていないなど疑問な点もあるのですが、そのあたりは真実をリアルタイムに切り取った航空写真との違いでしょう。
ところで、ついでに分かったことがありました。
次の写真 ↓ は一条通から北方を眺めた大宮通です。あの不自然に広くなっているところです。誰が見ても、左(西)側に大宮通がそもそもあって、右(東)側が何等かの理由で広げられたと考えるでしょう。しかし、意外なことに事実はその逆だったようです。右端(東側)が元々の大宮通であって、その西方が拡幅されたのでした。
以上、大宮通と旧(元)大宮通の関係を地図から検証してみましたが、その経緯は先の変遷イメージ図を裏付けられると言えるでしょう。
それでは、公称にとことん忠実だった仁丹町名表示板はこの近辺ではどのような表記になっていたのでしょうか? 次回はいよいよ仁丹町名表示板を見てみたいと思います。
~つづく~
~京都仁丹樂會 shimo-chan~
タグ :旧大宮通
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Posted by 京都仁丹樂會 at 22:47│Comments(2)
│仁丹に見る近代史
この記事へのコメント
たいへんご無沙汰しております。拙著『戦争のなかの京都』刊行時には本ブログで紹介していただくなど、お世話になりました。久々で覗いたのですが、何と私の生家が面していた大宮通ネタで、しかも知らなかったことがいくつもあり、たいへん勉強になりました。
私は1946年8月に(新)大宮通下長者町上る東堀町で生まれ、そこで育ち、結婚もし、結局33年間ほど住みました。生家は2軒長屋の借家だったのですが、今はなくなり新しい家が建っています。しかしあの界隈は昔とあまり変わらない佇まいで、そのまま住民の高齢化が進んだという感じです。
私の子ども期は、「旧大宮通」に対して「新大宮通」と新をつけるのが一般的でした。しかし「和泉町通」という言い方は聞いたことがありませんでした。
拙著『聚楽第・梅雨の井物語』にも記していますが、東堀町にあった八雲神社は、明治26年にあの界隈の地所を購入した資産家が、聚楽第に生えていたとの伝承があるモチの木の古木に触ると祟りがあるとの伝承を聞いて、モチの木をご神体とする社を造営したのだそうです。
今のハローワーク西陣付近も、明治10年代ぐらいまでは畑のなかに民家が点在するような寂しい場所だったと言いますから、明治33年の中立売通市電開通が市街地化のきっかけになったのでしょうね。
結構市の中心部に近いあの場所の市街地化が遅れたのは、「聚楽第跡地」だったことに尽きるでしょう。聚楽第が破壊されたあと、「内野」と呼ばれていたあの界隈が市街地化される過程(明治中期以降)で、聚楽第の濠跡などに制約されていた街路がしだいに直線化されていったのでしょうね。
私は1946年8月に(新)大宮通下長者町上る東堀町で生まれ、そこで育ち、結婚もし、結局33年間ほど住みました。生家は2軒長屋の借家だったのですが、今はなくなり新しい家が建っています。しかしあの界隈は昔とあまり変わらない佇まいで、そのまま住民の高齢化が進んだという感じです。
私の子ども期は、「旧大宮通」に対して「新大宮通」と新をつけるのが一般的でした。しかし「和泉町通」という言い方は聞いたことがありませんでした。
拙著『聚楽第・梅雨の井物語』にも記していますが、東堀町にあった八雲神社は、明治26年にあの界隈の地所を購入した資産家が、聚楽第に生えていたとの伝承があるモチの木の古木に触ると祟りがあるとの伝承を聞いて、モチの木をご神体とする社を造営したのだそうです。
今のハローワーク西陣付近も、明治10年代ぐらいまでは畑のなかに民家が点在するような寂しい場所だったと言いますから、明治33年の中立売通市電開通が市街地化のきっかけになったのでしょうね。
結構市の中心部に近いあの場所の市街地化が遅れたのは、「聚楽第跡地」だったことに尽きるでしょう。聚楽第が破壊されたあと、「内野」と呼ばれていたあの界隈が市街地化される過程(明治中期以降)で、聚楽第の濠跡などに制約されていた街路がしだいに直線化されていったのでしょうね。
Posted by 中西宏次 at 2015年09月24日 20:39
中西様、コメントありがとうございます。
>何と私の生家が面していた大宮通ネタで、しかも知らなかったことがいくつもあり、たいへん勉強になりました。
いえいえ、とんでもございません。
”旧大宮通”なる仁丹町名表示板の表現から興味をもち、図書館で調べたことを単にまとめただけでございます。
でも、私たちが忘れてしまった京都の近代史を今回もまた仁丹が教えてくれたという結果になりました。
東堀町の仁丹は現在・過去とも確認がとれていません。
必ずあったはずですので、昔々の写真の片隅にでも写っていたらご教示くださればありがたいです。
今後ともよろしくお願いします。
>何と私の生家が面していた大宮通ネタで、しかも知らなかったことがいくつもあり、たいへん勉強になりました。
いえいえ、とんでもございません。
”旧大宮通”なる仁丹町名表示板の表現から興味をもち、図書館で調べたことを単にまとめただけでございます。
でも、私たちが忘れてしまった京都の近代史を今回もまた仁丹が教えてくれたという結果になりました。
東堀町の仁丹は現在・過去とも確認がとれていません。
必ずあったはずですので、昔々の写真の片隅にでも写っていたらご教示くださればありがたいです。
今後ともよろしくお願いします。
Posted by shimo-chan at 2015年09月25日 23:24