鞆の浦 仁丹探訪記(5)

京都仁丹樂會

2014年09月17日 20:53

鞆の浦 仁丹町名表示板 探訪記(5)

さて、いよいよ鞆の浦探訪記の最終回です。あと発見していない仁丹町名表示板は次の3枚のみとなりました。

桝屋清右衛門宅前
旧魚屋萬蔵宅前
鞆中学校入口

最後のルートはこのような感じになりました。矢印が地図から大きく飛び出しているのには、いささか感情が込められています。事情は後ほどに。



タイムリミットが迫っているので、まさにピンポイントで探さなくてはなりません。
観光用のイラストマップには桝屋清右衛門宅は記載されているものの、旧魚屋萬蔵宅は見当たらず、とりあえずまだ通っていない道を港方面に向かって歩いてみました。

すると、なんとラッキーなことでしょう、すんなり出会うことができました。



13枚目  鞆町鞆 旧魚屋萬蔵宅前 道越町


イラストマップにはこの場所は「龍馬交渉跡」とありました。
坂本龍馬と海援隊が乗船していた『いろは丸』が瀬戸内海で紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突し、鞆の浦の沖合で沈没、その補償について紀州藩と交渉した場所がこの建物だったそうです。

それにしても、なかなか素敵な建物だと思ったら、宮崎駿さんがプロデュースされたそうで、現在は旅館とカフェとして使われていました。仁丹も似合っています。



※     ※     ※


次は、桝屋清右衛門宅です。
カンニングするようですがイラストマップに従い、Uターンして今度は東方面のバス通りへと向かいます。14枚目は桝屋清右衛門宅そのものに取り付けられていましたので、あっさりと見つけることができました。



14枚目  鞆町鞆 桝屋清右衛門宅前 石井町

ここは元々、廻船問屋であって、いろは丸事件の際に坂本龍馬や海援隊を支援して宿泊させたのだそうです。“龍馬の隠れ部屋”なるものが公開されています。



※     ※     ※

これで14枚の仁丹町名表示板を見つけることができました。
残るはいよいよ1枚のみ。それも鞆中学校前と場所が明確なので楽勝です。

時刻はちょうど17時。ここで、他の2人と連絡を取り合って集合します。
最後の1枚は鞆の中心地より“少し遠いところ”にあると聞いていたので、一同で見に行き、最寄りのバス停から一緒に福山駅へと戻る段取りにしていたのです。
みなさんもちょうど14枚無事に発見されていました。さすが京都で培ったテクニックの持ち主たちです。

ところがです。
鞆中学校というところ、バスに乗ってもよいほどに遠いところにあったのです。
“少し遠いところ”ではありませんでした。
現地で参考にしていたイラストマップでは範囲外で掲載されていませんでしたが、冒頭の地図で矢印が大きく飛び出しているのはそのような意味だったのです。

正確な場所は次の地図の赤丸のところです。



14枚目の桝屋清右衛門宅前からは2キロ程度の距離ですが、山の中腹にあることが分かるかと思います。ただの2キロではなく、かなり坂を登らなければなりませんでした。

半日歩いた後の、きつい連続上り勾配。もうみんなヘトヘトです。
最後の仁丹町名表示板は、鞆中学校“入口”とあるので、もしかして坂道の入口にあったのであれば登っても無駄なわけであり、みんな絶対にそんなミスをしないようにと真剣に周囲を見渡しながら、ぜえぜえと終点を目指したのでありました。
御歳70を過ぎた滋ちゃんなどはもう脱落寸前でした。

そして、17時45分、ようやく鞆中学校の正門前に辿り着くことができました。
でも、パッと見た感じでは見当たりません。

「どこにあるの?」

15枚すべて発見できるかどうかの、大げさですが運命の一瞬でした。
歩を進め、門の真正面まで行くと、ありました!15枚目。ブロック塀とヒマワリに挟まれた15枚目が顔を出してくれたのでありました!




15枚目  鞆町後地 鞆中学校入口 御幸一丁目


海抜54mの地点でした。



背後を振り返ると、瀬戸内海を見下ろすことができました。




ところで、なぜ1枚だけこのような遠い場所に設置されたのでしょうか?
それは、今回の設置場所については、鞆中学校の生徒さんたちが郷土学習の一環として選ばれており、校門への設置も希望されたからだそうです。

校門前でたむろする不審なおじさん3人組でしたが、下校する生徒さんたちは「こんにちは」と明るく礼儀正しく挨拶をしてくれるのでありました。
そしてスキップするかのように軽い足取りで坂道を降りて行きます。毎日の通学で鍛えられているのでしょうね。歳の差を大いに感じた次第です。

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以上、5回に分けての鞆の浦の仁丹町名表示板探訪記でした。

鞆の浦は、正直言って開発から取り残されてしまった町だと思います。
でも、それが、今となっては逆にかけがえのない財産になってしまったのではないでしょうか。
それも、町並みという見かけの姿だけではなく、狭い割には祭りが多いことからも、かつては日本中で見られたであろう人々の結びつきも宝になっているような気がします。

あの情緒ある町並みがいつまでも変わらないとなると、鞆の浦で生まれ育った人たちは、きっとずっと住み続けたいという強い郷土心ができるのではないか、とたった半日の訪問でしたが、そのように思えました。

今回は仁丹町名表示板を見ることが目的でしたが、このままではとてもとても消化不良です。
また改めてゆっくりと寄せていただきたいと思います。

なお、実は探索を一時中断して鞆の浦歴史民俗資料館をみんなで表敬訪問もしています。
森下博の資料を拝見したり、エピソードをお伺いするなど、ほんの短時間でしたが貴重なひと時も持てました。
資料館ではこの秋、「森下博展」が開催されます。

また、今回の記事は、鞆の浦に仁丹町名表示板を設置するにあたり尽力なさった“しまかぜ”さんの『ブログ 鞆の浦日記』も大いに参考とさせていただきました。ありがとうございました。


~おわり~

京都仁丹樂會 滋ちゃん・たけちゃん・shimo-chan

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