仁丹と文学散歩 ~その9 木下 杢太郎 ~

京都仁丹樂會

2015年12月20日 21:27

仁丹と文学散歩 ~その9 木下 杢太郎 ~


旧制高等学校生の太田正雄は、農夫生活の作詞を機に、『樹下に瞑想又は感嘆する愚なる農夫の子』の意味で「木下杢太郎」と名乗りました。その後東大医学部に進んだ杢太郎は、明治43年3月29日から4月3日の6日間、関西に滞在し、その時の印象を紀行文『京阪聞見録』(三田文學会、1910年)にまとめました。神戸の名所絵を見るような異人館に幻滅し、町人という一階級しかないような大阪に雑踏酔いした杢太郎の目には、訪れた京都はひとえに他郷人のために町の計をなしているように見え、異人たちが無抵抗に溶け込んだ風景に驚きを覚えます。都踊が始まるまでの時間つぶしに入った鴨川の四條橋畔のレストランから、河原で繰り広げられる友禅流しの作業を眺め、職人の鮮やかな手捌きと、流れに遊ばれる友禅ムスリンの躍動を、科学者らしい緻密な分析で綴っています。その風景とは、

目の下に見える四條の橋を紹介しよう。「嶋臺」といふ酒薦の銘が大杉に向河岸の屋根を蔽うてゐる。そこに赤い旗があつて白く「豊竹呂昇」と染め抜いてある。まだ燈の點かぬ仁丹がものものしげに屋根の上に立つ。欄干の電燈の丸い笠は滑石の光澤で紫色に淀んで居る。その下を兵隊が通る。自動車、人力、荷車、田舎娘の一群が通る。合乗に二人乗つた舞子の髷が見える。かみさんの人が下女を連れて芝居の番附を澤山に手に持つてゐるのが通る。二人の女に、各一人の男が日傘を翳しかけてやつてゐるのが通る。あれは祇園の家々の軒を「ものもお、ものもお」と紙を配りながら大聲で誰とかはんのお妹はんが云々と呼んでいく人達であらう。(中略)。ああ河岸にはじめて燈が點いた。予等は之から歩かねばならぬ。「おお、ねえさん、それぢや勘定!」(四月三日、京都にて。)





杢太郎の京都滞在と同時期の明治43年7月11日消印の絵葉書「京都四條磧夕涼」には、南座前の河原で、燈が入って酔客を抱えた夕涼みの屋形船や出店を跨ぐようにして、大形な大礼服の仁丹看板が二本の柱で屹立しているのが見えます。杢太郎が見た名酒の看板や女義太夫興行の幟旗もこの華やいだ雰囲気の奥に沈んでいるのでしょう。胸元の「仁丹」に煌々と燈が入り、川面を照らした二文字が、水の流れでかき消される様が、いかにも涼しげです。杢太郎はあたりが暮れなずむ頃に、勘定をして店をあとにしましたが、果たして仁丹の電飾を見ることができたのでしょうか。

次回は、島崎藤村 を訪ねてみましょう。

~京都仁丹樂會 masajin~


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