京都仁丹町名看板プロジェクト始動

京都仁丹樂會

2011年05月01日 06:34

 「京都町名琺瑯看板プロジェクト」始動

2010年11月27日、京都北山の京都コンサートホールで、

森下仁丹株式会社「京都町名琺瑯看板プロジェクト」発表会と題して、

「仁丹町名表示板」の新しい看板の筆入れ式が開催された。

書き手の一人である八田二代次さんが、書きたてホヤホヤの仁丹町名表示板を捧げ持っての記念撮影。



真新しい無地の仁丹町名表示板が置かれているのは、なんとも感動的な光景である。


復活仁丹町名表示板の紺色はドンピシャの色合いながら、朱色が微妙に明るい。
これは、旧色の朱色を出せる釉薬が、現在は製造されていない為で、
やむなく近似色を使っての復刻となった。

また、仁丹のマークは現在の仁丹マークを使っている。
これは、今回のプロジェクトが復刻ではなく、「復活」ということなのだ。
復刻ならば表現も字体も何もかも昔のまま単に真似ることであり、
その根底にはノスタルジーしかないと思う。
でも、今回は何もかも“今様に”というのが基本コンセプト。
ご存知のとおり髭のおじさんのトレードマークは時代とともに変化していく。
最初そのトレードマークを当時のものにするか、現在のものにするか、
森下仁丹さんから相談を受けた時、「今のものを!」と、
私たち京都仁丹樂會のメンバーが、一斉に口を揃えて言ったのがとても印象に残っている。
つまり、現役であってこそ意味がある、正しく住所表示をしてこそ意味があるという
「精神を引き継ぐ」ことが大切だと思ったからなのだろう。

その精神は、750枚弱の現役の仁丹町名表示板から私たちが自然と学び取ったものです。
京都の住所表示は一見複雑です。
でもそこにはちゃんとしたルールが1本通っており、それに反した仁丹はいまだに1枚も出会っていない。
でも、地元で使っている通称も小文字や括弧書きで受け入れることも行っており、
公称と地元の要望という公益をバランス良く満足している。
この精神を引き継がなければ、80年以上前に設置を行ったご先祖様の努力が台無しになるというわけなのだ。



このセレモニーに、私たち「京都仁丹樂會」のメンバーも招待され、3名が出席をさせていただいた。

~前置きが長かったが、ここからが、式次第に添った内容になる~

いよいよ、森下仁丹株式会社の駒村社長のあいさつからはじまった。


次に、来賓の方々。
まず、門川大作京都市長から壇上に上がられた。


復活仁丹町名表示板の第一弾の、12町内会と京都市役所が発表 された。


書かれた住所に、あれっ?と思う表記があったりして、
そこのところは、設置希望の町内会さんとの話し合いの中で、
仁丹町名表示板のルールに則った表記に調整してゆく予定とのことだ。
そのアドバイザーとして、私たち”京都仁丹樂會”がお手伝いをさせていただくというわけなのだ。


書き手の方々のあいさつ。



いよいよ、この日のメインイベント、「仁丹町名表示板」の初筆入れ式が始まった。
今とばかりに、メディア各社のカメラのレンズが、書き手の八田さんの一筆一筆に降り注がれている。



普通の人なら、こんなシチュエーションでは、手許がびびって、字なんて書けないだろう。
さすがに広告美術業をされておられる八田さんだ。



最後に、記念撮影で大団円。




これは、豊川市の琺瑯看板収集家で有名な佐溝力さんのコレクションである。
記念すべきこの日に、遠いところを重たい仁丹町名表示板を持ってこられたのだ。
因みに、展示品の丸物百貨店の風呂敷も氏の所蔵品とのことである。

ところで、その中の一枚を見て驚いた。
この右側の汚れた板切れであるが、まさしく、木製の仁丹町名表示板である。
驚きは、実はその点ではなく、この木製仁丹が、「西押小路町」のものだったからなのだ。
この木製仁丹は、2009年7月に取り壊された町家とともに消え、
その後、某オークションで売りに出されていた『押小路通車屋町東入 西押小路町』の木製仁丹町名表示板
そのものだったからなのだ。
こういった形で再会できようとは。
落札されたのが、佐溝氏であったとは、不幸中の幸いであろう。
これで、行方知れずのままに失われることだけは免れたことになる。

京都ずんずんさん2010年10月21日の記事でも書かれているように、
”琺瑯製”の仁丹町名表示板が、大正14年2月18日にはすでに設置されていたことが確認できた。
そのことからすると、森下仁丹の沿革でも書かれている様に、
町名表示板の設置が明治43年に始まったとするならば、
この”木製”の仁丹町名表示板が市中にデビューしたのは、琺瑯製に先んずること推定約15年前ということになる。

この木製仁丹町名表示板であるが、京都市内での現状は以下の通りである。
・現在も街頭での設置を目視で確認できるもの…10枚。
・表面を覆い隠されているため目視確認はできないが、板の形状等から木製仁丹であると判断できるもの…2枚。
・表面の劣化が激しく目視判別は困難ながら、設置町家の方の証言から木製仁丹であると確認が取れたもの…1枚。
・2007年に消滅したもの…2枚。
・2009年に消滅したもの…1枚。 ←これが、西押小路町の木製仁丹。

よって、未確認の不確定分も含めれば、現存13枚+保存確認1枚(西押小路町)となった。
2007年の消滅1枚(戒光寺町)についても、屋内に保存されている可能性が期待される。


ところで、今回立ち上げた『京都仁丹樂會』だが、名刺代わりに渡せるようにと”プロフィールカード”を作った。
その裏面の言葉をここに記しておく。

  八十有余年もの永い歳月、色褪せることもなく京都のまちを見続けてきた仁丹町名表示板。
  今や京都市の立派な『文化財』です。
  住所だけでなく、私たちの知らない京都の歴史や素顔も教えてくれます。
  現役のまま大切にしましょう。
    ~私たちは、仁丹町名表示板を通じて京都を研究しています~

集ったメンバー全員、仁丹町名表示板を探し、見つめている内に、
京都の歴史・文化・伝統・産業はもちろん、その他多くの分野にまで目を向けていることに気づいた。
そして、京都の息吹を感じながら、仁丹町名表示板の奥深さの虜になっていった。


仁丹町名表示板は、いまや激減の境地に立たされながらも、まだ750枚弱の仲間が残っている。

表示された住所の位置に設置され、今もなお現役であることが仁丹町名表示板の素晴らしさなのだ。

だから、生きた仁丹町名表示板が多く残っている京都は、ますますその魅力を増してゆく。

”レトロだけれど生きている・・・だから懐かしくて、現代でも新しい”

それが、まさに仁丹町名表示板なのだ。

これは、京都そのものを言わんとしている様にも聴こえてくるから面白い。

まさに、言いえて妙である。

そこが、仁丹町名表示板が、単なる宣伝の琺瑯看板とは大きく異なるところなのだろう。


京都市が観光都市であるならば、仁丹町名表示板は京都の魅力を支える掛けがえのない要素の一つである。

観光で訪れた人には、単純な道案内だけでなく、素顔の京都を教えてくれる”道しるべ”にもなるはずだ。

京都に生まれ長く住んでいる京都仁丹樂會のメンバーでさえ、日々驚きを与えてくれる。

仁丹町名表示板はやっぱり凄い。

今ふと思ったが、【京都仁丹樂會監修/仁丹町名表示板・検定!】 みたいなことも、おもろいかもしれんなぁ・・・などと、

考えたりもする。

また、仁丹町名表示板で謎解き探索マップを作ってみるのも、面白いかもしれない。




私たち京都仁丹樂會は、この「京都町名琺瑯看板プロジェクト」への提案・サポートなどを通じて、

一人でも多くの方に、仁丹町名表示板が京都のまちの『生きた文化財』であるという認識を浸透させていきたい。

その意識付けを広め、京都の空気となって定着すれば、

仁丹町名表示板の盗難や、或いは市場に売りに出されるといったことへの抑止力になるのではと考えている。

さらに、その意識の広がりで、今は人目に触れることのない場所で保存されている埋蔵仁丹も、

再び表に現役復帰させ、みんなの役に立ててやりたいと、考える人も出てくるに違いない。

私たちは、そうした動きを促進させたいと考えているのだ。




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