2011年07月25日
「森下仁丹株式会社」とは
とにかく明治26年創業の老舗です。歴史と興味深い話題がいっぱい詰まった会社です。
ここで書き切れるものでもなく、当ブログのメインテーマでもありませんので、
詳しくは森下仁丹のサイト 「森下仁丹歴史博物館」 や様々な文献をご参照いただくとして、
ここではほんのさわりだけ。
創業者は1869年(明治2年)生れの森下博。
15歳のとき、広島県からたった15銭を持って3日間歩き続けて大阪へきたそうです。
そして、心斎橋の舶来小間物問屋で丁稚奉公をし、明治26年2月11日に世の中の役に立つ仕事をと「森下南陽堂」なる薬種業を創業したのが森下仁丹株式会社の始まりです。
明治38年には「仁丹」を発売、史上空前の売り上げを達成、日本どころか中国大陸、東アジア、アフリカ、ブラジルにまで営業範囲が及んだと言うことです。
このような時期に誕生したのが現在も使われている大礼服にヒゲのおじさんの商標です。
ドイツのビスマルク博士だとか軍人だとか諸説ありますが、創業者の森下博曰く「薬の外交官」なのだそうです。
大礼服は当時の最高の正装なので、営業も礼儀正しくといったところでしょうか。
ちなみに、まるで間違い探しのようですが、時代と共に少しずつ姿形が変化していきます。
詳細は同社のサイト「森下仁丹歴史博物館」仁丹商標にあります。
そして、本社社屋には最新バージョンが掲げられています。
↓
森下博は類い稀なアイデアマンであり、また広告王との異名を持つほどで、今考えられるありとあらゆる手法の販売方法や広告はすでにほとんど実施していると言ってもよいほどです。
しかし、ここが偉いところです。
単に会社が儲かりさえすれば良いというのではなく、商品にしても広告にしても常に“世の中の役に立つ”ものでなくてはならないという強い信念があったのです。
このあたり、近江商人の“三方良し”を連想します。
広告を兼ねた町名表示板も、この“世の中の役に立つ”ものという『広告益世』なる理念の現れのひとつに過ぎませんでした。
おかげで今も京都では大いに役立っているというわけです。
同社は今も大阪にあり、その所在は銀粒製造にふさわしく”玉造”です。独自技術のシームレスカプセルを活用したレアメタル回収など、今後の新たな展開も期待されています。
ちなみに、本社玄関横には、なんと仁丹町名表示板が!
この度の復活プロジェクトで製作されたものでしょう。
本家本元、こうでなくっちゃ。
仁丹町名表示板 「基礎講座」 index ~日々記事更新してゆきます~
◆序、 仁丹町名表示板「基礎講座」 開講にあたって
◆一、 予備知識
①「仁丹町名表示板」とは
②そもそも「仁丹」とは
③「森下仁丹株式会社」とは
◆二、 実例
①京都市以外の仁丹町名表示板
②仁丹町名表示板 大津市の場合
③仁丹町名表示板 大阪市の場合
④仁丹町名表示板 奈良市の場合
⑤仁丹町名表示板 伏見市の場合
⑥仁丹町名表示板 実例のまとめ
以下、続々連載中
Posted by 京都仁丹樂會 at 20:49│Comments(2)
│予備知識
この記事へのコメント
平成の復活仁丹町名表示板が、森下仁丹本社に設置されていたとは、知りませんでしたね。
できるならば、中央区は横書きにして欲しかったです。
京都的に住所を書くなら、『玉造筋長堀上ル00丁目』とか、書けるかもしれません。
大阪の町も、元々、一本一本通り名が付いていた様に思います。
南北の通りを”○○筋”、東西の通りを”○○通”。
できるならば、中央区は横書きにして欲しかったです。
京都的に住所を書くなら、『玉造筋長堀上ル00丁目』とか、書けるかもしれません。
大阪の町も、元々、一本一本通り名が付いていた様に思います。
南北の通りを”○○筋”、東西の通りを”○○通”。
Posted by ずんずん at 2011年07月27日 21:49
>森下博は類い稀なアイデアマンであり、また広告王との異名を持つほど・・・
今年の2月、大阪の大阪企業家ミュージアムにて開催された特別展示「広告王 森下博」を見に行きました。
もしかしたら、町名表示板に関する新たな手がかりがあるのではと期待して。
でも、残念ながらそれはありませんでした。
ただ、町名表示板への見方が少し変わりました。
さすがは広告王と言われるだけあり、本当にありとあらゆる手法を今までに考案されてきたことに非常に驚き、今から見ても実に斬新で、もうアイデアは出尽くしたんじゃないかと思わせるほどです。某有名広告代理店の方々も勉強をしに来られるほどとのことでした。
そこで、私達が夢中になっている京都の町名表示板、なぜ詳しい記録が残っていないのか?
もちろん空襲という原因は大きいでしょうが、特別展を見ていて感じたことは、町名表示板はそんな無数の広告手法のうちの単なるひとつに過ぎなかったのではという事です。
公文書でも保管年限が来たら廃棄されるのに、民間会社が広告のすべてにおいてきっちりと記録し、後世のために永久に保存するということは考え難いですよね。
と言うことで、私たちは私たちなりの手法で調べなくてはと思いを新たにしました。
今年の2月、大阪の大阪企業家ミュージアムにて開催された特別展示「広告王 森下博」を見に行きました。
もしかしたら、町名表示板に関する新たな手がかりがあるのではと期待して。
でも、残念ながらそれはありませんでした。
ただ、町名表示板への見方が少し変わりました。
さすがは広告王と言われるだけあり、本当にありとあらゆる手法を今までに考案されてきたことに非常に驚き、今から見ても実に斬新で、もうアイデアは出尽くしたんじゃないかと思わせるほどです。某有名広告代理店の方々も勉強をしに来られるほどとのことでした。
そこで、私達が夢中になっている京都の町名表示板、なぜ詳しい記録が残っていないのか?
もちろん空襲という原因は大きいでしょうが、特別展を見ていて感じたことは、町名表示板はそんな無数の広告手法のうちの単なるひとつに過ぎなかったのではという事です。
公文書でも保管年限が来たら廃棄されるのに、民間会社が広告のすべてにおいてきっちりと記録し、後世のために永久に保存するということは考え難いですよね。
と言うことで、私たちは私たちなりの手法で調べなくてはと思いを新たにしました。
Posted by shimo-chan at 2011年09月03日 19:04