鞆の浦 仁丹探訪記(2)

京都仁丹樂會

2014年08月28日 07:06

鞆の浦 仁丹町名表示板 探訪記(2)


「鞆の浦」と言うと、なんだか海のことみたいですが、ここでは海ではなく、原則として陸の町のことを言っているつもりです。鞆町も包括した一般的な観光地名としての「鞆の浦」であることを予めご了承ください。


さて、前回の続きです。鞆の浦の仁丹町表示板を2枚見つけたところで、まだ13枚あります。
次なるルートは下の地図の赤いラインです。鞆港の南端へと向かいます。



常夜燈広場の仁丹があった場所から西へ進むと少し広い空間があって、その向こうに酒蔵のような建物が見えました。



近づけば、やはり酒蔵。そして3枚目の仁丹を発見しました。



3枚目   鞆町鞆 岡本家長屋門前 江の浦町

上部には、「保命酒」という看板も掲げられています。
これは「ほうめいしゅ」と読み、生薬を配合した鞆の浦名産の薬用酒なのです。
ルーツは万治2年(1659年)だそうで、数軒の酒蔵を見かけました。
10種類以上の生薬が含まれているそうですが、こう聞くとなんだか仁丹を連想してしまいます。
旅先で酒蔵を見つけるとついつい入ってしまい、試飲して、揚句に買ってしまうのですが、今回は仁丹探索最優先モードということで、誠に残念ですが次の機会に味わうことにします。


また、この路地も入っていきたかったのですが、鞆の浦の通りは京都のような碁盤の目ではないので、気の向くまま歩いていては方向も居場所も分からなくなりそうでしたので、現在地が明確に把握できている間に目的地へと向かうことにしました。

※     ※     ※

町の中心部から遠ざかり、港を円弧上に包み込むように南西部へと進みます。
大阪の森下仁丹本社前で撮られた15枚の仁丹町名表示板の中に「焚場跡入口」とか「淀媛神社前」と書かれたものがあったので、地図を見ておそらくこの先だろうと見込んでのことです。




所々に自動車の離合場所が設けられた狭い通りですが、ここもなかなかの情緒があります。
感動しながら歩いていると、4枚目の仁丹発見です!




4枚目  鞆町後地 焚場跡入口 焚場町


「焚場」は何と読むのでしょう? 焚火の“たき”なので“たきば”?
正しくは『たでば』でした。難読町名ですね。
そして、後地は『うしろじ』と読みます。

ここ焚場は江戸時代からの、船の言わばドックのような施設だったそうです。船底を焼いてフジツボなどから船体を守ったり、あるいは修理を行っていたそうです。海岸に石垣を組んで造られた遺構は、引き潮の時に姿を現すとか。


帰宅後気が付いたのですが、“焚場跡入口”と書いてあることから、この隙間を海へと出たらそのドッグ跡が見られたのかもしれません。
いくら仁丹探索モードとは言え、それぐらい気付く心の余裕が欲しかったところです。

※     ※     ※

淀媛神社はこの先のはず。道なりに歩いていくと、「ここかな?」と思うような良い雰囲気の小さな神社を発見。
そして、予想どおり5枚目も発見です!




5枚目    鞆町後地 淀媛神社前 平一丁目

でも、設置場所に窮したのか、フェンスに取り付けられていました。

この淀媛神社の石段を上がってみると、このような美しい光景が展開しました。



鞆港や常夜燈、さらにはスタート地点となった鞆港のバス停も見えます。

実は、今眺めている辺りから、先ほどの鞆港のバス停付近までを、鞆の浦を一部埋め立てて橋を架け、バイパス道路を建設する計画があったのです。
確かに今見てきたように、離合場所を随所に設けなくてはならないほど、鞆の町はクルマが通り抜けるには難がありそうです。
でも、一方で架橋されたならば風光明媚な景色は壊され、長年培われてきた鞆の宝、日本の宝を失うことにもなったかもしれません。
「生活」か「景観」か、30年近くも賛否が争われて裁判にまで発展、結果としては2年前に建設中止となりました。


さて、ここ淀媛神社が折り返し地点、次は町の中心地へと戻っていきます。

※     ※     ※

ところで、鞆の浦における住所表示についてです。
みなさんもうお気づきかと思いますが、“鞆町鞆 江の浦町”や“鞆町後地 焚場町”などと「町」が重複し、いささか違和感をお持ちではないでしょうか?

実は、公称としての住所表示は、
 広島県 福山市 鞆町 鞆   ○○番地
 広島県 福山市 鞆町 後地 ○○番地
の2つだけなのです。

では、その後に続く「江の浦町」や「焚場町」などは何なのでしょうか?
ブログ 鞆の浦日記』の、しまかぜさんのご教示によれば町内会の名称なのだそうです。
しかし、町内会とは言っても、新興住宅街のそれとは次元が違います。
とりわけ町の中心地の「江の浦町、西町、道越町、関町、石井町、鍛冶町、原町」の7つの町内会は江戸時代に始まり、次回ご紹介する沼名前(ぬまくま)神社のお祭を輪番で回しているなど、今も鞆の町に深く根付いている呼び名でもあるのです。

ちなみに、「鞆」と「後地」の違いは簡単に言えばこうです。
鞆は商業地である町の中心地だった旧「鞆村」のエリア、そして、その周囲を取り巻く寺社や農地などで形成されたエリアが旧「後地村」でした。
この両村が明治22年の市町村制施行により合併して鞆町となりましたが、土地に対する租税額の違いから「鞆」と「後地」なる名称が残ったようです。
さらにその後の昭和31年、鞆町なる自治体は福山市に編入され現在に至っています。


したがって、今回の鞆の浦における仁丹町名表示板は、従来の記載ルールに従うならば鞆町鞆の3文字か鞆町後地の4文字で終わってしまうわけですが、それでは京都サイズのキャンバスは大き過ぎました。
そこで、観光客を意識して観光地名も入れ、さらに旧町名も記すなど、設置のみならず、表記方法にもご苦労があったのではと思います。

~つづく~

京都仁丹樂會 滋ちゃん・たけちゃん・shimo-chan


関連記事