全国津々浦々の考証(その9)

京都仁丹樂會

2016年03月29日 03:14

全 国 津 々 浦 々 の 考 証 (その9)
~大津でも木製仁丹発見!!②~


引き続き、大津での新発見についてご報告します。

今回、大津で様々な調査をした結果わかったことの一つは、何と、色使いも鮮明な木製の町名表示板が奇跡的に残されているという情報に接したことでした!なお、近年、物騒な事態が度々起こっておりますため、今回は画像の一部を御紹介させていただくにとどめておきたいと思います。

大きさは縦92cm×横16.5cmで、京都市内の木製及び琺瑯製の町名表示板とほぼ同じですが、横幅は京都の木製・琺瑯のちょうど間くらいといってもいいかもしれません。上部のロゴ、外枠の色はこのようなものでした。



次に示したように、仁丹が発売された明治38年から時代が下っていくにつれ、仁丹の商標は徐々に変化しており、ロゴの大礼服の外交官のデザインが次第に単純化されるとともに、「仁丹」という文字の書体も変化していきます。大正元年ごろに設置されたと思われる京都の木製の町名表示板は、初期のロゴにかなり忠実な詳細な図柄ですが、大正末~昭和初期の京都の琺瑯製の町名表示板や、戦後に設置された大津・大阪の琺瑯製の町名表示板では、森下仁丹が発表している商標の変遷と同様に、ロゴのデザインがかなり単純化されています。その流れからすると、大津で見つかった木製の町名表示板のロゴは、京都の木製の町名表示板よりは明らかに時代が下がることが見て取れます。











細部を見ていきましょう。Aのタスキのような部分(大綬)は、京都の琺瑯製では両端が赤・真ん中が白抜きで表現されていましたが、大津の木製では驚いたことに真ん中に緑色が使われていました。Bの枠は赤枠が3本という京都木製の初期にみられたものではなく、 大正末(新聞広告では大正15年ころから確認できます)から昭和初期(森下仁丹による商標変遷の説明では昭和2年となっています)以降に採用された商標と同じ2本線です。Cの肩章(総付きエポーレットというそうです)も同様に簡略化されています。Dの「仁丹」文字のデザインは、明治・大正期の商標や京都の木製で用いられていた毛筆様ではなく、その後の商標や京都の琺瑯製で用いられている字体に近いものになっています。また、額縁状の枠Eについては、これも驚いたことに赤ではなく、褪色・剥離がありますが青緑に近いような色が使われているのです。 そして、地色は白です。 大津の木製には、京都の琺瑯製の配色やロゴのデザインを彷彿とさせる共通項が多々見られます。


モノクロ写真で気になっていた表示板の下部の不鮮明だった部分、ここには



「火の用心」と書かれていました!

明治以降、売薬業をはじめとする様々な企業によって、新聞や屋外看板などを用いた広告が爆発的に増加しました。森下博により明治33年に発売された梅毒薬毒滅、その5年後に発売された仁丹も、積極的に広告を使用したことで知られています。しかしながらこれら広告に対して、明治末になると景観上の批判が度々なされるようになり、広告物取締法が制定されるに至ります。それら批判や取り締まりの中で、森下仁丹は、取締対象外となる「公益性」のある町名表示板という手法を用いることで、仁丹ロゴのついた看板を設置する事が可能になったのではないか、と考察したことがありましたが(明治期の新聞にみる仁丹広告(7)行政による広告規制と仁丹)、この「火の用心」もまた、町名表示にプラスした「公益性」の表現と言ってよいのかもしれません。

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もう一つの発見は、設置時期に関するものです。仁丹の町名表示板が写っている画像や新聞・雑誌などの資料を使って設置時期をどこまで遡ることができるのか、というのが一つの課題でした。大津市歴史博物館所蔵の画像データは非常に膨大で、限られた時間の中ですべてをチェックすることができたわけではありませんが、数百枚というかなりまとまった数の古写真を確認させていただきました。古写真等の資料閲覧、その検討などでご協力くださった木津勝学芸員には、この場を借りて心より御礼申し上げます。

画像の多くは戦後に撮影された琺瑯製の町名表示板が写っているものでしたが、戦前の写真の中にも仁丹の町名表示板が写り込んでいる写真をいくつか確認することができました。

例えば、平成10(1998)年に大津市政100周年を記念して実施された特別展「家族の一世紀」の図録に収録されている画像の中にも、以下のような2枚があります。

大津市歴史博物館『図録 大津市政100周年記念特別展 家族の一世紀』1998年、p.39


同、p.86

上に示した2枚のうち、「菱屋町商店街の旧景」は昭和10年頃とされていますが、「合併祝賀の花自動車」は、大津市が昭和8年4月に膳所町・石山町と合併した際の祝賀行事を記録した写真ですので、撮影時期がより明確なものです。上部に仁丹のロゴ、その下に町名「菱屋町」「下博労町」が書かれ、下には広く余白部分があります。拡大しても文字は判別できませんでしたが、おそらくこれまでみてきたものと同様に「火の用心」のような文字が書かれていたのかもしれません。

なお、菱屋町商店街の写真とほぼ同じ場所を写したものとして、昭和5年に刊行された『大津商工人名録』に載っている菱屋町の写真にも仁丹の町名表示板が写り込んでいます。

友田彌作(編)『大津商工人名録』昭和5年、大津商工会議所(滋賀県立図書館 蔵)


さらに一枚、今回発見した古写真のうち最も古いものとして、大正14年頃に撮影された大津市内の風景にも、2枚の町名表示板が写り込んでいました。

撮影者不明、大正14年頃の撮影(大津市歴史博物館蔵、使用許可取得済)

これらは大津市街の少し北、皇子山陸上競技場にほど近い観音寺地区に設置されたもので、橋を挟んで右手手前と左手奥に一枚ずつ、仁丹ロゴのついた町名表示板が見えます(赤丸部分)。拡大してみると、上部には仁丹のロゴがあり、その下部分は3文字もしくは4文字程度の字が書かれているように見えます。


種々検討しましたが、字の配置の関係、この画像が撮影された当時の地域の呼称などから、書かれている町名表記は「観音寺」、その下におそらく「火の用心」の文字という構図だと思われます。なお、左手の町名表示板のわきに見える電柱に付けられた看板は「仁丹ハミガキ」、この発売開始は大正12年(1923)です。写真提供者の方によると、この写真は大正14年頃に撮影されたものであるとのことでした。

当初、樂會のなかでは、これら大津の町名表示板は戦後に撮影された画像しか確認できていなかったため、「戦中の鉄材不足により、京都と同様のデザインのものを木製で作成していたのではないか?」という意見もありましたが、昭和初期、次いで大正時代の写真が出てきたことで、少なくとも大正時代にまで設置時期を遡ることができることが分かりました。この時代に大津市内に木製の町名表示板が設置されていたとすると、先ほどのロゴの違いでみたように、大津の木製の町名表示板のデザインが京都の木製と琺瑯製のちょうど間を埋めるようなものであり、むしろ京都の琺瑯のルーツとなるような位置づけになるのかもしれません。大津の町名表示板は非常に興味深い事例であると思います。

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とはいえ、大津市に関してまだサンプルとして確認できた例は少なく、引き続き様々な文献や画像資料から設置時期と設置状況の検討につながるような情報を探し続けていきたいと思います。
また、他の都市にもひょっとすると木製や琺瑯製の町名表示板が設置されたのかもしれませんし、なかには現存するものもあるかもしれません。これからも京都仁丹樂會は「全国津々浦々」をめぐる謎に取り組み続けます!皆様も何かお気付きの情報がありましたら、ぜひ樂會までお知らせください。

京都仁丹樂會 idecchi

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