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京都仁丹樂會
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京都仁丹樂會が仁丹町名表示板に関する様々な情報を発信。
仁丹町名表示板を愛する仲間が集うサイトです。
ja
Thu, 14 Mar 2024 12:41:23 +0900
Wed, 20 Dec 2023 16:30:33 +0900
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京都仁丹樂會
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京都の仁丹町名表示板をこよなく愛し、研究する人たちの集まりです。活動は様々、探索・研究・保全活動などなど。三人寄れば文殊の知恵!初心者も達人もみんなで考えましょう。
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匂天神町の”かぶせ仁丹”
「京都を歩けば『仁丹』にあたる」の第2章冒頭に、「ドキドキの『かぶせ仁丹』開封」と言う記事があります。木製の仁丹町名表示板の上に、琺瑯製の仁丹町名表示板が被さって貼られているのではないかと推察していたのを、実際に外して確かめてみたというお話しです。2年と半年ほど前のことでした。
実は過去の写真の中にも同様のケースが複数見られます。その時はそこまで気付かず、すでに確認できなくなってしまいましたが、四条烏丸の近くにある匂天神町では、この形で現役なのです。
いかがでしょう? 琺瑯製の両端から木製の額縁らしきものが見えているのが分るでしょうか?
縦の長さは両者とも同じ約91cm、横は木製が約18cm、琺瑯製が約15cmなので、木製の上から琺瑯製を貼ると少しばかり横がはみ出すというわけです。
もし、本当に木製が隠れていれば、その住所表記は琺瑯製と同じ「佛光寺通烏丸東入下ル匂天神町」で、前例から通り名は2行書き、町名は大きく書かれ、商標は明治期のものとなるはずです。疑う余地など持っていませんでした。いつかそれを確認できる日があればいいな、というぐらいにしか考えていませんでした。
ところが、俄然、確かめてみたいという事情ができました。
見た目ではなかなか分からないのですが、デジカメで撮った写真をパソコンで拡大して眺めていたところ、非常に興味深いことを発見したのです。
写真の黄色い丸の部分、はみ出した木製の額縁ですが、「青色」に見えるのです。
今まで確認してきた木製はいずれも「赤色」でした。もちろんほとんどの場合、退色してしまって確認しづらくなってはいますが。
そして、一方で、大津市に現存する木製は額縁が青色なのです。
(大津の木製については、2016年03月29日の記事、全国津々浦々の考証(その9)~大津でも木製仁丹発見!!②~ に詳しく記しています)
大津で使われている商標は、京都の琺瑯製と同じく、社史によるところの昭和2年とされるものです。すなわち、その配色や商標が京都の琺瑯製と同じだったのです。この事実を知った後に、匂天神町の青色に気付いたというわけです。
もしかして、この匂天神町の木製は、琺瑯製が本格的に量産されるにあたっての試作品のような位置付けではなかったのだろうか! そのように考えるに至りました。
もしそうであれば、 京都の木製➡大津の木製➡京都の琺瑯製 という流れを証明できる大発見となります。これはどうしても確認したいとなりました。
そこで、設置されている家の方に事情を説明し、ご協力を得ることができたのでした。本当に感謝です。
2021年9月17日、遂にその日がやって来ました。朝から小雨がぱらついていましたが、予定どおり、当会会員が大屋根にまで届く長いハシゴを運び込み、家を傷つけないように慎重に取り外し作業を行ったのです。
当初は上の琺瑯製だけを外して、そのまま下の木製を確認および記録するだけの計画でしたが、2 枚合わせて上下 2 箇所で釘付けされていたので、2 枚まとめて取り外すことになりました。そして、地上に降ろして、安全に確認します。
次の写真は、木製に貼り付いた琺瑯製を取り外しているところです。
琺瑯製は釘穴が上下各1箇所、左右に2箇所ずつあり、残りの左右の釘をペンチでひとつひとつ外していきました。
そして、いよいよその下に何が隠れているのか、判明する時が来ました。
これが、その瞬間です!
いくつもの情報が、そして驚きが、同時に目に飛び込んできました。
やはり木製!
でも、上下逆さま! なんで?
大津のようなものではなかった!
商標は明治期!
額縁の色は、確かに青!
しかし、赤い部分もある!
そして、住所は琺瑯製とちゃう!
これら、同時に飛び込んだ情報の整理に頭はフル回転しました。
結果として、やはり琺瑯製の下には木製が隠れていました。そして、それは今までに見てきた標準的な木製でした。もしや大津市と同じようなものが出現するのでは、という期待は見事に砕け散りました。
また、住所表記は、琺瑯製が「佛光寺通烏丸東入下ル匂天神町」と辻子の北側からなのに対し、木製は「髙辻通烏丸東入上ル匂天神町」と南側から導いていました。琺瑯製と全く同じ表記だとばかり思っていたのに意外な結果でした。でも、全く同じポイントでもこのように表現が違っても構わないというのが京都の住所の面白いところです。
そして、なぜ木製は上下逆さまだったのか?
琺瑯製を設置しようとしたところ、そこに木製があり、職人さんがちょっと手を抜いて琺瑯製をそのまま上から貼っただけ、というぐらいにしか考えていませんでした。しかし、上下逆さまで出現したとなると、そうではなく、一旦取り外して単に下地に再利用しただけとも受け取れます。四辺の額縁のうち、上下二箇所が欠けているのは、下地として利用するには邪魔だったからと考えれば理にかないます。
次に、額縁の色です。
確かに見込んだ通り、明らかに青色の部分がありました。でも、従来の木製の特徴である赤色も一部残っていたのです。次の写真、木製の額縁側面に赤色が明らかに確認できます。
いったい、これはどう解釈するべきなのでしょうか?
つぶさに観察すると、青色は次の写真の黄色い四角の部分で確認できました。
これは、周囲の額縁全体を青に塗ったと考えるのが自然かと思います。考えてみれば、琺瑯製が設置されたのは昭和3年、木製が設置されたのは現時点では明治45年が濃厚です。となると琺瑯製を設置しようとした時、そこにあった木製は設置後16年程度です。となれば額縁の赤色はそこそこ鮮やかに残っていたのではないでしょうか。それを下地にするなら、琺瑯製の青のラインに隣接して赤のラインがあることになります。それはいささか見苦しいとなり、木製の額縁も青に塗った。
これは全くの想像ですが、だとすると、赤色と青色の存在は説明が付きます。
では、なぜそこまでして木製を下地にしたのでしょうか?
設置個所を眺めると、柱の横巾は琺瑯製より少し狭いようです。琺瑯製だけを貼ろうとすると側面の釘穴が使いにくかったかもしれません。だから木製を下地にしたのでしょうか?
でも、現実は上下の2カ所の釘で木製もろとも柱に設置されていました。ならば、琺瑯製だけでも上下2箇所で固定できたはずです。さらに琺瑯製は山上げ(蒲鉾状)に加工されているので、側面の釘穴から内向きに釘を打ち込むことも可能だったのではと考えられます。木製を下地にする必要性は少ないような気もします。
また、琺瑯製が柱からはみ出しているケースは他にも見られますが、特に下地がある訳でもありません。
もはや妄想ばかり。謎が謎を呼ぶ展開になってしまいました。
以上、解けた謎もあれば、新たな謎も生まれた調査結果です。
いずれにせよ、およそ100年近くもの長きにわたり、琺瑯製は木製を劣化から守ってきました。おかげで、住所表記や商標は鮮やかに残されていました。そして、木製には必ずある例の意味不明の記号も明確に出現しました。今回は、菱形に漢数字の「六」と「七」でした。
このようにして、現役の仁丹町名表示板を取り外して調べさせてもらうという、当会始まって以来の一大プロジェクトを無事に終え、“原状復帰”させていただきました。木製は元のとおりに上下逆さまで。
~京都仁丹樂會~
https://jintan.kyo2.jp/e587929.html
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トピックニュース,基礎研究
Thu, 14 Mar 2024 12:41:23 +0900
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トークショー開催
あけまして、おめでとうございます。
昨年は京都仁丹樂會にとって、今までの研究成果を書籍の形でまとめることができた大きな節目の年でした。しかし、これで研究を終了したわけではありません。まだ解明できていないことも多く、引き続き、探究に勤しむ所存でございます。
さて、京都 蔦屋書店さんに続き、本日より大垣書店烏丸三条店さんでも実物が展示されました。書籍の販促の一環です。ビジネス街の烏丸通に面した場所なので、とても目立ちます。
これら展示されている実物は、今までの活動の中で、行き場をなくしたものを一時的に保護しているものですが、近い将来、環境が整ったら本来あるべき場所に現役復帰させたいと考えています。
そして、来る2024年1月20日(土)、大垣書店烏丸三条店さん主催によるトークショーが予定されていますので、ここでもご紹介します。
大垣書店烏丸三条店さんのHP https://www.books-ogaki.co.jp/post/52854
今回の「京都を歩けば『仁丹』にあたる」の編集作業中にも新たな事実が判明しています。あいにく書籍には加えることはできなかったのですが、それらの紹介もさせていただこうと考えております。
なお、ご参加いただいた方には森下仁丹さんのご厚意により、次のようなキーホルダーが進呈されるとのことです。
~京都仁丹樂會~
https://jintan.kyo2.jp/e586346.html
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インフォメーション
Mon, 01 Jan 2024 18:53:53 +0900
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車窓からの琺瑯看板
このように線路脇に琺瑯看板があるというのは、かつては日常の光景でした。
2007年4月、兵庫県の三木鉄道の沿線です。国鉄三木線時代からあったものなのでしょう。でも、今は線路も建物もありません。
次は近江鉄道の桜川駅。2001年6月の撮影ですが、ここは線路は今もありますが、建物は消え、琺瑯看板も運命を共にしました。
そして、富山地方鉄道の岩峅寺駅の近く。2010年5月の撮影ですが、ここは今もこのままあります。ただし、現在は草木がもっと茂っていて見つけるのは困難、広告として維持されているとは言えません。
いずれも昭和の琺瑯看板全盛期に列車の乗客をターゲットにして設置されたものでしょうが、その後新たに設置されることはなく、建物の老朽化にともなって減少の一途をたどり、今や絶滅寸前といった感です。
だからこそ、今、見つければ思わず「アッ!」と声をあげそうになります。
先日、近鉄特急で伊勢方面に向かっているとき、そのような経験をしました。声には出しませんでしたが、心の中で「アッ!」となりました。次のような光景が健在だったのです。しかも、仁丹もある!
ここはどこだ?と、場所を調べると、松阪駅のひとつ手前(大阪寄り)の駅の近くでした。その駅名は松ヶ崎、京都の地下鉄にもある駅名でした。奇遇です。
これはしっかり記録しておかねばと、翌日の帰路、立ち寄りました。
そして、先ずはしばし、琺瑯看板群に圧倒されて鑑賞してしまいました。
仁丹は「旅行に仁丹」のキャッチコピー付きです。
一時期使っていたキャッチのようで、大津市の琺瑯製仁丹町名表示板にも「旅行運動に仁丹」があります。他に、「訪問接客に」「日常保健に」「執務勉強に」「急救護身薬に」などもありました。
ちなみに、八尾市には「たばこの前後に」「映画に」「気分転換に」「スポーツに」「乗物酔いに」などがあります。いずれもお勧めのシーンの紹介ですね。
この「仁」と「丹」の看板の大きさは、約90cm四方でした。今回もメジャーは持ち合わせていませんでしたが、スマホで計れることを思い出し、測量してみました。
背を向けるとと、反対側には近鉄電車が走っています。
間に田んぼがあり、看板の設置以後、何も建たなかったのでこうして今も見られるのでしょう。
何末年始、伊勢神宮に行かれる方はちょっとご覧ください。松ヶ崎駅の手前、進行方向の右手です。
なお、この他にも東海道本線の柏原~関ケ原間でも同様の仁丹看板を見ることができます。名古屋方面に向かうなら進行方向右手です。
~shimo-chan~
https://jintan.kyo2.jp/e586283.html
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トピックニュース,仁丹のある風景
Sat, 30 Dec 2023 14:38:32 +0900
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市バス「仁丹号」を追い求めて
この、「京都を歩けば『仁丹』にあたる」の広告を掲げた市バスがすべて判明しました。
梅津営業所に配置されている約110台のうちの5台で、その車体番号は次のとおりです。
車体番号 1167、2008、2866、3783、4041
梅津営業所が担当する系統のみをチェックしたらよいので、全市バス約800台から探すことを思えばかなりハードルは下がりました。しかし、12月9日から走り出して以来、機会を見つけては「仁丹号」探しをしていますが、そう簡単に出会えるものでもないようです。
あの手この手と試しましたが、現実的で確率の高い見つけ方は、3系統、27系統、32系統に的を絞り、河原町通の市役所前(河原町二条)バス停から四条河原町経由で、四条通を大宮まで歩いて探す。もちろん、逆でもOK。この間を行ったり来たりして探すのが良さそうです。
ベストなのは、これらの系統がすべて重なる四条大宮~四条烏丸間で2~3時間粘って定点観察することです。そうすれば、運用に就いているすべてのバスが把握できるはずです。昼間なら1時間当たり20台以上をチェックできます。車体番号もメモしておくと、原則その順に戻ってくるので撮影ポイントで待ち構えることもできるでしょう。ただ、不審者に映ること必至ですが。
ところで、この車体番号というのは、コレです。
側面でしか見えませんが、ナンバープレートと同じなので前後からでも知ることができます。
梅津営業所が受け持つ系統は、3系統、27系統、特27系統、32系統、52系統、75系統、80系統、特80系統、93系統、特93系統、201系統、M1系統、特205系統などがあるのですが、その車体番号と系統との関連をちょっと頑張ってデータを取ってみました。
すると、オレンジ色の方向幕(今はLEDですが)である循環系統201系統には同じ車体ばかりが使われているようです。つまり、方向幕の色がオレンジか青かで使われる車体がグループ分けされているようです。さらに青のグループでも3系統、27系統、32系統に充当されるグループがあるのでは?という印象を持ちました。わずか数日の、それも限られた時間内でのウオッチングで結論付けるのは早計かもしれませんが。
そして、問題の「仁丹号」の目撃情報は、次のようなものでした。
以上のような状況から、3系と27系統と32系統に的を絞ってもよいのではと判断しました。
これらの系統の特徴は、次のようなものです。
<3系統>
松尾橋からそのまま四条通を東へ。そして河原町通を上って今出川通で鴨川を渡り、北白川へと長距離を往復しています。本数が多く、昼間でも1時間に5~6本程度ですが、朝のラッシュ時は1時間に10本ほど走ります。したがって、投入されるバスの台数も多く、「仁丹号」の入るチャンスも多い系統です。
なお、河原町通夷川では直角貼りのリアルな仁丹町名表示板のすぐ横を走り抜けます。
↑ 実物の仁丹町名表示板とのコラボ
<27系統>
四条通の京都外大前から一旦北上して太秦天神川を経由し、西大路通に出て南下、西院から四条通を東へ四条烏丸へと向かいます。四条烏丸には京都経済センター西の室町通に到着し、全ての乗客を降ろすとビルをぐるっと一周して、京都経済センター前のバス停から始発の27系統になって外大前に戻っていきます。したがって、シャッターチャンスが複数回あります。昼間は1時間に6本程度の運転です。
↑ 四条烏丸を発車する27系統
<32系統>
四条通の京都外大前から西京極付近に出て、五条通を東へ。そして、大宮通を上って四条大宮。次に四条通を東へ進み、河原町通で北上、市役所前から二条通に入って鴨川を渡り、岡崎公園を通り抜けて銀閣寺へと向かいます。銀閣寺付近では鹿ケ谷通などを使ってループ状にUターン、錦林車庫経由で再び外大前に戻ります。本数は日中は1時間に3本程度です。
↑ 四条通の四条高倉(大丸の前)にて
↑ 岡崎公園、京都ロームシアター前にて
なお、二条通川端付近では実物の仁丹町名表示板を車窓から2枚見ることもできます。
この2枚、至近距離に掲げられているにも関わらず、仁丹の商標の位置が違います。孫橋町は新洞学区、新先斗町は川東学区、学区が違うのです。左京区では新洞学区のみ商標は上にあるのです。
「仁丹号」は1カ月間走るとのこと、新年1月9日頃までしか見ることができません。年末年始、河原町通や烏丸通を歩かれる時は、ちょっと気に掛けていただければ嬉しいです。
~shimo-chan~
https://jintan.kyo2.jp/e586205.html
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トピックニュース
Thu, 28 Dec 2023 14:39:15 +0900
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京都 蔦屋書店さんに琺瑯「仁丹」現る!
「京都 蔦屋書店」さんで、今、実物の仁丹町名表示板が展示されています。
そして、そのすぐ前には
京都を歩けば「仁丹」にあたる 町名看板の迷宮案内が展開されています。
京都髙島屋に今年10月にオープンした専門店ゾーン「T8」の5階、芸術や建築、京都本などが並ぶギャラリーのようなお洒落な書店です。
日頃は家屋の2階に掲示されていることの多い「仁丹」ですが、ここでは間近で見ることができます。これが100年近く前のものかと驚く美しさ、琺瑯看板のなせるワザをとくとご覧ください。
見どころをご紹介しましょう。
<その1> 手書き文字であることが分かる
通り名や町名の黒い文字は墨やペンキではなく、これも琺瑯であることが分析により判明しています。しかも、すべて手書きなのです。まるで習字のお手本のような美しさ。筆に琺瑯の釉薬を含ませ、習字と全く同じようにササっと書いているのです。その筆使いの様子は、至近距離だからこそありありと見て取れます。
手書きでこれほどバランスよく書くなんて、今の時代なら至難の技です。しかも、謎だらけの仁丹町名表示板、どこで誰が作ったのかはまだ解明できていませんが、昭和3年に何千いや万単位かもしれない数を、手書きで一気に仕上げていく職人さんの技に驚くばかりです。
ちなみに、「区」「万」「寿」など、旧字体が使われています。
<その2>琺瑯看板の造りが分かる
琺瑯看板は釉薬の色の数だけ、高温での焼成作業という工程が必要です。看板の傷跡からは、先ずは白の釉薬がベースとして塗られて一度焼成、その上に青、または赤の釉薬が載せられてまた焼成、そして、最後に黒の琺瑯で住所を書いてまたまた焼成、というような工程がうかがえます。また、基盤となる鉄板は単なる平面ではなく、蒲鉾状に加工されていることも分かります。
<その3>京都市の歴史が分かる
右の2枚は現在は中京区のエリアですが、「上京区」と書かれています。昭和4年までの京都市は上京区と下京区しかなく、その2区時代に製作されたことが分かります。当時はおよそ三条通を境にして、上京区と下京区に分かれていました。
日頃、何気なく見ている仁丹町名表示板ですが、じっと眺めていると様々な謎が潜んでいることが分かってきます。しかし、記録はありません。その多くの謎解きに挑んだのが今回の書籍です。まだまだ面白いエピソードが満載、ぜひ、お読みいただければと願っています。
それにしても、昭和3年に登場した琺瑯「仁丹」、まさかミッフィーちゃんと並ぶなんて、“髭のおじさま”も想像すらしなかったことでしょう。なんという展開!
「京都 蔦屋書店」さんは“アートと文化の「伝統と最先端」が共振する場を提案します”と紹介されています。京都の仁丹町名表示板は、今や広告の域を超えた文化財だと私たちは発信してきましたが、ここで違和感なく展示されている姿を見て、さらにアートにまで昇華したのではないかと感じました。新たな発見ができました。
展示は新年を跨いで続けられるとのこと、この機会にぜひご覧いただければと思います。
~京都仁丹樂會~
https://jintan.kyo2.jp/e585876.html
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インフォメーション,トピックニュース
Sat, 16 Dec 2023 20:06:51 +0900
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「5/800」を探せ!
「800分の5」を探せとは、京都の市バス800台から5台を探し出せ、というミッションです。
このようなバスです!
実は、今回の書籍、出版社の青幻舎さんが市バスに広告を出してくださったのです。
車体後部の看板です。そのバスが5台あるとのこと。そして、市バスは約800台あるとのこと。
果たして、800台の中から特定の5台を見つけ出すことは、容易なことなのでしょうか?
途方もない数値に見えますが、単純計算では160台に1台、どこかのバス停で160台見送ったら1台は見られる計算です。でも、ひとつのバス停で160台も粘るのはあまりにしんどい。
そこで考えたのが京都駅前のバスターミナルです。ここなら、バスが色んな方向からやってきては、出ていきます。それも単なる通過ポイントではなく、ターミナルの中をぐるっと回るから、シャッターチャンスも増えるはず。これは効率抜群ではないか!と考えました。
そう高を括って、このミッションに挑みました。
12月11日、午前10時過ぎ、京都駅前のバスターミナルに立ちます。バスの出入りは凄まじく、良いアイデアだったと自画自賛。案の定、10分ほどで真新しい看板を取り付けた目的のバスがやってきました! しかし、より良い撮影ポイントへと移動している間にバスは姿を消してしまったのです。見事に、撮影失敗!
でも、この調子ならまたすぐに来るだろうと待ち続けます。東京の木製「仁丹」は”9万分の1”だったのだから、”800分の5”なんて楽勝だと、自分に言い聞かせながら待つこと2時間。全然、来ません。もうお昼、ちょっと心が折れてしまいました。
午後は仕切り直しです。
実は、青幻舎さんの公式X(旧Twitter)によれば、“四条通によく出没するらしい”と案内されていたので、素直に従ってみることにしました。そして、四条烏丸から四条河原町へとアテもなく歩き出そうとしたその時でした。すれ違った27系統を振り返って見てみると、付いているではないですか!探し求めている看板が。行き先は、太秦天神川。機転を利かせて地下鉄で追いかけましたが、残念ながら間に合いませんでした。先回りできると思ったのですが、またもや撮影失敗。
が、しかし、予期せぬことが。
太秦天神川のバスターミナルに入って来た75系統に付いているではないですか!
それが、冒頭の写真なのです。遂に、撮影に成功しました!
実に楽しくさせてくれるデザインです。周囲の青色も琺瑯仁丹を連想させてくれます。今回、この看板を探すのに随分と色々な看板を見てきましたが、センスはピカイチだと思います。
京都駅前で狙う、地下鉄で先回りする、と知恵を絞った作戦はいずれも失敗に終わり、何ら予想もしていなかった偶然に助けられたという、なんだか複雑な心境でした。
なお、四条烏丸で見かけた27系統(車体№4041)、撮影できた75系統(車体№3783)はいずれも梅津営業所のバスです。朝、京都駅で目撃したのも№は不明ですが75系統でした。少なくても梅津営業所には5台のうち2台が居ることは判明しました。北白川~松尾橋の3系統や循環201系統も梅津営業所ですから、これらのバスが充当されれば京都一の繁華街で見ることができることでしょう。
さて、残る3台は何処? 広告期間は来年1月初旬ぐらいまでのはずです。
今回は右京区役所の前での撮影でしたが、それまでに、四条通や河原町通、あるいは平安神宮の大鳥居などと一緒にカメラに収めたいものです。
目撃情報がございましたら、情報提供いただければ嬉しく思います。
~shimo-chan~
https://jintan.kyo2.jp/e585835.html
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インフォメーション,トピックニュース
Tue, 12 Dec 2023 18:33:59 +0900
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京都を歩けば「仁丹」にあたる 発売中!
私たち、京都仁丹樂會の過去10年あまりの研究成果をまとめた書籍、
京都を歩けば「仁丹」にあたる ~町名看板の迷宮案内~
が書店に並び出して1週間が経ちました。
定期刊行の雑誌とはちがい、エリアにより書店により登場時期はまちまちでしたが、ほぼ出揃った感じです。
京都市内の書店では京都本のコーナーに平積みされていることが多いですが、大阪や神戸では特に”京都本”なる分類はないようで、旅行ガイドの近くにあるかと思えば、歴史書に分類されていたりとまちまちのようです。
店頭の検索画面では、キーワードに「仁丹」「じんたん」と入力するだけでもヒットしました。
もちろん、ネットでも購入できます。
ぜひ、ご覧いただければ嬉しいです。
~京都仁丹樂會~
https://jintan.kyo2.jp/e585582.html
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インフォメーション
Sat, 02 Dec 2023 09:56:54 +0900
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紅葉と仁丹
紅葉に映える仁丹町名表示板を見つけました。
まるで寺院の境内であるかのような光景ですが、千本通に面していて、すぐ前には市バスや車が盛んに走っています。バスで通るたびに、ちゃんと存在しているか気になってチェックしていましたが、こんな美しいタイミングがあるんだと感動、わざわざ撮影のためだけに出直しました。そして、この他にも四季を感じさせる仁丹はどこにあるだろう、と思いを巡らせています。
さて、この仁丹町名表示板は非常に貴重なのです。
先ずは、なんとも珍しい、行政区名の縦書きです。
京都市でも、少し周辺部になるとこのように通り名を使わない住所となるので、スペースがあるのだから大きく書けばいいじゃないかと職人さんが自己判断で行政区名を大きく縦に書いた。そんなことを勝手に想像しています。
でも、横書きもかつてあったので、謎です。
行政区名の縦書きは今まで12枚確認していますが、現役で残っているのはこの1枚だけとなりました。
さらに、昭和16年に「鷹野」が「紫野」に変わり、昭和30年には上京区から分区して北区になりました。したがって、「北区紫野十二坊町」が現在の住所です。
このようにいくつもの理由で、超貴重な仁丹町名表示板なのです。しかし、その貴重さは本来あるべき場所に現役であってこそ発揮できるものです。末永く現地で大切にされることを祈っています。
~shimo-chan~
https://jintan.kyo2.jp/e585367.html
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仁丹のある風景
Wed, 22 Nov 2023 19:51:21 +0900
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11月下旬発売!
京都仁丹樂會のこの10年あまりの研究成果などをまとめた書籍、
京都を歩けば「仁丹」にあたる ~町名看板の迷宮案内~
はいよいよ今月下旬に発売される運びとなりました。
帯付きのデザインは、こんな感じになります。 なかなかのインパクトです。
書籍全体のデザインは、すでに600冊以上を世に送り出された画家・装丁家の矢萩多聞さんです。著書も、「インドまるごと多聞典」(春風社)、「インドしぐさ事典」(ambooks)、「偶然の装丁家」(晶文社)などがあります。
そして表紙カバーや本文に登場するイラストは、画集『神保町』(夏葉社)、『御所東考現学』(誠光社)、『本屋図鑑』(夏葉社)などの著書のあるイラストレーター得地直美さんです。
200頁におよぶボリュームですが、お陰様で、柔らかく読み易い素敵な仕上がりにしてくださいました。
すでに出版社である青幻舎のオンラインショップやAmazonなどでも予約が始まっております。
書店にも今月下旬から並びだすかと思います。
~京都仁丹樂會~
https://jintan.kyo2.jp/e585045.html
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インフォメーション,トピックニュース
Thu, 09 Nov 2023 11:03:02 +0900
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古そうな仁丹看板
仁丹の町名表示板ではありませんが、いわゆる一般的な「仁丹看板」の話題です。
かつての同僚から、『仁丹看板、あるよ』との知らせを受け、現地へ行ってみました。
場所は滋賀県内のとある場所、クルマで通りすがりに見つけたそうです。
琺瑯看板だろうと思い込んで訪れてみたものの、驚きました!
そうではなく、今までに見たことのないものだったのです。
お馴染みの大礼服の商標はなく、商品名「仁丹」のみの看板でした。
文字看板とか切り文字看板と言われる部類ですね。
このデザイン性に乏しい文字の形、見るからにかなり古そうです。
「仁」と「丹」を一文字ずつ描いた正方形の琺瑯看板をセットで貼るケースはよくありましたが、これは琺瑯ではなく、ただのブリキです。
おそらく設置当初は赤色に塗装されていたものと想像しますが、今は茶色に錆びて背後の板塀に同化しており、そこに仁丹があることを気付かせないかもしれません。
よくぞ見つけてくれたと感謝です。
が、しかし、まじまじと見つめているうちに、次第に違和感が増幅してきました。
これは切り文字看板と言うよりも、何枚かの短冊型のブリキでもって文字を形成させているだけではないですか。まるでマッチ棒で文字を描くかのように、です。
「仁」の字は、各短冊の重なり具合から、次の①~④の順に釘で貼っていったと考えられます。
先ずは①を水平に、その下に②を平行に貼って「つくり」を完成させる。
次に「へん」の③を縦に、最後に④を斜めに貼って完成させようとしたところ、最上部が壁の水平部材にぶつかってしまった。でも、ここまでやったのだからエイヤーとやっちゃえと強行した、そんな職人さんの姿を思い浮かべてしまいます。
次は「丹」の字です。
⑤⑥⑦と縦に貼って、その上から⑧を水平に貼る。
次に⑨を縦向きに貼るが、曲線に見せかけるために少し斜めにする。
続いて⑩だが、⑨と同じサイズの短冊かもしれないけど、もしかしたら⑦と一体の可能性もあり得るかも。
そして、⑪を取り付けるも、長さが足りないので左端に⑫の小さなパーツを貼ってごまかした。
⑫の部分をアップすると次のようになるのですが、不足分を継ぎ足したことは明らかです。
なぜ、長いものを用意しなかったのか? もしかしたらできなかった? ⑪の長さが、元々材料となったブリキの大きさの規格から最大だったのでは? それはもしや半間である約90cm? 帰宅後に撮影してきた写真を睨みながら、いろんなことを考え込んでしまい、メジャーで測量しておくべきだったと後悔しきりです。
写真から判断すると、9~10種類の長さの短冊を用意しておけば「仁丹」の2文字を作ることができそうです。
これを看板と呼んで良いのかどうか、ちょっと疑問に思いますが、屋外広告には違いありません。ちょうど近くに鉄道が開通したのが大正の末期なので、その車窓から見えるように設置したのでしょう。
「仁丹」の発売が明治38年、琺瑯看板が普及し出したのが大正末期、京都市に数多く残る琺瑯の仁丹町名表示板の設置が昭和3年として、森下仁丹さんが琺瑯看板を採用する直前にはこのようなペンキ塗りのブリキの文字看板も使っていた。そのように推理しても無理はないのかなと思います。
~shimo-chan~
https://jintan.kyo2.jp/e584892.html
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トピックニュース
Thu, 02 Nov 2023 11:18:50 +0900
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研究成果を書籍に!
京都を歩けば「仁丹」にあたる~町名看板の迷宮案内~
株式会社青幻舎HP 近刊予告
https://www.seigensha.com/books/978-4-86152-936-8/
とうとう書籍を出版することになりました!
京都を歩けば、まちのあちこちで出会う仁丹の町名表示板。
いつしか関心を持ち、そして気が付けばその「魅力」と「謎」の沼にどっぷりハマっていた人たちが、2010年に集まったのが「京都仁丹樂會」なる同好会・研究会でした。
その目的は、実態調査にしろ謎解きにしろ、ひとりではなかなか難しい、だから集まってみんなで協力しようというものでした。
すると、やはり効果がありました。
当初は五里霧中に居るかのような状況でしたが、それぞれの研究成果を持ち寄り、共有し、そして様々な角度から議論しているうちに、閃きがあり、新たな発見があり、それらの相乗効果も働き、ぼんやりと描いていた想像が、次第にシャープな実像になっていきました。
今まで判明した事柄はその都度、当ブログなどで発信してきましたが、ちょうど結成10年を迎えた2020年、一度すっきりまとめてみようじゃないかと、書籍発行の動きが始まりました。
あれから3年経過しましたが、当会設立時より度々取材をしてくださった京都新聞社の樺山聡記者とコラボする形で、この度、株式会社青幻舎さんより出版の運びとなった次第です。
学術論文のようなまとめ方ではなく、ドキュメンタリータッチな読み物として楽しんでいただけるような体裁になっています。
11月中旬~下旬ぐらいに完成するよう、現在、最終調整に励んでおります。
書店に並んだ際には、ぜひ手に取っていただければと思います。
~京都仁丹樂會~
https://jintan.kyo2.jp/e584462.html
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インフォメーション,トピックニュース
Tue, 17 Oct 2023 16:53:39 +0900
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パワースポット誕生?
徳川家康と仁丹?
先日、2023年6月30日の京都新聞朝刊を見て、その奇妙な光景に目が点になりました。
家康も「仁丹」を好んで口にしていたという記事ではありません。いくら超ロングセラー商品でも、それは無理です。
早速、現地へ行ってみました。ここです。
確かに、紛れもなく、仁丹と徳川家康が至近距離におられるではないですか。
場所は、上京区の佐々木酒造さんの蔵です。
この仁丹町名表示板は今から10年前に佐々木酒造さんご協力のもと設置させていただきました。
その経緯については、当ブログ2013年07月27日の記事「佐々木酒造さんに仁丹町名表示板設置!」をご覧ください。
さて、新聞記事の内容は、次のような石碑が建てられたというものでした。
佐々木酒造さんの所在地には、その昔、徳川家康が住んでいたというのです。
その邸宅跡だという石碑でした。
ここは「聚楽第」の南に当たり、徳川家康の邸宅があったという史料に合致するのだそうです。
横には詳しい説明板も設置され、それによれば幕末には北側に徳川幕府若年寄の永井尚志邸宅があり、新選組局長近藤勇や坂本龍馬も訪問していたとあります。
なんとビッグな名前のオンパレードでしょうか。
そもそも、佐々木酒造さんといえば洛中唯一の酒蔵であり、俳優佐々木蔵之介さんのご実家としても有名です。そして、そこにはその昔、徳川家康が住み、近藤勇や坂本龍馬も近所を歩いていた。さらには、今年創業130周年を迎えた森下仁丹創業者にして日本の広告王の異名を持つ森下博氏も参集。
この時空の重なり、まさにパワースポットに思えてきました。
ちなみに、この石碑を建てられたのはNPO法人「京都歴史地理同好会」であり、その理事長は「御土居堀ものがたり」などで知られる中村武生先生です。先生の著書「京都の江戸時代をあるく」のあとがきでは、京都では「鎌倉・室町時代はまだしも、江戸時代なんて『昨日』のように扱われる」と述べられていたのが印象的でした。同じ尺度で言えば、仁丹町名表示板に関わる謎はまさに“今日”なのです。にもかかわらず、謎の多いことにもどかしさを感じます。
~shimo-chan~
https://jintan.kyo2.jp/e583018.html
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トピックニュース
Sat, 19 Aug 2023 11:46:32 +0900
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月刊「京都」9月号
京都の情報誌、月刊「京都」には近頃、2頁見開きで森下仁丹の広告ページがあり、京都仁丹樂會も協力させていただくことがあります。
8月10日に発売された2023年9月号は、創業130周年を迎えた森下仁丹の理念「広告益世」が今も生きている例として、京都の仁丹町名表示板が取り上げられました。もちろん全面協力させていただきました。大きな書店では京都本コーナーに平積みされていますので、ぜひご覧ください。猛暑のおり、京都らしいクールなスイーツも綺麗な写真で多数紹介されています。
~京都仁丹樂會~
https://jintan.kyo2.jp/e582905.html
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インフォメーション
Sun, 13 Aug 2023 08:34:03 +0900
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祇園祭と仁丹~後祭~
本日、7月23日は祇園祭後祭の宵山です。
新町通の北観音山と南観音山では、復活バージョンの仁丹町名表示板とのコラボが楽しめます。
先ずは南観音山です。
どこに仁丹があるか分るでしょうか? 右端に写っています。
昼間とは違う、ほんのりとした光に包まれながら輝いていました。
ついでに、もう少し上れば、今度は北観音山です。
写真はいずれも宵々々山の7月21日撮影です。
夜でも蒸し暑い京都の夏、来年は涼しいかもと、ついつい翌年回しすることが何度あったことでしょうか。
今年は重い腰を上げたおかげで、豪華絢爛な山鉾と美しい仁丹町名表示板との共演を見ることができました。
~shimo-chan~
https://jintan.kyo2.jp/e582502.html
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仁丹のある風景
Sun, 23 Jul 2023 20:29:44 +0900
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祇園祭と仁丹~前祭~
本日、7月17日は、祇園祭の前祭。山鉾巡行日でもあります。
少し意外かもしれませんが、仁丹町名表示板と祇園祭のコラボが見られるポイントが何か所かあります。そのベストなポイントは、ここ山伏山かなと思います。
「下京区 室町通蛸薬師下ル山伏山町」の仁丹町名表示板が左端に見えます。
日頃は町家の、それも樋に少し身を隠すようにひっそりと佇んでいるので、気付く人は少ないでしょうが、祇園祭ともなれば表舞台に立つ仁丹なのです。
今は中京区だけど、仁丹は「下京區」。
中京区が誕生する直前の昭和3年に一気に設置されたであろう琺瑯仁丹は、今年で95歳!
今年も見られてホッとしました。
~shimo-chan~
https://jintan.kyo2.jp/e582368.html
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トピックニュース,仁丹のある風景
Mon, 17 Jul 2023 11:21:24 +0900
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文化庁と仁丹町名表示板
京都にやってきた文化庁について、先日、京都新聞にこのような記事が載りました。
所在地の表記がおかしいんじゃない?という内容です。
京都府庁の敷地内にあった旧府警本部跡に文化庁が来ると聞いて、京都の人たちは「あぁ、あそこか」とその場所がインプットされたかと思います。だから改めて文化庁の所在地がどこなのか、などと気にしません。しかし、今回、当会にも取材があり、発表されていた所在地を見て唖然としました。
文化庁のHPでは、「京都府京都市上京区下長者町通新町西入薮之内町85番4」となっていました。“京都府京都市”、“85番4”という表現にも引っ掛かりましたが、それよりも何よりも、“下長者町通新町西入”なる通り名の組み合わせが、京都の文化から言えば致命的でした。
府庁敷地内からも入れるようですが、文化庁玄関前のINFORMATIONには新町通から入るようにと案内されています。
ならば、京都の文化に従えば“新町通下立売上る”です。これなら百人中百人が何の疑問も呈さないでしょう。ところが、下長者町通新町西入。そこには新しくできた府警本部の建物しかありません。まぁ、府警本部を通り抜けして府庁敷地内に入れば、文化庁にも辿り着けるのでしょうが。
先ず、京都府庁が所在する藪之内町は次の赤い線のような町域になっています。下長者町通の北側に民家などが建ち並ぶ他は、青い線で示す85番地3と85番地4の2つの土地を府庁が一体利用しています。いずれもイメージなので、正確なラインではありません。特に85番地3と85番地4の境界線はこのような直線ではありません。
そして、文化庁は85番地4にすっぽり収まっており、下長者町通には全く面していません。
仁丹町名表示板に関心を持たれた方はすでにご理解いただいているでしょうが、ひとつの町名に対して通り名の組み合わせは複数あります。
例えばこの藪之内町の場合であれば、北から時計回りに見ていくと理論上は次のような表記が考えられます。
1.下長者町通新町西入 藪之内町
2.新町通下長者町上る 藪之内町
3.新町通下長者町下る 藪之内町
4.新町通出水上る 藪之内町
5.新町通出水下る 藪之内町
6.新町通下立売上る 藪之内町
7.下立売通新町西入 藪之内町
8.下立売通釜座東入 藪之内町
9.下立売通釜座西入 藪之内町
10.下立売通西洞院東入 藪之内町
11.西洞院通下立売上る 藪之内町
12.西洞院通出水下る 藪之内町
13.西洞院通出水上る 藪之内町
14.西洞院通下長者町下る 藪之内町
15.下長者町通西洞院東入 藪之内町
なんと藪之内町だけで少なくとも15通りはあり得るのです。同様のことは京都市の中心部の町名の全てで言えることであり、そのような町名の数は1,500を優に超えます。
行政向けに全国の公称町名をまとめた便覧などは昔からありますが、京都市だけにここまで掘り下げて記載するわけにはいかず、ほんの代表的な通り名の表記しかされません。そこが他所の人から見ると悩みの種になるのです。通り名の組み合わせの部分がもはや大字小字の大字のように受け取られ、このような表記は便覧に載っていない、間違っている、同じ場所じゃないとなるのです。書き切れないから載っていないだけなのですが。しかし、書類に根拠を置く役所としては便覧に掲載されていない表記を認めるのはとても勇気の要ることでしょう。
さて、上記15通りのどの表記を使うかは、建物の入口が面している、あるいは人を導きたい通り名が最初にある表記から選びます。京都府庁であれば85番地3と85番地4という広大な土地を一体的に使用しており、その敷地への正面玄関である正門が下立売通にあるので、「京都市上京区下立売通新町西入藪之内町85番地3、85番地4合地」が最も厳格な表現になるでしょう。実際、京都府のHPでは「京都市上京区下立売通新町西入薮ノ之内町」となっています。
番地まで明記しなくても分かるので、表向きにはこれで十分なのです。さらにアクセス方法として案内するだけなら町名すら不要です。日頃は、通り名の組み合わせで表現するだけで十分に用が足り、いちいち町名まで書かない、言わないのが通常です。しかし、役所に出すような正式な書類には町名番地も加えたフルスペックで書きます。つまり、フォーマルとカジュアル、上手く使い分けている、それが京都の文化なのです。
文化庁も府庁の敷地内にあるので、府庁と同じにしました、としたら良かったのに“下長者町通新町西入薮之内町85番4”としてしまいました。北側の85番地3であればそのとおりです。今はそこには新しい府警本部があり、そのHPでは「京都市上京区下長者町通新町西入藪之内町85番地3」とバッチリ100点満点の表記です。
しかし、文化庁、なぜこのような所在表記になったのか? 新聞では土地の登記簿どおりに従ったとあります。まさかと思いましたが、土地登記簿では85番地3も85番地4も同じ「下長者町通新町西入」になっているのです。明治38年の保存登記からです。確かにこの表記で藪之内町に間違いなく辿り着けるので、そこの●●番地となれば特定でき、理屈は通ります。役所が所在する土地の登記簿など、まず表に出ることはなく、現状に馴染むように修正されていなくても何の支障もないと思います。要は一般に対してアナウンスする所在地として何が適切かでしょう。今回、それは「新町通下立売上る」でなくてはならなかったのです。「新町通下長者町下る」や「新町通出水下る」でも間違いではありませんが。
ところで次の写真は、文化庁のすぐ近く、椹木町通と衣棚通との交差点です。
ここの同じ家屋に2枚の仁丹町名表示板があります。
一つは「上京区衣棚通椹木町上ル門跡町」、もう一つは「上京区椹木町通衣棚東入門跡町」です。
どちらの通りに面するかで通り名の表現が違います。これぞ、京都の住所表現、京都の文化なのです。やっぱり仁丹町名表示板は改めて凄いと感動します。
しかしながら近年、地図アプリの進化と共にこの文化がないがしろにされているような気がしてなりません。もはや区と町名と番地しか書かず、通り名を飛ばすケースが多く見られます。それが正式な住所なのだと思い込んでいる人も増えているそうです。
さらに、近頃、マイナカードに関連してか「住所の表記ゆれ」なる語句をよく耳にするようになりました。1丁目2番3号を1-2-3と書く、1番地2を1-2と書く、藪之内町を薮ノ内町と書くなどです。いずれも正式に書くのが面倒なので簡略化しているわけですが、正式な表記を知った上で揺れるのと、知らないまま揺れているのとでは意味が違います。
このようなことを考えながら京都の様々な店舗や会社の所在地を見るのも興味深いものです。中には京都のことを全く理解していないなというところもあります。
さて、今回の文化庁は、いささか気の毒な面もあります。新聞記事によれば、「所在地表記については府に事前に相談したが異論はなかった」とされています。京都独特の表記についてお墨付きをもらって安心されたのかもしれません。しかし、京都の役所の人だから、みんなが京都の表記ルールを知っているとは限らないのです。それは市内でよく見かける京都市広報板で知ることができます。
次の写真はほんの一例です。
広報板の下部に町名表示板が付けられています。広報板の設置要綱では、「町名表示板を取り付ける場合は、設置場所の住所を記載するものとする」とあるのですが、この広報板が実際に設置されているのは「中京区新町通四条上る東入小結棚町」なのです。一見、似ていますが、違うのです。
このケースでは四条通が先に書かれています。となるとこの広報板は四条通にあることになるのです。さらに四条通は東西の通りなので“上る”の選択肢はなく、「東入」か「西入」の二択です。転入届にこの住所を書いたら、受理されません。言わんとすることは、四条通と新町通との交差点をとにかく北へ行くということでしょう。さらに厳格に言えば、新町通を単に“上る”だけではなく、そこから東へと入った名のない通路に設置されているので、「上る東入」となります。もし、仁丹町名表示板がそこにあったのなら、そうなっていたことでしょう。
なぜ、このようになったのか? それは関わった職員みんなが京都の表記ルールを知らなかったからでしょう。実は意外ですが、正確な知識を持ち合わせているのは、住所に関連する仕事を経験した、あるいは中心区の出身で自然と身に付いたという一部の職員さんだけのようです。
以上、カオスな京都の住所表記、所在表記のお話しでした。
あまり目くじらを立てるものではありませんが、転入届で受理できないような表記を役所自らが堂々と使うのはいかがなものかと思います。
~shimo-chan~
https://jintan.kyo2.jp/e581841.html
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トピックニュース
Fri, 23 Jun 2023 19:33:55 +0900
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紫陽花と仁丹
今年も紫陽花の季節となりました。
咲いているとなると、どうしても仁丹町名表示板とのコラボを撮影したくなってくるものです。
紫陽花は地面に咲くので、仁丹が主役だぞと一目瞭然の写真がなかなか撮りづらく、毎年の挑戦が続いています。
例えば、これ。
どこに仁丹があるのか、一部の人にしか分からないでしょう。
お洒落な寺町通にある、お茶の老舗「一保堂」さんです。次の写真の左上にあるのが分かります。
夷川通との交差点です。
したがって、今は中京区だけど「上京區寺町通夷川下ル常盤木町」で、表記のルールも設置ポイントもばっちり、さすが仁丹です。
ここで、もしやと思い、ちょっと調べてみました。
一保堂さんのHPを拝見すると、会社概要での住所は「京都市中京区寺町通二条上ル常盤木町52番地」となっていいます。なるほどと納得です。“下ル”ではなく二条通からの“上ル”を使っておられます。
これぞ京都の都市伝説、商売の縁起を担いで“下ル”ではなく、多少の無理があっても“上ル”を使うというものではないでしょうか。町名と番地さえ合っていれば、夷川下ルでも二条上ルでもどちらでもOKなのです。これが京都の住所の面白いところ、まさに京都の文化でもあります。
もうひとつ紫陽花と仁丹を。
御所の西、烏丸通下立売です。聖アグネス教会の前から北を臨みました。
ここは仁丹が低いところにあるので、もっとアングルを工夫すると仁丹主役の写真が撮れそうです。
そして、この仁丹は、2020年6月に新規に設置された復活バージョンです。
設置ポイントは下立売通烏丸西入なのですが、ご覧のように表記にも設置にも厳格だった昭和初期の琺瑯仁丹のようにはなりませんでした。
この下立売通をもう少し西へ進むと、最近、所在地の表現で話題となった文化庁があります。
~shimo-chan~
https://jintan.kyo2.jp/e581708.html
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仁丹のある風景
Sat, 17 Jun 2023 18:00:07 +0900
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出現する史料 ~他都市編~
引き続き、国立国会図書館デジタルコレクション関連です。
調査対象はあくまでも京都市における仁丹町名表示板なのですが、調べている過程で、他都市の町名表示板のことも検索に掛かることもあります。興味深いものを2,3ご紹介しましょう。
昭和33年 『高田市史』第2巻
高田市史編集委員会 編『高田市史』第2巻,高田市,1958. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3002421 (参照 2023-03-12)
昭和33年に発行された「高田市史」です。このP.176「第三章 恐慌期 第一節 市政」に次のような記述があります。
『実施期日は昭和5年4月1日の年度がわりとし、準備を進めるとともに、新旧対照地図と一覧表(別表)を各戸に配り、また売薬「救命丸」本舗寄贈による町名札と境界札を市内1,500カ所にはりつけた。4月1日には予定通り実施され、102町81区の行政区は、16町49丁となり、48の行政区に改められた。』
あれ?と思いました。救命丸? 酒だったはずなのに・・・
読み進むうちに違和感が次第に大きくなり、早とちりをしていることに気付きました。てっきり奈良県の大和高田市だとばかり思い込んでいたのです。なぜならば、大和高田市には次のような琺瑯製の町名表示板があったからです。
しかし、この資料の「高田市」とは新潟県の「えちごトキめき鉄道」(旧信越本線)の高田駅付近にあった高田市だったのです。現在は、直江津市と合併して「上越市」となっています。
ところで、“売薬「救命丸」本舗寄贈による町名札と境界札を市内1,500カ所にはりつけた”とあります。救命丸を発売する宇津救命丸株式会社の本拠地は栃木県の宇都宮市の近くにあり、創業はなんと慶長2年(1597年)だそうです。町名札を設置したのが昭和5年となると、仁丹が京都市で琺瑯製を設置した後で、伏見市でも設置をしようかという頃なので、この高田市の場合も琺瑯製だったに違いないでしょう。また、仁丹を見習ったのではないでしょうか? そして、「境界札」なるフレーズが出てきました。京都でも四辻と町界に仁丹があります。京都の場合は特に区別はありませんでしたが、高田市の町名札と境界札は同じものなか、それとも別の書式だったのか、大いに気になる所です。
新潟県の高田は古い街並みの残る城下町です。何も知らずに3年前に訪れたことがありました。確かに、雁木や疑洋風建築の残る興味深い町並みでした。1,500枚設置されたのであれば、今も残っていても不思議ではありません。しかも琺瑯製であればなおさらです。改めて訪れる目的ができました。
↓ 雁木
↓ 疑洋風建築
↓ 昭和レトロ感満載の町並み
↓ 映画館「高田世界館」
↓ 「高田世界館」内部
昭和23年 『市民とともに10年』
『市民とともに10年』,大阪市公聴課,1958. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3030482 (参照 2023-03-13)
昭和33年3月に発行された大阪市の冊子です。戦後10年間の市政などがまとめられており、巻末の年表の昭和23年3月に『町名表示板16,000枚の寄贈受理』とあるではないですか。
大阪市にはご存じのように琺瑯製の仁丹町名表示板が存在します。それに違いないとは思うのですが、この資料では仁丹なるフレーズはどこにも出てきません。また、大阪の仁丹にはその下に次のようなプレートが設置されています。当会会員、ゆりかもめさんが発見されました。
昭和23年1月と昭和26年3月と3年以上の開きがあります。これをどのように解釈するか、引き続き探究が必要なようです。
昭和33年 『経営とPR』
福西勝郎 著『経営とPR』,日刊工業新聞社,1958. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3019227 (参照 2023-03-08)
第1部 「経営にPRは最も大切なものである」の項目の中のP.34に次のような記述があります。
『口中清涼剤で有名な仁丹が明治13年当時からやっていたと思われる次のことである。日本の主要な都市に”何町何番地”という同一規格の金属ホーロ引板の町名札が掲げられていた時代がかなり長く続いた。幅13.5センチ、長さ50センチ、色はあい色、文字は白く抜かれ下端部に太いひげをはやし、大礼服を着た男の胸から上の像で表せられている。この古風な画像は、例の”仁丹”の商標で、だから、この町名札は仁丹の宣伝として見られていたのはではなかろうか。仁丹そのものの効能等は少しも謳わず、もっぱら一般人の便宜を図った点で、筆者は日本にも明治時代の初期の頃からこのようにすぐれたしかも典型的なPRが存在していたことに感激を覚えるのである。』
明らかにいくつかの情報がごちゃ混ぜになって、誤った解釈へとミスリードされたようです。先ず”明治13年当時”ですが、仁丹のあの髭の商標が誕生する25年も前になります。森下博氏が5歳の時です。また、琺瑯看板はまだまだ誕生していません。
しかし、非常に気になるのが、“同一規格の金属ホーロ引板、幅13.5センチ、長さ50センチ、色はあい色、文字は白く抜かれ”なる記述です。
今までに確認されている琺瑯製の仁丹町名表示板は次のようなものです。
京都市 幅15センチ、長さ91センチ 白地に黒い文字
伏見市 幅12センチ、長さ60センチ 白地に青い文字
大阪市 幅12センチ、長さ76センチ 白地に黒い文字
奈良市 幅12センチ、長さ60センチ 白地に黒い文字
大津市 幅15センチ、長さ76センチ 白地に黒い文字
八尾市 幅50センチ、長さ20センチ 緑地に白い文字
いずれにも当てはまりません。強いて言えば伏見市と奈良市の大きさが最もそれに近いぐらいです。配色も一致するものはありません。
この記述は仁丹に関しては間違いですが、どこかに13.5センチ×50センチの藍色に白文字の琺瑯製町名表示板が大量にあったことを示唆しているようにも思います。
国立国会図書館デジタルコレクションは今後もさらに充実していく様子です。そして、探索も続いていきます。以上はその中間報告第1弾でした。
~shimo-chan~
https://jintan.kyo2.jp/e580782.html
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基礎研究
Fri, 12 May 2023 10:48:06 +0900
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出現する史料 ~琺瑯編~
続いて琺瑯製仁丹町名表示板についてです。木製の場合と同じく国会図書館デジタルコレクションからです。
琺瑯仁丹全体の96%を占める上京區、下京區表示のものの設置可能期間は昭和2年半ば~昭和3年半ばにかけてと見ています。それも御大礼記念京都大博覧会の始まる9月に間に合うように一気に設置した可能性が濃厚かと考えています。
<参考> 当ブログ 2022/02/18歴彩館の講演会
これらを補強してくれる史料として、以下のようなものが見つかっています。
昭和13年 『京洛観光写真集 大京都便覧 』
江崎浮山 編『大京都便覧 : 京洛観光写真集』,大京都便覧発行所,昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1150199 (参照 2023-03-06)
主に静岡県を中心として活躍した実業家江崎浮山氏による、京都のガイドブックです。国民総動員法が間もなく発せられるので、京都を良く理解しようというような主旨だと序文には書かれています。題字は当時の京都市長、序文は市会議長や商工会議所など、まるで公式ガイドブックのようです。
このP.69に「京洛昭和風景 市内街頭所見」なる記事があり、つぎのように記されています。
『京都は何と云ふも日本一の観光の都で四季を通じて入洛する観光客は大したもの。それがため京都市役所では観光区域を限定し風致を傷けぬことに極力注意をしてゐる。其の一例を挙げれてみるならば電柱広告を絶対禁止し街の美観を保つことに大馬力をかけてゐるが、唯広告のあるは電車内ぐらいで電柱広告の出来ぬ京都の街で一番目に付くは街角の軒下に貼られたホーロー町名標識記位であらう。これは全部仁丹が町名を記入し旅人の道しるべにして居るが是などは美しい愛市観念の発露として観光客の目にも好もしく感ぜられれ一般からも頗る好評を博してゐる。』
いつの状況を記しているのか明記されていませんが、この書籍が発行されたのは昭和13年なので、その直前の状況を表していると捉えるべきでしょう。ここで言う“電車内”とは市電の車内広告のことだと思います。そして、屋外広告が原則禁止された京都市中において唯一目に付くのが“街角の軒下に貼られたホーロー町名標識記”であり、“全部仁丹”だと言っています。すなわち、琺瑯製仁丹町名表示板が街中に設置されていたことが分かります。明治大正期の資料では街角の溢れんばかりの“海軍帽の商標”に対して批判的な声もあるのですが、ここでは観光客にも市民にもすこぶる好評を博していると全面肯定しています。
また、この書籍には協賛スポンサーのように多くの企業が広告を載せていますが、そこに仁丹もありました。
白川女と五重塔をあしらったデザインで、「史蹟の國京都之行楽に仁丹」なるキャッチャコピーです。京都観光にターゲットを絞っているのなら、琺瑯製の美しい町名表示板を辻々に設置したから安心せよ、とアピールもして欲しいところです。堂々と自慢してもよいと思うのですが、今のところそのような史料に出会えていません。この頃の仁丹の種類には赤大粒、赤小粒、ローズ、銀粒、麝香の5種類があり、全国の薬店、売店、煙草店、各駅とあります。
また、金言ではないものの「昭和の常識」として「旅行に郵貯の通帳持ち行き先方の局で貯金せば、貯金と記念印が同時に出来、好趣味」と、仁丹ケースと同様、コレクターの心をくすぐるようなことが紹介されています。いわゆる旅行貯金、一円貯金のことですね。
昭和6年 『実際広告の拵へ方と仕方』
内田誠, 片岡重夫 著『実際広告の拵へ方と仕方』,春陽堂,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1177015 (参照 2023-03-13)
これは様々な広告手法に関する、実務者向けのノウハウ本のようです。そのP.109、看板の章の屋外看板のうち辻貼看板なるものが紹介されていました。
『琺瑯製、又は鉄板ペンキ塗の小型看板を、街路の要所々々や四辻、家屋の羽目板等へ貼付するのだが、単に商品名や商店名を書いたものより、公益的文句例えば金言を加え、町名や通りの名を標示してある如きもの、或いは「左側通行」と書いたもの、「往来安全」の電燈を一燈奮発して、それに宣伝の文字を併用すること等が一層効果的である。』
とあります。
どこにも“京都”や“仁丹”なる語句は出てきませんが、街路の要所要所、四辻、家屋、町名、通り名といえば、これはもう京都の琺瑯仁丹を念頭に書いているとしか思えません。金言については仁丹の電柱広告のことでしょうが。昭和6年発行の書籍ですから、それまでには京都の琺瑯仁丹が存在していたことがうかがえます。
さらに、『添付の場所、数等はそれぞれ其広告の性質から考慮して決定すべきである。警察署への届出と、打付ける場所の権利者、家屋の所有者へ諒解を求め場合によりては多少の御礼をすることを忘れてはならぬ、』と続きます。
「ホーローの旅」(2002年8月10日発行、著者泉麻人/町田忍)には、戦後の話ではあるものの金鳥の琺瑯看板の設置に際して、お礼に金鳥蚊取線香2箱を進呈していたという聞き取り調査が紹介されています。しかし、昭和初期の京都の琺瑯仁丹ではどうだったのでしょうか? 設置場所はピンポイントで限定されています。了承を得られなくても、そこに貼らせてもらわなければ困ります。いちいち承諾を得ながら設置したのだろうか? 御大典があるからとか警察のお墨付きをもらっているからとか一方的に設置したのだろうか? またお礼に仁丹を配ったのだろうか? 住民の気持ちはどうだったのだろうか? ピカピカと輝く琺瑯看板はむしろ歓迎されたのだろうか? 色々と想像を巡らせてしまいます。
昭和5年 『京都市大礼奉祝誌』
京都市 [編]『京都市大礼奉祝誌』,京都市,1930. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1905139 (参照 2023-03-13)
昭和3年11月に行われた昭和の御大典について、京都市役所がまとめて昭和5年2月11日(紀元節、仁丹発売の日)に発行したものです。先の3つの史料は文字としての情報でしたが、こちらは写真による情報です。写真だけの頁には頁数がないのですが、P.556の後に何枚もの写真頁があり、その中の1枚が次のものです。
キャプションには「逓信省臨時出張所(京都中央電話局)」とあります。そして、右側の門柱のすぐ右側に、おや?と反応してしまう縦長の白い物体が写っています。まるで何度も見てきた琺瑯仁丹みたいです。でも、商標がありません。
しかし、拡大して目を凝らしてよく見ると、上にお馴染みの飾り罫線があり、その下に右横書きで「區京上」、さらに「東洞院通三條上ル」、そして数文字の町名が書かれていますが、そこまではこの解像度では判読できません。これはまさに琺瑯の仁丹町名表示板! おそらく上端の仁丹の商標は大礼奉祝誌としては不適切とばかりに印刷原稿から消されたものと考えます。当時の地図によれば、京都中央電話局は東洞院通三条上るの西側にあり、町名は曇華院前町にありました。そう思って改めて写真を凝視すると曇華院前町と読み取れそうです。字数も合います。すなわち写真に写っているのは「上京區東洞院通三條上ル曇華院前町」の琺瑯仁丹に間違いないようです。そして、そこは中京区の初音学区。中京区では城巽、龍池、初音の隣り合う3つの学区のみ、商標が上端にあることからも納得です。
撮影場所は、現在の中京郵便局の東洞院通を挟んだ西側の少し北、すなわちNTT西日本京都支店の敷地になります。次の写真の矢印辺りです。
昭和6年 『大礼奉祝會記要』
『大礼奉祝会記要』,大礼奉祝会,1931.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1885589 (参照 2023-02-04)
先の「京都市大礼奉祝誌」は京都市が発行したものですが、これは当時の京都市長土岐嘉平が会長を務め、京都の政財界で構成された京都市大礼奉祝会がまとめたものです。発行は昭和6年1月15日、所在地は京都市役所内となっており、公的資料と言ってもよいでしょう。
これもまた写真の頁には頁数がないのですが、P98と99の間にある何枚かの写真のうちの1枚がこれです。
キャプションは「大国旗掲揚(中京方面)」とあり、大きな日章旗が掲げられ奉祝の人々も大勢写っていることから、天皇が御所に到着される前後かと思います。そして、左の家屋の2階に大礼服を着た髭のおじさまが紛れもなく写っているのです。小さく写っているだけなので、前回の例のように消されることなく、そのまま印刷されたのでしょう。
では、この場所はどこなのか? 解像度の悪い写真を拡大したところで、改善はしないのですが、“中京方面”とは中京区に向かって撮ったということでしょう。全体から受ける印象は何となく御所から南を撮った? だとすると丸太町通? そのように読めそうです。続くは字数から”堺町東入”か?
現地を訪れてみました。そして、やはりここでした。堺町御門です。
堺町御門から南を、すなわち中京方面を撮るとこうなります。
まさか当時の光景が今なお残っているとは思いませんでした。琺瑯仁丹が設置されていた家屋も、さらに右側に写っていた木造3階建ての家屋も残っていました。2009年10月のストリートビューを見ると分り易いです。
したがって、この写真に写り込んでいる琺瑯仁丹は「上京區丸太町通堺町東入鍵屋町」に違いありません。字数や面影も一致します。また、富有学区なので商標は下端、セオリーにも矛盾しません。それにしても、堺町御門の目の前によくぞ掲げられたものだと驚きます。
以上のことから、まだ”昭和3年9月の大礼記念京都大博覧会までに設置された”という仮説までにはまだ2カ月ほど届きませんが、少なくとも御大典までには設置されていたことは補強されました。
~shimo-chan~
https://jintan.kyo2.jp/e580318.html
https://jintan.kyo2.jp/e580318.html
基礎講座,設置時期
Thu, 27 Apr 2023 10:57:34 +0900
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出現する史料 ~木製編~
このところ、「国立国会図書館デジタルコレクション」が順次拡充し、家に居ながらにして、仁丹町名表示板に関連する発見が増えてきています。設置時期やその背景をズバリと明言するような史料にはまだ出会えていませんが、今までの私たちの仮説を補強してくれています。それらをご紹介しましょう。
先ずは木製の仁丹町名表示板についてです。
木製については様々な状況証拠から明治末期から大正の御大典までに設置されたと見ています。すなわち、少なくとも明治45年~大正3年にかけてが極めて濃厚かと考えています。(御大典は大正4年でしたが、これは急遽1年延期されてのことでした)
<参考> 当ブログ 2022/02/18歴彩館の講演会
大正2年 『実業界』7(6)
『実業界』7(6),早稲田同文館,1913-12. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1564719 (参照 2023-03-12)
大正2年12月に発行されたこの書籍の「旅客の眼に映じた経営振りの数々」という記事です。筆者が同年8月に関西を漫遊した際に印象に残った広告をいくつか報告しており、その中に次のような記述があります。
『京都南禅寺辺を遊覧せる時、仁丹と大書せる下にX町名を記した標札を各辻々に打ち付けおけるを見た。町名標出は其名義好し。単に薬名のみを掲記して広告するよりは、親切気に見えて好いと思うた。』
今とは違う当時の言い回しですが、琺瑯看板の普及前ですから木製仁丹のことを言っているはずです。“仁丹と大書”を仁丹なる商品名と解釈しているようですが、これは商標のことでしょう。そして“下にX町名を記した”のXは様々な町名という変数のつもりなのでしょう。そのようなものが“各辻々に打ち付け”られていたことから、大正2年8月当時、すでに街中の至るところに木製仁丹が設置されていたことをうかがわせます。さらに町名札というのは大義名分で有り、公益性を持たせた広告であると捉えています。
大正3年 実業界 7月号
『実業界』9(1),早稲田同文館,1914-07. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1564725 (参照 2023-03-08)
同じく「実業界」ですが、大正3年7月発行のものです。P.52「他人の新趣向」なる記事に次のような記述がありました。
『大阪の某大薬店では、京都の市街中四辻には必ず町名札を掲げ、其上に自店発売の薬品を一つ記している。四辻に町名が記してあることは不案内者にとつては非常に便利であるから、其売薬の印象は特に深ひであらう。同じ広告にしては此等は寔に好い思付である。』
どこにも“仁丹”とは言っていませんが、“大阪の某大薬店”、“町名札を掲げ、其上に自店発売の薬品を一つ記して”も前述のケースと同様に仁丹の商標を商品名と捉えているようです。木製仁丹は商標がすべて上端にあるので、木製仁丹を見ての記述に違いないでしょう。“京都の市街中四辻には必ず”という表現からは、碁盤の目のような東西南北の通りが交わる所にはほぼ必ず設置されていたことをうかがわせます。もしかしたら、一つの角に2枚あれば“8枚が辻”もあり得たかもしれません。ここでも“不案内者にとっては非常に便利であるから、其売薬の印象は特に深ひであらう”と好意的に受け止められており、広告益世が体現されているようです。そして、良いアイデアだとも言っています。
大正4年 逓信協会雑誌 7月号(85)
『逓信協会雑誌』7月(85),逓信協会,1915-07. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2776387 (参照 2023-03-08)
これは大正4年7月発行の「逓信協会雑誌」です。現在の公益財団法人通信文化協会の前身である財団法人逓信協会が発行していた業界誌のようです。そのP.60に「漫録 御大礼前の京都」なる記事がありました。大正の御大典は大正4年11月なのでまさにその直前の京都の様子が次のように記されています。
『京都にては何故か、散水が尠いので道路は極めて塵埃つぽい。處々の櫓下には東京の専用栓の如き水道栓が設けられて居る、是れが散水用の水道と思はれる。仁丹の広告を兼用した町名札と共に、お上りさんの目に附き易い。』
東京から京都へやって来た人が、見慣れた東京の街との比較を色々と記している記事です。当時はまだ道路が舗装されていなかったので埃がひどく、散水用の水道栓が“仁丹の広告を兼用した町名札と共に、お上りさんの目に附き易い”と仁丹町名表示板のように水道栓が多いと表現しています。逆に散水用の水道栓がそんなにあったのかと驚くのですが。また、入洛者のことを“お上りさん”と表現していますが、これは当時の新聞などでも見かける表現で、当時としてはポピュラーな語句だったようです。ちなみに、昭和の御大典に際しては烏丸通など鹵簿の通る行幸路は舗装が命じられます。
大正4年 逓信協会雑誌 12月号(90) 御大禮記念号
『逓信協会雑誌』12月御大禮記念(90),逓信協会,1915-12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2776392 (参照 2023-03-08)
同じく『逓信協会雑誌』ですが、大正4年12月、まさに大正の御大典直後に発行された「御大禮記念号」です。このP.108平安日記には、街の景観に関連させて木製仁丹のことが次のように語られています。
『旅客相手の都市は、先以て旅客に交通上の智識を普及せしむることが肝要也。京都市は此點に於て用意周到という能はざるものあるを思はしむるもの多し。広告と謂はばそれ迄なれど「仁丹」の広告入り町名札が、京の町々の凡てに、衆目に觸るる様掲出せられたるは、旅客に取りて非常なる便宜なりき。一些事と雖当局者の一考に値するものなくんばあらず。』
これまた今となっては難しい言い回しですが、要するに「観光都市は事前に道案内などの設備をしておくことが大切だ。京都市はこの点、あまりなされていない。広告と言ってしまえばそれまでだが、仁丹の広告入り町名札が街の至る所に設置されているのは入洛者にとっては非常に便利だ。些細なことだが京都市も参考にするべきではないのか。」と言ったところでしょうか。これも時期的に木製仁丹でしかあり得ないのですが、仁丹町名表示板が観光都市にあるべきインフラの一種として捉えられている点が興味深いところです。
国立国会図書館デジタルコレクションは今後も充実していくようですから、これからもまだ新たな史料が登場することが期待できますが、現時点では以上のような史料により、木製仁丹の設置時期が少なくとも明治45年~大正3年にかけてが濃厚という推論を補強してくれています。
~shimo-chan~
https://jintan.kyo2.jp/e579954.html
https://jintan.kyo2.jp/e579954.html
基礎講座,設置時期
Sun, 16 Apr 2023 11:47:51 +0900