仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」⑫琺瑯仁丹の終期

京都仁丹樂會

2012年06月16日 18:30



~ 琺瑯仁丹の終期は昭和10年か? ~


京都市における琺瑯製仁丹町名表示板の設置は、ヨンヨンイチ(昭和4年4月1日)までにピークを迎え、ロクヨンイチ(昭和6年4月1日)で周辺部の追加を行って、これで設置は基本的にはすべて終了したと考えられます。だから終期は昭和6年もしくは7年かと言いたくなるのですが、そうではなかろうという非常に興味深い表示板を2点ご紹介します。

先ずは、 東山区 一橋宮ノ内町 です。



ヨンヨンイチでは京都市のエリアはそのままに、分区という形で中京・左京・東山の各区が誕生しました。東山区の場合は旧下京区域からの分区でしたので、すでに「下京区」の行政区名で設置済みでした。

しかし、一橋宮ノ内町は 『 東 山 区 』 で表示されているのです。

最初は、「②注目の上京下京時代」でご紹介しました「堺町通竹屋町上ル橘町」の中京区と同じく巧みに改変されたものだろうと思ったのですが、接近してじっくりと観察してもそのような痕跡は一切なく、最初から「東山区」と書かれているのです。



調べてみると、一橋宮ノ内町は元々は「下京区柳原宮ノ内町」だったのが、昭和8年5月1日に「一橋宮ノ内町」へと町名変更されていました。隣の野本町も同様の経過で町名変更がされており、この宮ノ内町と同じく東山区表示の琺瑯仁丹が存在していたことも確認できています。

従来、行政区名や町名が変わっても森下仁丹としては対処してこなかったところを見ると、これらは町内からの要望があってのことではなかろうかと想像します。
となると、設置時期も町名変更早々であるとするのが自然でしょうから、昭和8年設置ではと推定できます。

ところで、この2町については「下京区柳原宮ノ内町」や「下京区柳原野本町」と表記された琺瑯仁丹が当然ながら存在していたのではないかと考えられるのですが、果たして真相はいかに?ですね。

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次に、もうひとつ、琺瑯仁丹の設置終期を考えるうえで貴重な個体があります。同時に非常に難解な表示板でもあるのですが。これです。




上賀茂 南野々神町 俗稱 北山町一丁目  です。

何とも不可解な表示板ではありませんか。
行政区名は上京区かと思いきや“上賀茂”となっています。おまけに”俗称 北山町一丁目”?

この表示板はすでに消滅してしまいましたが、設置されていたのは北山通の府立資料館とノートルダムの間の南側でした。現在で言えば左京区下鴨南野々神町です。

左京区下鴨南野々神町は、昭和24年2月末日までは上京区上賀茂南野々神町でした。さらに遡れば上賀茂村となります。上賀茂村はエリアを2つに分けて、大正7年4月1日と昭和6年4月1日にそれぞれ京都市上京区へ編入されており、南野々神町は前者の大正7年組でした。

では、当時の地図を順次見ていきましょう。
これらの地図は京都市の都市計画地図ですから、タイムラグが少なく当時の状況をほぼ正確に反映していたと考えて間違いないでしょう。

先ずは大正11年測図です。
印が、まさにこの表示板が設置されていたポイントとなるのですが、大正11年当時はまだ田畑ばかりであり、京都市と言えどもとても市街地ではなかったことが分かります。左に植物園があり、北山通はまだ開通していません。そして右下には明治23年開通の琵琶湖疏水分線が見られます。


都市計画京都地方委員会 大正11年測図 「上賀茂」 より抜粋


次は昭和4年修正測図です。
突如として整然な道路網を配したエリアが出現しました。周囲は従前のまま変化がありませんので、この区域のみ区画整理が施工されたことが分かります。北山通は予定地が点線で示されているのみでまだ存在せず、また仁丹を設置しようにも家が建っていません。また、現在の町名と同じ名称の地名が見られますが、その町界は従前のままであり、整然な道路網に合致させるような町界の整理はまだ行われていません。


都市計画京都地方委員会 昭和4年修正測図 「上賀茂」 より抜粋


現在、このエリアの真ん中に位置する萩ヶ垣内町の萩児童公園内に次のような石碑があります。洛北土地区画整理竣工記念碑です。



裏面には漢字でぎっしりと事の成り行きが記されており、これと昭和10年発行「京都土地区画整理事業概要」の内容とをまとめると、洛北土地区画整理組合は昭和2年11月に設立、事業の範囲は東は泉川、西は鞍馬街道(下鴨中通)、南は疏水分線、北は松ヶ崎街道の76,000坪余りであり、昭和3年6月着工、昭和5年4月竣工、そして残務整理の後昭和9年4月3日に竣工祝賀式を迎えて記念に石碑を建立した、となります。また、昭和9年には北大路通に市電が開通し、上下水道やガスなどインフラ整備も完了していたようです。

そして、次の地図は昭和10年修正測図です。


京都市土木局都市計画課修正 昭和10年修正測図 「上賀茂」 より抜粋

家も立ち並び、この頃ともなれば仁丹の設置も可能だったであろうと推察できます。したがって、問題の「上賀茂 南野々神町 俗稱 北山町一丁目」の表示板の設置時期は、どうやら昭和10年頃かそれ以降というひとつの手掛かりが得られました。

また、北山通は全通していないものの本格的に姿を見せ始め、区画整理は昭和4年の地図と比べると南下し、”文化村”と称されたエリアとも連続性を持つようになっています。

下鴨神社から北大路にかけてのエリアは先に「郊外」として発展し、多くの学者や芸術家が好んで居住したことから”学者村”とか”文化村”などと呼ばれたそうです。町家が並ぶような旧市街と明らかに一線を画した街並みと雰囲気が形成され、そのような態様がそのまま北部へと膨らむことが想定されたのでしょう、先の「京都土地区画整理事業概要」では、洛北土地区画整理事業の項で、京都市における区画整理区域では随一の高級住宅街として発展していくだろうと、その期待が込められています。

そのとおり、確かに現地は高級住宅街に発展しました。ほとんどの家屋はすでに建て替えられていますが、それでも昭和ひと桁の匂いが色濃く残る外構などから当時の地域の様子が伝わってきます。ただ、仁丹が設置されていたとはとても思える雰囲気ではないのですが。

さて、再び、「俗稱 北山町一丁目」なる表現のことです。
俗称と言うからには、公称ではなかったことを意味するわけですが、以上のような背景を考えると、今までの京都ではない新京都という自負も込めて、ちょっと洒落た呼称を地元が望んだのでしょうか? あるいは開発業者が先導したネーミングだったのでしょうか? 想像は色々と浮びます。真相解明のため、思いつく様々な文献や資料をあさってみましたが、もう一歩ということろで今のところ手が届いていません。

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しかしながら、求めている答を示唆するような資料には2つ出会うことができました。

そのひとつは、昭和6年11月発行の「京都の都市計画に就いて」です。
これは区画整理施工後の地域について、改めて町名や町界を見直そうと当時の各界第一人者を集めた「町界町名地番設定調査委員会」の議論をまとめたものです。今で言う審議会の答申のようなものなのでしょう。確かに整然とした街並みが出現しても町界がぐちゃぐちゃでは区画整理が完成したとは言えません。新名称の選定には伝統を保持しつつ新京都に相応しいものであり、町界や住所表示は新たな道路網を生かすことが当然ながらスタンスとなっていました。
その中に、次のような非常に興味深い下りがあったのです。

三、町界町名地番の標示

町界及各辻角に町界町名地番の標示をなす

(理由)
旧市街に於いても既に各町の要所々々に仁丹製薬会社の町名標示板を用ひつつあるも、本案の如く新市街がブロックの中心線より町界を定むる場合に於いては斯くの如き標示方法は特に必要なりとす

これは北大路通の北、鴨川の西エリアに関する項での記述ではあったのですが、仁丹町名表示板が公的な文書に登場していたということもさることながら、同時に仁丹町名表示板がすでに市民権を得ていたこと、調査委員会が町名の表示方法として選択肢のひとつであるかのように例示していたということは非常に重要なポイントとなります。つまり、宣伝活動として森下仁丹側から積極的に設置したというよりも、地元からからのオファーもあり得たとも考えられるのではないでしょうか。

そして、もうひとつの資料は、京都府立資料館の「京の記憶ライブラリ」にて公開されている「京都市明細図」です。
これは大日本聯合火災保険協会京都地方会が昭和2年に作成した住宅地図のようなもので、その後の変化を加えながら昭和25年頃までの状況が記録されています。一昨年に公開され、五条通や堀川通の建物疎開前の状況が分かるというので新聞やテレビなどでも話題になり、記憶に新しいところです。

この一連の資料群の中の「京都市明細図NE25」では下鴨北園町の様子が記録されているのですが、東西の通りが北部より順に北園町一丁目、二丁目と続き六丁目まで名称が付けられているのです。ちなみに、この二丁目が今で言う北泉通です。

となれば、北山通を北山町一丁目として、東西の通りを南へ順に北山町二丁目、北山町三丁目と呼ばれていたということが十分に考えられます。

それを確認するには京都市明細図NE25のもう1枚北側の明細図を見たら分かるのでしょうが、これがあいにく欠落しているのであります。Webで公開がされていないだけで実は存在しているのかもと問い合わせたのですが、やはりないとの返事でした。もう一歩ということろまで迫ったのですが残念です。
どうやら上賀茂や松ヶ崎とのラインが北限のようですね。

実は、先の「京都の都市計画に就いて」では、町割は新たな街路で作られるいくつかのブロックで構成し、その中央を通る道路に「公称名」を与え、その1本北の通りは例えば○○北通、南は○○南通りなどといった「通称名」を使用させ、しかも通り名と町名を同じにするべし、などとの提案もしているのです。そして、新町名が続々と登場するだろうとも言っています。

これは旧市街における通り名を組み合わせた上に町名を付けるという表示方法は非常に煩雑で非効率的であるが、特定しやすいというメリットもあると認め、新市街ではそれらの良いとこ取りを行おうとしていたようです。ただ、これは昭和6年の時点でのことですから、その後どのように推移したかは研究不足で分かりません。紫竹界隈ではなるほどと思える節もあるのですが、やはり地域によって様々な事情があったのではないでしょうか。

ということで、断片的な資料からあまり想像を膨らませては確度が下がるのですが、もしかしたら洛北土地区画整理エリアのうち、南部は北園町で、北部は数個の小字を”北山町”に統合しようという動きがあったのでは?と連想してしまいます。結果は、北山通以南では町名の統廃合をせず、町界をすっきりと街路に合うように見直しただけとなったようですが。

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以上、まだまだ解明不足ではあるのですが、この「上賀茂南野々神町 俗稱北山町一丁目」なる個体は、様々な課題を与えてくれました。現在のところ最後の琺瑯仁丹の設置になるのではないかと考えられます。そして、それは昭和10年頃であろうと。
また、”俗稱北山町一丁目”については今一歩というところで未解決のままですが、地元からの要望に応じたものであろうと現在のところ考えられます。

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