永遠のテーマ 設置方法

京都仁丹樂會

2012年07月14日 20:57

~当記事は6月30日にアップした同名記事をリニューアルのうえ、再アップしたものです~



記録らしい記録が全くと言ってよいほど残っていない、謎だらけの仁丹町名表示板。
基礎講座シリーズでは、それを「現状」と様々な「資料」から解き明かそうと試みました。そして、ある程度の結果が得られたのではないかと思います。

しかし、そのような手法ではどうしても解決できないであろう、迷宮入り確実ではないかというテーマもいくつかあります。もうみんなで寄って集って想像するしかない、そんな「永遠のテーマ」をいよいよ扱って行きたいと思います。

先ずその第一弾は、 「設置方法」 です。

京都に設置された琺瑯仁丹は、数千、もしかしたら万にも達するかというような膨大な量です。
しかも、住所表記は詳細で、柱のどの面に付けるかも決まってしまうほどの繊細さです。
これらを大阪の森下仁丹はどのように設置していったのでしょうか?その手法、ノウハウを想像を巡らせて考えていきましょう。
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もし、今、同じようなことをするなら、次のような手順を踏むのではないでしょうか?

先ず、行政上の手続きが必要かどうかを調べ、必要であれば行う。
そして、設置するべきポイントを選定する。
一方的に選定しても、協力が得られなければ設置できないので、事前に家屋の所有者に承諾を取る。また、住所の表示がこれでよいのかという確認もする。通り名を使うエリアにおいては、設置場所が限定されるので、特に承諾と表示のチェックが大切でしょう。
以上が整って初めてGOサインが出たことになり、いよいよ表示板を発注して制作する。
完成したら現地へ持っていき、取り付ける。

今回の平成の復活バージョンでは、先ず設置希望の町内会を募集し、そして選定。住所表示をチェックしてから制作、そして完成品が宅急便で現地へ送られ、設置も現地でお任せといった手順でした。

しかし、昭和の初期という環境において、大阪にある森下仁丹が果たしてこのような手間のかかることを行ったでしょうか?
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この永遠の謎に対し、昨年6月、「京都仁丹樂會について」のコーナーで、ずんずんさんと酒瓮斎さんによる、非常に興味深いやりとりがありましたので、この場で改めて紹介させていただきます。

2011年06月15日、ずんずんさんが次のような仮説をコメントとして披露してくださいました。これを「リヤカー説」と名付けたいと思います

【リヤカー説】
無地の琺瑯仁丹をリヤカーに積んで市内を巡り歩きながら、現場で住所を書いて、すぐに設置していった。


その根拠はこうです。

(1) 仁丹の住所表記と、設置場所の関係が、非常に繊細であること。
大量かつ繊細な住所表記のものを看板工場ですべて完成させてから出荷していたのでは、設置場所へ正しく運び届けるだけでも相当な苦労であり、まして、事前に工場に対してそれだけの施工指示書を作らなくてはならない。

(2) 京都の仁丹町名表示板だけ、住所の文字が釉薬による琺瑯でないこと。
伏見市・大津・奈良・大阪の住所表記の部分は琺瑯処理されているが、京都はされていない。それは、他都市の住所が至って簡単であり、例えば一町に3枚設置と決めてしまえば、工場で同じものを3枚ずつ製作し、琺瑯処理を施してから出荷することができた。


いかがでしょう、このリヤカー説。
最初は正直なところ、なんと無計画で非効率的なという印象を持ちましたが、よくよく考えてみれば、京都の場合はむしろこの方法こそ極めて現実的かつ効率的だと考えるに至りました。
今日はここ、明日はこのエリアと計画して、練り歩くわけです。私たちも似たような方法で余暇を利用して仁丹探しをしたことを思えば、毎日毎日仕事として練り歩けばできるではないかと。

これに対する酒瓮斎さんの2011年06月16日のコメントは、このリヤカー説をさらに鮮明に浮き出させてくださったと思いますので、次にご紹介します。
『出向いた現場で無地の琺瑯表示板に住所表記の部分を書き入れ、その場で次々に設置していった。そのため、文字部分の琺瑯化を省略した。(せざるを得なかった?)そのように柔軟な作製・設置方法をとったことにより、個別の設置地点と表記がピッタリとそぐうものとなり、また、膨大な枚数の作製と設置を可能とした。私は、文字部分が流れてしまって殆ど消えているものや薄くなっているものを何枚も見て、琺瑯にしては粗悪な造りだなあと思っていました。しかし、琺瑯処理は下地だけで文字は素ということならば、年寄りの厚化粧のようになってしまうのも、宣なるかな-当然そうなりますよね。設置にあたっては、前もってその地域(町内会など)にきちっと申し入れて、許可を得ると云うようなことは無く、出向いた先の家々で個別に依頼し了解をとった。また、頼まれる方も別に固いことは云わなかったのかも。仁丹町名表示板の設置時期は、大正ロマンー古き良き時代の雰囲気を幾分かを残しながらも、時代の不安を覚えさせるような昭和初期ですね。そのような時代、おっしゃるような遣り方で進められたとすると、頼む方と頼まれる方の関係と云ったものに、なにかこう、ほのぼのとしたものを感じます。何か特別な感慨と云うか情緒を催す説のため、直ちには、瑕や欠点を探す気がしません。』


リヤカー説には、もう少し補強説明をさせていただきたいのですが、長くなりましたので、次回にコメントとしてご紹介します。

~つづく~

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