2024年11月16日
空白の「北白川」出現!
遂に「北白川」の仁丹町名表示板に出会うことができました!

「京都を歩けば『仁丹』にあたる」(青幻舎 ISBN:978-4-86152-936-8 C0026)が発行されて、間もなく1年が経とうとしています。その巻末資料として、p.196に次のような分布図を掲載しました。(伏見区除く)

(地理院地図Vector(https://maps.gsi.go.jp/vector/)をもとに、京都仁丹樂會が編集・加工)
これは、今までにその存在を確認できた表示板のうち、最も周辺部に位置するものを結んだものです。つまり、この赤い点線の内側に仁丹町名表示板が分布していることを示しています。そして、当然あって然るべきなのに、この30年間、古写真ですら一向に見つけることのできなかった空白地帯が「北白川」でした。
しかし、先日、佛教大学のオープンセミナーで仁丹町名表示板についてのお話をさせていただいたとき、参加者の方から“埋蔵”の情報をいただきました。そして、早速拝見したのがこの「上京區北白川琵琶町」です。以前、当ブログのコメントで北白川追分町(京都大学農学部のあるところ)が存在していたという情報が寄せられていましたが、琵琶町はさらにその外側に位置します。しかも、現物を確認することができました。
これにより、分布図は次のように変わることになりました。右上、赤色の実線部分です。

琺瑯製の仁丹町名表示板、当時の京都市エリアに隈なく、とことん設置したのだと感心させられます。「広告益世」とは言うものの、広告が目的ならば費用対効果の大きい都市中心部のみでも構わなかったはずです。それなのに全面的に設置するとは益世の方が勝っているようです。

さて、今回の行政区名も縦書きでした。

残念ながら傷みが激しいのですが、「左京區」ではなく「上京區」と記載されていることは間違いなく読み取れます。
そして、町名は明らかに「北白川琵琶町」、毛筆の痕跡もありありです。書道のお手本のような素直で美しい字です。どのような場所で、どのような職人さんが書いていたのか想像を膨らませてくれます。

商標もついでに。まぎれもない、他の琺瑯「仁丹」と同じです。

さらについでに、日頃は見られない裏面も。

琺瑯が欠けている部分の文字を想定し、新製当時を復元すると次のようになります。

また、行政区名縦書きの他の物と比較すると、次のようになり、今回の北白川も同じ職人さんの手によるものと見て違和感はありません。


これで、長年の課題がひとつ解決しました。この度のご協力、心より感謝いたします。ありがとうございました。

「京都を歩けば『仁丹』にあたる」(青幻舎 ISBN:978-4-86152-936-8 C0026)が発行されて、間もなく1年が経とうとしています。その巻末資料として、p.196に次のような分布図を掲載しました。(伏見区除く)

(地理院地図Vector(https://maps.gsi.go.jp/vector/)をもとに、京都仁丹樂會が編集・加工)
これは、今までにその存在を確認できた表示板のうち、最も周辺部に位置するものを結んだものです。つまり、この赤い点線の内側に仁丹町名表示板が分布していることを示しています。そして、当然あって然るべきなのに、この30年間、古写真ですら一向に見つけることのできなかった空白地帯が「北白川」でした。
しかし、先日、佛教大学のオープンセミナーで仁丹町名表示板についてのお話をさせていただいたとき、参加者の方から“埋蔵”の情報をいただきました。そして、早速拝見したのがこの「上京區北白川琵琶町」です。以前、当ブログのコメントで北白川追分町(京都大学農学部のあるところ)が存在していたという情報が寄せられていましたが、琵琶町はさらにその外側に位置します。しかも、現物を確認することができました。
これにより、分布図は次のように変わることになりました。右上、赤色の実線部分です。

琺瑯製の仁丹町名表示板、当時の京都市エリアに隈なく、とことん設置したのだと感心させられます。「広告益世」とは言うものの、広告が目的ならば費用対効果の大きい都市中心部のみでも構わなかったはずです。それなのに全面的に設置するとは益世の方が勝っているようです。

さて、今回の行政区名も縦書きでした。

残念ながら傷みが激しいのですが、「左京區」ではなく「上京區」と記載されていることは間違いなく読み取れます。
そして、町名は明らかに「北白川琵琶町」、毛筆の痕跡もありありです。書道のお手本のような素直で美しい字です。どのような場所で、どのような職人さんが書いていたのか想像を膨らませてくれます。

商標もついでに。まぎれもない、他の琺瑯「仁丹」と同じです。

さらについでに、日頃は見られない裏面も。

琺瑯が欠けている部分の文字を想定し、新製当時を復元すると次のようになります。

また、行政区名縦書きの他の物と比較すると、次のようになり、今回の北白川も同じ職人さんの手によるものと見て違和感はありません。


これで、長年の課題がひとつ解決しました。この度のご協力、心より感謝いたします。ありがとうございました。
~テント虫、shimo-chan~
2012年01月29日
仁丹町名表示板 基礎講座・第五章 ~行政区域の変遷~

第五章 「仁丹町名表示板」の設置範囲
<3> 京都市・行政区域の変遷
前項で仁丹町名表示板の設置範囲や分布状況を述べてきました。それらを検証する場合、様々なヒントや気付きを与えてくれるのが、京都市の行政区域の変遷です。その変遷の歴史を年表にしてまとめてみました。京都市が合併・分区を繰り返して拡大して行く姿がよく分かります。
★年表上でクリック→拡大

下に書き連ねているのは、中心三区を取り囲む、現在の京都市の地名です。
★市内北東角から反時計回りに
上高野…松ヶ崎…下鴨…上賀茂…小山…紫竹…紫野…衣笠…平野…
…大将軍…花園…太秦…嵯峨野…西ノ京…聚楽廻…壬生…中堂寺…
…西七條…七條御所ノ内…梅小路…朱雀…八條…西九條…東九條…
…一橋…本町○○丁目…今熊野 ~ 南禅寺…岡崎…鹿ヶ谷…聖護院…
…吉田…浄土寺…田中…高野…山端…一乗寺…修学院
その各エリアで、仁丹町名表示板の現存確認が取れています。その中で特徴的なのが、「花園・太秦・嵯峨野」と「本町○○丁目」です。他の地区は旧京都市街を取り囲んで円陣を組んだような形を取っているのに対して、その円陣から突き出した形に4地区が位置しています。つまり、「花園・太秦・嵯峨野」の3地区は、妙心寺道・太子道・三条街道沿いに町並みが伸び、それに沿って仁丹町名表示板が設置されていったのでしょう。また「本町通」も京都と伏見を結ぶ本町通(直違橋通)の町並みに仁丹町名表示板が設置されていったと思われます。
ところで、現在の地名で見ると、中心区に比較的近隣でありながら、空白の部分がいくつか存在していることが分かってきます。
例えば、西院・山ノ内・西京極・唐橋・北白川です。それらエリアにも仁丹町名表示板が点在し、そのいくつかが確認できてもおかしくありません。しかし、現在は未確認地区となっています。ただ、西院以西の地区には面の形で未確認エリアが広がっていることを考えると、当初から未設置地区であった可能性も考えられます。
それに対して北白川地区は、周りを設置地区に取り囲まれていながら、現在一枚も現存確認ができていません。本来、志賀街道沿いなどに設置されていたのではないかと考えられます。
余談ですが、「西院」の仁丹町名表示板が存在するぞ!と、ニヤニヤしながら反論する方もいらっしゃるのではないでしょうか。
ということで、おまけ画像を一枚ご紹介しておきます。
確かに、”西院”ですね。チャンチャン♪

2012年01月08日
仁丹町名表示板 基礎講座・第五章 ~分布状況~

第五章 「仁丹町名表示板」の設置範囲
<2> 仁丹町名表示板の分布状況
まず、「仁丹町名表示板」の設置範囲を調べるとしても、お話した様に、森下仁丹本社の設置施工当時の資料は戦災で失われてしまいました。これで、手早く確実にそれを知ることはできなくなってしまいました。そこで、別の方法で設置範囲の解明を試みてみましょう。その方法として、現存する、もしくは消滅したものの実在確認ができていた仁丹町名表示板の設置位置を集計し、その最も外周に位置する仁丹町名表示板の設置位置を検証することで、設置範囲を推測するというものです。これは、途方も無い時間と手間のかかる方法なのですが、われわれ京都仁丹樂會メンバーが、すでに何年もかかって積み重ねてきたデータをすり合わせれば、ある程度の短時日で、ほぼ実態に近いものが見えてくるのではないかと考えました。
では、樂會独自に設置事実を確認・把握していた実数を見てみることにしましょう。まず、現在の行政区に置き換えて、実在していた確認枚数とその割合を表とグラフにまとめてみました。

<平成23年12月現在>
※「実在確認」とは、”現存”仁丹町名表示板、および”現在は消滅・埋蔵”したものの実在確認ができている仁丹町名表示板のこと。
この表は、平成8年以前から現存調査を始めていた資料を平成8年8月の時点で一旦集計し、さらに平成23年12月までの15年間の継続調査のデータを加え、修正してまとめたものになっています。
この数値は、樂會メンバーが実際に仁丹町名表示板(確認できた埋蔵仁丹も含む)を実見確認したもののみを集計したものです。しかし、あくまでもデータ集計途上の数値ですので、仁丹町名表示板の設置規模の全容を示すものではありません。また、同種の研究調査を重ねておられる方々の情報や古写真や各メディアで散見する仁丹町名表示板に加え、これからも発見するであろう埋蔵仁丹を拾い集めれば、さらに大きな数値になってくることが考えられます。
※「埋蔵仁丹」とは、町家壁面などの屋外から取り外されて屋内にて保存されたり、コレクションとして所蔵され、町名表示板として活用されていない仁丹町名表示板のこと。

これは、上記表の実在確認枚数を円グラフにまとめたものです。
枚数の構成比率は、京都中心の上・中・下京区の三区で、おおよそ8割を占めていることがわかります。設置された当初においても、中心区の設置割合はこの結果以上であることが考えられます。つまり、四ツ辻ごとに最大8枚の仁丹町名表示板が設置され、その密度の高さは、現在の比ではなかったと容易に想像がつくからです。
では、現在の上京区・中京区・下京区を取り巻く周辺区ではどのような状況だったのでしょうか。現在確認ができる仁丹町名表示板で、最も大外回りとなる最東端、最西端、最北端、最南端の看板を見てみましょう。
最東端 西 端 突出最西端 最北端 南 端 突出最南端






・最東端 「左京區上髙野口小森町」
・西 端 「右京區花園八ッ口町」(消滅)
・突出最西端 「右京區秋街道町区域」 ※嵯峨野秋街道町
・最北端 「左京區上髙野大橋町」
・南 端 「下京區東九條札ノ辻町」(消滅)
・突出最南端 「下京區本町十九町目 本町通東福寺南門下ル」
※埋蔵仁丹として、「下京區本町二十二丁目」の実在は確認済み。
上記に挙げた例の様に、周辺地区においてもまだまだ数多くの仁丹町名表示板たちが頑張ってくれています。しかし、その設置密度については、中心区と比べうる程のものではなかったようです。それは、家屋の取り壊しや撤去によって減ってしまったというよりも、設置当時の周辺エリアにおいては、一面にのどかな田園地帯が広がり、飛び石状に集落が点在していました。今でこそ家々が立ち並んで市街地となっていますが、その環境の中で設置可能な場所となると、村々の集落内や街道沿いに建物が連なっているルート、或いは、交通の要衝や神社仏閣の参拝路となっていた地点であるということになってきます。要するに、人の行き来がある場所ということの様です。
仁丹町名表示板が広告であるということを考えれば、ごく自然な結果だと考えられます。この6枚も、やはりその例に漏れず街道沿いもしくは集落内に設置されています。
2012年01月03日
仁丹町名表示板 基礎講座・第五章 ~はじめに~

第五章 「仁丹町名表示板」の設置範囲
<1> はじめに
去年7月に開講しました仁丹町名表示板基礎講座、しばらく中断しておりましたが、新年を迎えて再び始まりました。
振り返ってみますと、第一章の予備知識では、仁丹町名表示板の設置を推し進めていった「森下仁丹株式会社」の歴史を紐解き、仁丹町名表示板を生み出したパワーの根源が何だったのかを探りました。続く第二章から第四章では、京都と他都市に設置された仁丹町名表示板の比較を試み、表示板の表記方法やルールを、その仕様ごとに分類し検証してみました。特に、京都の仁丹町名表示板を印象付ける独特の住所表示(公称表示)については、様々な具体事例を挙げながら、その特徴を見ていただきました。そして、理解を深めていただけたことと思います。

これぞまさに、あなたがもうすでに京都を学び知る京都学の入り口に立っている証しではないでしょうか。そういった意味では、仁丹町名表示板は京都学を歩むための最適の手引きになってくれることでしょう。
さて、この第五章では、一定のルールに基づいて表記されている仁丹町名表示板たちが、京都の町のどんな地域に設置されていったのか、現存している仁丹町名表示板を紹介しながら、その設置範囲に焦点を当てて、設置当時の実態を検証してゆきたいと思います。 また、仁丹町名表示板の設置が進められていった頃は、京都市が周辺の郡部や町村を呑み込みながら拡大していった時代とも重なっています。その合併吸収の推移を年表にしてまとめてみましたので、あらためて京都市の拡大を検証する資料としてご参照下さい。