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2012年07月14日

永遠のテーマ 設置方法

~当記事は6月30日にアップした同名記事をリニューアルのうえ、再アップしたものです~

永遠のテーマ 設置方法


記録らしい記録が全くと言ってよいほど残っていない、謎だらけの仁丹町名表示板。
基礎講座シリーズでは、それを「現状」と様々な「資料」から解き明かそうと試みました。そして、ある程度の結果が得られたのではないかと思います。

しかし、そのような手法ではどうしても解決できないであろう、迷宮入り確実ではないかというテーマもいくつかあります。もうみんなで寄って集って想像するしかない、そんな「永遠のテーマ」をいよいよ扱って行きたいと思います。

先ずその第一弾は、 「設置方法」 です。

京都に設置された琺瑯仁丹は、数千、もしかしたら万にも達するかというような膨大な量です。
しかも、住所表記は詳細で、柱のどの面に付けるかも決まってしまうほどの繊細さです。
これらを大阪の森下仁丹はどのように設置していったのでしょうか?その手法、ノウハウを想像を巡らせて考えていきましょう。
*        *        *

もし、今、同じようなことをするなら、次のような手順を踏むのではないでしょうか?

先ず、行政上の手続きが必要かどうかを調べ、必要であれば行う。
そして、設置するべきポイントを選定する。
一方的に選定しても、協力が得られなければ設置できないので、事前に家屋の所有者に承諾を取る。また、住所の表示がこれでよいのかという確認もする。通り名を使うエリアにおいては、設置場所が限定されるので、特に承諾と表示のチェックが大切でしょう。
以上が整って初めてGOサインが出たことになり、いよいよ表示板を発注して制作する。
完成したら現地へ持っていき、取り付ける。

今回の平成の復活バージョンでは、先ず設置希望の町内会を募集し、そして選定。住所表示をチェックしてから制作、そして完成品が宅急便で現地へ送られ、設置も現地でお任せといった手順でした。

しかし、昭和の初期という環境において、大阪にある森下仁丹が果たしてこのような手間のかかることを行ったでしょうか?
*        *        *

この永遠の謎に対し、昨年6月、「京都仁丹樂會について」のコーナーで、ずんずんさんと酒瓮斎さんによる、非常に興味深いやりとりがありましたので、この場で改めて紹介させていただきます。

2011年06月15日、ずんずんさんが次のような仮説をコメントとして披露してくださいました。これを「リヤカー説」と名付けたいと思います

【リヤカー説】
無地の琺瑯仁丹をリヤカーに積んで市内を巡り歩きながら、現場で住所を書いて、すぐに設置していった。


その根拠はこうです。

(1) 仁丹の住所表記と、設置場所の関係が、非常に繊細であること。
大量かつ繊細な住所表記のものを看板工場ですべて完成させてから出荷していたのでは、設置場所へ正しく運び届けるだけでも相当な苦労であり、まして、事前に工場に対してそれだけの施工指示書を作らなくてはならない。

(2) 京都の仁丹町名表示板だけ、住所の文字が釉薬による琺瑯でないこと。
伏見市・大津・奈良・大阪の住所表記の部分は琺瑯処理されているが、京都はされていない。それは、他都市の住所が至って簡単であり、例えば一町に3枚設置と決めてしまえば、工場で同じものを3枚ずつ製作し、琺瑯処理を施してから出荷することができた。

永遠のテーマ 設置方法

いかがでしょう、このリヤカー説。
最初は正直なところ、なんと無計画で非効率的なという印象を持ちましたが、よくよく考えてみれば、京都の場合はむしろこの方法こそ極めて現実的かつ効率的だと考えるに至りました。
今日はここ、明日はこのエリアと計画して、練り歩くわけです。私たちも似たような方法で余暇を利用して仁丹探しをしたことを思えば、毎日毎日仕事として練り歩けばできるではないかと。

これに対する酒瓮斎さんの2011年06月16日のコメントは、このリヤカー説をさらに鮮明に浮き出させてくださったと思いますので、次にご紹介します。
『出向いた現場で無地の琺瑯表示板に住所表記の部分を書き入れ、その場で次々に設置していった。そのため、文字部分の琺瑯化を省略した。(せざるを得なかった?)そのように柔軟な作製・設置方法をとったことにより、個別の設置地点と表記がピッタリとそぐうものとなり、また、膨大な枚数の作製と設置を可能とした。私は、文字部分が流れてしまって殆ど消えているものや薄くなっているものを何枚も見て、琺瑯にしては粗悪な造りだなあと思っていました。しかし、琺瑯処理は下地だけで文字は素ということならば、年寄りの厚化粧のようになってしまうのも、宣なるかな-当然そうなりますよね。設置にあたっては、前もってその地域(町内会など)にきちっと申し入れて、許可を得ると云うようなことは無く、出向いた先の家々で個別に依頼し了解をとった。また、頼まれる方も別に固いことは云わなかったのかも。仁丹町名表示板の設置時期は、大正ロマンー古き良き時代の雰囲気を幾分かを残しながらも、時代の不安を覚えさせるような昭和初期ですね。そのような時代、おっしゃるような遣り方で進められたとすると、頼む方と頼まれる方の関係と云ったものに、なにかこう、ほのぼのとしたものを感じます。何か特別な感慨と云うか情緒を催す説のため、直ちには、瑕や欠点を探す気がしません。』

永遠のテーマ 設置方法

リヤカー説には、もう少し補強説明をさせていただきたいのですが、長くなりましたので、次回にコメントとしてご紹介します。

~つづく~



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Posted by 京都仁丹樂會 at 20:57│Comments(14)永遠のテーマ
この記事へのコメント
『京都のまちを行くある1台のリヤカー。その荷台には何枚もの白紙の琺瑯仁丹が積まれ、筆・墨・トンカチ・釘などの入った工具箱や梯子も載せられている。リヤカーの周りには仁丹の法被を着た2,3人のスタッフが同伴。そのうちの1人が地図と現状をにらめっこしながら、ここぞというお家に飛び込み、町名表示板の設置を依頼する。協力が得られたら、お礼として手拭いや仁丹を手渡し、そしてリヤカーからおもむろに取り出した一枚の白紙の琺瑯仁丹に、書き手スタッフがその場で適切な住所表示を書く。書き終わったら、すぐさま梯子をかけて、釘とトンカチで取り付ける。一連の作業が終われば、また次の場所を求めてリヤカー部隊は進む。』

いかがでしょう? リヤカー説を”絵”にしたらこのようになるのではないでしょうか。
もちろん、全くの空想です。でも、このような光景を示唆するものはいくつかあるのです。


<示唆 その1>
「基礎講座 六.設置時期 ⑥木製仁丹の終期」でもご紹介しました森下仁丹80年史に記載されていた次のような内容です。
★全従業員は宣伝員であるという一貫した考え方で、彼らは全国の薬店をくまなく訪問して回った。かくて突出し看板は、数年のうちに全国津々浦々の薬店にゆきわたった。
★屋外看板の取り付けは、業者まかせではなく、すべて従業員が自分たちの手で実施するものであった。
★明治40年に開設された東京倉庫の仕事のほとんどは宣伝広告の仕事であり、特に看板の取り付けという業務であった。
~「森下仁丹80年史」より抜粋~

これらのことから、あれだけの量をこなすには京都にも“京都倉庫”みたいなものがあったのではないかと想像しました。でも、社史などには何も触れられていません。そこで、府立資料館で当時の電話帳の中を探索してみました。
明治45年、大正15年、昭和5年、昭和7年の各号で、「森下仁丹」や「仁丹」で探してみたのですが、あいにく手掛かりは全くありませんでした。職業別も見ましたが、手掛かりなしです。と言うことは、何もなかったのか? 大阪からトラックで通ったのか? 昭和初期の状況を考えれば、トラックよりもリヤカーであり、旅館での長期滞在だとか何か基地めいたものを準備して、社員が直接設置していったのではないでしょうか。

<示唆 その2>
琺瑯看板設置の実務について、泉麻人さん・町田忍さんの共著『ホーローの旅』(2002年幻冬舎)にいくつか紹介されています。
★大塚グループの看板部隊の話の中で、
ホーロー看板を張り歩いていた人たちのことを看板部隊と呼んでいた
編成を組んでローラー作戦を展開するようになった
一泊二日で何チームかに分かれて、夜は旅館に泊まって飲んで騒ぐのが楽しかった
大塚のマークをあしらった作業衣姿で各地へと繰り出していった
トンカチやクギに加えて脚立が七つ道具のひとつだった
協力してくれた店や家にはお礼としてオロナミンCやボンカレーを数個支給、その程度で納得してもらえた
など。

★金鳥の琺瑯看板を昭和37~60年にかけて北海道から沖縄まで張って回ったという広告会社の話の中で、
1回にトラックの荷台に200組ほど積んだ
金鳥はすでに有名だったので、むしろ喜んでくれた
協力してくれたお家へのお礼は金鳥蚊取線香、タオルセットなど
など。

いずれも戦後の琺瑯看板最盛期の状況ではありますが、当時でも権利や契約がどうのこうのということもなく大らかな時代だったとのことですから、昭和初期も同じように、この程度の手順で済んだのではないでしょうか。また、仁丹がすでに有名であったこと、信用されていたこと、琺瑯仁丹のデザインもハイカラだったこと、住所表示は便利でなんとなく近代化された雰囲気に包まれるなどで、受け入れる側も好意的だったのではないでしょうか?

もしかしたら、リヤカーで現場作業をしているとき、町内の人が次から次へと集まってきて、「ここにも付けてぇな」、「うちにも付けてぇな」、と矢継ぎ早にオーダーされるようなシーンもあったのかもしれませんね。だから同じ町内に何枚も存在していることがあるのかも。

以上、全くの空想の世界です。さて真実のほどはいかに。
みなさんはどのような光景を思い浮かべられるでしょうか?ぜひお聞かせください。
Posted by 京都仁丹樂會京都仁丹樂會 at 2012年07月15日 13:20
始めまして。今日、祇園祭をブラブラ散策し、街頭で貰った宵山地図見ながら路地散策してたら右書きの下京区と書いてある年季もの仁丹を幾つか発見、パチリと撮影。外国の方も見よう見まねでとってはりましたわ。平成も沢山見ましたがやはり昭和がいいですね。多分祇園祭に来なかったら見てないやろな。
京都は古い民家の軒は要チェックですね。またさがしたいです。
Posted by リラックマ at 2012年07月16日 01:35
ようこそ、リラックマさん。

祇園祭に行かれたのがきっかけで、ここへ辿り着かれたこと、非常に嬉しく思います。

ビジネス街のちょっと裏に、御年85歳以上という仁丹が現役で活躍しているのです。
褪色もあまりせず驚くべき生命力です。
まちの人は畏敬の念を抱いて大切にしておられる方も多いと思います。

季節が良くなったら、また仁丹探しをしてみてください。
ここにはあるかな?とまだ歩いたことのない道を歩くだけでも立派な旅になります。
そして、ついでにいろんなものを発見する楽しみも加わります。
仁丹探しは結局は楽しい”プチ旅”となるのです。

今後ともよろしくお願いします。

ところで、つられて撮影しておられた外国人の方、どの程度分析できるのか興味深いですね。
Posted by shimo-chan at 2012年07月16日 08:58
久し振りに酒瓮斎で〜す。
記事【永遠のテーマ『設置方法』】を拝読しました。この内容に関わってはズ〜ッと気になっていたことですから、私なりに楽しみながら改めて調べたり考えたりしてみました。
以下、長文になること、また、勝手な思い込みを含んでいるかも知れないことをお許し願います。

京都の各町に設置された仁丹町名表示板、これはまず紺の縁取りと商標だけが入った白地のベースを琺瑯仕上げにした。そしてそれを現地に運んで、文字(住所表記)はその場で手書きで入れて設置したのではなかろうかとの推測が提示されています。
こう推測されている理由は、
その1:仁丹町名表示板を大量に設置して廻るには、現地で完成して設置するという方法を採らざるを得なかったのではないか。
その2:文字の部分が薄れて、殆ど判読困難なものが少なからず見られる。これは現地で住居表示を記入したため、文字部分が琺瑯仕上げとなっていないことが原因ではないか。

この推測に対して、なんとか無理矢理に?疑念を差し挟む余地は無いものか。そこで、さらに推測を重ねて楽しんでみました。
結論を先に言ってしまいます。

その1:については、私は設置時期を大正11年以後〜昭和6年の少しあとの約10年間だろうと見ています。したがって、順次設置していけばよいので、現場で書いたものをその場で設置するという方法でなく、工場あるいは店舗の作業場で作成したものを設置したと考えます。
その2:については、単純に琺瑯仕上げが雑であったから、あるいは工程に手抜きがあったためではなかろうかと考えます。素人の私には判りませんが、地の琺瑯部分と文字部分の化学的な面での違いが検出されれば解明できることなのでしょう。

そこで、何故そう推測するに至ったかの説明に入りましょう。
まず、琺瑯製の仁丹町名表示板が設置された時期です。いつ頃始まり、いつ頃に終えたのか。これはやはり相当な幅をもって考えるほかありません。
私がとっかかりとして目を付けたのは、上京区と下京区という二区のみであった京都市域(所謂旧市内)が拡大していった時期です。
京都市は二度の大規模な合併によって、多くの周辺町村を編入していきます。
まず、第一次大合併として、大正7年に16町村(上京区に白川村・田中村・下鴨村など8村、下京区に朱雀野村・大内村・七条村など8村)を編入して、京都市の面積は一挙に2倍以上へと拡大しています。
次いで、昭和6年の大合併で伏見市など27市町村が京都市に編入されて、面積では東洋一の大都市となるとともに、この時に右京区と伏見区が設置されています。

そういう背景を考慮すると設置の始期は? 
大正7年の大合併によるスプロール現象で、周辺道路網の整備、都心部への交通機関の整備が焦眉の緊急課題となった。大正11年、「都市計画法」に基づく「京都都市計画区域」(四条烏丸を中心に半径6マイル=約23Km)の決定により、これらの旧周辺市町村もこの中にに含められた。しかし、その計画は遅々として進まず、昭和2〜3年に決定された計画では、街路網整備の重点は旧市街地の外周域だったそうです。
基盤整備事業は以上のような事情のもとにあったため、仁丹町名表示板の設置は大正11年以後に旧市内(旧市街地)から始まり、昭和4〜5年にかけて徐々に外周部に及んでいったものと推測します。これは「伏見市」表示の仁丹町名表示板が存在することでも明らかです。

次に設置終期の方ですが、
これは比較的に容易く推測できるようです。というのは、昭和6年に京都市へ編入した愛宕郡修学院村と松ヶ崎村における仁丹町名表示板は「左京區」表示に、同じく嵯峨町と太秦村のものは「右京區」表示となっていることから、昭和6年かそれを僅かに下る時期(翌7年?)に限定できると考えます。
Posted by 酒瓮斎 at 2012年07月16日 18:29
こんばんは。コメント読みました。
京都は路地がかなり入り組んで居ますのでひょっとしたらスルーしてしまっている仁丹大礼服マークがあるかもしれないので路地裏探索にも、出て見たいですね。
いいお店があるかもしれないし、知らなかった通りや地名に触れることが出来そうなので。
京都って奥深いですね。
いぇ、こちらこそよろしくお願いします。
しょっちゅう寄りますね。笑

そしてこのコーナーでのリアカー引いてその場で書いて取り付けたと書いてますが(無知なんですいません)書いていきなり着けたらお家の壁など塗料がつきませんか?あたしなりに何日か経って乾かしてそのお宅に向かい取り付けたのかなと…すごい素朴に思っちゃいました。
でも、森下仁丹って大阪が本社なのに大阪には町名看板があまりなく京都のほうが多く枚数つけたのかしら?など色いろ思ってしまいました。
みなさま、よろしくお願いします。
Posted by リラックマ at 2012年07月20日 00:10
酒瓮斎さん、いらっしゃいませ。

>この内容に関わってはズ〜ッと気になっていた

現物は目の前にいくつもあるというのに、分からない。
千年のみやこから言えば、ついこの前のことなのに分からない。
そこが、実にもどかしいのですよね。
でも、そのお蔭で私たちは色んなことを考えたり、調べたりして、ついでに京都の勉強にもなっているというのが仁丹の楽しさです。

リヤカー説に対して、
>この推測に対して、なんとか無理矢理に?疑念を差し挟む余地は無いものか。そこで、さらに推測を重ねて楽しんでみました。

これが大切だと思います。リヤカー説は所詮は想像の世界です。矛盾点、疑問点をどんどん突いて、より強い仮説、違った仮説を考えようじゃありませんか。固定概念を打破する柔軟性が必要です。

リヤカー説の弱点は、ズバリ、その場で書いてその場で掲出できるものなのか?ということでしょう。
これはリラックマさんからもコメントをいただいたとおりです。

そして、リヤカー説に対して「工場説」の登場です。

>設置時期を大正11年以後〜昭和6年の少しあとの約10年間だろうと見ています。したがって、順次設置していけばよいので、現場で書いたものをその場で設置するという方法でなく、工場あるいは店舗の作業場で作成したものを設置したと考えます。

この工場説こそ、むしろ世の中の常識でしょう。

となると、現場での折衝 → 工場への指示 → 現場への配送 という手順が必然的に発生します。
そして、文字部分も琺瑯引きになぜしなかったのかという疑問も同時に出てきます。
この辺のモヤモヤを一気に脱出しようとするのがリヤカー説の誕生なのでしょう。ただ突飛過ぎるという印象が拭えないではありません。

ところで、工場説をとった場合、その工場は大阪かそれとも地元の京都なのか?
森下仁丹100周年史には大阪の看板工場の写真が掲載されていて、その後ろに完成した仁丹の看板が多数写っているのですが、そういう写真で文字入りの京都の町名表示板が写り込んでいたら決定的な証拠となりますね。

また、京都で作ろうと思えばそれも可能だったのかもしれませんよ。
昭和初期の京都の電話帳の広告欄に「太田標記製作所」というのを見つけました。
今で言うタウンページの企業広告みたいなものです。場所は大宮通五条とあり“琺瑯看板”の制作を宣伝していました。
この太田標記製作所は現在の京都銘板株式会社さんなのでありました。ちょっと気になりますね。

それから、私自身がちょっとひっかかるのは、“大正11年以後〜昭和6年の約10年間に順次設置していけばよいので、工場で作成した”という趣旨の下りです。

圧倒的多数が上京・下京時代に設置されているわけですから、少なくとも昭和4年4月1日以前にそれらの設置は終わっていました。
どうせなら御大典とその関連イベントである博覧会を意識して昭和3年までには終えていただろうと考えています。
始期については今のところ古写真で大正14年2月までしか遡れませんが、圧倒的多数は約10年ではなくてほんの数年(5,6年)だったのではないでしょうか。

でも、昭和6年4月以降の右京・左京バージョンは通り名もないし、工場で生産できたと思います。
ならば、文字部分も琺瑯引きにできたのではという疑問はやはり残るのですが。

と言うことで、「リヤカー説」と「工場説」が並びましたね。
Posted by shimo-chan at 2012年07月22日 10:04
リラックマさんへ

> 京都って奥深いですね。
> しょっちゅう寄りますね。

はい、しょっちゅうおいでください。京都はワンダーランドです。
私は一時期、京都はもう駄目だとばかりに地方の小京都を好んで訪れていましたが、ある日、ちょっと近道をしようと路地を通り抜けたところ、いろんなものを発見して大いに感動、やっぱり本家京都やなぁと認識を新たにしました。

さて、
>書いていきなり着けたらお家の壁など塗料がつきませんか?あたしなりに何日か経って乾かしてそのお宅に向かい取り付けたのかなと…すごい素朴に思っちゃいました。

ごもっともな疑問だと思います。
ただ、現場で作るというのは表面の住所の表記の部分だけだという考え方なのです。
琺瑯看板としてはほとんど完成しているけど、表の住所だけが入っていないという状況でという設定ですので、家に塗料が付くという心配は皆無なのです。

でも、現場で書いた文字をある程度乾かさないですぐに付けたらペンキが垂れるのではないかとか、雨が降ってきたらどうなるのという疑問は持っています。
でも、餅屋は餅屋、当時の職人さんは百も承知だったはずです。
あの黒い住所の表記はペンキなのか墨なのか、それすら私には分からないのですが、琺瑯の下地に耐久性のある文字を載せる何らかのノウハウがあったのではないかと想像しています。
何かを混ぜてあるとか、何かを塗るとか。
ただし、そのノウハウが職人さんの間できっちりと均一化できていなかったために、褪色の激しいものもあるのかな?というような気持ちに漠然となっています。

>でも、森下仁丹って大阪が本社なのに大阪には町名看板があまりなく京都のほうが多く枚数つけたのかしら?

多分、大阪にもいっぱい付けたのだと思いますよ。
やはり戦災の大きさの違いが決定的な原因なのでしょうね。
Posted by shimo-chan at 2012年07月22日 10:36
リラックマさんへ

>でも、森下仁丹って大阪が本社なのに大阪には町名看板があまりなく京都のほうが多く枚数つけたのかしら?

大阪にも付けた事は確かです。
ただ、設置された時期が戦後なので、戦災の大きさは関係ないです。
(設置の許可証の認可日が昭和26年と言う事と、区の漢字が旧漢字の區ではなく新漢字を使っている)事から設置は戦後だと推定されます。

その上、昭和48年には町名変更がありました。ですので、付いていても役に立たないので、外されたものと思われますね。
だから、現在残っている看板は数は少ないけど、全体の数としたら京都より沢山付けた可能性はありますね。

大阪の看板についてわかる範囲のことですが(笑)
Posted by デナ桜 at 2012年07月22日 22:08
shimo-chan さん
またまた、酒瓮斎です
小生のコメント、いつも冗長なために論点がぼやけてすみません。
これは私の悪癖でちょっと直りません、懲りずにお願いします。

shimo-chann さんの、設置時期は「圧倒的多数は約10年ではなくてほんの数年(5〜6年)だったのではないでしょうか」という推測には全く同意します。
私が「設置時期を大正11年以後〜昭和6年の少しあとの約10年間だろうと見ています。」としたのは、設置開始から終了までの期間について、それ以上に詰め切れないため広く網を打っておいただけなのです。(手抜きとはまた違うのですが・・・)
すなわち、大正7年の第一次大合併で周辺部の町村が京都市に編入したものの、都市基盤整備の進捗遅れと云った点を考慮して、設置開始を4〜5年遅らせてみた(期間を短縮した)に過ぎなかったのです。
仰るように、その約10年のうちでも集中的に設置された時期というのはあったでしょうね。設置の遅速(緩急?)もあったと思います。始めから終わりまで同じテンポで、ダラダラと設置し続けたなどとは考えられません。
以上、拙いコメントの弁明でした。

閑話休題
実はこのところ次の2つの点について、どうだったのかなーと空想しています。(どうでもよい遊びですが、今後のブログ記事展開の中で触れていただけたらと思います)

一つ: 大正末期から昭和初期にかけての時期には、第一次世界大戦後の反動恐慌、関東大震災(大正12年)と昭和金融恐慌(昭和2年)による二度の支払猶予令、世界大恐慌(昭和4年)など、日本の経済に深刻な影響を与えるいくつもの大事件が出来しています。
これらは、一企業の町名表示板設置という事業継続に、何らかの影響を及ぼしたでしょうか?
私は、短期間のうちに設置をやり遂げたのではなく、約10年の長期間をかけて設置事業を進めたため、それぞれの事件はその時期における限定的・経済的影響として凌ぎ切ったのではないかと思うのです。(これ、影響を受けなかったということ?)
逆説的にいえば、予定した工期を延長することにより、設置完了に漕ぎ着けたと思うのです。(これ、影響を受けたと云うことですよね)
さて、如何思われますか?

2つ: コメントの中で、そしてブログ記事中にしばしば出てくる「昭和の御大典」です。
森下仁丹は、町名表示板設置を御大典という大イベントにリンクさせることに何らかのメリットを認めたでしょうか? 御大典が仁丹町名表示板の設置事業計画の進行に影響を与える要因となったでしょうか?
御大典の執り行なわれる頃までには市内中心部での設置は既に終えており、外周部の設置を進めていた頃といえます。
御大典記念事業の博覧会開催(岡崎と千本丸太町)で約340万人の入場者があったといいます。しかし、博覧会を見た人々はそのあと観光地に足を伸ばしはしても、周辺部から京都市に大規模編入した元農村地域へは行かないでしょう。ですから、その地域に仁丹町名表示板設置を急ぐなど、設置計画を変更するメリットは無かったと思います。
如何なものでしょう?
Posted by 酒瓮斎 at 2012年07月23日 15:26
>実はこのところ次の2つの点について、どうだったのかなーと空想しています。

酒瓮斎さん、いつもコメントありがとうございます。しかも、核心にせまったものを。

まず、1つ目の疑問。
大正末期から昭和初期にかけてのいくつもの恐慌などが、町名表示板設置の事業継続に影響を与えなかったのかという疑問です。

鋭いご指摘。実はこれらのことに触れる度に、ふと、町名表示板どころじゃなかったのではと頭をよぎることしばしばでした。でも、世の中なんだかんだで動いていた、御大典も博覧会もできた、新京阪も奈良電も身を削りながらもやっとこさ開業した。現実に仁丹もヨンヨンイチまでに圧倒的多数を設置した。だから、結果として乗り切れたのだ、という何とも低レベルな状況なのです。と言うか、あまりに難しいテーマとなりそうなので、深入りすることから正直逃げていました。

さて、確かに森下仁丹としてはどのように乗り切ったのか?
とりあえず80年史を見てみました。要約すると次のようなことでした。

昭和金融恐慌の年である昭和2年4月21日、信頼をしていた唯一の取引銀行が破綻し、一時は会社の金庫が空っぽになり、森下博生涯最大の危機を迎えた。しかし、その前の4月3日に、万が一のことを考えて、関係者と周到に対策を練っていた。そしてまさかの4月21日が本当にやってきた。事前の打ち合わせのとおり、本店を引き払い、その機能を工場内に移して経費縮減を図る。新たな銀行とも取引を開始する。そして、驚くべき記述がありました。この場に及んで“赤小粒仁丹の新発売と大宣伝の展開”なる営業面の積極政策だったのです。

仁丹は発売開始以来「赤大粒」しかなかったところへ、22年後のこの年に赤小粒を追加販売、ケースもニッケルからセルロイドにモデルチェンジし、とりわけ女性をターゲットにして大宣伝をしたとありました。従業員の給料一部返上も述べられており、昭和4年の銀粒仁丹への発展に繋がったようです。

ということで、恐慌などの影響は大いに受けたが、大宣伝の一環でもあったであろう町名表示板の設置事業には影響を与えなかったというところではないでしょうか?
むしろ、積極的に進められた?というのは、いささか勇気がいりますが。

次に2つ目の疑問。
昭和の御大典との関連です。つまり、御大典を意識して、それまでに当時の市域は農村地域も含めて設置を間に合わせなければならなかったのかという疑問と解釈します。

琺瑯仁丹の設置は大正期から始まっていますから、そもそも御大典の有無とは関係なかったはずです。そして、昭和に変わってから御大典までの間は3年弱あります。仕事として毎日毎日設置を行うのであれば、どうせなら御大典に間に合わせようという意識があってもなかっても、十分にできたことかもしれませんね。ということで、私たちも昭和の御大典とリンクさせるような考え方をする必要はないのかもしれません。
Posted by shimo-chan at 2012年08月05日 11:26
私はリヤカー説の可能性が高いと思います。何故、そのように言えるのか。それは、京都の町名看板の誤字や脱字の多さです。設置されている場所で地域の方々に住所を教えていただき、できあがった琺瑯看板に文字を書いたために間違っても直せなかった。そのため誤字脱字が多いのではないでしょうか。
あくまでも、私自身の推測ですがいかがでしょうか?
Posted by まっちゃ at 2012年11月12日 18:52
まっちゃさん、ああでもないこうでもないと、考えるの面白いですよね。
真実が分からないからこそできる知的な遊びだと思っています。

このリヤカー説は、ずんずんさんが思いつかれたことなのです。
私も一票入れます。

当時、おそらくは大正13,4年くらいから昭和3年ぐらいだと思うのですが、この頃はまだトラックはなかったのかな?自動車史まで調べていませんが、やはりリヤカーが一般的だったのではないでしょうか。

仁丹側のスタッフが京都の町名表示のルールをしっかりと叩き込まれていて、それに則ってご町内の方々の注文にその場で応じたのではないかと想像しています。その場で書いて、少し乾いたら取り付けて、次なる場所へ移動。すごく合理的です。でも、人間のやること、たまには間違えることもある。しっくりいきますねぇ。

ほんと、どのようにしていたのか見てみたいものです。
Posted by shimo-chan at 2012年11月12日 21:53
仁丹が社内でかなり広告活動に力を入れていたのはその通りかと
思います。と同時に、ある程度は外注といいますか、関係する広告
看板製作会社に委託もしていたのだろうと思います。
東京での看板設置に関しての話になりますが、明治42年当時、出
入りの広告会社に請け負わせていたことを示唆する読売新聞の記事
を見つけました。
東京の電柱への広告(町名の記載は当時なかったようですが)を出し
た際には、東京電灯会社の広告の一手請負所だった電灯広告社と
電柱の賃貸借契約を結んだ上で、仁丹は森下出入の日本橋薬研堀に
あった川田美術看板店に、その広告趣向及び塗立てを請け負わせてい
たようです。また鉄板広告は矢島商会が請け負っていたとの記述があ
ります。

また、当時、電柱広告があまりにも東京で行きすぎたため警察当局
から塗り替え命令がでたとのこと。面白い記事だったので後日また
ご紹介させて頂きます。当時警察が決めた看板の規制との関係から、
また当時の新聞記事を丹念に見ていく中でも何か見えてこないだろう
かと考えております。
Posted by idecchi_2006 at 2012年12月26日 04:49
idecchi_2006 さん、大変貴重な発見の報告、ありがとうございます。
明治43年となると、森下仁丹が次から次へと広告を打っていくかなり初期ということになりますね。当時のノウハウがわかります。
街頭の広告の許認可も今なら市区町村の景観関係の部署かと思いますが、当時は警察も視野に入れてしらべなければならないのかも。

やはり新聞記事を丹念に調べていくのが良さそうですね。
今まで、なんとなく思い描いていたものが、このように新聞記事でひとつひとつ裏を取っていけたらと思います。

これからもまたご教示ください。
Posted by shimo-chan at 2012年12月27日 07:12
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