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2025年03月26日

中野データ ~中京区編~

バブル期前に撮影された「中野データ」の中京区編です。なんと次の57枚もの多くのデータが新たに加わりました。































これらをまずは活字に起こし、元学区ごとに分けると以下のようになります。
※写真から読み取れない文字については、「ノート」で確認しています。中野さんは撮影したものをノートにも記録されていました。

<梅屋学区>
(1)上京区夷川通新町西入辨財天町
(2)上京区釜座通竹屋町上ル桝屋町
(3)上京区竹屋町通西洞院東入田中町
(4)上京区小川通二條上ル東入槌屋町
(5)上京区東堀川通丸太町下ル東入七町目
(6)上京区東堀川通二條上ル九町目
(7)上京区竹屋町通室町西入相生町
(8)上京区竹屋町通釜座西入指物屋町
(9)上京区夷川通小川西入東夷川町


<竹間学区>
(10)上京区高倉通夷川上ル福屋町
(11)上京区丸太町通東洞院西入三本木町
(12)上京区丸太町通室町西入道場町
(13)上京区室町通丸太町下ル道場町
(14)上京区竹屋町通間之町東入塀之内町
(15)上京区竹屋町通間之町東入塀之内町


<富有学区>
(16)上京区竹屋町通御幸町東入毘沙門町
(17)上京区丸太町通新町西入大炊町
(18)上京区竹屋町通堺町西入橘町
(19)上京区丸太町通堺町東入鍵屋町


<城巽学区>
(20)上京区姉小路通西洞院東入三坊西洞院町
(21)上京区西洞院通姉小路下ル姉西洞院町
(22)上京区押小路通油小路西入二條油小路町
(23)上京区押小路通油小路東入二條油小路町
(24)上京区押小路通油小路東入二條油小路町
(25)上京区二條通釜座西入正行寺町
(26)上京区御池通釜座西入橋之町


<龍池学区>
(27)上京区室町通押小路上ル蛸薬師町
(28)上京区室町通押小路上ル蛸薬師町
(29)上京区御池通室町西入御池之町
(30)上京区押小路通衣棚西入上妙覚寺町
(31)上京区姉小路通衣棚東入突抜町
(32)上京区二條通室町西入大恩寺町


<初音学区>
(33)上京区姉小路通堺町東入大阪材木町
(34)上京区高倉通姉小路上ル亀甲屋町
(35)上京区二條通間之町西入松屋町
(36)上京区堺町通押小路上ル竹屋町
(37)上京区押小路通堺町西入竹屋町


<柳池学区>
(38)上京区寺町通御池上ル上本能寺前町
(39)上京区麩屋町通御池上ル上白山町
(40)上京区御幸町通二條上ル丁子屋町
(41)上京区富小路通二條下ル晴明町
(42)上京区姉小路通麩屋町西入姉大東町


<銅駝学区>
(43)上京区竹屋町通新椹木町東入西革堂町
(44)上京区新烏丸通下御霊図子下ル行願寺門前町


<本能学区>
(45)下京区錦小路通西洞院西入蟷螂山町
(46)下京区蛸薬師通油小路東入六角油小路町
(47)下京区醒ヶ井通蛸薬師上ル越後突抜町

<明倫学区>
(48)下京区蛸薬師通新町東入六角町

<日彰学区>
(49)下京区柳馬場通錦小路上ル十文字町
(50)下京区堺町通蛸薬師上ル甲屋町
(51)下京区高倉通蛸薬師上ル和久屋町
(52)下京区蛸薬師通東洞院西入一蓮社町
(53)下京区錦小路通東洞院東入西魚屋町


<生祥学区>
(54)下京区蛸薬師通富小路東入油屋町
(55)下京区富小路通四條上ル西大文字町

<立誠学区>
(56)下京区木屋町通三條下ル二丁目材木町
(57)下京区新京極通六角下ル東入桜之町



【初登場の町名】

これらを分析すると、初登場の町名が36もありました。次のとおりです。

(1)上京区夷川通新町西入辨財天町
(2)上京区釜座通竹屋町上ル桝屋町
(5)上京区東堀川通丸太町下ル東入七町目
(6)上京区東堀川通二條上ル九町目
(7)上京区竹屋町通室町西入相生町
(8)上京区竹屋町通釜座西入指物屋町
(9)上京区夷川通小川西入東夷川町
(11)上京区丸太町通東洞院西入三本木町
(16)上京区竹屋町通御幸町東入毘沙門町
(19)上京区丸太町通堺町東入鍵屋町
(20)上京区姉小路通西洞院東入三坊西洞院町
(26)上京区御池通釜座西入橋之町
(29)上京区御池通室町西入御池之町
(32)上京区二條通室町西入大恩寺町
(33)上京区姉小路通堺町東入大阪材木町
(34)上京区高倉通姉小路上ル亀甲屋町
(35)上京区二條通間之町西入松屋町
(39)上京区麩屋町通御池上ル上白山町
(40)上京区御幸町通二條上ル丁子屋町
(44)上京区新烏丸通下御霊図子下ル行願寺門前町
(45)下京区錦小路通西洞院西入蟷螂山町
(46)下京区蛸薬師通油小路東入六角油小路町
(47)下京区醒ヶ井通蛸薬師上ル越後突抜町
(49)下京区柳馬場通錦小路上ル十文字町
(50)下京区堺町通蛸薬師上ル甲屋町
(51)下京区高倉通蛸薬師上ル和久屋町
(52)下京区蛸薬師通東洞院西入一蓮社町
(53)下京区錦小路通東洞院東入西魚屋町
(54)下京区蛸薬師通富小路東入油屋町
(55)下京区富小路通四條上ル西大文字町
(56)下京区木屋町通三條下ル二丁目材木町
(57)下京区新京極通六角下ル東入桜之町


以上は1枚ずつ登場した町名ですが、次の「上本能寺前町」はデータとしてはすでにあったものの、このグループに入れるべきものです。
(38)上京区寺町通御池上ル上本能寺前町
既存のデータとは、戦後の復活バージョン第1号として平成23年2月10日に市役所に設置されたものですが、昭和初期のものとしては今回の中野データが初となりました。両者を比較するとこのような感じになります。


寺町通の市役所の向かいも同じ上本能寺前町なので、そこの民家か商店に設置されていたのかもしれませんね。見比べると、昔の手書き文字は余白を目いっぱい使っていて勢いがあります。何百枚、何千枚とせっせと手書きしていた職人さんの熟練の技が偲ばれます。復活バージョンの方は市役所庁舎の建て替えで取り外されたまま、未だ再掲はされていません。

同じく、昭和初期のものとしては次の「六角町」も初出現となりました。
(48)下京区蛸薬師通新町東入六角町
復活バージョンは、 中京区新町通六角下る六角町
であり、表記は異なります。

また、一気に2枚も出現した初めての町名も3つありました。
(12)上京区丸太町通室町西入道場町
(13)上京区室町通丸太町下ル道場町

(36)上京区堺町通押小路上ル竹屋町
(37)上京区押小路通堺町西入竹屋町

(27)上京区室町通押小路上ル蛸薬師町
(28)上京区室町通押小路上ル蛸薬師町


「道場町」と「竹屋町」はいずれも角地のお家に設置されていたものを想像しますが、「蛸薬師町」は全く同じ表記です。

さらに、次の「二條油小路町」は一度に3枚も出現しました。そのうち2枚は全く同じ表記です。
(22)上京区押小路通油小路西入二條油小路町
(23)上京区押小路通油小路東入二條油小路町
(24)上京区押小路通油小路東入二條油小路町

設置密度の濃さをうかがい知ることができます。


以上、初登場となった町名でしたが、特筆すべきものを再掲すると次のようになります。

(7)上京区竹屋町通室町西入相生町
相生町は東西の竹屋町通に面して存在していますが、玉植町や花立町が間に入って東西に分割されています。今回のはその東側の相生町に設置されていたものと考えられます。西側の相生町にも当然あったはずでしょう。

(11)上京区丸太町通東洞院西入三本木町
昭和の御大典での行幸路に面して設置されていた仁丹がひとつ増えたということになりました。行幸路では広告物は徹底的に排除されましたが、仁丹町名表示板は例外扱いされたのではとの見方をしており、その説を補強する興味深い一枚となりました。

(26)上京区御池通釜座西入橋之町
(29)上京区御池通室町西入御池之町
この2枚は建物疎開のあった御池通に面していたことになります。「近代京都オーバーレイマップ」で調べると、疎開から免れた北側の家屋に設置されていたようです。無残な建物疎開を目の当たりにした「仁丹」だったことが分かります。

(57)下京区新京極通六角下ル東入桜之町
「新京極通」が通り名として初めて出てきました。厳格に言えば、アーケード化される前の昔の絵葉書には「新京極四条上ル中之町」 なる木製が写り込んでいたのですが、琺瑯製では初めてです。新京極通と言えばみなさんご存じの、あの賑やかなアーケード街です。設置されていたとしても何ら不思議ではありませんが、錦市場と同じく、現状からはなかなか想像しにくいものがあります。今回の発見は”東入”なので新京極通そのものではありませんが、新京極通にもあったであろうことを少し身近に感じさせてくれました。ちなみに、寺町京極のアーケード街には今も1枚あります。


【2枚目の登場】

2枚目が登場した町名には次のようなものがあります。
青字は今回の中野データ、黒字はすでに確認していたものです。

(3)上京区竹屋町通西洞院東入田中町
上京区西洞院通竹屋町上ル田中町

(21)上京区西洞院通姉小路下ル姉西洞院町
上京区西洞院通姉小路下ル姉西洞院町
全く同じ表記です。

(25)上京区二條通釜座西入正行寺町
上京区二條通釜座東入正行寺町

(30)上京区押小路通衣棚西入上妙覚寺町
上京区押小路通衣棚東入上妙覚寺町

(31)上京区姉小路通衣棚東入突抜町
上京区姉小路通衣棚西入突抜町

(41)上京区富小路通二條下ル晴明町
上京区二條通柳馬場東入晴明町

次の「塀之内町」は2枚目と3枚目が同時に出現しました。しかも全く同じ表記です。
(14)上京区竹屋町通間之町東入塀之内町
(15)上京区竹屋町通間之町東入塀之内町

上京区竹屋町通高倉西入塀之内町


【3枚目の登場】

3枚目が出現した新たなデータは次のようなものです。
(4)上京区小川通二條上ル東入槌屋町
上京区小川通夷川下ル槌屋町
上京区小川通夷川下ル東入槌屋町

(10)上京区高倉通夷川上ル福屋町
上京区夷川通高倉東入福屋町
上京区竹屋町通高倉東入福屋町

(17)上京区丸太町通新町西入大炊町
上京区竹屋町通新町西入大炊町
上京区新町通竹屋町上ル大炊町

(18)上京区竹屋町通堺町西入橘町
上京区堺町通竹屋町上ル橘町
上京区竹屋町通堺町東入橘町

(42)上京区姉小路通麩屋町西入姉大東町
上京区姉小路通麩屋町東入姉大東町
上京区姉小路通麩屋町東入姉大東町


【5枚目の登場】

5枚目の登場です。
(43)上京区竹屋町通新椹木町東入西革堂町
上京区新椹木町通竹屋町下ル西革堂町
上京区竹屋町通新椹木町東入西革堂町
上京区夷川通新椹木町東入西革堂町
上京区新椹木町通竹屋町下ル西革堂町
西革堂町は南北の新椹木町通を挟んで縦に細長く、東西の通りは北から順に御霊図子通、竹屋町通、夷川通が横断しています。仁丹町名表示板はそれらの通り名を組み合わせて、各辻々で徹底的に設置された様子がここでもうかがえます。


【商標の上と下】

最後に商標の位置についてです。
上にあるか下にあるかですが、中京区では城巽、龍池、初音の隣り合う3つの学区のみに商標が上にある「仁丹」が存在しています。詳しくは、城巽学区では22枚中22枚が上、龍池学区は13枚中13枚が上、初音学区では15枚中12枚が上です。最後の初音学区だけに下に商標のあるのが3枚混じっています。この3学区以外はすべて100%商標は下でした。ところが、今回の中野データ「(18)上京区竹屋町通堺町西入橘町」はこれら3つの学区ではない富有学区なのに、商標が紛れもなく上にあるのです。富有学区では17枚の「琺瑯仁丹」を確認していましたが、今まで商標はいずれも下だったのです。
次の写真は、左が今回の中野データ、真ん中は同じ橘町、右は同じ通り名表記です。


ご覧のように、いずれも同じ職人さんの手によるものと見て間違いはないでしょう。つまり、同じ製作所で製造されたと考えるのが妥当でしょう。

上京区でも上に商標のあるのは特定の学区に集中しており、そこにごく稀に下にあるのが混じることはありましたが、下のエリアに上が混じるという逆転現象はありませんでした。今回の発見は、また難解な謎をひとつ与えてくれました。


以上が新規に出現した中野データの中京区編でした。

~京都仁丹樂會~
  
タグ :中野データ


Posted by 京都仁丹樂會 at 11:35Comments(0)トピックニュース統計

2025年02月23日

中野データ ~上京区編~

昨年12月、「中野データ」の出現についてご紹介しました。バブル前の貴重な記録です。そして、私たちがまだ知らなかった仁丹町名表示板が少なくとも195枚は見つかりました。それらを順次ご紹介していきます。

先ずは上京区編です。

次の34枚が新たなデータとして加わりました。



















ベタ焼きからのスキャンなので表記が読みにくいのもありますが、活字に起こすとそれぞれ次のようになります。

(1)上京区衣棚通武者小路上ル今図子町
(2)上京区六軒町通元誓願寺下ル玉屋町
(3)上京区千本通一条上ル西入泰童片原町
(4)上京区元誓願寺通千本西入松屋町
(5)上京区小川通元誓願寺下ル靱屋町
(6)上京区東堀川通一条上ル竪富田町
(7)上京区東堀川通一条上ル竪富田町
(8)上京区元誓願寺通油小路西入仲之町
(9)上京区元誓願寺通東堀川東入西町
(10)上京区上ノ下立売通御前通西入天満屋町
(11) 上京区御前通西裏上ノ下立売上ル北町
(12)上京区油小路通二条上ル薬屋町
(13)上京区西洞院通上長者町上ル菊屋町
(14)上京区上長者町通西洞院西入頭町
(15)上京区小川通中立売上ル小川町
(16)上京区一条通堀川東入下ル松之下町
(17)上京区上長者町通堀川東入二町目
(18)上京区中立売通堀川東入東橋詰町
(19)上京区上長者町通堀川東入橋本町
(20)上京区小川通中長者町上ル中橋詰町
(21)上京区中長者町通小川西入中橋詰町
(22)上京区油小路通下長者町下ル大黒屋町
(23)上京区椹木町通西洞院西入東魚屋町
(24)上京区烏丸通出水下ル桜鶴円町
(25)上京区衣棚通出水上ル御霊町
(26)上京区出水通衣棚東入御霊町
(27)上京区衣棚通椹木町上ル門跡町
(28)上京区椹木町通新町東入春帯町
(29)上京区新町通椹木町上ル春帯町
(30)上京区下立売通衣棚東入東立売町
(31)上京区丸太町通三本木東入俵屋町
(32)上京区河原町通荒神口下ル上生洲町
(33)上京区新烏丸通下切通シ上ル東入新烏丸頭町
(34)上京区河原町通荒神口上ル東入東桜町



このうち初めて登場した町名は、以下のとおりとなります。

(1)上京区衣棚通武者小路上ル今図子町
(4)上京区元誓願寺通千本西入松屋町
(5)上京区小川通元誓願寺下ル靱屋町
(8)上京区元誓願寺通油小路西入仲之町
(9)上京区元誓願寺通東堀川東入西町
(10)上京区上ノ下立売通御前通西入天満屋町
(12)上京区油小路通二条上ル薬屋町
(13)上京区西洞院通上長者町上ル菊屋町
(15)上京区小川通中立売上ル小川町
(17)上京区上長者町通堀川東入二町目
(18)上京区中立売通堀川東入東橋詰町
(22)上京区油小路通下長者町下ル大黒屋町
(24)上京区烏丸通出水下ル桜鶴円町


最後の桜鶴円町は復活バージョンは存在していますが、やはりここに加えるべきでしょう。

そして、次の3つの町名も初登場となりましたが、一度に2枚ずつ出現しました。
(20) 上京区小川通中長者町上ル中橋詰町
(21) 上京区中長者町通小川西入中橋詰町

(25) 上京区衣棚通出水上ル御霊町
(26) 上京区出水通衣棚東入御霊町

(28) 上京区椹木町通新町東入春帯町
(29) 上京区新町通椹木町上ル春帯町


上京区には581の町名がありますが、これでその約56%に相当する324の町名で仁丹町名表示板が存在していたことが確認できました。元々は全ての町名に対し、複数枚設置されたと見ています。ただし、御所である「京都御苑」なる町名はさすがに設置されることはなかっただろうと想像していますが。

また、琺瑯製の場合、商標は上部にあるのもあれば下部にあるのもあり、それは学区単位で顕著に分かれます。
小川学区は商標が上部にある学区であり、今回、中野データも加えて合計30枚となったのですが、そのうちの1枚、今回発見された(5)の靱屋町だけが、なぜか商標が下部にあります。同様に中立学区も商標は上部にあり、琺瑯製は37枚計上となりましたが、今回発見の(12)の薬屋町だけが下部にあります。新たな謎も出現した思いです。奥深いものです。


次に2枚目以降の出現です。
(以下、青字は今回の中野データ、黒字はすでに確認していたものです)

先ずは、2枚目から。
(3)上京区千本通一条上ル西入泰童片原町
<既存データ>
上京区千本通一条上ル西入泰童片原町
全く同じ表記のものが、もう1枚出てきました。

(14)上京区上長者町通西洞院西入頭町
<既存データ>
上京区西洞院通上長者町下ル頭町

(16)上京区一条通堀川東入下ル松之下町
<既存データ>
上京区中立売通堀川東入上ル松之下町

(30)上京区下立売通衣棚東入東立売町
<既存データ>
上京区下立売通室町西入東立売町

(31)上京区丸太町通三本木東入俵屋町
<既存データ>
上京区中町通丸太町上ル俵屋町

(32)上京区河原町通荒神口下ル上生洲町
<既存データ>
上京区荒神口通西三本木東入上生洲町

(34)上京区河原町通荒神口上ル東入東桜町
<既存データ>
上京区広小路通寺町東入東桜町

次は、その町名としての2枚目と3枚目とが一度に出てきました。しかも、全く同じ表記です。
(6)上京区東堀川通一条上ル竪富田町
(7)上京区東堀川通一条上ル竪富田町

<既存データ>
上京区東堀川通一条上ル東入竪富田町


そして、次は3枚目の登場です。
(2)上京区六軒町通元誓願寺下ル玉屋町
<既存データ>
上京区元誓願寺通六軒町東入玉屋町
上京区元誓願寺通六軒町東入玉屋町

 
(19)上京区上長者町通堀川東入橋本町
<既存データ>
上京区上長者町通油小路西入橋本町
上京区上長者町通堀川東入下ル橋本町


(33)上京区新烏丸通下切通シ上ル東入新烏丸頭町
<既存データ>
上京区新烏丸通上切通シ上ル東入新烏丸頭町
上京区下切通シ通河原町西入新烏丸頭町


(23)上京区椹木町通西洞院西入東魚屋町
<既存データ>
上京区椹木町通油小路東入東魚屋町
上京区椹木町通小川西入東魚屋町

ここは木製が一枚存在しますが、琺瑯製としては3枚目となります。

5枚目の登場です。
(27)上京区衣棚通椹木町上ル門跡町
<既存データ>
上京区椹木町通衣棚東入門跡町
上京区衣棚通椹木町上ル門跡町
上京区衣棚通下立売下ル門跡町
上京区椹木町通衣棚西入門跡町

これもまた、同じ表現としては2枚目となりました。

最後は、なんと、9枚目の登場です。
(11)上京区御前通西裏上ノ下立売上ル北町
<既存データ>
上京区御前通西裏上ノ下立売上ル西入北町
上京区御前通西裏上ノ下立売上ル西入北町
上京区御前通西裏上ノ下立売上ル西入北町
上京区御前通西裏上ノ下立売上ル北町
上京区御前通西裏上ノ下立売上ル北町
上京区御前通西裏上ノ下立売上ル西入北町
上京区天神道仁和寺街道下ル東入北町
上京区御前通西裏上ノ下立売上ル西入北町

すでに同じ表記が2枚あるのに、さらに1枚増えました。

以上、上京区編でした。

~京都仁丹樂會~
  

Posted by 京都仁丹樂會 at 16:24Comments(0)トピックニュース統計

2022年06月08日

現存枚数、ただ今545枚!

私たち、京都仁丹樂會が活動を始めた2012年当時、京都市内には728枚の仁丹町名表示板が現存していました。そして、10年後の今、545枚にまで減ってしまったことが分かりました。

この現存枚数とは、まちかどに掲げられて町名表示板として現役で活躍している枚数です。中には退色して読めない木製9枚と、平成になってからの復活バージョン21枚を含みますが、残り515枚は昭和初期に設置された琺瑯製の仁丹町名表示板です。



さて、私たちは謎多き仁丹町名表示板を研究する一方で、「京都の文化財」としての保全活動にも努めてきました。そして、“ローラー作戦”と名付けて会員で手分けし、現存しているかどうかのチェックも時折行っています。今回の「545枚」は2022年4~5月にかけて実施した第4回ローラー作戦の結果です。

現存枚数の推移は、次のとおりです。

2012年8月 728枚 (初めて公表した現存枚数)
2013年4月 740枚 (第1回ローラー作戦)
2016年7月 672枚 (第2回ローラー作戦)
2018年7月 621枚 (第3回ローラー作戦)
2022年6月 545枚 (第4回ローラー作戦)

初めて発表した現存枚数は2012年8月の728枚でした。そして、その半年後には740枚と12枚増加しています。年々減少する一方とは言うものの、これは新製された復活バーションの設置が寄与しました。しかし、3年経過した2016年7月は68枚減少して672枚に、さらにその2年後の2018年7月には51枚減少して621枚となりました。ただ、この第3回ローラー作戦の結果については発表しないままとなってしまいました。

そして、この度、4年ぶりにローラー作戦を実施し、「現存数545枚」という結果が得られました。第3回と第4回を比較すると、表面的には76枚の減少となりますが、実際は減少する一方で増加もあっての数値です。この4年間の変化を詳細に見ると以下のようになります。



消滅した仁丹町名表示板 95枚

実際に消滅した枚数は95枚ありました。その内訳は次のとおりです。


<解体による消滅>
やはり、最も多い消滅理由は設置家屋の解体です。42件ありました。琺瑯仁丹の設置時期を昭和2~3年と絞り込みましたが、当時の家屋の築年数から言えば自然な成り行きでしょう。同じ敷地内で建て替わるケース、更地となって売りに出るケース、駐車場になったケース、周辺の町家とともに解体されてマンション建設中のケースなど、その様相は様々です。

長年空き家になっていていずれは解体されるだろうと思われていた場所もありますが、安泰だと安心していたところが更地になっていたのを発見した時のショックは大きなものです。そのひとつが四条烏丸のすぐ近く、元悪王子町でした。いかにも京都らしい佇まいの京料理のお店でしたが、突如、更地になってしまいました。お店の看板同様に大切にされていた仁丹町名表示板だけに落胆しました。四条通のわずか1本南の綾小路通には多くの仁丹町名表示板が見られ、いつも好んで歩いていたのですが、一瞬、道を間違えたのかとさえ思いました。現在、コインパーキングになっています。



そして、左京町もショックでした。中京区なのに上京区と表記され、そして町名は左京町。仁丹町名表示板の面白さを存分に発揮していた美しい個体でしたが、残念です。ここでは医療機関の新築工事が進んでいます。


他にも、元々設置されていた家屋の解体に伴い移設されたものの、その移設先も解体されて消滅してしまったこともありました。一度は難を逃れたものの、二度は無理だったようです。

<改修工事による消滅>
また、解体ではなく家屋の全面的、あるいは外壁だけの改修工事にともない消滅したケースも15件確認されました。これもまた自然な成り行きでしょうが、今回は町家をリノベーションして民泊に生まれ変わった際に消滅したケースが目立ちました。町家の一部ともなっていた仁丹町名表示板もそのまま引き継いで欲しかったところです。

<仁丹町名表示板のみの消滅>
解体に次いで多かったのが、設置家屋に何ら変化はないのに仁丹町名表示板だけが忽然と姿を消してしまうという不可解なケースです。35件もありました。空き家になったケースもあれば、そのまま居住しておられることもあります。可能な限り聞き取り調査を行っていますが、中には家の方も気付いておられなかったケースもありました。

<その他>
上記の分類に属さなかったケースです。電柱に括り付けられていて所有者が判然としていなかったものがなくなっていたとか、慈眼庵町の木製のように本物は大切に地元で保管され、代わりにレプリカが設置されたようなケースです。後者は本物と変わらないような精緻なものなので、消滅にカウントするのは疑問かもしれませんが。

ちなみに、今回消滅した95枚のうち、少なくとも5枚は関係者が保管しておられることを確認しています。もっと多いのかもしれませんが、いつの日にか環境が整ったら復活することを願っています。



増加した仁丹町名表示板 12枚


実は、消滅するばかりではないのです。ごくわずかではありますが、正反対に増加したものもありました。12枚です。嬉しいことです。内訳は次のとおりです。


<復活バージョン>
一時期のような勢いではありませんが、復活バージョンも4枚新製され、現役に仲間
入りしました。写真は西陣の町家に設置された美しい復活バージョンです。



<消滅から復活へ>
消滅したと落胆していたものが、見事、現役に復活したケースが8枚もありました。これは嬉しい限りです。かつて存在していた仁丹町名表示板が、家屋が新築された際に復活するようなケースです。中には私たちが全く知らなかったものが突如として掲げられていて驚いたこともあります。結構、捨てられずに温存されていることが分かります。いずれも設置することの価値をご理解いただいてのこと、今までの保全活動が実を結んてきたのあればとても嬉しいことです。ちなみに、盗難に遭ってネットオークションに出品されたものを所有者と共に取り返したのも、この消滅からの復活でカウントされています。



プラスマイナスゼロの場合も


以上が、第3回と第4回ローラー作戦の結果リストを比較しての変化ですが、この数字には表れなかった変化もありました。この間に、建て替え工事や改修工事で一旦消滅したものの、工事終了後には元どおりに復活しているとプラスマイナスゼロとなります。逆に2019.11.26の当ブログ記事で紹介したように久々に復活して貴重なプラス1となったかと思いきや、1年後にはその家屋が解体予定となって取り外され、これまたプラスマイナスゼロもありました。

また、町内で移設された結果、より良い光景が生まれたこともありました。次の場所です。左側の「楊梅通醒ヶ井東入佐女牛井町」が移設されてこの場所へとやってきました。そして、その真正面には「楊梅通醒ヶ井東入泉水町」が以前からありました。写真は楊梅通から西を望んだ光景です。左右を貫く南北の広い道路は堀川通です。にもかかわらず仁丹町名表示板の表記は堀川東入ではなく、醒ヶ井東入。実はこの付近では、堀川通の歩道が醒ヶ井通だったのです。戦時中の建物疎開と戦後の堀川通の整備という近代史を今の私たちに教えてくれるスポットになりました。






以上が第4回ローラー作戦のまとめです。調査のためにまちを歩いていると、仁丹町名表示板の変化の数だけ物語があったであろうことに気付かされます。空き家問題、相続問題もさることながら、今回はコロナ禍の影響が仁丹町名表示板にも及んだのであろうというケースも散見されました。設置されていた飲食店や旅館の突然の廃業はきっとそうなのでしょう。

様々な社会情勢ではあるものの、とにかく現地にあってこそ価値のある仁丹町名表示板、100年近く続いてきた京都の景観の一部分でもある仁丹町名表示板、本来あるべき姿で守っていくことができればと願っています。


~京都仁丹樂會~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 11:43Comments(1)統計

2016年09月04日

水谷憲司さんの撮影データ

京都・もう一つの町名史』 という書籍をご存知でしょうか? おそらく、京都の仁丹町名表示板のみを取り扱った初めてのものだと思います。いくつかの表示板にまつわる思い出、疑問、推理などが綴られ、誰しも同じ思いを抱くものだと頷きます。筆者は、水谷憲司さん。平成7年(1995年)に出版され今はすでに絶版となっていますが、京都市右京中央図書館や京都府立総合資料館などで見ることはできます。



1995.10 永田書房/発行


京都の仁丹町名表示板に関心を持つ方はかなり以前からおられるものですが、1995年当時は現在ほど仁丹町名表示板に関するネット情報は盛んではなく、仲間がどこにいるのかも分からないような、いわば各々がスタンドアローンの時代でした。京都仁丹樂會の代表立花滋も同じ時代に精力的に活動を繰り広げていた一人でしたが、水谷さんとは一度電話で話をしたことがあったものの、お互いの情報交換までには至りませんでした。

さて、この水谷さん、残念ながら今年の1月に他界されました。ご冥福をお祈りいたします。そして、そのご遺族の方より、水谷さんが生前撮影された仁丹町名表示板の写真を何か有効活用する方法はないだろうかと、当會に相談を寄せられました。

同書籍の巻末には、文字情報だけではありますが、水谷さんが発見なさった仁丹町名表示板の一覧表が収録されています。その数、ざっと1,200です。一方当會の立花代表も同時代にほぼ1,200程度を把握していました。さらに、その後、他の會員のデータも加わったので、磐石のデータベースが構築できていると思っていました。したがって、有効活用の方法は正直あまり思い浮かぶものではありませんでした。

しかし、全く同じ住所表記が何枚あっても不思議でないのがこの世界。文字情報ではなく、一度、私達のデータベースと画像で見比べたら、もしかしたら何枚か初めてのものが見つかるのではないかと、會員それぞれ手分けをして精査することになったのです。かなりの労力を要しましたが、一方で水谷さんの熱意もひしひしと伝わってくる作業となりました。

※   ※   ※

さて、その作業結果はと言うと、意外や意外、当初の見込みとは大違い。私達が把握していなかった新たな仁丹町名表示板が何と139枚も出現したのです。これは一体どういうことなのでしょうか? 原因は、水谷さんが見つけて立花が見つけていなかったもの、その逆に立花が見つけていて水谷さんが見つけておられなかったものが、ほぼ同数あったということだったのです。中には、後ろを振り返ったらあったのに!この道を入っていたらあったのに!というようなお互いに惜しいケースもありました。仁丹探しの奥深さを改めて思い知らされました。

このような訳で、とにかく私達の知らなかった新たな139枚が存在していたことが確認できましたので、データベースに加えさせていただきました。資料のご提供、本当にありがとうございました。感謝いたします。

※   ※   ※

したがって、 先日、「仁丹町名表示板 今、何枚? 」で発表した数値に、その後の変化を反映させ、さらに水谷さんの今回のデータも加えた結果、最新データ数は次のようなものになりました。

現存数 ・・・ 675枚
消滅数 ・・・ 680枚
埋蔵数 ・・・ 190枚  (2016.9.4現在)

水谷さんの今回のデータ139枚については、今はその場所に存在していませんので、「埋蔵」されていることが明らかとなった1枚を除き、すべて「消滅」区分にとりあえず加えました。もしかしたら他にも「埋蔵」があるのかもしれませんが。また、新たに出現した139枚の中から、何か新しい発見もしくは考察が生まれるかもしれません。次はその分析も行ってみたいと思います。

~京都仁丹樂會~

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 16:01Comments(0)トピックニュース統計

2016年07月21日

南観音山の「百足屋町」復活!

南観音山の「百足屋町」復活!


わずか2日前の7月19日、『仁丹町名表示板 今、何枚』を発表したところですが、早くも変化が現れました。日々動きのある仁丹町名表示板に驚きです。

祇園祭の山鉾町が連なる新町通には“平成バージョン”が5枚も設置されましたが、その1枚、南観音山の町会所に設置されていた「百足屋町」が、町会所の建て替えのため姿を消していました。希望されて設置された平成バージョンだったので、廃棄されることはなかろう、きっと復活するはずだと信じていたものの、新しい町会所がお目見えし、祇園祭も始まったというのに仁丹町名表示板は一向に姿を見せず気になっていました。

ところが、後祭りに間に合わせるかのように、7月20日、見事に復活しているのを確認しました。念のためにと前を通りかかったところ発見、絶妙のタイミングでの再登場となりました。これで「現存」1枚追加です。



ところで、“平成バージョン”とは、森下仁丹株式会社が創立120周年記念の一環として取り組んだ「京都町名琺瑯看板プロジェクト」により製作・設置された仁丹町名表示板のことです。詳しくは次の記事をご覧ください。(青い文字はリンクしています)

   京都仁丹町名看板プロジェクト始動
   復活仁丹町名表示板・第一号 京都市役所に設置!

ちなみに平成バージョン第1号として平成23年2月10日午後1時30分に京都市役所に設置された「上本能寺前町」の仁丹町名表示板も庁舎建て替えのため現在姿を隠していますが、しっかりと保管されており、新庁舎完成時には復活の予定だそうです。

また、髙辻麩屋町の「鍋屋町」も一時期取り外されていましたが、この度、看板の上に堂々と復活しました。ありがたいことです。




しかしながら、このように大切にされる仁丹町名表示板がある一方で、またまた仁丹町名表示板だけが姿を消すという事態が花屋町通でつい先日発生してしまいました。

と言うことで、「現存数」は672+2-1で673枚となりました。

~京都仁丹樂會~
  
タグ :百足屋町


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2016年07月19日

仁丹町名表示板 今、何枚?

第2回ローラー作戦実施 現存数672枚に 68枚減少!



~国土地理院ウェブサイト(http ://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do#1)より~


今、この京都のまちに、仁丹町名表示板は何枚あるのか?
を正確に知るため、このほど第2回ローラー作戦を実施しました。京都仁丹樂會の會員それぞれがエリアの分担を決め、2016年3月~6月の短期間に一気に京都市内全域を見て回りました。結果は次のとおりでした。

現存数 ・・・ 672枚
消滅数 ・・・ 542枚
埋蔵数 ・・・ 187枚

「現存数」というのは、基本的には現役の仁丹町名表示板のことです。そもそも道行く人に見えるようにと設置され、それが今も継続しているものです。ただし、極少数、町名表示板として機能しているのか?と悩む個体もありますが、ずっと設置され続けているという意味で現存数にカウントしているものも含まれています。

「消滅数」は、家の解体や改修などに伴い消えてしまった数です。廃棄されたものもあるでしょうし、もしかしたらどこかで保管されているものもあるかもしれませんが、とりあえず姿を消し消息不明となったものです。

「埋蔵数」は、コレクションとして所有されているもの、家の改修などにより取り外したものの廃棄されずに保管されていることが確認できているものなどです。

第1回ローラー作戦は、今から3年前、現存数確認と併せて、保存活動としてのリーフレットの配布を行いました。詳細は当會ブログの次の記事をご覧ください。青い文字はリンクしています。
 ローラー作戦始動! 仁丹町名表示板
 2013 最新統計 ~仁丹町名表示板~


それでは、この3年間でいかなる変化があったでしょうか? 次の数字をご覧ください。


何と、この3年間で現存数が68枚も減少してしまいました。「現存」でなくなるということは、「消滅」または「埋蔵」に移行したわけですが、これら両者の増加数を合算すると 43+67=110 となり計算が合いません。その原因は、過去の写真や新たに発見した埋蔵など、私たちが今まで把握していなかった個体の存在が、この3年間で42枚出現したことを意味しています。

※     ※     ※

最も関心のある数値は「現存」の“減少数”でしょう。一見、“68枚もなくなった!”となるのですが、現実はもう少し深刻です。実は「現存」の中には、長年埋蔵されていたものが突如として復活したものや、前回のローラー作戦では設置家屋が解体され「消滅」に区分していたものが建て替え後の新築家屋に再び掲げられたなど、「消滅」または「埋蔵」から「現存」へと返り咲いたものが11枚ありました。したがって、実際にこの3年間に姿を消した仁丹町名表示板は68枚よりも多く、残念ながら79枚となります。

では、この現実に消滅してしまった79枚について、その原因を分類すると次のような内訳となりました。

(1)設置家屋の解体  26枚
(2)設置家屋の改修  15枚
(3)仁丹町名表示板だけが姿を消したもの  35枚
(4)その他  3枚

(1)解体や(2)改修で姿を消すのは、残念ではあるものの従来から見られた自然な成り行きとも言えます。そのまま産業廃棄物として処分されたかもしれませんし、商業取引のための経路に乗ったものもあるのかもしれません。
はたまた何度か経験したように町内で守られていていずれ復活するものもあるかもしれません。現実に、新築後あるいは改修後に再び設置するつもりで保管中だというものを少なくとも5枚は確認しています。これらは現時点では一旦「埋蔵」にカウントしていますが、そのうち「現存」の仲間入りをすることでしょう。郷土資料として近所の小学校に保管されたものもありました。

(4)その他というのは電柱に付いていたものが、電柱ごと取り替えられてしまい行方不明となるなど、イレギュラーなケースです。

これらに対して、誠に残念至極なのが「(3)仁丹町名表示板だけが姿を消したもの」です。減少数の何と44%を占めます。設置されていた環境は何も変化がないのに、仁丹町名表示板だけが姿を消してしまっているのです。このケース、誰しも思い浮かべるのが盗難という悲しい事態でしょう。中には盗難を恐れて家の奥深くに埋蔵されてしまったものも複数確認していますので、すべてが盗難とは限りませんが、家の方も私たちが尋ねるまで気づかれなかったこともありました。いつの間にか骨董店で売られているものもありました。2014年から2015年にかけての年末年始、盗難事件がマスコミなどでも大いに騒がれ一時期は下火になったかと思いましたが、相変わらず忽然と消える事象が発生しているようです。

突然、仁丹町名表示板だけが姿を消してしまったケース、ほんの一例ですが次のようなものがありました。











90年近くも地域に馴染み、景観の一部でもあったものを、一体誰が何の権利があってこのようなことをするのでしょうか? 住所の表示板ですからそれがどこに設置されていたものかは一目瞭然です。しかし、近頃、それを分からなくするためか住所部分を白色で塗り潰し、その上に希望の住所を書くといった新たな手法が登場してしまいました。愕然としました。同様のことが広がらないよう祈るばかりです。

※     ※     ※

さて、最後に気分が明るくなるケースをご紹介しましょう。

ここは、下京区は東洞院通と下珠数屋町通の交差点です。かつて次の3枚の仁丹がありました。
  A 下京區 東洞院通 下珠數屋町 下ル 飴屋町
  B 下京區 東洞院通 下珠數屋町 下ル 橘町
  C 下京區 下珠數屋町通 東洞院 西入 橘町



でも、左右の家が解体され一気に3枚が減少したものの、2015年に相次いですべてが復活、引き続き“3枚ヶ辻”健在となりました。下の写真が現在の様子です。




その他にも、私たちが今まで全く把握していなかったものが、突如設置されていたというケースも複数ありました。家の御主人曰く『家を建て替えしてから仕舞い込んでたけど、やっぱり付けなあかんなぁと思ったんや』と仁丹町名表示板に対する愛着、そこから垣間見える郷土愛に感動する一幕もありました。さらに、家の改修後にはあえて手の届かない高い場所に再設置されるものもあり、大切にしていこうという気持ちが読み取れ嬉しくなりました。

仁丹町名表示板が注目されて、心無い仕業で減るものもあれば、逆に町内で大切にしなければという気持ちも強まっているようで、一喜一憂させられる第2回ローラー作戦でした。

~京都仁丹樂會~
  

Posted by 京都仁丹樂會 at 06:52Comments(5)統計

2013年04月29日

2013 最新統計 ~仁丹町名表示板~

ローラー作戦を終えての最新統計結果です。
この半年において、すべての現存仁丹を手分けしてチェックしたことになりました。
そして、並行して様々なデータも集まりましたので、ひとつの節目としてまとめてみました。

先ずは、確認データの総数と、現存・消滅・埋蔵の内訳です。


~ 2013.4.29現在 京都仁丹樂會調べ ~


      参考 昨年のデータ
~ 2012.8.5現在 京都仁丹樂會調べ ~


データ数」とは、私たちがフィールドワークを中心に収集したデータをベースとして、書籍や古写真などからも集めたデータの数です。つまりは過去に少なくとも実在が確認できた仁丹町名表示板の個体数というわけです。

現存」は、町名表示板として今も現役で活躍しているものです。
埋蔵」は、室内に取り込まれて地元で大切に保管されているもの、あるいはコレクションアイテムとなっているもの、昭和レトロなお店で飾られているものなど、存在するが町名表示板としては機能していないものです。
そして、「消滅」は現存数から埋蔵数を差し引いた数値であり、ほとんどがすでに廃棄されているでしょうが、もしかしたら埋蔵されているものも含まれているかもしれません。

参考に、昨年8月に発表しました統計シリーズからの数値も比較のため載せておきました。
いずれの項目も原則として増えていますが、それぞれの変化について以下に説明します。

※  ※  ※


≪データ総数について≫

その数、すべてで1,359となりました。
琺瑯製1,299、平成の復活バージョン17、木製43を合計した数です。
昨年のデータ総数は1,312でしたから、今回は47増えたことになります。
増加の理由で最も多かったのは過去の文献や古写真からの収集でした。

次の写真はそのような古写真の一例です。

~京都民家譜 毎日新聞京都支局編 日本資料刊行会 1977年発行 より~

今は観光客も多く訪れる新撰組の壬生屯所跡です。
撮影時期は不明ですが、写真の右端に2枚の仁丹が“究極の90度”で設置されています。
「壬生賀陽御所町」なる町名は読み取れるのですが、その下に続く小さな文字までは判読できませんでした。
でも、ここよりやや東に入ったところにあった(過去形)、次 ↓ の仁丹と同じ“町名+通り名”のタイプであったのでしょう。



したがって、屯所の写真左側は、「下京區 壬生賀陽御所町 綾小路通坊城東入
右側は、「下京區 壬生賀陽御所町 坊城通綾小路下ル
という表記であったであろうことが想像できます。

文献調査では、このように「ここにもあったのだ!」と驚くこともしばしばあります。
今後も順次紹介させていただきます。


≪現存数740≫

昨年の728に対して今回は740ですから、12増えています。
一見、喜ばしい数字ではあるのですが、実は昨年のデータで平成の復活バージョンにカウント漏れがあったことや、消滅したと思い込んでいたものが実は現存していたというものも今回に含まれ、現実としては減少傾向に歯止めがかかっていない事実には変わりはないのです。
今回は、平成の復活仁丹がかろうじてその減少数をカバーした形となりました。

でも、人知れず埋蔵されていたものが突如として出現したという純粋に喜べる仁丹が2,3ではあるものの含まれています。もし、私たちの活動が実ったのであれば誠に嬉しいのではありますが・・・
また、先日の梅津の仁丹などは非常に意義深いプラス1となりました。



≪木製仁丹について≫

昨年も今回の数字も、現役の木製仁丹は11と不変のように見えるのですが、実は減少2、増加2の統計上はプラスマイナス0となったに過ぎません。
減少2は、誠に残念なことですが上京区の姥ケ西町と、かの彩色豊な下京区の福田寺町です。しかし、ご安心ください、いずれも地元町内で大切に保管されています。この木製仁丹2枚が現存から埋蔵へと転じました。
では、現存の+2はと言いますと、他の町名表示板の下地に使われているものです。現役とは言い難いのですが、消滅でも埋蔵でもなく、上に被さっている町名表示板を取り除きさえすれば現役に返り咲くので、とりあえず現存でカウントしています。



≪埋蔵仁丹について≫

琺瑯の埋蔵仁丹がこの半年で21件も増えました。
これらの多くは、消滅してしまったと思っていたものが、ネットオークションに登場し、統計上は消滅から埋蔵に転じたに過ぎない、喜んでよいのかどうか疑問の数字です。
でも、地元で大切に保管されている純粋な埋蔵仁丹も新たに数枚判明しています。



この下鴨芝本町は、森下仁丹さんの「創業120周年記念 歴史保存事業 仁丹にまつわる思い出の品」に応募されたもので、同行を依頼された当会の滋ちゃんによるワンショットです。
詳しくは森下仁丹さんの facebook をご覧ください。
                   ↑
                リンクしています


※  ※  ※


行政区別のデータ数は以下のとおりです。

~ 2013.4.29現在 京都仁丹樂會調べ ~



次の円グラフは、行政区別の「確認データ数」を表したものです。


~ 2013.4.29現在 京都仁丹樂會調べ ~


以上が現時点における最新統計結果ではありますが、もちろんすでに変動が起こっているかもしれません。

また、昨年の統計記事は以下のとおりです。ご参考までに。
青い文字をクリックするとリンクしています。ただし、データは当時ままで、更新はしていません。

2012年08月05日  現存728枚!埋蔵97枚! 仁丹町名表示板
2012年08月06日  行政区別 確認・現存枚数 仁丹町名表示板
2012年08月10日  学区別 確認・現存枚数(前編) 仁丹町名表示板
2012年08月11日  学区別 確認・現存枚数(後編) 仁丹町名表示板
2012年08月18日  設置枚数ベスト3 仁丹町名表示板
2012年08月25日  設置率 上京区の場合 仁丹町名表示板
2012年09月09日  設置場所統計結果 仁丹町名表示板
2012年09月29日  文字数の最多と最少 仁丹町名表示板

~ 京都仁丹樂會 滋ちゃん・shimo-chan ~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 17:55Comments(2)統計

2012年09月29日

文字数の最多と最少 仁丹町名表示板

特に何か新たな事実が分かったというわけでもなく、紹介するほどのことでもないのですが、興味本位で調べてみました。
仁丹町名表示板に書かれた文字数の多さです。以下の通りです。


~2012.9.29現在 京都仁丹樂會調べ~

抽出条件は、
  ・琺瑯製であること。ただし、伏見区は除く。
  ・現存、消滅、埋蔵の区別はしない。
  ・抽出件数2012.9.29現在の1,249件。
  ・行政区名はカウントしない。

つまりは、 約15cm × 約90cm の最も多くあるサイズで、行政区名以外に何文字が書かれたかということです。他都市よりもダントツに大きいこのサイズ、その理由は京都の住所表示がやたらと長いからでしょう。
そういうことで、ちょっと興味を持ちました。

大体11~13文字に大きなピークがありますが、第一位は 20文字 でした。

上京区の 『寺町通今出川上ル西入三筋目上ル上塔之段町』 です。



通常は通り名は太く大きな字で、そして町名は小さな字でというパターンですが、さすがにその余裕はなかったようですね。
それにしてもさすがに長い。

その昔、聞いた話です。住民登録のコンピューター化を進めている時代のこと、当時は今と違ってとにかくメモリーの消費を減らす設計が大切でした。だから、この項目は何文字までと決めている自治体もあったのでしょう、前住所欄や本籍欄に京都の住所を入れようとしたら入らないといった事態が起こったようです。そして、京都市に対して何とかならんのかというクレームとも悲鳴ともつかない問い合わせがあったとか。まさかの想定外だったのでしょうね。


一方、最少は 4文字 でした。
左京区の  「吉田本町」、「吉田橘町」、 南区の 「八條源町」の3町でした。



こちらはさすがに余裕たっぷり、余白がいっぱい残っています。
文字数が少なくても、京都市ではすべてこのサイズに統一されています。
ただし、伏見区は異なりますが。

ところで、この吉田本町は志賀越えの石仏の祠に設置されていたのですが、行方不明となっています。どうなったのでしょうね?



  


Posted by 京都仁丹樂會 at 21:11Comments(0)統計

2012年09月09日

設置場所統計結果 仁丹町名表示板

仁丹町名表示板を探すときは、どこに設置されているか、どこに隠れているか分からないので、上を見たり下を見たり、さらに振り返ったりと、キョロキョロするものです。
そして、”不審者を見たら110番”なる立て看板を見て、ドキッとしたりします。

さて、次なる統計データは設置場所です。ご覧のとおりの結果となりました。

~2012.9.1現在 京都仁丹樂會調べ~


これは、私たちが存在を確認した仁丹町名表示板1,314枚のうち、すでに埋蔵仁丹となっていてどこに設置されていたものなのか分からない61枚を差し引いた1,253枚について集計したものです。ただし、設置場所は当初からのものとは限りません。現実に移動しているものもあります。現在残っているものは現状で、消滅したものは最後の状況でカウントしました。また、分類については判断が分かれるものも多く、そう厳格な数値ではありません。


さて、予想はしていましたが、「家屋1階」と「家屋2階」という建物本体への設置が全体の92.1%の1,154枚でした。
その中でも、2階の652枚が1階の502枚を上回り、過半数を占めるという結果が出ました。

家屋1階


家屋2階

平屋に設置されている場合は当然ながら家屋1階として、また、虫籠窓に設置されているものは家屋2階としてカウントしていますので、完全な2階建てで1階か2階かの2つの選択肢があった場合にいずれを選んでいるかとう結果ではありません。
でも、やはり2階という数値が多いということは、仁丹町名表示板は目の高さよりも上に設置するというのが「標準」だったのかもしれませんね。
今の感覚では、盗難を意識して2階への設置が多かったのだろうかと考えそうですが、設置当時はそのような心配は無用なわけで、やはり人影や物陰に隠れないということで、高い所がより適当だと判断されたのかもしれません。

「塀」は3%に満たない少数派ですが、京都の家の場合は塀に囲まれていること自体が少なく、たまたま適切なポイントに塀があっただけのことでしょう。基本的には家屋1階と同等の位置付けのものと判断できます。
ただし、松ヶ崎などでは塀に付ける方が見易いのに、大きなお屋敷の2階に設置されています。



これに比べて、「フェンス」や「電柱等」は明らかに性格を異にします。
元々設置されていた家屋が解体され、表示板を引き継ぐ人も現れず、でも廃棄処分は免れて、町内の誰かが近くのフェンスか電柱などに設置されたのでしょう。
一応、町内のものだという認識は働いていると思います。

フェンス


電柱



町内のものという気持ちがもっと強く表れているのが、お「地蔵」さんの祠での設置もしくは保管ではないでしょうか。
これも元々はどこかのお家に付いていたものが、解体され、ここへ大切に落ち着いたものなのでしょう。

地蔵



一般的には民家や商店に設置されていることが多いのですが、お寺の塀や山門、御堂など「寺院」への設置も見受けられます。
果たして最初からそうだったのか、それとも後にやはり地域のものだからと持ち込まれたものなのか全く分かりませんが、公共性のあるものだからという意識の働きが感じられます。

寺院



「路地の入口」というのも非常に興味深いものがあります。
この奥にも住んでますよ、町内ですよとアピールしているようです。

路地入口


最後の「物置」とは、母家に対する付属家の物置ではなく、物置として独立した建物としました。その経過はフェンスや電柱などに相当するものでしょう。

物置


「地階」とあるのは極めて特殊なケースなのですが、地階に設けられたガレージの壁に設置されているもので、入口の道路から見えるようになっています。家屋1階相当と言えます。

「放置」はそのとおり、解体された家に設置されていたのでしょう、更地にほったらかしになっていたものです。当然ながら、その末路は行方不明でした。

放置



最後に「室内現役」です。これは特殊です。
商店の中に設置されているのですが、道路を行く人には見えるので、埋蔵仁丹としてカウントせずに一応”現役”扱いをしています。
ただし、その商店が閉まっているときはシャッターが降りて見られなくなることもあります。
現役だけど非常に大切にされている、箱入り娘ならぬ”箱入り仁丹”です。

室内現役


以上が、設置場所に注目した統計結果でした。
特に仁丹の謎が何かひとつ解けるというものではないのですが、そこからは町内の方々の仁丹町名表示板への愛着、町名への愛着、京都に対する郷土愛などが見えてくるのではないでしょうか。

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 11:44Comments(2)統計

2012年08月25日

設置率 上京区の場合 仁丹町名表示板

仁丹町名表示板は、少なくとも昭和4年4月1日までの上京・下京時代の市内すべての町に設置されたに違いないと考えています。
それは、探索していて、そして収集したデータを整理していて確信を深めるばかりなのですが、それを補強するひとつの参考として、上京区の場合をさらに深く検証してみました。

上京区は、「行政区別 確認・現存枚数」でも紹介したとおり、京都における仁丹町名表示板の発見数32%を占める”大票田”であることと、中京区や下京区のような大規模開発が少なかったことから選んでみました。

先ずは次の地図をご覧ください。


黄色い部分が、過去に仁丹町名表示板が設置された町名の町域です。
京都御苑や主税町界隈が白いままスポッと抜けているのは致し方ないとして、それ以外ではほぼ全域にバランスよく分布していると言えます。
白い部分は現在のところ、まだ設置が確認されていない町ですが、周囲を黄色で囲まれ、そこだけが設置されなかったはずがないでしょう。
小さな狭い町でも設置されている、1枚どころか2枚も3枚も設置されている町があるという一方、この町には設置されなかったということは考えられません。
したがって、京都御苑などごく一部の例外はあるでしょうが、すべての町に設置されたと断言して間違いはないでしょう。

次にこれも参考までにということで、上京区の各学区ごとの設置率なるものを求めてみました。

設置率 = (設置された町の数)/(学区全体の町の数)

すると、翔鸞学区、仁和学区、出水学区はいずれも65%と最高値を示しました。
学区内の65%の町が過去に仁丹町名表示板が存在していたというわけです。
残りの35%にもきっと設置されていたことでしょう。

そして、17学区中の8学区で50%を上回っています。

反対に設置率の低かったのは桃園学区の29%、京極学区の24%、滋野学区の28%、春日学区の29%でした。
桃園学区については特に原因らしきものを思いつかないのですが、他の3学区は河原町通の拡幅、府立病院や府庁関連施設など、民家が少なくて公共施設が目立ちます。




































~2012.8.8現在 京都仁丹樂會調べ~






  


Posted by 京都仁丹樂會 at 13:21Comments(3)統計

2012年08月18日

設置枚数ベスト3 仁丹町名表示板

仁丹町名表示板の探索をしていて、
   『いったいこの町内には何枚あるのだろう?』
   『なぜこれほど同じ表示板が必要だったのだろう?』
と思ったことはないでしょうか。

例えば、北区の紫野東藤ノ森町だとか左京区の吉田牛ノ宮町だとか、ひとつの町名に対してなぜ同じ表記のものが次から次へと見つかるのか驚いたものです。

でも、上には上があります。

とりあえず2012.8.8現在のデータ数1,314件で、設置枚数ベスト3を集計してみました。
現存・消滅・埋蔵は区別せず、とにかくその町内に設置されたことが判明した確認枚数での順位です。
どの程度の密度で設置されたのか、ひとつの参考になるのではないでしょうか。

まず、第3位からの発表です。

≪第3位≫ 北区紫野東藤ノ森町 ・・・ 9枚設置

行政区の表示は「上京区」となっていますが、現在の北区紫野学区の「東藤ノ森町」です。
現役で活躍しているのが今でも5枚もありますから、設置枚数が多かろうということは容易に想像できましたが、それでも9枚で第3位という結果でした。
表示板の書体、とういか筆跡ははいずれも同じに見えます。


≪第2位≫ 北区紫野南船岡町 ・・・ 10枚設置



第2位は、10枚確認の同じく北区紫野学区の「南船岡町」でした。
現存数はわずか2枚なので、第2位になるとは意外でした。
筆跡は先の東藤ノ森町とどうやら同じようで、書道のような上品な字となっています。


≪第1位≫ 北区紫野中柏野町 ・・・ 12枚設置

そして、第1位は確認数12枚のこれまた北区紫野学区の「中柏野町」でした。
現存数も7枚と第1位です。
中柏野町の場合は、町内会名が入っていますので、第2位の南船岡町、第3位の東藤ノ森町とは違って全く同じ表記とは言えませんが、町名としては現在のところベスト1であります。

それにしても、ベスト1~3までいずれも北区の紫野学区とは、オリンピックに例えれば金・銀・銅を同じ国が独占したようなものですね。
どうしてこれまでして多くの仁丹が設置されたのか?必要とされたのか?本当に不思議です。
ただ、いずれの町も中心区と比べれば面積は格段に広いので、設置密度としてはさほど変わらないのかもしれませんが。



ちなみに、第4位になって初めて北区以外がランキングされます。
上京区は仁和学区の「北町」で、確認数8枚です。
こちらは通り名の組み合わせが出てきますので、表記としては3種類に分類できるのですが、その中で最も多いのが
「上京区 御前通西裏 上ノ下立賣 上ル西入 北町」
の4枚でした。

さらに第5位はというと、大きな変化が現れます。
確認数6枚で、上京区出水学区の「下丸屋町」、下京区植柳学区の「艮(うしとら)町」、下京区光徳学区の「中堂寺櫛笥町」、そしてまたまた北区紫野学区の「上柏野町」の4町が同点でのランキングです。
上京区の下丸屋町は山中油店さんのあるところですが、町の大きさからしたらかなり濃密度と言えるでしょう。


以上が過去も含めた確認数での集計でした。いずれも紙一重の接戦という状況ですから、今後の新たな発掘でもしかしたら結果が変わるかもしれません。  


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2012年08月11日

学区別 確認・現存枚数(後編) 仁丹町名表示板

学区別 確認・現存枚数集計結果の後編です。
上京、中京、下京以外をご紹介します。


~2012.8.8現在 京都仁丹樂會調べ~

北区の学区地図  ← 北区役所のHPにおける学区地図にリンクしています

北区は南部の学区のみを表示しています。北部は京北の隣接地までありますので、仁丹は望めません。
先ずは柏野と紫野がダントツに多く確認数20枚台を記録しています。中心区に負けず劣らない勢いであり、京都の市街地に完全に組み込まれていたことが分かります。
現存数でも柏野は15枚を誇り、紫野と比べて残存率の良さも分かります。住宅が密集している割に、大きな開発がなかったことの表れでもあるでしょう。
市電外周線の外側となると、柏野や紫野に比べて分布は極端に落ち込みます。街道沿いの家、もしくは区画整理が終わって家屋が出現したポイントということでしょう。
ところで、市電外周線の内部であり、鞍馬口街道に面する出雲路に1枚も確認できていないのが腑に落ちません。存在しなかったはずはないと思うので、そのうちに確認されることを期待しています。



~2012.8.8現在 京都仁丹樂會調べ~

左京区も北区同様、北部に広大な山間部を抱えていますが、ここに挙げたのは南部の市街地およびその周辺のみです。
ここも旧市街地と言えるエリアは中心区と何ら遜色のない確認数10枚台を記録しています。
葵の確認数1枚というのはは例の”下鴨南野々神町(俗称 北山一町目)”ですから、異色と言えるかもしれません。
修学院や松ヶ崎はロクヨンイチ、すなわち昭和6年の編入組であり、行政区の表示は「左京区」です。上高野は修学院に含まれています。
北白川はまだ1枚も確認が取れていないのですが、街道沿いに家屋が建ち並んでいたところなので、過去に存在していたとしても不思議ではありません。こちらもいずれ確認されることを期待しています。
なお、浄楽には平成の復活バージョン2枚が含まれています。



~2012.8.8現在 京都仁丹樂會調べ~

東山区の学区地図 ← 東山区役所のHPにおける学区地図にリンクしています

東山区も旧市街地の一画ですから、確認数10枚台の学区が半分以上を占めています。
今熊野のかなり山寄りにも分布していたことには驚きました。
現存枚数も全体にわたってかなりの健闘ぶりと言えます。
なお、山科区は昭和51年までは京都市東山区山科でしたが、1枚も確認されていません。



~2012.8.8現在 京都仁丹樂會調べ~

南区の学区地図 ← 南区役所のHPにおける学区地図にリンクしています

南区も市街地に近い北部のみを挙げています。しかし、ご覧のとおり確認枚数はあったとしても1桁です。
確認枚数ゼロの学区も、両端の学区で確認できているのですから、単に現時点で把握できていないだけかもしれません。



~2012.8.8現在 京都仁丹樂會調べ~

右京区も相当に広いエリアです。ここに挙げたのは単に現実に仁丹が確認できた学区だけです。いずれも昭和6年の編入組で「右京区」表示です。
確認数はエリアの広さの割には、ご覧のとおりの低迷振り。街道沿いの設置がメインであり、まだ住宅が密集していなかったことの表れなのかもしれません。



~2012.8.8現在 京都仁丹樂會調べ~

最後は伏見区というか「伏見市」です。こちらも仁丹が確認された学区だけを挙げており、それ以外は未確認ですが、昔から栄えたエリアであること、アイデンティティを高めて京都市への対等合併を目論んだことなどを考えると、設置数はこれだけで済むものではないでしょう。


以上が、各行政区の中での学区別集計結果ですが、山科区と西京区は現在のところ確認数が”ゼロ”ですので省略しました。どうやら、”桂川を越えると、東山を越えると存在しない”というのが現時点での常識となっています。  


Posted by 京都仁丹樂會 at 10:00Comments(0)統計

2012年08月10日

学区別 確認・現存枚数(前編) 仁丹町名表示板

今回の統計は、各行政区における「元学区」単位での集計結果です。

京都市にお住まいの方でないと「学区」という概念がいささか分かり難いかと思います。
正確な表現ではないでしょうが、かつての小学校の通学範囲と考えてもらえればほぼ良いかなと思います。ただし、今は統廃合が進みましたので、そのまま当てはまるものではなく、”元学区”などと呼んでいますが、それでも行政や自治のうえで、今でも大いに利用されているエリア名なのです。

また、地名に例えれば、大字みたいなイメージとも言えるでしょう。
ご存じのとおり、京都の中心区は通り名の組み合わせで場所を表してから、そして町名を持ってくるのですが、この通り名の組み合わせの部分を、元学区に差し替えても良いようなものなのです。ちょっと乱暴な説明かな?

今回は、その元学区単位での、確認枚数と現存枚数をまとめてみました。
前編として、先ずは仁丹所在区の大御所である上京区、中京区、下京区をご紹介します。



                                    
 ~2012.8.8現在 京都仁丹樂會調べ~

上京区の学区地図  ← 上京区のHPにおける学区地図にリンクしています


全区の中で確認数も現存数も最多の上京区では、いずれの学区も確認数は2桁を記録しました。
その中でも、最も多いのが出水学区の54枚です。次いで40枚台が室町学区と仁和学区、30枚台が翔鸞と聚洛、20枚台が成逸、小川、正親、滋野と続きます。残りは10枚台ではありますが、それでも他区と比較したら好成績です。

現存枚数ではあいにくすべての学区で2桁とはいきませんでしたが、最多はやはり出水学区の29枚であり、室町、仁和、翔鸞と20枚台が続きます。


 ~2012.8.8現在 京都仁丹樂會調べ~

中京区の学区地図  ← 中京区のHPにおける学区地図にリンクしています


次に中京区です。
南北で言えば丸太町通りから四条通りにかけてのエリア、まさしく京都の繁華街の中心だけあって、確認数2桁は23学区中、わずか9学区でしかありません。それもいずれも10枚台です。
そのような中でも最多は柳池と銅駝の16枚でした。そして、現存枚数のトップは銅駝の13枚でした。
なお、教業では10枚確認していたのが、現在は1枚のみしか現存していません。
また、朱雀第七は確認数ゼロの状態が続いています。西院の東側一帯ですから、存在していても不思議ではないのですが。



 ~2012.8.8現在 京都仁丹樂會調べ~


最後は下京区です。学区地図がHPに見当たらず、どのあたりか全く見当つかないかもしれませんね。
四条や京都駅界隈を抱えてはいますが、確認数の最大が植柳の53枚と最多の上京区出水学区の54枚と1枚の差です。40枚台はなく、30枚台が尚徳、稚松の2学区、20枚台が淳風、醒泉、光徳の3学区と大健闘です。
現存枚数最多はやはり植柳の33枚、次いで稚松の21枚となっています。

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 00:21Comments(0)統計

2012年08月06日

行政区別 確認・現存枚数 仁丹町名表示板

統計シリーズ第2弾は、現在の行政区別の「確認数」と「現存数」を取り上げてみました。



~2012.8.5現在 京都仁丹樂會調べ~



この「確認枚数」とはかつて存在した仁丹町名表示板の数です。古いものは実に昭和62年からの蓄積です。
当初は実際にあったものだけしか集計できませんでしたが、スタンドアローンだった各メンバーの情報を合体、さらに古写真など様々な媒体からも収集、現在に至っています。
ですから、日々増えていきます。早速、昨日発表のデータよりも2件多くなっています。

そして、右側の数値が現役として残っている「現存枚数」です。とりあえず、2012.8.5現在としていますが、正確にはこの時点において残っているはずだとする数値です。この日においてすべての現存確認をしたものではありません。
また、埋蔵仁丹は含みません。

この両者を比較すると、割合はいずれの区もほぼ同じであり、この25年の間に均等に半減していることが分かります。

なお、山科区と西京区はともにゼロです。西京区はともかく、山科の三条通沿いにあったとしても不思議ではないのですが、今のところそのような情報に接していません。


次の円グラフは一応「確認枚数」を表したものですが、結局、現存枚数でもほとんど同様の結果が得られます。



これによると、上京区と下京区が双璧であることが一目瞭然です。中京区も加えれば全体の75%を占めることが分かります。
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 21:40Comments(0)統計

2012年08月05日

現存728枚!埋蔵97枚! 仁丹町名表示板

京都仁丹樂會の各メンバーがフィールドワークや資料探索などにより集めた仁丹町名表示板のデータ数は、個体数で1300件を超えました。
まだ集計漏れもがあると思いますし、また今後も増え続けることでしょうが、終わりがないので、この辺りで様々な統計結果を順次紹介していきたいと思います。

先ずは、次の表をご覧ください。
確認した個体のうち、現役で活躍している「現存」、今はなくなってしまった「消滅」、表には出ていないが大切に保管されている「埋蔵」の数です。


~2012.8.4現在 京都仁丹樂會調べ~


確認した個体数は琺瑯製が1273枚、木製が39枚、合計で1312枚です。

このうち、町名表示板として現役で働いているのは琺瑯製が717枚、木製が11枚です。
合計で728枚が現役です。
ただ、琺瑯製には平成の復活バージョンが10枚含まれていますので、80歳を超えるものは707枚ということになります。
また、現役とは言っても木製は褪色が著しく、町名表示板として堂々と機能しているのはほんの3,4枚程度です。
琺瑯製にもほんのごく一部ですが、褪色や欠損で町名表示板としての機能を果たしていないものもあります。

次に大切に保管されている「埋蔵」です。
琺瑯製で92枚、木製で5枚、合計で97枚です。
まさかこれほど多くの仁丹が埋蔵されているとは思いもしませんでした。
しかし、この中には琺瑯看板のコレクターが所有しているものや、レトロな店舗のインテリアになっているもの、はたまたネットオークションに出てその後コレクターが入手したであろうものなど、33枚を含んでいます。
残り64枚が、町内の方が大切なものだからと家の中で保管されている、純粋な埋蔵モノと言えます。

なお、店舗などでは家屋の中に掲げて、営業中ならば外を通る人から見えるものもあるなど、中には現存か埋蔵かその判断がグレーなケースもごく若干ありました。その態様により、それぞれいずれかでカウントしています。

最後に、現存でも埋蔵でもないのが「消滅」です。つまり、なくなってしまったものが、琺瑯製で464枚、木製で23枚、合計で487枚です。
実際はこれだけの数で済むはずがありません。単に私たちが把握していないだけであり、データとしては「消滅」の数はあまり意味のあるものではありません。
消滅に分類したものほぼすべてが廃棄処分されたのでしょうが、ごく一部、突如としてネットオークションに出てくることもあります。そのようなものは消滅から埋蔵へと分類を変更しています。

分類の変更と言うことでは、嬉しいことに「埋蔵」から「現存」への区分変更や、さらに存在を全く知らなかったものが突如として「現存」として登場することもあります。
すなわち、”現役であってこその仁丹町名表示板”であるという価値をご理解いただき、大切に保管していたものを堂々と家の表に掲げられたことと推察しています。
オークションに出すのではなく、現役に戻す、このような流れがどんどん広がって行くことを願っています。  


Posted by 京都仁丹樂會 at 09:14Comments(7)統計