出現する史料 ~琺瑯編~

京都仁丹樂會

2023年04月27日 10:57

続いて琺瑯製仁丹町名表示板についてです。木製の場合と同じく国会図書館デジタルコレクションからです。

琺瑯仁丹全体の96%を占める上京區、下京區表示のものの設置可能期間は昭和2年半ば~昭和3年半ばにかけてと見ています。それも御大礼記念京都大博覧会の始まる9月に間に合うように一気に設置した可能性が濃厚かと考えています。
<参考> 当ブログ 2022/02/18歴彩館の講演会

これらを補強してくれる史料として、以下のようなものが見つかっています。


昭和13年  『京洛観光写真集 大京都便覧 』

江崎浮山 編『大京都便覧 : 京洛観光写真集』,大京都便覧発行所,昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1150199 (参照 2023-03-06)

主に静岡県を中心として活躍した実業家江崎浮山氏による、京都のガイドブックです。国民総動員法が間もなく発せられるので、京都を良く理解しようというような主旨だと序文には書かれています。題字は当時の京都市長、序文は市会議長や商工会議所など、まるで公式ガイドブックのようです。

このP.69に「京洛昭和風景 市内街頭所見」なる記事があり、つぎのように記されています。

『京都は何と云ふも日本一の観光の都で四季を通じて入洛する観光客は大したもの。それがため京都市役所では観光区域を限定し風致を傷けぬことに極力注意をしてゐる。其の一例を挙げれてみるならば電柱広告を絶対禁止し街の美観を保つことに大馬力をかけてゐるが、唯広告のあるは電車内ぐらいで電柱広告の出来ぬ京都の街で一番目に付くは街角の軒下に貼られたホーロー町名標識記位であらう。これは全部仁丹が町名を記入し旅人の道しるべにして居るが是などは美しい愛市観念の発露として観光客の目にも好もしく感ぜられれ一般からも頗る好評を博してゐる。』

いつの状況を記しているのか明記されていませんが、この書籍が発行されたのは昭和13年なので、その直前の状況を表していると捉えるべきでしょう。ここで言う“電車内”とは市電の車内広告のことだと思います。そして、屋外広告が原則禁止された京都市中において唯一目に付くのが“街角の軒下に貼られたホーロー町名標識記”であり、“全部仁丹”だと言っています。すなわち、琺瑯製仁丹町名表示板が街中に設置されていたことが分かります。明治大正期の資料では街角の溢れんばかりの“海軍帽の商標”に対して批判的な声もあるのですが、ここでは観光客にも市民にもすこぶる好評を博していると全面肯定しています。

また、この書籍には協賛スポンサーのように多くの企業が広告を載せていますが、そこに仁丹もありました。



白川女と五重塔をあしらったデザインで、「史蹟の國京都之行楽に仁丹」なるキャッチャコピーです。京都観光にターゲットを絞っているのなら、琺瑯製の美しい町名表示板を辻々に設置したから安心せよ、とアピールもして欲しいところです。堂々と自慢してもよいと思うのですが、今のところそのような史料に出会えていません。この頃の仁丹の種類には赤大粒、赤小粒、ローズ、銀粒、麝香の5種類があり、全国の薬店、売店、煙草店、各駅とあります。

また、金言ではないものの「昭和の常識」として「旅行に郵貯の通帳持ち行き先方の局で貯金せば、貯金と記念印が同時に出来、好趣味」と、仁丹ケースと同様、コレクターの心をくすぐるようなことが紹介されています。いわゆる旅行貯金、一円貯金のことですね。


昭和6年 『実際広告の拵へ方と仕方』

内田誠, 片岡重夫 著『実際広告の拵へ方と仕方』,春陽堂,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1177015 (参照 2023-03-13)

これは様々な広告手法に関する、実務者向けのノウハウ本のようです。そのP.109、看板の章の屋外看板のうち辻貼看板なるものが紹介されていました。

『琺瑯製、又は鉄板ペンキ塗の小型看板を、街路の要所々々や四辻、家屋の羽目板等へ貼付するのだが、単に商品名や商店名を書いたものより、公益的文句例えば金言を加え、町名や通りの名を標示してある如きもの、或いは「左側通行」と書いたもの、「往来安全」の電燈を一燈奮発して、それに宣伝の文字を併用すること等が一層効果的である。』
とあります。

どこにも“京都”や“仁丹”なる語句は出てきませんが、街路の要所要所、四辻、家屋、町名、通り名といえば、これはもう京都の琺瑯仁丹を念頭に書いているとしか思えません。金言については仁丹の電柱広告のことでしょうが。昭和6年発行の書籍ですから、それまでには京都の琺瑯仁丹が存在していたことがうかがえます。

さらに、『添付の場所、数等はそれぞれ其広告の性質から考慮して決定すべきである。警察署への届出と、打付ける場所の権利者、家屋の所有者へ諒解を求め場合によりては多少の御礼をすることを忘れてはならぬ、』と続きます。

「ホーローの旅」(2002年8月10日発行、著者泉麻人/町田忍)には、戦後の話ではあるものの金鳥の琺瑯看板の設置に際して、お礼に金鳥蚊取線香2箱を進呈していたという聞き取り調査が紹介されています。しかし、昭和初期の京都の琺瑯仁丹ではどうだったのでしょうか? 設置場所はピンポイントで限定されています。了承を得られなくても、そこに貼らせてもらわなければ困ります。いちいち承諾を得ながら設置したのだろうか? 御大典があるからとか警察のお墨付きをもらっているからとか一方的に設置したのだろうか? またお礼に仁丹を配ったのだろうか? 住民の気持ちはどうだったのだろうか? ピカピカと輝く琺瑯看板はむしろ歓迎されたのだろうか? 色々と想像を巡らせてしまいます。



昭和5年 『京都市大礼奉祝誌』

京都市 [編]『京都市大礼奉祝誌』,京都市,1930. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1905139 (参照 2023-03-13)

昭和3年11月に行われた昭和の御大典について、京都市役所がまとめて昭和5年2月11日(紀元節、仁丹発売の日)に発行したものです。先の3つの史料は文字としての情報でしたが、こちらは写真による情報です。写真だけの頁には頁数がないのですが、P.556の後に何枚もの写真頁があり、その中の1枚が次のものです。



キャプションには「逓信省臨時出張所(京都中央電話局)」とあります。そして、右側の門柱のすぐ右側に、おや?と反応してしまう縦長の白い物体が写っています。まるで何度も見てきた琺瑯仁丹みたいです。でも、商標がありません。


しかし、拡大して目を凝らしてよく見ると、上にお馴染みの飾り罫線があり、その下に右横書きで「區京上」、さらに「東洞院通三條上ル」、そして数文字の町名が書かれていますが、そこまではこの解像度では判読できません。これはまさに琺瑯の仁丹町名表示板! おそらく上端の仁丹の商標は大礼奉祝誌としては不適切とばかりに印刷原稿から消されたものと考えます。当時の地図によれば、京都中央電話局は東洞院通三条上るの西側にあり、町名は曇華院前町にありました。そう思って改めて写真を凝視すると曇華院前町と読み取れそうです。字数も合います。すなわち写真に写っているのは「上京區東洞院通三條上ル曇華院前町」の琺瑯仁丹に間違いないようです。そして、そこは中京区の初音学区。中京区では城巽、龍池、初音の隣り合う3つの学区のみ、商標が上端にあることからも納得です。

撮影場所は、現在の中京郵便局の東洞院通を挟んだ西側の少し北、すなわちNTT西日本京都支店の敷地になります。次の写真の矢印辺りです。





昭和6年 『大礼奉祝會記要』

『大礼奉祝会記要』,大礼奉祝会,1931.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1885589 (参照 2023-02-04)

先の「京都市大礼奉祝誌」は京都市が発行したものですが、これは当時の京都市長土岐嘉平が会長を務め、京都の政財界で構成された京都市大礼奉祝会がまとめたものです。発行は昭和6年1月15日、所在地は京都市役所内となっており、公的資料と言ってもよいでしょう。

これもまた写真の頁には頁数がないのですが、P98と99の間にある何枚かの写真のうちの1枚がこれです。


キャプションは「大国旗掲揚(中京方面)」とあり、大きな日章旗が掲げられ奉祝の人々も大勢写っていることから、天皇が御所に到着される前後かと思います。そして、左の家屋の2階に大礼服を着た髭のおじさまが紛れもなく写っているのです。小さく写っているだけなので、前回の例のように消されることなく、そのまま印刷されたのでしょう。



では、この場所はどこなのか? 解像度の悪い写真を拡大したところで、改善はしないのですが、“中京方面”とは中京区に向かって撮ったということでしょう。全体から受ける印象は何となく御所から南を撮った? だとすると丸太町通? そのように読めそうです。続くは字数から”堺町東入”か?

現地を訪れてみました。そして、やはりここでした。堺町御門です。


堺町御門から南を、すなわち中京方面を撮るとこうなります。


まさか当時の光景が今なお残っているとは思いませんでした。琺瑯仁丹が設置されていた家屋も、さらに右側に写っていた木造3階建ての家屋も残っていました。2009年10月のストリートビューを見ると分り易いです。

したがって、この写真に写り込んでいる琺瑯仁丹は「上京區丸太町通堺町東入鍵屋町」に違いありません。字数や面影も一致します。また、富有学区なので商標は下端、セオリーにも矛盾しません。それにしても、堺町御門の目の前によくぞ掲げられたものだと驚きます。




以上のことから、まだ”昭和3年9月の大礼記念京都大博覧会までに設置された”という仮説までにはまだ2カ月ほど届きませんが、少なくとも御大典までには設置されていたことは補強されました。
~shimo-chan~

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