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2022年08月11日

木製町名札のいろいろ

今回の東京の木製仁丹町名表示板の大きさは、

<実寸> 縦785ミリ、横177ミリ、厚み8.5ミリ
<原形> 縦787.87ミリ (2尺6寸)、横181.81ミリ(6寸)、厚み9.09ミリ(3分)

でした。この原形とは、木材の縮み方を考慮し元々の尺基準での大きさを推定したものです。

ところで、2015年3月30日の当ブログ記事「全国津々浦々の考証(その3)」以降、度々登場する東京都公文書館所蔵『大正十年 町名札に関する書類』には、仁丹町名表示板以外の興味深い事柄も含まれています。

当時の東京市が行った、京都・大阪・神戸・横浜・名古屋の各市役所への町名札設置状況の照会に対して、大阪、神戸、名古屋ではその作成要領も詳しく回答していたのです。木製の仁丹町名表示板そのものではありませんが、当時の状況を計り知るうえで貴重かと思いますのでご紹介しましょう。ちなみに、当時は「町名札」と言う表現が一般的だったようです。


<大阪市の場合> 大正10年4月23日付け回答 

回答書本体に添付する形で次のような「町名札製作仕様書」がありました。




その内容は今風に言えば次のようなことになります。

・檜の小節物で腐食または割れ目がなく、十分に乾燥しているものを使う
・大きさは縦二尺(約60.6cm)、横三寸(約9.1cm)、厚さ七分(約2.1cm)とする
・四隅には長さ一寸四分(約4.2cm)の木ネジを通すための穴を開けておくこと
・表面および四周と裏面約五分(約1.5cm)通は、白のペイントを3回以上塗り、乾燥してから表面に黒色のエナメルで町名を書くこと
・白ペイントは適当な濃度で毎回同一程度に溶解したものを使い、回数の経過に伴い変色しないようにする
・町名の文字は海石流楷書体で、文字の大きさは均等でバランス良く書く
・巧拙に関しては筆跡を予め提出して本市の承認を受けること
・納品後三カ月以内に塗装や文字に欠陥が生じた場合は、請負人は無償で交換または修繕すること

以上、当時の言い回しが一部理解しにくい箇所もあるので上手く表現できていないところもあるのですが、規格を明確に定めたうえで業者に請け負わせ、不良品があれば無償で保証するようにとなっていたようです。字の上手下手も事前にチェックしていた様子です。市章を入れるなどの指示はなさそうです。

なお、大阪市が市費で設置したのは明治35年が最初で、回答時の大正10年まで毎年実施しており、少なくとも累計16,177枚以上を設置していることが分かります。


<神戸市の場合> 大正10年4月27日付け回答


・大きさは縦八寸八分(約26.7cm)、横一尺二寸(約36.4cm)
・板を削って白ペンキを塗り、町名は楷書とローマ字で書く
・各町界の見易い箇所に設置する

とあります。横長で楷書のみならずローマ字でも書いていたようです。さすが港町神戸といったハイカラさを感じます。

市費で設置を始めたのは明治36(38の可能性もあり 判読困難)年10月のようですが、特に計画的に設置を進めたわけではなく、その後は明治44年の貿易生産品共進会開催など機会あるごとに設置したとあります。


<名古屋市の場合> 大正10年3月28日付け回答


・大きさは縦一尺五寸(約45.5cm)、横六寸(約18.2cm)
・書式は次のようする

名古屋市の場合は、大正2年の陸軍名古屋特別大演習の際に各町において設置するよう“一般励行方”なる通達を出し、各町内で設置するよう呼びかけたようです。

また、それとは別に大正10年には夜間の往来に便利なようにと、各辻の電柱に町名を記した三角形の街燈700個を市費で設置したともあります。


<京都市の場合> 大正10年3月23日付け回答


“元々、自主的に町内で設置したものがあったが、今はあまり残っていない。しかし、仁丹が各町に設置したものが存在している”と回答しています。つまり、市費で設置したものはないが、木製仁丹が各町にあると認めています。なお、町内が自主的に設置したものを「指通標」と表現しているので、もしかしたら通り名の標札があったのかもしれませんね。

この町内が設置したものかと考えられるものに、寺町通の鳩居堂さんの古写真があります。HPでも紹介されていますが、次の写真は「ひと・まち交流館 京都」の展示コーナー「京のまちかど」で紹介されているものですが、少し鮮明なので町名札の内容が「寺町通姉小路北入下本能寺前町」と読み取れることができます。




ちなみに、かつての資料では「上る」「下る」の代わりに「北入」「南入」なる表現も時折見かけることがあります。

また、2013年10月26日の当ブログ「木製仁丹設置時期の裏付け発見 2/2」でご紹介しました大正元年10月22日の京都日出新聞にある「此頃仁丹の広告を町名の上に書て町内の承諾も得ず前の札を剥取て張つたのは横暴だ」という謎も解けました。この“前の札”というのが何なのか釈然としていませんでしたが、町内で設置していたものなのでしょう。



さて、残る横浜市は“該当なし”とだけ回答していますが、それにしても大阪市、神戸市、名古屋市が設置した町名札や街燈は現時点で古写真で見つけるに至っていません。なかなか難しいものです。

森下仁丹株式会社の100周年記念誌「総合保健薬仁丹から 総合保健産業JINTANへ」では、「明治43年から・・・(省略)・・・当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタート」とあります。広告を兼ねた町名表示板としては最古なのかもしれませんが、同じようなタイプの町名表示板は、少なくとも大阪市(明治35年)、神戸市(明治36または38年)では大々的に存在していたことが分かります。

最後に、上記の町名札の大きさを同じ縮尺で並べると、次のようなイメージとなります。


京都市の木製は実寸で約91.3×18.5cmなので、東京都と同じ比率で原形を推測していますが、最大のサイズになっています。対して大阪市のは意外に小さいことが分かります。古写真を探す時の参考になるかもしれませんね。

~shimo-chan~
  
タグ :町名札


Posted by 京都仁丹樂會 at 11:07Comments(0)サイズ