智恵光院通(3/4) ~仁丹町名表示板に見る近代史~

京都仁丹樂會

2014年02月28日 20:43

智恵光院通の3回目です。
前回は大徳寺前から智恵光院通を下がり、鞍馬口通を越えたあたりまでのお話しでした。

さて、今回は智恵光院通をさらに南下し北区から抜けて、上京区へと入ります。公称としては必ず通り名を使わなくてはならない上京区です。もし、この通りに面して仁丹町名表示板があるならば、必ず「智恵光院通」なる表記を最初に書かなくてはなりません。

しかしながら、仁丹は存在せず、すぐに東西の通りである廬山寺通と交差してしまいました。

かつてこの近辺で見つかった仁丹町名表示板は、廬山寺通智恵光院西入に「西社町」が、同じく東入に「中社町」がありました。次の2枚です。


おやおやどうしたことでしょうか? いずれも智恵光院通の名が出てきません。

「西社町」は“聖天町西入”となっています。聖天町通なる名称を持った通り名がかつて存在したのでしょうか? 確かに近くに聖天町はあります。
一方、「中社町」は “大宮西入二丁目” とずっと東にある大宮通から導いています。

ちなみに「西社町」のこの仁丹、かつてこのお寺(徳寿院)に設置されていました。


過去形にしなくてはならないのは、盗難に遭ったからです。仁丹の跡が日焼けせずに残っているのが写真からお分かりいただけるかと思います。その後、ネットオークションに流れ、今はとある有名な琺瑯看板研究家の手元にあります。

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智恵光院通が出てこない、同様の現象は、もう1本南の交差点近辺でも見受けられました。
あいにくこの東西の通りには名称がないのですが、西入に「歓喜町」、東入に「西千本町」があります。このうち「西千本町」に次のような2枚の仁丹がありました。


またまた智恵光院通の存在を無視するかのように、遠くの大宮通から導いています。それもわざわざ ”上がって、西入って2丁目” です。
ちなみに左側の仁丹は家の建て替えのため姿を隠しましたが、町内で大切に保管されています。いつの日か再び現役復帰するかもしれません。

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さて、この近辺の様子は次の地図のとおりです。


~京都市都市計画地図「船岡山」昭和4年 より~


青いラインは実線も点線も含めて、現在で言うところの「智恵光院通」です。
の西社町の表記に使われている聖天町通とは赤および青の点線のことだと考えられます。
でも、のポイントには今も聖天町の仁丹がありますが、話の流れからすると “聖天町通上立売上ル” とあって欲しいところですが、「上立売通智恵光院西入上ル」と青い実線の智恵光院通から導いています。聖天町自らが聖天町通を使っていません。聖天町通を使うよりも、上立売通と智恵光院通を使った方が分かりやすいと判断したのでしょうか。

ところで、面白い現象がありました。
青の実線の智恵光院通を南から上がって行けば寺之内通の大猪熊町で突き当り、続きはとなると寺之内通を少し西へ入れば見つかります。

ところが、点線部分の智恵光院通を北から下がってきて、寺之内通と出くわしたところ、ちょうどの箇所に来たとき、当然のことながらそのまま智恵光院通は南へ続いているとしか思えません。その眺めはこのような感じです。


構わずにそのまま直進してみると、のポイントに仁丹ではなくナショナルの表示板ですが、「智恵光院通寺之内下ル聖天町」がありました。
見やすいように改めてアップするとこのようなものです。


色褪せて読みにくいので、色調やコントラストなどを変えて文字を浮き立たせてみました。余談ですが、ナショナルハイファイラジオってあったのですね。

本題に戻りますが、つまり並行する区間で両方とも “智恵光院通” を名乗った時代があったようです。

このことについて前回挙げた『角川日本地名大辞典』では、智恵光院通の項目で
『上立売通からはこの筋の西に並んで北へ大徳寺の門前に至る通りがあり、かつてはこの通りの南端に西陣聖天と呼ばれる雨宝院のあることから、聖天町通と称したが、現在はこの筋も含めて智恵光院通という。』
なる解説が続いているのです。

どうやら本来の智恵光院通はやはり寺之内通までであって、仁丹町名表示板が設置された昭和初期には赤および青の点線部分が「聖天町通」と呼ばれたものの根付くことがないまま、今では「智恵光院通」に組み込まれて大徳寺へ至る通りとなった、そのように考えるとすべて納得できそうです。

~つづく~

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