智恵光院通(4/4) ~仁丹町名表示板に見る近代史~

京都仁丹樂會

2014年03月23日 13:00

智恵光院通の最終回です。

前回は、かつて聖天町通なる通り名が存在していたこと、またその聖天町通は寺之内から上立売までの区間は智恵光院通と名乗っていたこともあり、2本の智恵光院通が存在した時期があったらしいことなどが分かりました。

さて、今回のスタートはここ↓、智恵光院通と寺之内通との接点からです。


立派な町家が正面に横たわる印象的なポイントです。ここに仁丹町名表示板があっても不思議ではないのですが、誰も確認できていません。
また、長らく智恵光院通の北端とされてきましたが、今は左(西)へ60mほど進めば道幅がかなり狭くなるものの再び智恵光院通が登場、北上して大徳寺へと導いてくれます。

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さて、振り返って180度反対の南を望むと、このような↓光景が広がります。ガラッと雰囲気が変わります。上立売通を上がった辺りの伊佐町です。



かつてここに、次の仁丹がありました。20年以上前に当会の滋ちゃんが撮影したもので、今は建物ごとなくなってしまいました。



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さらに下がって五辻通界隈です。
やはり歩道が備えられた広い道路ですが、西側は古い家並みが散見されました。


ちなみに、床屋さんの角にある2本の石柱は、かつての国旗掲揚台でしょうか?
刻まれた文字は何も見当たらないのですが。

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次は今出川通を越え、中筋通、元誓願寺通と通り過ぎ、笹屋町通までやってきました。


この付近から少し西側にシフトするものの、これと言って代わり映えのない光景が続いてきました。正直言って、京都らしからぬ殺風景な道路です。

上京区を歩いていて出くわす、違和感のある、不自然な広さの道路。これが多くの方が持っている智恵光院通の印象ではないでしょうか?

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実はここも戦時中の建物疎開の跡地を利用したものだったのですね。次の資料のとおりです。


~「建設行政のあゆみ 京都市建設局小史」別添地図「建物疎開跡地利用計画図」より~

赤、濃い青、緑の箇所が建物疎開に遭った場所です。
寺之内通から笹屋町通までは東側が、笹屋町通から下立売通までは西側が立ち退かされていることが分かります。
先ほどの笹屋町通付近の写真は、この資料の真ん中に「205」という数字が見えますが、ちょうどその辺りの写真です。智恵光院通が西へシフトしているのはこのためだったのでしょう。
ちなみに、水色の部分は第4次疎開計画として指定されていた箇所でしたが、終戦によりギリギリ難を逃れました。

仁丹町名表示板を探し求めてのまち歩きですが、このような状況ですから今回は期待はしていませんでした。冒頭の、智恵光院通を冠した伊佐町の仁丹町名表示板は奇跡的に残っていた貴重なものであったことが分かります。

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笹屋町通を通り過ぎ、間もなく一条通に差し掛かろうというところにあるのが通り名の由来となった「智恵光院」です。



駒札には建物疎開で境内が随分と小さくなったことが書かれていました。



ちなみに、ここ智恵光院前之町にも「上京區智恵光院通一條上ル智恵光院前之町」なる琺瑯仁丹がかつて存在していたことが分かっています。

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中立売通に出てきました。相変わらずの光景が続きます。



さらに南下するも、やはり同じ。山里町、須浜町、下山里町と続きますが仁丹町名表示板の存在は今まで誰も確認できていません。



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そして、下長者町通との交差点で東側に現れるのが辰巳児童公園です。


何の変哲もない、普通の児童公園にしか見えないのですが、そこにはこのような石碑が建てられていました。戦時中の空襲の記録を後世に伝えるものでした。



京都市における空襲で最も被害の大きかったいわゆる西陣の空襲の、まさにここが中心地だったのです。



このの箇所がB29から投下された爆弾が落ちた場所なのです。

“京都は空襲に遭っていないから”とか、“あったが規模は小さかった”などと口を滑らす人を見かけますが、当時の凄惨な体験談を聞いたり読んだりしたら大いに反省されることでしょう。現在の光景からはとても想像できないことばかりです。

当時の様子は、例えば次のような文献に詳しく紹介されています。
 「戦争のなかの京都」 岩波ジュニア新書644 中西宏次
 「出水校百年史」 出水校百年史編纂専門委員会
 「語りつぐ京都の戦争と平和」 戦争遺跡に平和を学ぶ会 つむぎ出版

もちろん他にもまだまだあるでしょうが、文章のみならず、その場を通る人たちに永久に訴え続ける石碑の役割の大きさも実感しました。

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「出水校百年史」では爆弾の落ちた場所として、亀木町、山本町、天秤丸町、秤口町、金馬場町、田村備前町などが挙げられています。石碑のの箇所がそれなのです。

そして、その様子は「京都市明細図」にも明らか表れていました。これら空襲の被害を受けた町内と建物疎開の跡地が色付けされないまま、ぽっかりと抜け落ちているのです。


~京都市明細図NW50より~

↑ 地図をクリックすると京都府立総合資料館の当該明細図にリンクしています


智恵光院通に沿うこの近辺は、建物疎開と空襲のダブルパンチを受けたことになります。このうち天秤丸町と秤口町以外は今も仁丹町名表示板が残っており、当時の様子を知っていることになります。

とりわけ出水通の金馬場町の仁丹は智恵光院通の名が入っており、まさに惨状を目の当りにしてきた証人のように見えます。劣化の激しさの原因は何なのかわかりませんが、ボロボロになってでも訴え続けているように思えてなりません。





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出水通からもう少し下ると、智恵光院通のかつての南端である下立売通へと辿り着きました。
今回の話題の出発点に戻ってきてゴールです。

ここにも空襲の記憶を語り継ぐためのものがありました。山中油店さんの店頭です。庭に飛んできた爆弾の破片が展示されているのです。





そして、その傍らにも仁丹町名表示板が寄り添っているのでありました。


以上、4回に分けての智恵光院通探索記でした。最後の区間は戦争色の濃い話題となりました。

~おわり~

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