旧大宮通 探索記 その1
最初、何と読むのだろうと思いましたが、
は「旧」の旧字体である「舊」のさらに俗字でした。したがって、写真の仁丹は「旧大宮通」という訳です。
仁丹町名表示板を求めてホウロウしていると、時折「旧」とか「元」などという表現に出くわすことがあります。本家、総本家、元祖などの語句と同じく何となく好奇心が湧くというものです。
今回は、以前よりずっと気になっていた「旧大宮通」について探索してみることにしました。旧というからには元祖大宮通?なのだろうかと。
3回に分けてご紹介します。
現在の地図によれば上京区を南北に通り抜ける大宮通のうち、一条通~下長者町通間で1本東に並走しているのが旧大宮通となっています。イメージとしては、次の図のようになります。
先ずは、現地を改めて歩いてみました。千両ヶ辻とも言われる今出川大宮から大宮通を下がっていきます。間もなく一条通だというところで、今までの一方通行の狭い大宮通に突如として、このような ↓ 広い空間が出現します。
写真の正面、黄色い矢印が大宮通、横断歩道が横たわるのが一条通です。そして今立っている場所が横神明通であり、横神明~一条間だけがこのように不自然に広くなっているのです。てっきり、戦時中の建物疎開かと思いましたが、京都市の「建設行政のあゆみ 京都市建設局小史」別添資料「建物疎開跡地利用計画図」には記録はなく、そうではなさそうです。理由は他にありました。詳細は続編で。
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次に一条通を東に入り、初めてのT字路が旧大宮通の北端です。そこから南を望んだ旧大宮通はこんな ↓ 感じです。道幅は狭く、比較的古い町並みが残っています。町名で言えば下石橋南半町、庇町、梨木町界隈です。
もう少し下がっていくと右手に石柱に取り囲まれた公園があり、そこに京都市の広報板がありました。その住所表示も「旧大宮通」となっています。
この公園、石の鳥居もあって神社のうに見えるのですが、後醍醐天皇の側近となった武将、名和長年がこの地で足利尊氏軍と戦い討死した場所で、長らく「チョウ塚」と呼ばれていたものを明治時代に遺跡とされたところです。
そして、さらに昭和13年、同じ側近であった楠木正成に比べて知名度が低いのが残念と、地元の有志により石碑も建てられ公園として整備されたそうです。時あたかも太平洋戦争突入前夜、「大日本國防婦人會」の文字も見られ、戦意高揚の場としても使用されていたのであろう当時の面影も残っていました。
旧大宮通をさらに下がるとすぐに比較的広い道路と交差します。中立売通です。京都電気鉄道が明治33年にチンチン電車を付設した道路です。後の京都市電北野線です。ここに旧大宮通を冠した仁丹町名表示板が現存します。
上京区旧大宮通中立売上ル梨木町
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中立売通を渡り、さらに旧大宮通を下がっていきます。今までと同様の道幅で続いていきます。
そして、上長者町通と交差した後、下長者町通で次の写真のように突き当りとなります。
ここが旧大宮通の南端です。
この付近に、旧大宮通と表記のある仁丹町名表示板がある一方で、京都市の広報板や電柱は「元大宮通」となっていました。
ちなみに、現在の一般の地図では「旧大宮」ではなく「元大宮」が使用されています。京都市の「京都市指定道路図提供システム」でも「元大宮通」となっていますので、今では元大宮通と呼ぶのが一般的なようです。
以上、とりあえずは旧大宮通を北端から南端までおよそ400mを歩いてみた様子です。
次回では、旧大宮通と大宮通との関係をひも解いてみたいと思います。
~京都仁丹樂會 shimo-chan~
~つづく~