告示第252号の不思議 2/3 ~仁丹町名表示板~

京都仁丹樂會

2013年08月17日 18:51

引き続き、仁丹町名表示板が告示第252号の新旧路線名いずれを使用しているかの検証です。

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高瀬川を挟んで、東側を東木屋町通や東高瀬川通、西側を西木屋町通や西高瀬川通などと、まちまちに呼ばれていたのでしょう、それを前者を木屋町通、後者を西木屋町通と統一したのかな?と考えました。高瀬川通を用いた仁丹がないことから、おそらくは統一後の名称で表記されているのだろうと解釈して、「木屋町通」の仁丹が7枚、「西木屋町通」の仁丹が6枚あるものとしました。

「河原町通」は今出川通から八条通までの区間を表しています。三大事業で拡築の対象とされた通りです。南北に河原町通、下寺町通、南北貫通道路と呼び方が異なっていたのを1本化したという意味なのでしょう。このうち路線名が変わったと言えるのは下寺町通と南北貫通道路の2本ですが、これがどこを指すのか今一つもやもやしています。次の地図をご覧ください。


↑ 日文研所蔵地図データベース 『最新京都市街地図(大正9年)』 より 



↑ 日文研所蔵地図データベース 『最近実測京都市街全図(大正14年)』 より 


いずれも日文献の所蔵地図データベース(古地図)からです。地図をクリックするとリンクしています。

1枚目の地図では、河原町通を北側から見て五条通を越えて南西へと角度を変える部分を「下寺町通」としています。さらにその1本西側にも同じく「下寺町通」の表記がり、下寺町通が2本あることになっています。

2枚目の地図では、東側の市電の通っている方を「新寺町通」と表現しています。ちなみに「京都市明細地図」では、もう1本東側の京電廃線跡を「新寺町通」としていました。

このとおり、やや混沌としているのですが、いずれにしても告示の旧名称としてあげている下寺町通は、現在の河原町通のうちの五条通よりも南の部分と考えて間違いなさそうです。なお、南北貫通道路なる名称は全く手掛かりはありませんでした。

以上のことから河原町通なる表記の仁丹を比較するのは、五条通よりも南に設置されていたものに限定しましたが、それでも10枚の仁丹が新名称である「河原町通」を使用していました。

「富小路通」の旧名称の欄にも「下寺町通」が登場しますが、これは先の2枚の地図でいうところの、西側にある下寺町通、すなわち富小路通延長線上に位置する通りのことなのでしょう。それらを「富小路通」と統一したものと考えられます。富小路通を使った仁丹は12枚確認できていますが、いずれも五条通よりも北側ですので、ここでは判定には使えませんでした。



「木屋町通」 「西木屋町通」 「河原町通」 が使用されている仁丹



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衣棚通のうち、上京区の上御霊前通から一条通までの区間、すなわち室町学区と中立学区を貫く部分は旧名「木ノ下町通」だったとあります。この区間で確認できている仁丹8枚はすべて新名「衣棚通」でした。

下京区の佛具屋町通にいたっては、告示後の昭和4年版都市計画地図でさえもしっかりと「佛具屋町通」と記されているにも関わらず、佛具屋町通の仁丹は1枚も存在せず、18枚すべての仁丹が「若宮通」でした。いずれの通り名も古くから見られるようですので、告示前はいずれがより多く使われていたのか、その実績に興味を持ってしまいます。


「衣棚通」 「若宮通」 が使用されている仁丹



↑ 告示後も旧路線名である「魚棚通」「佛具屋町通」「御前通」のままの都市計画地図「京都駅」昭和4年修正測図



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p.164は新旧変更のなかった路線名が続くのですが、次のp。165にまたがって黒門通が4列分登場します。黒門通は北は今出川の1本南である元誓願寺通から、南は京都駅の近くまで続くのですが、途中、二条城や西本願寺など4つの区間に分断されています。この公報からは最も北の区間は元々「黒門通」と呼ばれていたようですが、それよりも南の他の区間は「新シ町通」と呼ばれていたようです。では、仁丹はどうだったかというと、現在の中京区である区間では旧名の「新シ町通」使用が3枚、現在の下京区である区間では新名称の「黒門通」が使用されていました。
ここに来て初めて旧名称使用の仁丹が登場したわけですが、続く壬生通と坊城通においても旧名称の「坊城通」が使用されていました。


↑ 告示後も旧路線名「新シ町通」のままの都市計画地図「四条烏丸」昭和4年修正測図


最後は「後院通」です。四条大宮から千本三条までの、京都としては珍しい斜めの通りです。余談ですが、市電の千本線は当初、千本三条からそのまま千本通を下がっていく計画だったのが反対に遭い、四条大宮まで斜めに走ることになりました。そして、途中には壬生車庫が設けられたので「車庫前通」と名付けられて納得です。さて、ここでは「下京區 坊城通 後院通 下ル 壬生馬場町」なる仁丹が見つかっています。2本目の通り名に“通”なる文字が付くのはルール違反ではありますが、新名称を使っていると判断できます。それにしても、斜めに走る通りとの交差部分から“下る”という表現も興味深いですね。



「黒門通」 「後院通」  「新シ町通」 が使用されている仁丹




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新旧の名称が変わっている路線が多いのですが、仁丹が確認できているのは「下ノ森通」と「相合図子通」との関係のみでした。ここでは8枚の仁丹すべてが旧名の「相合図子通」です。なお、正確には仁丹町名表示板では「相合ノ図子通」と表記されています。、『仁丹町名表示板「設置時期」 ④ヨンヨンイチの検証 道路編』では、これを旧名称ではないかのように説明しましたが、この「相合図子通」に相当するものとして訂正しなくてはいけないようです。



「相合図子通」 が使用されている仁丹



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ここでは、仁丹町名表示板に関わるものは「東今出川通」と「今出川通」との関係のみで、6枚の仁丹が新名である「東今出川通」を使用しています。この件についても、『仁丹町名表示板「設置時期」 ④ヨンヨンイチの検証 道路編』で取り上げています。




「東今出川通」 が使用されている仁丹


~つづく~

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