仁丹と文学散歩 ~その10 島崎 藤村 ~

京都仁丹樂會

2016年02月21日 17:15

仁丹と文学散歩 ~その10 島崎 藤村 ~
  

56歳の大正12年、藤村は脳溢血で倒れました。その後保養が欠かせなくなった藤村は取材を兼ねて足繁く旅行に出かけるようになります。翌年から取りかかる『夜明け前』の準備の寸前旅行として、次男で欧州留学を控えた二十歳の雞二を同行して、昭和2年7月に山陰に向かいました。その翳りある語感とは裏腹に、ふくよかな人情と風情を包摂する「山陰」は藤村の視線を独占しました。この時の滞在記が『山陰土産』(昭和2年、大阪朝日新聞連載)です。



城崎の湯船で聞いた北但馬地震からの復興の残響も冷めやらぬまま、境港から港間を継ぐ定期船に岡田汽船会社の社員らと乗船した両名は、疲れきった筋肉や神経を清く新たにするような日光と海風が身に浸み渡るのを覚えながら、やがて凪の出雲浦を過ぎ、波立つ外洋の雲津、七類へ差し掛かります。

鯨ヶ浦を過ぎ、雲津を過ぎた。[中略]岡田丸では、舳に立つ老船長が自分で舵機をとつて、舵夫の代理までも勤めてゐるが、それが却つて心易い感じを乘客に與へた。何となく旅の私達まで氣も暢び々々として來た。
 いつの間にか同行の古川君の顏が甲板の上に見えなかつた。同君も船に慣れないかして、船室の方へ休みに降りて行つたらしい。そのうちに、鷄二もうつとりとした眼付をして海の方を眺めてゐるやうになつた。
「どうしたい。」  「なんだか僕もすこし怪しくなつた。」  「こんなおだやかな海で醉ふやうなことぢや、船には乘れないな。」
 私は渡邊君から分けて貰つた
仁丹などを鷄二に服ませ、少し甲板の上を歩いて見ることを勸めた。


~大正3年5月1日 大阪毎日より~


明治38年の発売以来、「健胃」や「毒消」の能書に加えて、病気でない人の必携剤、少時も懐中を離すべからず、といった類の群発広告による「仁丹効能」の刷り込みが奏功し、車船中でのありふれた“胸の不快感や酔い止め”と“仁丹必携”との短絡的な意義付けが、当時日常的に認識されていたようです。船酔いした雞二のような「無病の人」に同行者が何の躊躇もなく、至極自然に仁丹を勧める情景がそれを物語っています。大阪駅を端緒とした山陰の旅は、十六話の津和野で中学の友人たちと酒を酌み交わし、暮れ行く停車場で、発車が迫った小郡行の汽車に乗り込むところで終わります。山陰記の余韻を残したまま、藤村は大作『夜明け前』に対峙しはじめました。

次回は、加能 作次郎 を訪ねてみましょう。
京都仁丹樂會   masajin


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