歴彩館の講演会

京都仁丹樂會

2022年02月18日 19:18

歴彩館における新・京都学講座「~京都のまちかどの近代史~仁丹町名表示板の謎を追う」は無事、盛況のもと終えることができました。参加者のみなさま、スタッフのみなさまありがとうございました。


コロナの感染者が急増したため参加申し込みは1月21日の時点で締切となりましたが、その後も感染者数は増え続け、このままでは緊急事態宣言が出て中止になるのではとか、はたまた自分自身が感染して中止にならないだろうかと、何かと気を揉みました。でも、何とか開催の日を迎えることができホッとしました。





さて、まち歩きではなく、舞台が歴彩館となるとやはり京都の近代史に重点を置いた構成にしなければと考えました。そして、仁丹町名表示板の最大派閥である上京・下京区表示の琺瑯仁丹の設置時期とその時代背景について説明させていただきました。

あれだけ正確な住所で正確な設置を当時の京都市域全体で成し遂げたのだから、それは結果として一種のインフラになったと言ってよいかと思います。となると京都市のまちづくりに注目です。昨年は、当時の京都日出新聞、京都日日新聞、朝日新聞京都地方版すべてのマイクロフィルムを連日頑張って精査しました。そして、何か糸口はないかと探しました。しかしながら、今では考えられないような記事のオンパレード、そちらについつい気を取られがちで、仁丹町名表示板のことを調べているのだぞと言い聞かせること度々でした。

判明した事実を時系列にして、次のような図にすると分かりやすいかと思います。




最大派閥の上京・下京区表示の琺瑯仁丹の設置時期は、大正15年4月1日~昭和4年3月31日までの丸3年の間に必ずあるはずなのです。前者は琺瑯仁丹に使用されている商標が新聞紙上で現実にデビューした日、後者は分区の1日前です。なお、昭和元年は1週間もなかったので省略しています。

期間は3年あると言っても、昭和3年5月の京都市告示第252号(通り名の区間と名称を定義したもの)を色濃く反映していることを考えると、設置はその終盤に偏っていそうです。図の青い円がそのイメージです。しかし、直後に大典記念京都大博覧会があります。どうせなら入洛者が急増する博覧会が始まる9月までに設置を終えたと考えてよいのではないでしょうか。

昭和3年11月の昭和御大典に向けた各界の準備は、昭和2年2月の大正天皇の御大葬の後から、順次具体的な動きとなって新聞紙上を賑わせます。準備期間はおよそ1年半ですが、各種土木工事と並行して博覧会を主催しなければならない京都市としてはわずか1年ちょっとしか期間がありませんでした。一致団結して事に当たらなければならないにも関わらず、市長が3人も変わるなど京都市政は大混乱の時期でした。まさに手に汗握る展開の中、御大典を機に訪れる土地不案内の入洛者のために辻々に住所の表示板があれば便利だろうなどという提案が出る余地など、新聞を追っていく限りでは微塵も感じられません。
しかし、そのニーズはしっかりあったであろうことは、京都市直営の駅前案内所取扱件数などで想像できました。

一方、森下仁丹(当時は森下博薬房)の動きは昭和2年7月に小粒仁丹を発売し、その直後から広告を大展開しています。大正初期に設置した木製仁丹が劣化し、広告物取締法の関係でそのまま放置しておけなかったという事情も前提としてあったでしょうが、前述の時代背景と広告の大展開のタイミングが合うことなどから、昭和2年の後半から設置が始まったのではと推理しています。

講演会の様子は、翌日の京都新聞朝刊で紹介されましたが、そこにある「昭和2年後半から3年9月ごろではないか」というのは以上のような推論からでした。また、当ブログ記事「諸説との比較」でご紹介した駒敏郎氏の“昭和2年に5,000枚”という説にも図らずも近い結果となりました。

なお、翌年、昭和4年4月1日から分区すると多くの仁丹町名表示板の行政区名が不一致となります。それを知りながら設置したのかという疑問が残ります。しかし、市長が分区を決断し市会に提案したのは昭和3年11月27日のことでした。つまり京都のまちを舞台とした国家の一大行事である御大典が無事に終わったタイミングだったのです。それまではとにかく世の中は御大典一色、分区するなど知らないまま設置されたと考えられます。



木製仁丹では次の図をご欄ください。


京都日出新聞の読者投稿欄「落しふみ」では大正元年8月~11月にかけて木製仁丹に対する賛否両論が掲載されています。設置されてから掲載されるまでにはタイムラグがあるはずです。最も古い投稿が大正元年8月なので、設置はその前月だろうか、さらにその前月だろうかと考えると、大正元年8月の前月は明治時代です。まだ裏付けできる資料には出会えていませんが、木製仁丹の設置開始は明治に遡ると考えても無理はなさそうです。

青い矢印で市電撮影とあるのは、歴彩館の「京の記憶アーカイブ」にある「石井行昌撮影資料147」の撮影日の推定時期です。この近辺の写真には木製仁丹が多数写り込んでいるので、大正2,3年には設置を終えていたことがうかがえるのです。

これらから、木製仁丹の設置時期は「明治45年頃~大正2,3年」ではと推定しました。興味深いことにその直前の明治45年1~5月の期間、あれだけ頻繁に見た仁丹の新聞広告が京都日出新聞からパタリと姿を消します。決めつける訳にはいきませんが、その予算を木製仁丹の製作に回した?と勘繰りたくもなります。

また、この設置時期は、京都の街並みが変貌を遂げる時期でもあります。ちょうどその頃、岡崎公園では三大事業の竣工式と市電の開通式が盛大に行われ、以後、道路の拡築と市電の敷設が続きます。つまり、現在私たちが見ているまちの姿の骨格が出現していく時期なのです。設置とまちづくりとの関連性の有無は分かりませんが、時期的には重なります。

しかし、注目すべきは明治44年に公布された広告物取締法です。それまでの屋外広告合戦が景観問題へと発展し、それを取り締まることになりました。京都市内では原則、屋外看板は禁止となりますが、公共性があれば警察署の許可を得れば可という但し書きがありました。それが、木製仁丹へと繋がるのではという見方をしているのですが、森下仁丹さんの社史では“明治43年からは、大礼服マークの入った町名看板を次々に掲げ始めた”とあり、広告物取締法よりも先に?となり、また謎がひとつ生まれました。



会場には森下仁丹株式会社さんのご協力により、琺瑯製仁丹町名表示板が2枚展示用にと貸してくださいました。



さらにご近所の方からも解体現場から救出された表示板をお持ちいただき一緒に展示させていただきました。偶然にも歴彩館と同じ住所です。しかも現在は左京区ですが、「上京区」と大きな文字で縦書きです。行政区名が縦書きのものは、私たちが把握している戦前の琺瑯仁丹1,520枚中、わずか13枚のみという貴重なものです。今回のテーマである京都の近代史の生き証人の飛び入り参加となりました。



また、微笑ましいシーンもありました。講演中、会場の外からガラス越しに見えた仁丹町名表示板を指さして、娘さんに説明しているお父さんの姿がありました。それに気付かれたスタッフさん、見易いようにとすべての仁丹の向きを変えておられました。





以上、講演会の様子のごく一部でした。90分の講演時間を10分ほどオーバーしてしまいましたが、あれでも省略したお話しはいっぱいありました。仁丹町名表示板と京都の近代史との関連性をどこまで持たせるのか、取捨選択に悩んでの結果でした。

まだまだ結論は出ていません。仁丹町名表示板の謎を追うということは、とりもなおさず京都の歴史を勉強することに他なりません。ずっと努力を重ねてきましたが、“仁丹のおじさん”はまだ正解を教えてくれません。今度こそ捕まえたぞと期待した資料に出くわすことも何度かありましたが、いつもスッと逃げられてしまうのです。なんだか、まだ教えてあげない、もっともっと京都のこと勉強しなさいと言われているような気がしています。
~shimo-chan~

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