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2012年01月29日

仁丹町名表示板 基礎講座・第五章 ~行政区域の変遷~

仁丹町名表示板 基礎講座・第五章 ~行政区域の変遷~

第五章 「仁丹町名表示板」の設置範囲

<3> 京都市・行政区域の変遷

 前項で仁丹町名表示板の設置範囲や分布状況を述べてきました。それらを検証する場合、様々なヒントや気付きを与えてくれるのが、京都市の行政区域の変遷です。その変遷の歴史を年表にしてまとめてみました。京都市が合併・分区を繰り返して拡大して行く姿がよく分かります。

  ★年表上でクリック→拡大
仁丹町名表示板 基礎講座・第五章 ~行政区域の変遷~



下に書き連ねているのは、中心三区を取り囲む、現在の京都市の地名です。

★市内北東角から反時計回りに

 上高野…松ヶ崎…下鴨…上賀茂…小山…紫竹…紫野…衣笠…平野…
 …大将軍…花園…太秦…嵯峨野…西ノ京…聚楽廻…壬生…中堂寺…
 …西七條…七條御所ノ内…梅小路…朱雀…八條…西九條…東九條…
 …一橋…本町○○丁目…今熊野 ~ 南禅寺…岡崎…鹿ヶ谷…聖護院…
 …吉田…浄土寺…田中…高野…山端…一乗寺…修学院


 その各エリアで、仁丹町名表示板の現存確認が取れています。その中で特徴的なのが、「花園・太秦・嵯峨野」と「本町○○丁目」です。他の地区は旧京都市街を取り囲んで円陣を組んだような形を取っているのに対して、その円陣から突き出した形に4地区が位置しています。つまり、「花園・太秦・嵯峨野」の3地区は、妙心寺道・太子道・三条街道沿いに町並みが伸び、それに沿って仁丹町名表示板が設置されていったのでしょう。また「本町通」も京都と伏見を結ぶ本町通(直違橋通)の町並みに仁丹町名表示板が設置されていったと思われます。

 ところで、現在の地名で見ると、中心区に比較的近隣でありながら、空白の部分がいくつか存在していることが分かってきます。
 例えば、西院・山ノ内・西京極・唐橋・北白川です。それらエリアにも仁丹町名表示板が点在し、そのいくつかが確認できてもおかしくありません。しかし、現在は未確認地区となっています。ただ、西院以西の地区には面の形で未確認エリアが広がっていることを考えると、当初から未設置地区であった可能性も考えられます。
 それに対して北白川地区は、周りを設置地区に取り囲まれていながら、現在一枚も現存確認ができていません。本来、志賀街道沿いなどに設置されていたのではないかと考えられます。

 余談ですが、「西院」の仁丹町名表示板が存在するぞ!と、ニヤニヤしながら反論する方もいらっしゃるのではないでしょうか。
ということで、おまけ画像を一枚ご紹介しておきます。
確かに、”西院”ですね。チャンチャン♪

 仁丹町名表示板 基礎講座・第五章 ~行政区域の変遷~



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Posted by 京都仁丹樂會 at 15:05│Comments(4)設置範囲
この記事へのコメント
『第五章 「仁丹町名表示板」の設置範囲  〈3〉京都市行政区域の変遷』を大変興味深く拝見しました。
たまたま伏見のあれこれを調べていたこともあって、その絡みで一つだけ(なんとも細かい)感想を述べさせていただきます。
早とちりで読み間違っていることを恐れますが、もしそうなら「ご免なさい」。

明治12年に上京区・下京区・伏見区の三つの行政区が成立したように記載されてい(るように見え)ます。
そこで、小生も改めて京都市の行政区変遷について資料にあたってみました。

その結果、郡区町村編成法により成立したのは上京区・下京区の二区のみ。したがって、「伏見区」の場合は少し意味合いが異なると思います。

京都府に「上京区」・「下京区」が設置され、これは行政区として成立しています。
これに対し、《伏水》には「伏見区役所」を設置しています。これは伏見地域全体の行政的上の管轄を一本化して取り扱う役所を設置したのであって、行政区として成立したのではないと思います。

その後の流れは、その通りだと思います。
明治14年→ 紀伊郡役所が設置される
明治22年→ 市町村制実施で紀伊郡伏見町が成立する(この時、周辺でも大規模な町村合併がなされる)
昭和4年→  市制施行で伏見市が成立(紀伊郡から離脱する)
昭和6年→  伏見市、紀伊郡1町6村、宇治郡醍醐村が合併のうえ、京都市に編入して伏見区となる
Posted by 酒瓮斎 at 2012年02月05日 16:40
酒瓮斎さん、コメントありがとうございます。
京都仁丹樂會・第五章担当のTと申します。実は、私、恥ずかしながら、今回の記事を書くまでは、京都に市制が施行されて上京区・下京区が設置されたものと思っていました。今回、その以前からあったことを知り、認識を新たにしたところです。
それから、市制以前の区は、厳密にいうと行政区域ではありましたが、今で言うところの行政区ではなかった様ですね。年表も、最初は市制が施行されて以降のものにしようとしていましたが、それ以前から区が存在していることがわかり、欲張って、明治元年まで遡ってしまいました。
そこで、明治12年の伏見区の設置も知ったわけです。もちろん、昭和6年の京都市伏見区ではないのですが、伏見区が存在していたことに驚きを感じるとともに、やはり、伏見は、歴史的に京都とはまた別の地域を構成している独立した都市なんだと、痛感した次第です。

 ところで、「郡区町村編成法」という新法により、都市部に設けられた地方区分として、上京区・下京区、そして伏見区を設けられた様なのですが、実際はどういったニュアンスだったんでしょうか。どう思われます?実は、酒瓮斎さんにコメントを頂いてから、様々に疑問が湧いてきているのです。
 「郡区町村編成法」をウィキってみたところでは、三府・五港・人口密集地には、郡から分けて”区”を設置し、広域な人口密集地には複数の区を置いたとありました。ウィキペディアも間違ってることが間々あるので、ちゃんと史料で裏を取らなければいけないと思うのですが、「郡から分けて”区”を設置した」ということは、住所を書いたとして、京都府上京区・下京区だと思うのですが、伏見の場合は、京都府伏見区?、京都府紀伊郡伏見区?、どうだったんでしょうか。すごく違和感はありますね。僅か2年足らずで廃止されたので、そう思うのかとも考えますが。

酒瓮斎さんが言っていただいているのは、そういったところなのかな、と思っているのですが。

さらに、ウィキペディアでは、以下の様に続きます。
1879年(明治12年)1月1日の時点で本籍人口が多かった三都(東京・大阪・京都)に、それぞれ東京15区・大阪4区・京都2区が設置され、その他、五港と人口密集地には、その都市毎に1区が設置されていったとありました。具体的には、名古屋区・金沢区・広島区・和歌山区・横浜区・仙台区・堺区・福岡区・熊本区・神戸区・新潟区・岡山区・長崎区・函館区・伏見区・赤間関区・札幌区が設置され、伏見区のみ1881年(明治14年)1月10日に廃止され、その他は、後の市制施行により市へ移行した。

先にも書きましたが、私は、伏見の人たちの、「伏見は京都の一部とは違うんだ。伏見は伏見だ。」という郷土愛の様なこだわりを、強く感じることができました。僅か2年で消えた、明治12年の伏見区といい、やはり僅か2年で消えた、昭和4年の伏見市といい、常にその意識の現われが見えるのです。平成の現在、また再び、伏見市論を風の噂で聞きますが、100年の時を隔てて、伏見の人たちの悲願が成就する日が近いのかもしれませんね。

また是非、コメントをいただければ幸いです。
Posted by 京都仁丹樂會京都仁丹樂會 at 2012年02月06日 03:26
追伸
伏見の住所についての疑問がもう一点ありました。
明治14年の伏見区廃止から明治22年の伏見町発足までの8年間は、どうだったんでしょうか。もし何か情報や見解をお持ちでしたら、コメント頂けますでしょうか。
Posted by 京都仁丹樂會京都仁丹樂會 at 2012年02月06日 03:34
伏見区の成立について
縷々ご説明をいただき有り難うございました。
ところが、この件に関わって、小生が所持し一応信頼のおける主な資料は、『角川日本地名大辞典26 京都府下巻』と『日本歴史地名大系27 京都市の地名』平凡社の二点だけと乏しく、言われることがどうもまだ釈然としないのです。
Wikipedia はいろいろ検索して見てみましたが、執筆者も不明なため信頼性という点でどうも・・・。
これきりにしますのでもう一度だけお考え(解釈)をお伺いします。
お忙しいこととは思いますが、宜しくお願いしたします。

担当者Tさんは、「明治12年の伏見区の設置も知ったわけです。もちろん、昭和6年の京都市伏見区ではないのですが、伏見区が存在していたことに驚きを感じる・・・」と書かれています。

私が釈然とせず俄には理解できないのは、次の点にあるのです。
明治12年・・・郡区町村編成法実施により、(京都府)上京区・下京区が誕生する。(伏見区の成立は明示されていない)
このとき、「伏水」には「伏見区役所」が設置されるものの、その僅か2年後の明治14年には伏見町として「紀伊郡役所」のもとにおかれてしまいます。
因に、紀伊郡役所というのも、やはり明治12年に郡区町村編成法に基づき、板橋二丁目に設置されています。

私の考えは次のようなものです。
伏水が伏見「区」としての体裁と実態を伴うに至らず、まっとうに成立しなかった。その故に、僅かの期間で紀伊郡役所の下に移されてしまった。
一旦、成立したと云えば成立したのかもしれないが、ポシャってしまったのではないかというものです。
小生はその辺りを指して、上京区・下京区の場合とは「少し意味合いが異なる」のではないかと書かせてもらったのです。

ところで、確かに仰るように伏見の人々は他とは異なり、プライド・郷土愛は深く強いようです。(私宅の山の神は伏見出でその兄弟姉妹は今も伏見の現住民です)
まあ、何と云っても太閤さんの城下町でしたから、自慢しても構わないでしょう。(笑)
Posted by 酒瓮斎 at 2012年02月07日 15:40
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