仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」 ⑨琺瑯仁丹の始期

京都仁丹樂會

2012年05月20日 11:00



~大正時代にすでに設置されていた~


昭和4年までに何千、もしかしたら万に達するかもしれない数が設置されたであろう京都の琺瑯製仁丹町名表示板。この大きなエネルギーと昭和の御大典とを結び付けて考えたくなるものですが、琺瑯仁丹の設置は実は昭和の御大典を動機としたものではなく、大正時代にまで遡ることが確認されました。

2010年10月21日に「京都ずんずん」でも紹介しましたが、京都府立総合資料館に『写真集 京の町並み ~田中泰彦編・京を語る会~』なる資料が所蔵されています。これは京都の草分け的な民族学者田中緑紅が撮影した写真をまとめたもので、その中に清水産寧坂の様子を記録したものがありました。撮影は大正14年2月18日とあります。次の写真です。


いかがでしょう。私たちが瞬時に反応してしまう白い長細い物体が写っているではありませんか。近づいてよく見てみると紛れもない琺瑯製仁丹町名表示板です。
町名は「清水二町目」と読み取れます。そして、小さな文字が数個続き最後にあの商標が確認できるのです。

「基礎講座 3.表記方法 ④併記仕様」でご紹介しました
   【併記仕様】 行政区名+町名+通り名1+通り名2+方向+商標
のパターンのようです。

残念ながら、小さな文字までは判読できないのですが、おそらくは
   「下京區 清水二町目 産寧坂通松原上ル」
であったであろうと思われます。

さて、この大正14年撮影とされる写真に、はたして琺瑯仁丹が写り込む可能性はあるのでしょうか?念のため検証してみました。

琺瑯仁丹に使われている「仁丹」なるデフォルメされた文字は、先の基礎講座六「設置時期」⑥木製仁丹の終期で紹介した大正11年撮影の広告塔が示すとおり、早くとも大正11年以降ならばその出現は可能でした。

一方、技術面実用面からはどうでしょう。
日本琺瑯工業連合会発行「日本琺瑯工業史」によると、琺瑯看板としては大阪では研究の末に大正5年に製造開始され、その後は技術進歩とコストダウンが図られて大正14年には数か所の工場が存在したとされていますので、こちらも大正後期からならば十分に可能であったと言えそうです。しかも森下仁丹のお膝元である大阪本社のすぐ近くにも工場が複数存在していたことが分かりました。

ということで、何ら矛盾はないことが確認できました。またさらに、田中緑紅は古写真の資料化にも力を注いでいたとのことですから、撮影年を記録するという重要性を十分に理解していたであろうし、信ぴょう性は高いと思います。

以上のことから、琺瑯仁丹の始期はマックスで大正11年頃から昭和4年4月1日までの間に存在すると考えられるものの、現時点で発見できている資料からすると、その始期は少なくとも大正14年2月となります。
そして、動機が昭和の御大典ではなかったものの、どうせなら御大典の昭和3年11月、いやもう少し突っ込んで博覧会の始まる昭和3年9月までにはひととおり設置を終えていたと推測するのが自然ではないでしょうか。

【琺瑯製の設置始期】   遅くとも大正14年2月
【琺瑯製の設置ピーク】  遅くとも昭和3年9月までか?

写真を根拠とするときは、常に撮影年月日が間違いないのかという問題が付きまといます。始期の補強および明確化もしくは更新のため、今後もさらなる資料や古写真を探求しなければなりません。


※2012.7.22誤記訂正  【琺瑯製の設置ピーク】 遅くとも昭和3年6月までか? → 9月に 

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