京つう

歴史・文化・祭り  |洛中

新規登録ログインヘルプ


2024年04月09日

木製の設置経緯に迫る新聞記事発見!

昨年末に刊行した『京都を歩けば仁丹にあたる』の出版を記念して、1月末に大垣書店烏丸三条店さん主催のトークイベントが行われました。
(参照:https://jintan.kyo2.jp/e586346.html

その際ご参加くださった方にはお話しした内容にもなりますが、木製の町名表示板の設置時期とその経緯に、より迫ることのできる新聞記事に出会いましたので、ご報告します。


これまでにも、当ブログ、ならびにそれらをまとめた『京都を歩けば仁丹にあたる』のなかでもご紹介してきた通り、森下仁丹社内には木製仁丹の設置経緯を明示する資料は基本的に存在しておらず、古写真や新聞記事などからその設置時期の推定を進めてきました。

ブログ記事ではこちらです。(参照:https://jintan.kyo2.jp/e565991.html

大正元年8月末から9月初めの京都日出新聞(現京都新聞)の読者投稿欄「落とし文」に載せられた、読者からの投稿文にある内容がこれまでの時点では最も古い記事でした。といっても設置がされ、市民がそれを見かけてハガキを書き、記事に採用されるまでの期間が一定程度あるだろうことから、少なくともそれより前、つまり、この年の7月末までは明治45年ですので、明治45年には設置が始まっていたと考えてもよいのではないか、というのが、これまでの私たちの設置時期の推定でした。今回の新聞記事は、その内容の補強になるものだと思います。


今回新たに見つけた新聞記事は、京都日出新聞ではなく、大阪朝日新聞の京都版である、『大阪朝日新聞京都附録』の大正元年8月14日の紙面です。当時国内でも最大手の新聞であった大阪朝日新聞は、京都版として、「京都附録」というものを合わせて発行していました。地方図書館や国会図書館、大学などの図書館などでは、マイクロフィルム、契約している新聞データベースなどで閲覧することが可能です。


大阪朝日新聞京都附録 大正元年8月14日


この紙面の一番下の段に次のような記事がありました。



現代文風に書き直しますと、
●市内の町名札
京都市内各所の町名札の形状はまちまちで、体裁の悪いものも少なくなかったところ、大阪の売薬商森下博が、町名札の一部に仁丹の広告をつけ、市内各町に掲出したいと京都府警察部に届け出てきた。森下博が出願してきた町名札と従来のものを比べたところ、体裁も良く、一般公衆の目に留まりやすいものである。そのため、今後破損・退色した場合にはすぐ補修することを条件に、仁丹の町名札を認めることとした。出願形式も省略し、掲出場所は公同組合長に相談させたうえで対応するよう、所轄の警察署に連絡があった。



この新聞記事から分かる重要な点がいくつかあります。
① 森下博から、京都府の警察部に町名表示板掲示の出願がされた
② 市内には以前から町名札が設置されていたが、書き方はバラバラで体裁が悪かった
③ 森下の出願に対して、現行のものと比較した上で仁丹の方がよいと判断された
④ 府の警察部で一括して認めたので、個別の出願許可は省略された
⑤ 将来破損・退色した場合はすぐに補修させる条件がついた
⑥ 設置場所は「公同組合長」に相談させたうえで適宜対応とした




明治以降、京都や東京など、主要都市各地には利便性をはかるため町名札の設置が進められました。これは当時の新聞記事や京都府の公文書でも出てくることです。例えば、次に示す『京都府布達要約』(京都府調査掛編纂、明治十四年十二月)には、明治元年九月の布達第五十三として、「今般町組御改正ニ付是迄町々木戸門其家毎表エ差出置候町名札左之雛形之通書改候様申付候事」として、町名札の雛形が図示されています。


『京都府府令達要約』自明治元年至明治13年 [第1編],京都府内務部,明14-31. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/788398 (参照 2024-04-06)


なお、図の上部にある「何京」というのは、当時2つの区しかなかった京都市の「上京」「下京」を、その次に縦書きされている「何番組」とは、京都市内にある学区を表します。例えば「成逸学区」は「上京第一学区」、「乾学区」は「下京第一学区」というような形で、上京区には35学区、下京区に38学区が存在していました。昭和4年4月に現在の様な「成逸学区」「乾学区」といった学区名が正式に呼称として定着することになりましたが、これは、昭和4年に新たに中京区や東山区が分区して市内が5つの区になったときに、これまでの「何京何番組」という呼称が変化することの混乱を避けるとともに、学区の歴史を尊重するため、従来呼ばれていた学校名を正式に学区としたものです。(京都日出新聞 昭和4年3月31日)

おそらく、こうした上からの指示に応じて、明治初期にはまだ各町の入り口にあったと思われる木戸門や、各住宅の表に貼られていた札が書き換えられていったものと思われますが、基本的には各町ないし各家の自主的なもので、サイズや書かれ方もバラバラ、見づらいものになっていたのだと思います。

それに対して、森下博からの設置申請は、京都府(警察)側としても非常に魅力的な提案であったと思われます。現物を比較した上でこちらの方が見やすい、という判断がされていますし、もし劣化したり破損した場合には、すぐに補修させることも条件としていますので、警察・自治体側は一切費用負担が発生しないわけです。そのうえで、本来であれば都度都度各警察署にお伺いを立てなければならない設置申請について、府の本部で許可するので、各署にその旨宜しくね、と指示出しましたというわけです。その後の設置を容易にしたという点からすると、森下博が直接警察の本部に交渉をして、トップダウンでの設置を認めさせたことは、非常に才覚にあふれた手法だったと思います。




木製の仁丹町名表示板の例


以前ブログでも紹介したように、明治末、京都府は広告掲示に対する大変厳しい規制を行いました。京都府令第136号「広告物取締法施行規則」(1911(明治44)年8月11日)と、京都府訓令第54号「広告物取締法令施行手続」(明治44年8月22日)では、京都市内にも沢山ある御陵や御墓周辺をはじめ、勝地旧跡、鉄道沿線、高瀬川、堀川、鴨川沿いなどにも広告の設置が認められないことになっています。ただし、「公益性」のあるものについては例外とされました。(参照:https://jintan.kyo2.jp/c16856.html

記事を書いているidecchiの想像になりますが、森下博はまず、この京都府令、京都府訓令の地域に該当しない場所から、明治45年頃から少しずつ、町名表示板を付けて行ったのではないでしょうか。とはいえ、設置場所には様々な制限がありますから、市内何処にも付けられるわけではありませんし、一つ一つお伺いを立てていてはキリがない。いくつか設置したものと、それまで各町なりが自主的に付けているものとを比較させる形で、京都府の本部に掲出許可をもらいに行き、補修を条件に市内全域への設置許可をもらい、それを受けて同じ年(ただし元号が変わって大正元年)の8月以降、一気に市内各所への設置が始まったのではないでしょうか。

設置条件の一つである「破損・退色した場合の補修」も、その後につながる話です。明治末から大正初めの木製町名表示板の設置から十数年経過すると、当然ながら木にペンキ塗りの町名表示板の中には、退色がみられるものであったり、何かのトラブルで破損するものも出てきていたと思われます。約束通りに補修するのであれば、一気に、より耐久性が高く見栄えも良い琺瑯製の町名表示板が登場することにもつながっていくのです。

なお、記事中に出てくる「公同組合」とは、明治30年末から31年にかけて町単位に設置された京都独自の住民自治行政組織のことで、現在ある町内会に該当するものです。昭和15年に町内会となりこの「公同組合」は姿を消しましたが、記事からすると、設置に当たってはそれぞれの町内会と相談して場所を決めたという事ですので、各町の境目や辻々に住所に正確に町名表示板が設置されている、また、当ブログ「仁丹町名表示板 公称と通称」で紹介したように、地域によっては通称名などが追加されているものが存在するというのも、そうした各町との連携で設置されたとすれば、納得のいくところかと思います。
(参照:https://jintan.kyo2.jp/c13940.html))

こうした新聞記事や古資料、まだまだ各所に眠っているのではないかと思います。今後も引き続き、資料探索を進めながら、設置状況とその背景に迫っていきたいと思います。

~ idecchi ~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 08:31Comments(0)設置時期基礎研究

2023年04月27日

出現する史料 ~琺瑯編~

続いて琺瑯製仁丹町名表示板についてです。木製の場合と同じく国会図書館デジタルコレクションからです。

琺瑯仁丹全体の96%を占める上京區、下京區表示のものの設置可能期間は昭和2年半ば~昭和3年半ばにかけてと見ています。それも御大礼記念京都大博覧会の始まる9月に間に合うように一気に設置した可能性が濃厚かと考えています。
<参考> 当ブログ 2022/02/18歴彩館の講演会

これらを補強してくれる史料として、以下のようなものが見つかっています。


昭和13年  『京洛観光写真集 大京都便覧 』

江崎浮山 編『大京都便覧 : 京洛観光写真集』,大京都便覧発行所,昭和13. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1150199 (参照 2023-03-06)

主に静岡県を中心として活躍した実業家江崎浮山氏による、京都のガイドブックです。国民総動員法が間もなく発せられるので、京都を良く理解しようというような主旨だと序文には書かれています。題字は当時の京都市長、序文は市会議長や商工会議所など、まるで公式ガイドブックのようです。

このP.69に「京洛昭和風景 市内街頭所見」なる記事があり、つぎのように記されています。

『京都は何と云ふも日本一の観光の都で四季を通じて入洛する観光客は大したもの。それがため京都市役所では観光区域を限定し風致を傷けぬことに極力注意をしてゐる。其の一例を挙げれてみるならば電柱広告を絶対禁止し街の美観を保つことに大馬力をかけてゐるが、唯広告のあるは電車内ぐらいで電柱広告の出来ぬ京都の街で一番目に付くは街角の軒下に貼られたホーロー町名標識記位であらう。これは全部仁丹が町名を記入し旅人の道しるべにして居るが是などは美しい愛市観念の発露として観光客の目にも好もしく感ぜられれ一般からも頗る好評を博してゐる。』

いつの状況を記しているのか明記されていませんが、この書籍が発行されたのは昭和13年なので、その直前の状況を表していると捉えるべきでしょう。ここで言う“電車内”とは市電の車内広告のことだと思います。そして、屋外広告が原則禁止された京都市中において唯一目に付くのが“街角の軒下に貼られたホーロー町名標識記”であり、“全部仁丹”だと言っています。すなわち、琺瑯製仁丹町名表示板が街中に設置されていたことが分かります。明治大正期の資料では街角の溢れんばかりの“海軍帽の商標”に対して批判的な声もあるのですが、ここでは観光客にも市民にもすこぶる好評を博していると全面肯定しています。

また、この書籍には協賛スポンサーのように多くの企業が広告を載せていますが、そこに仁丹もありました。



白川女と五重塔をあしらったデザインで、「史蹟の國京都之行楽に仁丹」なるキャッチャコピーです。京都観光にターゲットを絞っているのなら、琺瑯製の美しい町名表示板を辻々に設置したから安心せよ、とアピールもして欲しいところです。堂々と自慢してもよいと思うのですが、今のところそのような史料に出会えていません。この頃の仁丹の種類には赤大粒、赤小粒、ローズ、銀粒、麝香の5種類があり、全国の薬店、売店、煙草店、各駅とあります。

また、金言ではないものの「昭和の常識」として「旅行に郵貯の通帳持ち行き先方の局で貯金せば、貯金と記念印が同時に出来、好趣味」と、仁丹ケースと同様、コレクターの心をくすぐるようなことが紹介されています。いわゆる旅行貯金、一円貯金のことですね。


昭和6年 『実際広告の拵へ方と仕方』

内田誠, 片岡重夫 著『実際広告の拵へ方と仕方』,春陽堂,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1177015 (参照 2023-03-13)

これは様々な広告手法に関する、実務者向けのノウハウ本のようです。そのP.109、看板の章の屋外看板のうち辻貼看板なるものが紹介されていました。

『琺瑯製、又は鉄板ペンキ塗の小型看板を、街路の要所々々や四辻、家屋の羽目板等へ貼付するのだが、単に商品名や商店名を書いたものより、公益的文句例えば金言を加え、町名や通りの名を標示してある如きもの、或いは「左側通行」と書いたもの、「往来安全」の電燈を一燈奮発して、それに宣伝の文字を併用すること等が一層効果的である。』
とあります。

どこにも“京都”や“仁丹”なる語句は出てきませんが、街路の要所要所、四辻、家屋、町名、通り名といえば、これはもう京都の琺瑯仁丹を念頭に書いているとしか思えません。金言については仁丹の電柱広告のことでしょうが。昭和6年発行の書籍ですから、それまでには京都の琺瑯仁丹が存在していたことがうかがえます。

さらに、『添付の場所、数等はそれぞれ其広告の性質から考慮して決定すべきである。警察署への届出と、打付ける場所の権利者、家屋の所有者へ諒解を求め場合によりては多少の御礼をすることを忘れてはならぬ、』と続きます。

「ホーローの旅」(2002年8月10日発行、著者泉麻人/町田忍)には、戦後の話ではあるものの金鳥の琺瑯看板の設置に際して、お礼に金鳥蚊取線香2箱を進呈していたという聞き取り調査が紹介されています。しかし、昭和初期の京都の琺瑯仁丹ではどうだったのでしょうか? 設置場所はピンポイントで限定されています。了承を得られなくても、そこに貼らせてもらわなければ困ります。いちいち承諾を得ながら設置したのだろうか? 御大典があるからとか警察のお墨付きをもらっているからとか一方的に設置したのだろうか? またお礼に仁丹を配ったのだろうか? 住民の気持ちはどうだったのだろうか? ピカピカと輝く琺瑯看板はむしろ歓迎されたのだろうか? 色々と想像を巡らせてしまいます。



昭和5年 『京都市大礼奉祝誌』

京都市 [編]『京都市大礼奉祝誌』,京都市,1930. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1905139 (参照 2023-03-13)

昭和3年11月に行われた昭和の御大典について、京都市役所がまとめて昭和5年2月11日(紀元節、仁丹発売の日)に発行したものです。先の3つの史料は文字としての情報でしたが、こちらは写真による情報です。写真だけの頁には頁数がないのですが、P.556の後に何枚もの写真頁があり、その中の1枚が次のものです。



キャプションには「逓信省臨時出張所(京都中央電話局)」とあります。そして、右側の門柱のすぐ右側に、おや?と反応してしまう縦長の白い物体が写っています。まるで何度も見てきた琺瑯仁丹みたいです。でも、商標がありません。


しかし、拡大して目を凝らしてよく見ると、上にお馴染みの飾り罫線があり、その下に右横書きで「區京上」、さらに「東洞院通三條上ル」、そして数文字の町名が書かれていますが、そこまではこの解像度では判読できません。これはまさに琺瑯の仁丹町名表示板! おそらく上端の仁丹の商標は大礼奉祝誌としては不適切とばかりに印刷原稿から消されたものと考えます。当時の地図によれば、京都中央電話局は東洞院通三条上るの西側にあり、町名は曇華院前町にありました。そう思って改めて写真を凝視すると曇華院前町と読み取れそうです。字数も合います。すなわち写真に写っているのは「上京區東洞院通三條上ル曇華院前町」の琺瑯仁丹に間違いないようです。そして、そこは中京区の初音学区。中京区では城巽、龍池、初音の隣り合う3つの学区のみ、商標が上端にあることからも納得です。

撮影場所は、現在の中京郵便局の東洞院通を挟んだ西側の少し北、すなわちNTT西日本京都支店の敷地になります。次の写真の矢印辺りです。





昭和6年 『大礼奉祝會記要』

『大礼奉祝会記要』,大礼奉祝会,1931.1. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1885589 (参照 2023-02-04)

先の「京都市大礼奉祝誌」は京都市が発行したものですが、これは当時の京都市長土岐嘉平が会長を務め、京都の政財界で構成された京都市大礼奉祝会がまとめたものです。発行は昭和6年1月15日、所在地は京都市役所内となっており、公的資料と言ってもよいでしょう。

これもまた写真の頁には頁数がないのですが、P98と99の間にある何枚かの写真のうちの1枚がこれです。


キャプションは「大国旗掲揚(中京方面)」とあり、大きな日章旗が掲げられ奉祝の人々も大勢写っていることから、天皇が御所に到着される前後かと思います。そして、左の家屋の2階に大礼服を着た髭のおじさまが紛れもなく写っているのです。小さく写っているだけなので、前回の例のように消されることなく、そのまま印刷されたのでしょう。



では、この場所はどこなのか? 解像度の悪い写真を拡大したところで、改善はしないのですが、“中京方面”とは中京区に向かって撮ったということでしょう。全体から受ける印象は何となく御所から南を撮った? だとすると丸太町通? そのように読めそうです。続くは字数から”堺町東入”か?

現地を訪れてみました。そして、やはりここでした。堺町御門です。


堺町御門から南を、すなわち中京方面を撮るとこうなります。


まさか当時の光景が今なお残っているとは思いませんでした。琺瑯仁丹が設置されていた家屋も、さらに右側に写っていた木造3階建ての家屋も残っていました。2009年10月のストリートビューを見ると分り易いです。

したがって、この写真に写り込んでいる琺瑯仁丹は「上京區丸太町通堺町東入鍵屋町」に違いありません。字数や面影も一致します。また、富有学区なので商標は下端、セオリーにも矛盾しません。それにしても、堺町御門の目の前によくぞ掲げられたものだと驚きます。




以上のことから、まだ”昭和3年9月の大礼記念京都大博覧会までに設置された”という仮説までにはまだ2カ月ほど届きませんが、少なくとも御大典までには設置されていたことは補強されました。
~shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 10:57Comments(0)基礎講座設置時期

2023年04月16日

出現する史料 ~木製編~

このところ、「国立国会図書館デジタルコレクション」が順次拡充し、家に居ながらにして、仁丹町名表示板に関連する発見が増えてきています。設置時期やその背景をズバリと明言するような史料にはまだ出会えていませんが、今までの私たちの仮説を補強してくれています。それらをご紹介しましょう。

先ずは木製の仁丹町名表示板についてです。

木製については様々な状況証拠から明治末期から大正の御大典までに設置されたと見ています。すなわち、少なくとも明治45年~大正3年にかけてが極めて濃厚かと考えています。(御大典は大正4年でしたが、これは急遽1年延期されてのことでした)
<参考> 当ブログ 2022/02/18歴彩館の講演会


大正2年 『実業界』7(6)


『実業界』7(6),早稲田同文館,1913-12. 国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1564719 (参照 2023-03-12)

大正2年12月に発行されたこの書籍の「旅客の眼に映じた経営振りの数々」という記事です。筆者が同年8月に関西を漫遊した際に印象に残った広告をいくつか報告しており、その中に次のような記述があります。

『京都南禅寺辺を遊覧せる時、仁丹と大書せる下にX町名を記した標札を各辻々に打ち付けおけるを見た。町名標出は其名義好し。単に薬名のみを掲記して広告するよりは、親切気に見えて好いと思うた。』

今とは違う当時の言い回しですが、琺瑯看板の普及前ですから木製仁丹のことを言っているはずです。“仁丹と大書”を仁丹なる商品名と解釈しているようですが、これは商標のことでしょう。そして“下にX町名を記した”のXは様々な町名という変数のつもりなのでしょう。そのようなものが“各辻々に打ち付け”られていたことから、大正2年8月当時、すでに街中の至るところに木製仁丹が設置されていたことをうかがわせます。さらに町名札というのは大義名分で有り、公益性を持たせた広告であると捉えています。


大正3年 実業界 7月号


『実業界』9(1),早稲田同文館,1914-07. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1564725 (参照 2023-03-08)

同じく「実業界」ですが、大正3年7月発行のものです。P.52「他人の新趣向」なる記事に次のような記述がありました。

『大阪の某大薬店では、京都の市街中四辻には必ず町名札を掲げ、其上に自店発売の薬品を一つ記している。四辻に町名が記してあることは不案内者にとつては非常に便利であるから、其売薬の印象は特に深ひであらう。同じ広告にしては此等は寔に好い思付である。』

どこにも“仁丹”とは言っていませんが、“大阪の某大薬店”、“町名札を掲げ、其上に自店発売の薬品を一つ記して”も前述のケースと同様に仁丹の商標を商品名と捉えているようです。木製仁丹は商標がすべて上端にあるので、木製仁丹を見ての記述に違いないでしょう。“京都の市街中四辻には必ず”という表現からは、碁盤の目のような東西南北の通りが交わる所にはほぼ必ず設置されていたことをうかがわせます。もしかしたら、一つの角に2枚あれば“8枚が辻”もあり得たかもしれません。ここでも“不案内者にとっては非常に便利であるから、其売薬の印象は特に深ひであらう”と好意的に受け止められており、広告益世が体現されているようです。そして、良いアイデアだとも言っています。


大正4年 逓信協会雑誌 7月号(85)


『逓信協会雑誌』7月(85),逓信協会,1915-07. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2776387 (参照 2023-03-08)

これは大正4年7月発行の「逓信協会雑誌」です。現在の公益財団法人通信文化協会の前身である財団法人逓信協会が発行していた業界誌のようです。そのP.60に「漫録 御大礼前の京都」なる記事がありました。大正の御大典は大正4年11月なのでまさにその直前の京都の様子が次のように記されています。

『京都にては何故か、散水が尠いので道路は極めて塵埃つぽい。處々の櫓下には東京の専用栓の如き水道栓が設けられて居る、是れが散水用の水道と思はれる。仁丹の広告を兼用した町名札と共に、お上りさんの目に附き易い。』

東京から京都へやって来た人が、見慣れた東京の街との比較を色々と記している記事です。当時はまだ道路が舗装されていなかったので埃がひどく、散水用の水道栓が“仁丹の広告を兼用した町名札と共に、お上りさんの目に附き易い”と仁丹町名表示板のように水道栓が多いと表現しています。逆に散水用の水道栓がそんなにあったのかと驚くのですが。また、入洛者のことを“お上りさん”と表現していますが、これは当時の新聞などでも見かける表現で、当時としてはポピュラーな語句だったようです。ちなみに、昭和の御大典に際しては烏丸通など鹵簿の通る行幸路は舗装が命じられます。


大正4年 逓信協会雑誌 12月号(90) 御大禮記念号


『逓信協会雑誌』12月御大禮記念(90),逓信協会,1915-12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2776392 (参照 2023-03-08)

同じく『逓信協会雑誌』ですが、大正4年12月、まさに大正の御大典直後に発行された「御大禮記念号」です。このP.108平安日記には、街の景観に関連させて木製仁丹のことが次のように語られています。

『旅客相手の都市は、先以て旅客に交通上の智識を普及せしむることが肝要也。京都市は此點に於て用意周到という能はざるものあるを思はしむるもの多し。広告と謂はばそれ迄なれど「仁丹」の広告入り町名札が、京の町々の凡てに、衆目に觸るる様掲出せられたるは、旅客に取りて非常なる便宜なりき。一些事と雖当局者の一考に値するものなくんばあらず。』

これまた今となっては難しい言い回しですが、要するに「観光都市は事前に道案内などの設備をしておくことが大切だ。京都市はこの点、あまりなされていない。広告と言ってしまえばそれまでだが、仁丹の広告入り町名札が街の至る所に設置されているのは入洛者にとっては非常に便利だ。些細なことだが京都市も参考にするべきではないのか。」と言ったところでしょうか。これも時期的に木製仁丹でしかあり得ないのですが、仁丹町名表示板が観光都市にあるべきインフラの一種として捉えられている点が興味深いところです。


国立国会図書館デジタルコレクションは今後も充実していくようですから、これからもまだ新たな史料が登場することが期待できますが、現時点では以上のような史料により、木製仁丹の設置時期が少なくとも明治45年~大正3年にかけてが濃厚という推論を補強してくれています。

~shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 11:47Comments(0)基礎講座設置時期

2022年02月18日

歴彩館の講演会

歴彩館における新・京都学講座「~京都のまちかどの近代史~仁丹町名表示板の謎を追う」は無事、盛況のもと終えることができました。参加者のみなさま、スタッフのみなさまありがとうございました。


コロナの感染者が急増したため参加申し込みは1月21日の時点で締切となりましたが、その後も感染者数は増え続け、このままでは緊急事態宣言が出て中止になるのではとか、はたまた自分自身が感染して中止にならないだろうかと、何かと気を揉みました。でも、何とか開催の日を迎えることができホッとしました。





さて、まち歩きではなく、舞台が歴彩館となるとやはり京都の近代史に重点を置いた構成にしなければと考えました。そして、仁丹町名表示板の最大派閥である上京・下京区表示の琺瑯仁丹の設置時期とその時代背景について説明させていただきました。

あれだけ正確な住所で正確な設置を当時の京都市域全体で成し遂げたのだから、それは結果として一種のインフラになったと言ってよいかと思います。となると京都市のまちづくりに注目です。昨年は、当時の京都日出新聞、京都日日新聞、朝日新聞京都地方版すべてのマイクロフィルムを連日頑張って精査しました。そして、何か糸口はないかと探しました。しかしながら、今では考えられないような記事のオンパレード、そちらについつい気を取られがちで、仁丹町名表示板のことを調べているのだぞと言い聞かせること度々でした。

判明した事実を時系列にして、次のような図にすると分かりやすいかと思います。




最大派閥の上京・下京区表示の琺瑯仁丹の設置時期は、大正15年4月1日~昭和4年3月31日までの丸3年の間に必ずあるはずなのです。前者は琺瑯仁丹に使用されている商標が新聞紙上で現実にデビューした日、後者は分区の1日前です。なお、昭和元年は1週間もなかったので省略しています。

期間は3年あると言っても、昭和3年5月の京都市告示第252号(通り名の区間と名称を定義したもの)を色濃く反映していることを考えると、設置はその終盤に偏っていそうです。図の青い円がそのイメージです。しかし、直後に大典記念京都大博覧会があります。どうせなら入洛者が急増する博覧会が始まる9月までに設置を終えたと考えてよいのではないでしょうか。

昭和3年11月の昭和御大典に向けた各界の準備は、昭和2年2月の大正天皇の御大葬の後から、順次具体的な動きとなって新聞紙上を賑わせます。準備期間はおよそ1年半ですが、各種土木工事と並行して博覧会を主催しなければならない京都市としてはわずか1年ちょっとしか期間がありませんでした。一致団結して事に当たらなければならないにも関わらず、市長が3人も変わるなど京都市政は大混乱の時期でした。まさに手に汗握る展開の中、御大典を機に訪れる土地不案内の入洛者のために辻々に住所の表示板があれば便利だろうなどという提案が出る余地など、新聞を追っていく限りでは微塵も感じられません。
しかし、そのニーズはしっかりあったであろうことは、京都市直営の駅前案内所取扱件数などで想像できました。

一方、森下仁丹(当時は森下博薬房)の動きは昭和2年7月に小粒仁丹を発売し、その直後から広告を大展開しています。大正初期に設置した木製仁丹が劣化し、広告物取締法の関係でそのまま放置しておけなかったという事情も前提としてあったでしょうが、前述の時代背景と広告の大展開のタイミングが合うことなどから、昭和2年の後半から設置が始まったのではと推理しています。

講演会の様子は、翌日の京都新聞朝刊で紹介されましたが、そこにある「昭和2年後半から3年9月ごろではないか」というのは以上のような推論からでした。また、当ブログ記事「諸説との比較」でご紹介した駒敏郎氏の“昭和2年に5,000枚”という説にも図らずも近い結果となりました。

なお、翌年、昭和4年4月1日から分区すると多くの仁丹町名表示板の行政区名が不一致となります。それを知りながら設置したのかという疑問が残ります。しかし、市長が分区を決断し市会に提案したのは昭和3年11月27日のことでした。つまり京都のまちを舞台とした国家の一大行事である御大典が無事に終わったタイミングだったのです。それまではとにかく世の中は御大典一色、分区するなど知らないまま設置されたと考えられます。



木製仁丹では次の図をご欄ください。


京都日出新聞の読者投稿欄「落しふみ」では大正元年8月~11月にかけて木製仁丹に対する賛否両論が掲載されています。設置されてから掲載されるまでにはタイムラグがあるはずです。最も古い投稿が大正元年8月なので、設置はその前月だろうか、さらにその前月だろうかと考えると、大正元年8月の前月は明治時代です。まだ裏付けできる資料には出会えていませんが、木製仁丹の設置開始は明治に遡ると考えても無理はなさそうです。

青い矢印で市電撮影とあるのは、歴彩館の「京の記憶アーカイブ」にある「石井行昌撮影資料147」の撮影日の推定時期です。この近辺の写真には木製仁丹が多数写り込んでいるので、大正2,3年には設置を終えていたことがうかがえるのです。

これらから、木製仁丹の設置時期は「明治45年頃~大正2,3年」ではと推定しました。興味深いことにその直前の明治45年1~5月の期間、あれだけ頻繁に見た仁丹の新聞広告が京都日出新聞からパタリと姿を消します。決めつける訳にはいきませんが、その予算を木製仁丹の製作に回した?と勘繰りたくもなります。

また、この設置時期は、京都の街並みが変貌を遂げる時期でもあります。ちょうどその頃、岡崎公園では三大事業の竣工式と市電の開通式が盛大に行われ、以後、道路の拡築と市電の敷設が続きます。つまり、現在私たちが見ているまちの姿の骨格が出現していく時期なのです。設置とまちづくりとの関連性の有無は分かりませんが、時期的には重なります。

しかし、注目すべきは明治44年に公布された広告物取締法です。それまでの屋外広告合戦が景観問題へと発展し、それを取り締まることになりました。京都市内では原則、屋外看板は禁止となりますが、公共性があれば警察署の許可を得れば可という但し書きがありました。それが、木製仁丹へと繋がるのではという見方をしているのですが、森下仁丹さんの社史では“明治43年からは、大礼服マークの入った町名看板を次々に掲げ始めた”とあり、広告物取締法よりも先に?となり、また謎がひとつ生まれました。



会場には森下仁丹株式会社さんのご協力により、琺瑯製仁丹町名表示板が2枚展示用にと貸してくださいました。



さらにご近所の方からも解体現場から救出された表示板をお持ちいただき一緒に展示させていただきました。偶然にも歴彩館と同じ住所です。しかも現在は左京区ですが、「上京区」と大きな文字で縦書きです。行政区名が縦書きのものは、私たちが把握している戦前の琺瑯仁丹1,520枚中、わずか13枚のみという貴重なものです。今回のテーマである京都の近代史の生き証人の飛び入り参加となりました。



また、微笑ましいシーンもありました。講演中、会場の外からガラス越しに見えた仁丹町名表示板を指さして、娘さんに説明しているお父さんの姿がありました。それに気付かれたスタッフさん、見易いようにとすべての仁丹の向きを変えておられました。





以上、講演会の様子のごく一部でした。90分の講演時間を10分ほどオーバーしてしまいましたが、あれでも省略したお話しはいっぱいありました。仁丹町名表示板と京都の近代史との関連性をどこまで持たせるのか、取捨選択に悩んでの結果でした。

まだまだ結論は出ていません。仁丹町名表示板の謎を追うということは、とりもなおさず京都の歴史を勉強することに他なりません。ずっと努力を重ねてきましたが、“仁丹のおじさん”はまだ正解を教えてくれません。今度こそ捕まえたぞと期待した資料に出くわすことも何度かありましたが、いつもスッと逃げられてしまうのです。なんだか、まだ教えてあげない、もっともっと京都のこと勉強しなさいと言われているような気がしています。
~shimo-chan~
  

Posted by 京都仁丹樂會 at 19:18Comments(1)設置時期

2021年12月21日

諸説との比較

前回までの記事で、木製仁丹と琺瑯仁丹の設置時期について、改めて検討を加えてみたところです。その結果、木製仁丹は “少なくとも大正元年8月には存在していた“ことが分かりました。その前月はもう明治45年7月ですから、設置開始は明治に遡っていても何の不思議もありません。そして、琺瑯仁丹の設置期間はマックスで“大正15年4月~昭和3年9月”までとしてよいのかと思います。使用されている商標が登場した時点から、御大典記念京都大博覧会が開催されるまでの期間です。

ところで、新聞調査と並行して他の文献や資料も探索していました。仁丹町名表示板に関心を持つ方は以前からおられるもので、それら先人の見解を今さらながら芋づる式に見つけることができました。古いものから順にご紹介しましょう。


昭和55年 杉田博明氏の大正4年説

杉田氏は昭和10年京都市生まれの方で、京都新聞社の記者をされていた方です。昭和55年に発行された『「現代風俗‘80」現代風俗研究会年報』の中の「まちかどから-町名表示板-」で次のように述べられています。

琺瑯製で、横15センチ、縦95センチ。なんでも大正4年、大正天皇のご大典が京都御所でとり行われた際に、森下仁丹が掲げた、と『日出新聞』にある。薫化益世をモットーに銀の小粒を売り出した森下博氏のアイデアだった。ご大典を見物に地方から訪れた人々はこの1枚の札に道案内を得たそうな。町名表示板の第1号である。にしても驚かされるのは、その材質の贅沢さであろう。雨風にうたれるとあって、鉄板では錆付く。板木では汚れる。トタンは紅殻格子に似合わない。琺瑯の使用は、当時とすれば随分思い切った発想だったにちがいない。斬新で、近代的で、清潔のシンボルでもあった。たとえ、表示板が一時的なものであったとしても、そこには時代の意気さえもが感じられる。いまも仁丹の表示板は、釘穴の周りが少し錆付いているだけで、ピリッとも痛みはない。以後の新しい表示板のほとんどが色あせ、腐食がはなはだしいなかで、ひときわ目立つ。

一番の注目ポイントは、いつのものかは不明ですが、いつかの「京都日出新聞」に“大正4年の御大典の際に設置した”という記述があるらしいということでしょう。私たちはまだ見つけられていませんが。そして、それが琺瑯仁丹だと解釈されています。木製仁丹の存在をご存じなかったと見受けられます。琺瑯看板は琺瑯製品の中では「板琺瑯」に分類され、その普及は大正10年以降なのです。したがって、新聞で言っているのは木製仁丹のことになるでしょう。

“新しい表示板のほとんどが色あせ、腐食がはなはだしいなかで、ひときわ目立つ”とも紹介されていますが、次のとおりです。


この中で最も古いのはどれか?と問われれば、誰しも褪色したり錆びているものだと答えそうですが、正解は中央で燦然と輝いている仁丹町名表示板です。それもダントツに古いことは他の表示板のスポンサーを見るだけで一目瞭然でしょう。琺瑯看板の耐久性には驚かされるとともに、「仁丹町名表示板」の特別な存在感を再認識させられます。





昭和59年 「京都大事典」の大正4年説

昭和59年11月2日、淡交社より発行された「京都大事典」のP.626に「町名表示板」なる項目があり、次にように解説されています。

町名を記した短冊型の板。主に旧市街地の四つ角の町家の軒下に貼付。行政区名以外に町名のみを記すもの、通り名だけのもの、両者を併記するもの、の三種類がある。通り名を併記したものが多いのは、京都の町共同体が、碁盤目状をなす各通りの両側を一単位として形成されたため。下部に広告を入れ、広告主は20数社にわたる。大正4年、大正天皇御大典を機に掲出されたものが最も古く、長さ95センチ、幅15センチのホーロー製。行政上は屋外広告物に分類され、現在は京都市条例により長さ92センチ、幅12センチ、有効期限は1年と規定。昭和45年近畿郵政局が郵便番号入りのものを12,000枚、48年に5,000枚製作したが、現存するのは1万枚以下とみられる。なお昭和57年現在の市内11区の公称町名総数は5,113。

仁丹町名表示板に特化して書かれたものではなく、町名表示板一般について説明されています。しかし、“大正4年、大正天皇御大典を機に掲出されたものが最も古く、長さ95センチ、幅15センチのホーロー製”なる箇所は仁丹町名表示板のことを言っているのでしょう。ただ、先の杉田氏の説をそのまま引用しているように見えます。執筆協力者一覧には杉田氏のお名前はありませんが。ちなみに縦の長さをいずれも95センチとしていますが、正しくは91センチです。





昭和59年 「西陣グラフ」の昭和2年説

「京都大事典」と同じ昭和59年11月に発行された「西陣グラフ」VoL.337にはまた違った興味深い記事がありました。駒敏郎氏によるシリーズ記事「京洛ひとり歩き 仁丹の町名板」です。駒氏は昭和元年の京都市西陣生まれの脚本家で、近鉄提供のTV番組「真珠の小箱」のプロデューサーも長年務めておられた方です。次のように述べられています。

以前は京都の町を歩いていると、辻々の角の家の羽目板や軒下の柱に、必ず仁丹のマークのついた町名板がかかっていた。縦九七センチ横十五センチの琺瑯びきの鉄板に、通りの名と町名とを書いて、上か下かに大礼服八字髭の人物と仁丹の文字を組み合わせたマークがある。十字路のやたらに多い京都の町では、ずいぶん重宝な表示板になっていた。
   <省略> 
この町名板は広告を兼ねた社会奉仕ということで、仁丹が昭和二年に取り付けた。京都市内で五千枚という数になったという。書いてある区名は上京と下京だけで、中京・左京・東山がない。昭和二年当時、京都はまだ二区制だったわけで、町名板を取り付けた翌々年の昭和四年に五区制となり、六年には七区制になった。

 
琺瑯仁丹について商標の位置が上のものと下のものがあるなど、かなり正確に書かれているのが印象的です。そして、“仁丹が昭和2年に取り付けた。京都市内で5千枚という数になったという”と非常に興味深いことが記されています。大正4年説の「京都大事典」と同じ時期に発行されながら、こちらは昭和2年と独自の見解を述べています。ちなみに、縦の大きさが今度は97センチになっています。

この西陣グラフに掲載された駒氏の“京洛ひとり歩き”シリーズは、「『京洛ひとり歩き』 平成3年3月20日 本阿弥書店」としてまとめられましたが、「仁丹の町名板」の項目は全く同じ内容です。また、駒氏は平成12年7月1日付け朝日新聞の企画記事「タイムアングル~千本今出川~」でも“昭和2年には、京都市内に五千枚の細長い町名札を取り付けた”と紹介されています。

ところで、この昭和2年、5,000枚の根拠はどこにも示されていませんが、駒氏が昭和元年の西陣生まれであれば、ご本人は無理としても琺瑯仁丹が設置されるまさにその現場を見ていた人が何人も周囲にいた時代でしょう。例え、直接見なくても近所の出来事、町内の出来事として、当時は周知の事実ではなかったのでしょうか。仮にこの駒氏の説が伝聞であったとしても、それはかなり確度の高いものではないかと考えます。5,000枚で済んだかどうかは疑問にも思いますが、具体的な数値が出ているからには何か出所があるのでしょう。

なお、駒氏はいずれの記事でも御大典との関連性や木製については触れられていません。




昭和60年 杉田博明氏再び大正4年説

「京都・町並散歩 町のかたちを楽しむ」なる書籍が昭和60年11月25日付けで河出書房新社から発行されています。これは昭和57年5月から翌年6月にかけて「京都新聞」夕刊に連載された杉田博明氏の企画記事「町 その表情」をまとめたものであり、そのP.16~17に「町名表示板」の項目があります。仁丹町名表示板に特化した内容ではありませんが、使われている写真は琺瑯仁丹であり、そのキャプションに「大正4年の御大典につくられた琺瑯製の仁丹広告入り表示板」とあります。昭和2年説が世に出た後ですが、同氏の知る所ではなかったのかもしれず、昭和55年の「現代風俗‘80」と同じ見解を繰り返しておられるようです。




平成7年6月 森下仁丹100周年記念誌の明治43年説

平成7年6月に発行された森下仁丹100周年記念誌「仁丹からJINTANへ」のP.36~37に「新聞広告や町名看板に『広告益世』の思想を実践」なる項目があり、そこに次のように記されています。

町名の表示がないため、来訪者や郵便配達人が家を捜すのに苦労しているという当時の人々の悩みに応え、明治43年からは、大礼服マークの入った町名看板を次々に掲げ始めた。当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり、今日でも戦災に焼け残った街角では、昔ながらの仁丹町名看板を見ることができる。

空襲で資料が焼失し詳しいことが分からないとされてはいるものの、例えばOBからの聞き取りなど、社内に残る何かしらの伝聞に拠っているのではないかと思います。京都の仁丹町名表示板について具体的に言っているものではありませんが、例示されている写真が京都の琺瑯仁丹なので、諸説あろうともこの公式見解が最強と位置付けられ、今では京都の琺瑯仁丹に関してマスコミやブログ等で”明治43年頃から設置された”とこのとおり引用されて説明されるのが通常となりました。しかしながら、特に私たち京都仁丹樂會は大阪と京都は分かるものの、東京?名古屋?全国津々浦々?それに明治43年に琺瑯看板がそもそも存在したの?と様々な疑問を当初は抱いていたのでありました。

<過去の関連記事>それぞれリンクしています




平成7年 水谷憲司氏の「京都・もう一つの町名史」

仁丹町名表示板に特化した書籍として知られている、平成7年10月永田書房より発行された水谷憲司氏の同書では、あとがきのうちP.177~180で設置時期に触れられています。その部分を要約すると次のようになります。

設置時期には2つの説がある
 ・大正天皇御大典を祝ってと言う大正4年説
 ・昭和天皇御大典を祝ってと言う昭和3年説
前者は「京都大事典」に「大正4年、大正天皇御大典を機に掲出されたものが最も古く」とあるが、一般には後者の説が流布しているようだ。後者は駒敏郎著「京洛ひとり歩き」で、“この町名板は広告を兼ねた社会奉仕ということで、仁丹が昭和2年に取り付けた。京都市内で5千枚という数になったという”と述べられている。しかし、いずれも根拠は示されていない。木製と琺瑯があるので、前者は木製のこと、後者は琺瑯のことではないのか? だから2説あるのではないのか?


水谷氏ご自身の見解が述べられているわけではありませんが、木製と琺瑯製の両方が存在していることをご存じなので、2つの説はそれぞれ木製と琺瑯のことを言っているのではと切り分けて考えておられる点は正解だと思います。また、駒氏は昭和2年と言っておられるのに、ここでは” 一般には後者の説が流布しているようだ”と昭和3年説に組み込んでおられる点も注目です。昭和3年の御大典のために昭和2年から設置を始めたという解釈なのでしょう。つまりは、木製も琺瑯製も大正と昭和の御大典に結び付けておられることが分かります。

なお、この著書が発行される4カ月前に公式見解とも言える森下仁丹の100周年記念誌が出ており、そこに“明治43年”とあるのを執筆中には知る所ではなく言及することができなかったのでしょう。



平成11年6月 近藤利三郎氏の昭和3年説

近藤利三郎氏は昭和9年京都市生まれの漫画家で、平成11年6月発行「西陣グラフ」VoL.505の「西陣まちなか通信~ホーロー看板の戸籍調べ~」で次のように記されています。

元帥ではなく文官
通称「仁丹の町名板」として、西陣にはまだ数多くのこの町名板が残っている。町名の上の部分に大礼服姿の八字ヒゲの仁丹マークが入っている。子供の頃は「元帥」とばかり思い込んでいたが、「文官」だという。この町名板だけを研究?している人も京都には多く、諸説が入り乱れているが、昭和三年の昭和天皇御大典の時に、記念として各町内に張り付けられたという説が有力。


“諸説が入り乱れている”の内容に具体的には触れられていませんが、同じ「西陣グラフ」の先の駒氏の記事に近いものです。駒氏は昭和2年とされていましたが、ここでは“昭和3年の昭和天皇御大典の時に、記念として”に変わっています。昭和2年の設置は翌年の御大典のためだと解釈しておられるのでしょう。“という説が有力”とあるので、同氏の見解そのものではなさそうです。

また、駒氏は商標の位置が上もあれば下もあることを述べておられますが、ここでは“西陣にはまだ数多くのこの町名板が残っている。町名の上の部分に大礼服姿の八字ヒゲの仁丹マークが入っている”と商標が上のタイプを説明しておられます。商標が上にあるのは特定の学区に集中しており、西陣学区はまさに「上」の学区なのです。




平成15年12月 「西陣グラフ」 木製の大正初期説

平成15年12月発行の「西陣グラフ」VoL.559の中の「西陣 VoL.9上立売通」 取材協力近藤利三郎なる記事の中に次の木製仁丹のことが紹介されています。


そして、そのキャプションは次のとおりです。

最古の仁丹町名表示板 
西陣の町中でよく見かけるホーロー製の仁丹町名表示板は昭和3年製という説が有力ですが、この木製はそれ以前のもので、明治43年から張り出したという町中文化財。大正初期のものでは…と、地元の人は言うてはりました。


駒氏の琺瑯仁丹昭和2年説は昭和の御大典と結びつき昭和3年説に含まれ、森下仁丹の公式見解明治43年を木製と捉えて加えていると言ったところでしょうか。でも、“大正初期のものでは…と、地元の人は言うてはりました”というように森下仁丹の公式見解だけでなく、地元の人の証言も紹介しています。木製も琺瑯製も私たちが得た結論に最も近い記事です。





ま  と  め

このように眺めると確かに諸説あることが分かります。少なくとも明治43年説、大正初期説、大正4年説、昭和2年説、昭和3年説が登場しました。

明治43年説は設置者の森下仁丹が言う強味はあるものの京都の町名表示板について言及したものではないので別格として、他の説を大きく分けると木製は大正の御大典時、琺瑯製は昭和の御大典時と2つのグループにまとめられるかと思います。しかしそれは、それぞれの御大典開催時には設置済みであったということであり、御大典が設置の動機になったかどうかは、設置の意思決定が新元号になってからなのか旧元号の時だったのかで決まるでしょう。

さて、木製については少なくとも大正元年8月には存在していたことを新聞記事により確かめました。新聞に不満の声が載るにはそれ以前から設置が始まっていなければならず、設置の意思決定となるとさらに遡ります。大正元年8月の前月は明治45年7月、すなわち明治です。まだ確固たる裏付け資料を見つけてはいませんが、木製仁丹を設置しようと決めたのは軽く明治時代に突入すると考えるのが自然でしょう。となると、大正の御大典が動機ではなかったということになります。では何が動機なのか? それは明治44年の広告物取締法施行により公共性を持たせないと屋外広告がやりにくかったこと、さらには三大事業による新たな町並みの出現にチャンスを見出したのではないでしょうか。そして、その後、大正の御大典を迎えることになり、傍から見るとあたかも御大典を契機に設置したかのように見えた、と考えられないでしょうか。

<関連記事>


一方、琺瑯製についてはどうでしょうか。その設置時期をマックスで“大正15年4月~昭和3年9月”までと見ています。

始期である大正15年4月とういのは琺瑯製に使用されている商標が現実に新聞広告でデビューした時期です。しかし、森下仁丹の社史などでは昭和2年5月からの商標として紹介されています。大正と昭和、随分違うような印象を与えますが、ちょうど元号が変わりその差わずか1年少々です。詳しくは分かりませんが昭和2年5月というのは商標権が発生した商標の設定登録の日なのかもしれません。
また、昭和2年7月には「小粒仁丹」を発売し、大宣伝を展開していきます。


京都日出新聞 昭2年8月5日 一頁大の広告


この小粒仁丹の登場により、明治38年に発売された初代仁丹は大粒仁丹と称して並行して売られますが、まるで従来品に置き変わったのかと思ったほど小粒仁丹が前面に押し出されます。ちなみに現在私たちが目にする銀粒仁丹は昭和4年11月発売で、それ以後、初代を赤大粒、小粒仁丹を赤小粒と呼ぶようになったようです。

このことから、駒氏が唱える“昭和2年説”は我が意を得たりなのです。ちょうど小粒仁丹の大々的な宣伝とも重なるからです。昭和2年5月という新商標の登場、同年7月の小粒仁丹発売と大々的な広告展開、そして昭和の御大典と博覧会、これらはすべて連動しているように思えてなりません。明治44年の広告物取締法の関連で劣化した木製仁丹を放置しておけないという課題もそもそもあったでしょう。これらの事情から琺瑯仁丹は昭和2年5月あるいは7月以後、一気に設置されたと現時点では見ているのですが、いかがでしょう?

では、いつまでに終えたかという終期ですが、昭和3年5月24日の京都市告示第252号(多くの通り名の変更)を基本的に反映していることから、この時期にも設置が続いていたことを窺わせます。博覧会はこの後の昭和3年9月から始まります。どうせなら、博覧会開始までに終えようとしたのではないでしょうか。したがって、昭和3年9月までに設置を完了したと見ているのですが、裏付ける資料にはまだ出会えていません。

琺瑯仁丹は、昭和2年5月もしくは7月以後、昭和3年9月までにとなるとスピード感としても妥当かなと思います。

先人とはまったく違うアプローチで設置時期を求めてきましたが、結果として木製は大正の御大典の頃、琺瑯は昭和の御大典の頃という点では一致したことになり、お互いに補強し合う結果になったようです。

~shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 12:31Comments(0)設置時期

2021年11月24日

琺瑯仁丹 設置時期再考5

琺瑯仁丹 設置時期の再考(5)

~分区との関連について~


琺瑯仁丹の設置時期について再検討してきましたが、どうやら少なくとも大正15年(1926年)4月1日~昭和4年(1929年)3月31日の間にその答えはありそうです。前者は新商標が新聞紙上に登場した日、後者は分区の前日です。

今回のテーマ、「分区」というのは行政区のエリアを分けるということです。
上京区と下京区の2つの区しかなかったものを昭和4年4月1日、次のイメージ図のように5つの区へと細かく分けたのです。




つまり、加茂川より西は上京区と下京区の間に「中京区」を設け、加茂川の東はそれまで上京区だったところを「左京区」、下京区だったところを「東山区」にしました。

この当時の京都市域内にある琺瑯仁丹に記された行政区名は、「上京区」と「下京区」しかありません。現在は左京区であっても仁丹は「上京区」、東山区であっても「下京区」、中京区ではほぼ三条通を境にして北は「上京区」、南は「下京区」と記されており、中京区となっているものが1枚もないのです。(平成になってから設置されたものを除く)
これすなわち分区する以前に設置されたことを意味します。




さて、前述の大正15年4月1日~昭和4年3月31日のわずか丸3年の間に、設置を初めて、終わっていなければならないことになります。そして、昭和3年5月24日の京都市告示第252号(多くの通り名の変更)を色濃く反映していたことから、設置のピークはこの付近ではないかと見ることもできます。

 過去の関連記事>それぞれリンクしています


ここで誰しも思う疑問があります。昭和4年4月1日の分区との関連です。すぐに区の名称が変わるにもかかわらず、お構いなしに設置したのだろうか?ということです。

現代の感覚ならば、区を分けるとなると何年か前に市会に諮って決定し、広報も十分に行い、新しい区役所の場所を決めて庁舎を建て、完成して受け皿が整ったら人事異動を発令して、さぁスタートでしょう。では、当時はどうだったのか?
そもそも分区の話はいつ登場したのか? 森下仁丹(当時は森下博薬房)は事前に分かっていて設置したのか? それとも知らないまま設置したのか? これらについて精査してみました。



先ず、分区するという発表はいつなされたのか? またまた新聞調査です。昭和になってからの京都日出新聞、京都日日新聞、朝日新聞京都版のマイクロフィルムを丹念に見ていきました。

この頃、京都市であったことと言えば昭和3年11月の昭和の御大典とそれを記念した大礼記念京都大博覧会です。国家的イベントで京都市が一躍表舞台に躍り出ることになり、連日のように関連記事で賑わい、全国紙と比べれば京都3紙は御大典一色と言ってもよいほどでした。

そして、見つけたのは京都日日新聞昭和3年9月3日付け夕刊でした。3紙のうち京都日日新聞でのみ見られました。


京都日日新聞 昭和3年9月3日夕刊

“御大典を機会として市の増区問題解決”とあります。当時は分区とは言わず増区と言っていたようです。そして、“来年の新年度から実施か”とまだ決まっていないことが分かります。本文には、“関係各課長に秘密裡に調査を指示した”ともあります。こうして報じられると秘密裡とは言えませんが、その言葉の裏はまだ公にしていないということです。この時点でまだまだ案の段階だったことが分かります。

「京都市政史 第1巻 市政の形成」によれば、実は増区は明治時代から2度、3度と議論されたものの、当時の内務省は基本的に認めない方針であったこと、そして京都市自身の財政難から現実味を帯びなかったようです。しかし、人口は増え続け、昭和に入った時にはすでに2区による事務処理は限界を超えていて、内務省の方針も変わっていたとあります。
御大典関連事業を進める傍ら、増区は待ったなしの喫緊の課題だったのでしょう。




そして、昭和3年11月27日夕方、市長は来年度から分区したいと市会協議会に提案しました。


朝日新聞京都地方版 昭和3年11月28日

この11月27日という日はなかなか興味深い日なのです。京都を舞台とした御大典が無事に終わり、市長をはじめとした京都の御大典関係者3,000人が岡崎公会堂に集まって大祝宴会(今で言う打ち上げでしょうか)をあげた3日後であり、なおかつ昭和天皇が伊勢神宮などに立ち寄って東京に還幸された日の翌日でした。つまり、京都を舞台とした国家の一大行事がすべて無事に終わり、肩の荷もおり、ホッとしたタイミングだったのです。そして、間髪入れずに“次は増区だ!これ以上先送りできない!”と言わんばかりです。それまでは、世の中はとにかく御大典一色、行政区がどうのこうのと話題にすらならなかった時勢だったようです。

この後、市会で紛糾することもありましたが、年が明けた昭和4年1月11日の市会で承認に漕ぎつけ、その後2月には府が内務大臣に進達、3月6日に認可、それを受けての緊急市会が3月22日に開かれ、分区のための手続きがすべて終わって1週間後に分区といった流れでした。

ちなみに、新しい区の名称ですが、市長の原案では中京区、北左京区、南左京区でした。それに対して市会は中京区、左京区、東山区を提言、さらに京都大学の歴史学者は中京区はよいとしても、左京区、東山区は歴史的にも地理的にも認められない、白川区と八坂区にすべしと強く訴えています。結果、議会の案が承認されました。




次の新聞は分区前日の様子を報じています。


京都日日新聞 昭4.3.31

見出しは、“明日からの増区準備にてんてこ舞いの区役所 上京区役所には左京、中京同居 下京区役所には当分東山が居候 今夜は徹夜して事務の引継ぎ”とあります。すなわち、今の私たちがイメージするように、新しく区役所を建設して準備万端整えてからではなく、左京区役所と中京区役所は従前の上京区役所の中にとりあえず設け、東山区役所も従前の下京区役所の中に同居する形でのオープンだったのです。つまりは、“書類上の分区”としてのスタートだったわけです。

記事の詳細では、“前日より大工や手伝い(アルバイトのことか?)が入って内部に仕切りを設え、上京区役所の東門が左京区役所の出入口、正面の出入口を入いれば西側が中京区役所、東側が上京区役所である。また、下京区役所では庁舎の北側が下京区役所、南側が東山区役所になる”と報じています。

そして、次の記事が開庁当日のものです。上京区役所に「中京区役所」と「左京区役所」の表札、下京区役所に「東山区役所」の表札を設置しているシーンが掲載されています。


京都日出新聞 昭和4年4月1日夕刊


ちなみに当時の上京・下京両区役所は現在の場所とは全く違います。
 上京区役所 → 中立売通小川東入三丁町(現在の京都府 林務事務所の敷地)
 下京区役所 → 高倉通五条下る富屋町(現在の六條院公園の敷地)
にありました。

さらに、4月1日の京都日日新聞は、“不手際千萬なる 市の人事行政 今日からの増区に幹部だけで肝腎の書記がない”と報じていました。信じられないことですが、管理職だけの人選で精いっぱい、一般の事務職員についてはこれから人選にかかると報じられていました。何から何まで、今の感覚とは違い、随分とアバウトだったようです。


さて、以上のような状況下において、仁丹側は分区のことなど知る由もなかったと考えるのが自然ではないでしょうか。とにかく、世の中すべてが御大典一色、琺瑯仁丹の設置時期を考えるうえで、分区のことは気にする必要がなさそうです。仁丹側としては博覧会が始まる昭和3年9月までに設置を終えようと急いだのではないかと考えるのですが、いかがでしょうか?



 
話しのついでに、分区(増区)によりその後に新しくできた区役所の場所は次のとおりです。

【中京区役所】 東洞院通六角下る御射山町
現在のウィングス京都の敷地です。御射山公園のすぐ北側です。元々あった勧業銀行京都支店の敷地と建物を購入し、内部工事をしたうえで昭和4年6月9日より使用開始と、京都日出新聞の同日付け夕刊に報じられています。そして、ウィングス京都のファサードとして一部が今も残っています。

新築する必要のあった左京区役所と東山区役所については、京都日出新聞昭和4年8月6日夕刊に「新設両区役所 敷地決定す」と題して場所が報じられており、建物についてはいずれも鉄筋コンクリート造3階建て地階付きで、1階・2階が事務室、3階が集会室の同一構造とし、建設業者も入札で決めたし翌年2月には完成するだろうとしています。

建設工事は予定通り進捗したようで、昭和5年3月1日付けの新聞で完成が報じられていました。


大阪朝日新聞京都版 昭和5年3月1日


【左京区役所】 吉田中阿達町
東一条通の錦林第4小学校のすぐ東隣です。元々は絵画専門学校があった敷地だそうです。昭和5年3月1日の大阪朝日新聞京都版によれば同年3月25日に竣工式、4月1日から事務を執るとあります。デザインはフランス式なのだそうです。建物は最近まで残っていましたが、現在は京都大学東一条館に建て替えられています。「初代左京区役所跡」という石碑もあります。

【東山区役所】 東大路通七条上る妙法院前側町
京都国立博物館の敷地の北東角です。当初は専売局跡地(詳細未調査)が有力視されていましたが、こちらに決まりました。昭和5年3月1日の大阪朝日新聞京都版によればデザインはこちらはドイツ式だそうで、同年3月28日に竣工式、4月1日から事務を執るとありました。結局、新築の左京・東山両区役所は分区翌年である昭和5年4月1日に同時オープンしたことになります。なお、この初代東山区役所は今も博物館管理棟として現存しています。次の写真のとおりです。



~おわり~
~shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 12:02Comments(2)設置時期

2021年11月15日

琺瑯仁丹 設置時期再考4

琺瑯仁丹 設置時期の再考(4)

~再びの新聞調査~


産寧坂の古写真の時代考証に結論が出たわけではありませんが、他の事柄など総合的に判断して、琺瑯仁丹の設置開始は少なくとも大正15年4月1日以後と見るべきとういのが有力となりました。

ただし、設置が大正時代に始まったのか、昭和になってからなのかでは意味が違います。前者ならば木製仁丹の保守上の問題から琺瑯に切り替えたことになるでしょうし、後者ならば昭和の御大典を広告の絶好のチャンスと捉えたことも視野に入ってきます。

前々回の記事「琺瑯仁丹 設置時期の再考(2)~大正時代の写真を探せ~」では、大正時代の新聞を調査しました。ただし、見当違いだったようで見出すことはできませんでした。ならば、昭和に入ってからはいつから登場するのでしょうか? 前回とは180度方向転換をして、昭和の初日、昭和元年12月25日から昭和4年4月1日に向けて、再び新聞の調査を実施してみました。

今度こそ新聞紙上で琺瑯仁丹は確実に見つかると、またまた高をくくって作業を始めました。ところが、これまた成功したとは言えない状態で終わってしまいました。

そもそも新聞は出来事を伝えるもの、メインストリートの拡幅工事や市電の部分開業などでは街並みの様子が写真で伝えられていましたが、そこから一歩入った、何事もない日常の街並みが意味もなく掲載されることはないということです。あったとしても事件や火災の現場としてであり、たまたまそこには琺瑯仁丹は写り込んでいませんでした。考えてみればこれは今も同じことでしょう。

でも、完全に収穫ゼロかと言えばそうでもなく、2,3枚は琺瑯仁丹?と思えるような写真はありました。ただし、解像度が悪く、とても判読ができるものではありません。

その中で最もマシなのが、次の写真です。


京都日日新聞 昭和3年2月16日  街頭のポスター戦

いったい、何の写真?と思われるでしょう。これは昭和3年2月20日に実施された第16回衆議院議員総選挙における立候補者のポスターなのです。当時は民家の塀にこのように貼っていたようです。

このヨレヨレのおびただしい数のポスターに混じって、まっすぐピンと伸びる縦長の白い物体があります。黄色の矢印の先です。琺瑯仁丹に見えないでしょうか? アップするとこうなります。



不鮮明なものを拡大してもより不鮮明になるだけなのですが、商標が上にあり、その下に行政区名らしきものが横書きされているように見えるのです。そして、続く通り名は先入観なしで何となく“東山”と、マイクロフィルムでは読めました。

そして、写真のキャプションを見ると“東山二条”とあったので驚きました。

だとすると、この付近で商標が上にあるのは現左京区である新洞学区のみです。
北門前町ならまさに東山二条、なおかつ新洞学区です。矛盾しません。さらにそうなると、“東山”と読めた通り名は「東山線通」だということになります。

すなわち「上京区 東山線通仁王門下ル 北門前町」の琺瑯仁丹の可能性があるという訳です。写真の原板ならばきっと明確に読み取れるのでしょうが、残念です。

~つづく~
~shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 12:01Comments(0)設置時期

2021年11月09日

琺瑯仁丹 設置時期再考3

琺瑯仁丹 設置時期の再考(3)

~古写真の再検証~


例の清水産寧坂の写真はこれです。



この黄色い矢印の部分に、「下京区 清水二町目 産寧坂通松原上ル」という琺瑯仁丹が写り込んでいます。

この写真は、昭和47年に発行された『写真集 京の町並み~田中泰彦編・京を語る会~』に掲載されたものの1枚で、そのキャプションに『清水産寧坂(三年坂)大正14年2月18日。』とあるのです。写真集は、京都の民俗学者田中緑紅さんおよび他の方々が撮影された古写真と現在(昭和47年当時)を定点撮影して町並みの変化を示すという構成です。大雑把に言えば半分が古写真、もう半分が昭和47年頃の写真です。

撮影時期については古写真では、例えば大正初期とか、昭和10年頃とか、昭和8年5月頃などとアバウトな表現が大半なのですが、6枚だけが年月日のレベルまで記載されていました。そのうちの1枚が、今課題にしている産寧坂の写真でした。年月日まで記載されるのであれば、何らかの根拠があってのこととも受け取れるのです。

しかし、前記事のとおり、新商標が世に出るのは大正15年4月1日。それよりも前に撮影された写真に写っているということは、とっくに新商標を使用していたということになります。これは不都合です。これはあり得ないでしょう。この撮影日は本当に正しいのか?となります。何か検証する手掛かりがないものか、とりあえずは現地を訪れてみました。



次の写真が今年、2021年8月の様子です。



仁丹のあった石垣は形を変えていますが、全体の光景は基本的には今も変わりありません。この光景の中に何か撮影時期を特定できるようなヒントが潜んでいないものかと、古写真と見比べて探しました。そして、もしかしてというのが2点ありました。次の①と②です。



①は、見にくいですが石碑らしいものがあります。そこに刻まれた建立日がどうなっているかです。もし、“大正14年2月18日”よりも新しければ大きな収穫です。それは、この興正寺霊山本廟のものでした。



裏に回り込み建立日を探すと、、、



明治37年2月23日でした。大正14年2月18日の写真に写っていて当然です。

次は②です。「安田」と描かれた丸い内照式看板がありますが、そこは今、安田陶器店さんになっています。これは何か手掛かりが得られるかもと期待が膨らみました。



ぜひ古写真を見ていただこうとしましたが、あいにくの緊急事態宣言下、観光客も消えてしまいお店には「CLOSED」の札が掛かっていました。でも、ネット検索するとこのお店のHPが見つかりました。そして、次のように紹介されていたのです。

当店は、明治10年(1877年)に伏見で萬屋を商っていた初代・安田福蔵が、清水一丁目にて「安田陶磁器店」として開業しました。昭和21年(1946年)には清水三丁目に移転。現在は「安田陶器店」として、五代目が営んでおります。
http://yasuda-pottery.com/index.htmlより

これは大きな手掛かりです。例の琺瑯仁丹は清水二丁目と三丁目の町界に設置されており、この安田陶器店さんは三丁目です。もし丸い内照式看板“安田”と現在の安田陶器店さんが同一であれば昭和21年以後でないと撮れない写真となり、アリバイ崩しに見事成功することになります。これはぜひともお尋ねしなくてはとなりました。

その後、機会を得ることができました。そして、この古写真を見ていただきました。「これ、ウチですわ」との答えを期待していたものの、残念ながら確証は得られませんでした。先代ならば覚えているであろうが、とのことでしたが、仮にこの古写真が昭和20年代の光景であったとしても、それを記憶しておられる年齢の方となれば80歳90歳です。そう易々と証言を得るのはそもそも無理があったのでした。



では、他に時代を特定するにはどのような方法があるでしょうか? 人物の服装でしょうか? 手前の男女4人は和服です。男性はハンチング帽や中折れ帽らしきものを被っています。坂を降りていく女性は白地に縦縞の上着、スカートのように見えます。子供らしき人物は、余所行きの服装でしょうか、帽子、上着に半ズボン、タイツ、靴に見えます。さて、戦前なのか?戦後なのか?どちらにも見えます。他の様々な写真資料を見ると、戦後でも比較的年配の男性は和服の場合もあるので、戦後の撮影だとしても不自然でないことは分かりました。だからと言って戦後の撮影だと断定できるものでもありませんが。それにしても、まさか仁丹町名表示板について調べているのに、ファッションの知識まで必要になるとは思いもしませんでした。

~つづく~
~shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 18:58Comments(1)設置時期

2021年11月03日

琺瑯仁丹 設置時期再考2

琺瑯仁丹 設置時期の再考(2)
~大正時代の写真を探せ~


こうして、琺瑯仁丹が写り込んだ写真で、なおかつ大正時代に撮影されたことに疑いの余地のない写真を探すことに挑戦しました。

その方法として誰しも先ず思いつくのが当時の新聞ではないでしょうか。
ありがたいことに、京都には京都日出新聞、京都日日新聞、朝日新聞京都地方版といった3紙があります。



あれだけ街の至る所に設置された琺瑯仁丹のこと、新聞の中のどこかの写真に写っているだろう、楽勝だと高をくくって作業に取り掛かりました。

ただし作業は楽勝ではありません。いずれの新聞もデジタル化されているわけではなく、マイクロフィルムを見るしかないのです。マイクロフィルムリーダーなる機器を操って一コマごとに丁寧に見ていきます。正直、気の遠くなるような作業です。1日でできる量も限界があり、写真のみならずテキストにも気を配りながら根気よく毎日のように続けました。

“大正14年2月18日”の写真に写っているのだからと、順序良く、また確立の高さから大正時代のラスト、大正15年から順次遡って調査を行いました。



まずは情報量の多い京都日出新聞の大正15年から着手。残念ながら見つかりませんでした。
偶然写っていないだけだろうと、次に京都日日新聞の大正15年に着手します。
ボリュームは日出の半分ぐらいなので、作業量も半減しましたが、残念ながらここでも見つけることができませんでした。
それではと朝日新聞京都地方版の大正15年に移ります。ボリュームはさらに半分ほどに減ります。しかしながら、これまた見つからず。
結局、大正15年の3紙からは目的の写真や情報を見出すことはできませんでした。

でも、この段階ではまだまだ希望に満ちていました。大正15年分にはたまたま写っていないだけだろうと。そして、大正14年についても同様に3紙を調べていきます。しかし、またもや見つかりません。「塩」や「たばこ」の琺瑯看板は発見できるものの、琺瑯仁丹は写っていないのです。
そして、大正13年、12年と遡っていくものの徒労の毎日が過ぎていきました。

まちの隅々にまで設置された琺瑯仁丹、こうも見つからないものか? もしかして、何か重大な見落としをしているのではないか、道を誤っているのではないかと立ち止まりました。そして、「しまった!」と思いました。
琺瑯仁丹に使われている昭和2年5月の商標は、大正時代から新聞広告では登場しているものの、それは大正15年4月からだったことを思い出しました。にもかかわらず、それよりも遡って探すということは間違っているのではと。


改めて、新聞紙上における新旧商標の転換点を精査してみました。
新旧の商標とは次のようなものです。


この2つの違いは、最も分かりやすい点は外交官の胴体部分の外枠が3本線から2本線に変わるところです。次に「仁丹」の2文字が毛筆調からデザイン調に変わります。あとは細かくなりますが、帽子や肩回りの簡略化です。

当時、連日のように新聞広告を出しているので、商標の変更ポイントは容易に分かりました。以前は、日出新聞だけを見て大正時代にすでに使用されていたとしましたが、全国紙も含めて改めてチェックしてみたところ、次のような結果を得ました。

京都日出新聞
 旧商標 使用最終日 大正15年3月26日
 新商標 使用開始日 大正15年4月1日

京都日日新聞
 旧商標 使用最終日 大正15年3月24日
 新商標 使用開始日 大正15年4月11日

朝日新聞大阪本社版
 旧商標 使用最終日 大正15年3月28日
 新商標 使用開始日 大正15年4月1日

大阪毎日新聞
 旧商標 使用最終日 大正15年3月27日
 新商標 使用開始日 大正15年4月1日

中外商業新聞(日経新聞の前身)
 旧商標 使用最終日 大正15年3月28日
 新商標 使用開始日 大正15年4月4日

東京日日新聞(毎日新聞東京本社の前身)
 旧商標 使用最終日 大正15年3月26日
 新商標 使用開始日 大正15年4月1日

読売新聞
 旧商標 使用最終日 大正15年3月26日
 新商標 使用開始日 大正15年4月4日

東京朝日新聞(朝日新聞東京本社版)
 旧商標 使用最終日 大正15年3月30日
 新商標 使用開始日 大正15年4月3日

これらを見るともう、大正15年4月1日から商標を変えたと強く意思表示をしているのが明らかです。社史にある昭和2年5月とは随分かけ離れている印象を与えますが、大正時代は大正15年12月25日まで、そして昭和元年はわずか数日しかなく、翌週には昭和2年になります。すなわち、わずか5カ月の差でしかないのです。

こうなると、大正15年4月1日を1年以上遡って、まだ世に出ていな商標を琺瑯仁丹が使うでしょうか? 常識的にはあり得ないでしょう。となると“大正14年2月18日撮影”の例の産寧坂の写真を怪しく思ってきました。そして、その写真を本格的に検証することにしました。

~つづく~
~shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 09:55Comments(0)設置時期

2021年11月01日

琺瑯仁丹 設置時期再考1

琺瑯仁丹 設置時期の再考(1)

~仮説の弱点~

京都市の仁丹町名表示板には木製と琺瑯製があり、それぞれ木製仁丹、琺瑯仁丹と私たちは呼んでいます。前回の木製仁丹に続き、今回は琺瑯仁丹の設置開始時期の再検討です。
5回に分けてご紹介します。



当ブログでは、琺瑯仁丹の設置開始時期を大正13~15年頃をイメージして大正末期であると説明してきました。

しかし、そもそもは昭和初期だと考えていたのです。
理由は、琺瑯仁丹に使用されている商標が森下仁丹株式会社の社史によると昭和2年5月からのものであること、そして上京区と下京区の二区時代に設置されたのが明らかなので昭和4年4月1日よりも前であること、からでした。ちょうどその頃、京都市では昭和の御大典があり、同時に記念大博覧会も開催され、京都市は一躍日本の表舞台になったのです。広告の一大チャンスでもあります。

上京区と下京区しかなかったのが、昭和4年4月1日、細分化されて5つの区になりました



ところが、こう考えるには不都合な資料が出現したのです。それは大正14年2月18日撮影とされる、清水産寧坂の写真に紛れもなく琺瑯仁丹が写り込んでいたからなのです。これをどう捉えるべきか、途方にくれました。ただし、この写真、昭和47年に発行された写真集の中の1枚であり、撮影日はそのキャプションに過ぎません。厳しい見方ですが、少なくとも昭和47年よりも以前の写真であることは証明できますが、撮影日が大正時代であることを絶対的に正しいと担保するものがありませんでした。でも、否定する根拠ももちろんありませんでした。とりあえず、先の仮説は保留状態となりました。




その後、大正時代の新聞広告にすでに昭和2年の商標が使用されていることを発見。当時の商標に対する取り扱いはこんなものかとなります。

また、琺瑯看板の普及が大正10年以降であることも分かり、大正14年の写真に写っていても不思議はないことも分かりました。

最後に、木製仁丹を市内全域に設置したのになぜ琺瑯で設置し直すのかとの疑問についても、明治44年の広告物取締法の関係で劣化した看板を放置しておけないことを知り、それがためメンテナンスフリーの琺瑯に切り替える理由があったのではとなりました。

いずれも、大正14年撮影とされる写真に琺瑯仁丹が写っていることを補強することになり、その撮影日に特段の疑問を抱かなくなりました。

こういった経過から、琺瑯仁丹は大正末期から設置され始めたという説明になったのです。時系列的にも、理由からも矛盾のない仮説が誕生したわけです。




しかし、正直なところ、どうもすっきりしない気持ちもありました。それは、もし、例の産寧坂の写真の撮影日が間違っていたらということです。もし、大正ではなくて昭和だったらと考えると、仮説は足元から崩れ去ってしまいます。このアキレス腱を克服する必要を感じていました。

では、何をしたらよいのか? それは大正時代に撮影されたことに疑いようのない他の写真を1枚でも発見することです。大正時代に琺瑯仁丹が存在しなかったことを証明するよりも、あったということを証明する方が遥かに簡単です。写真を1枚でも発見したらよいのですから。

~つづく~
~shimo-chan~


<過去の関連記事> それぞれリンクしています

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 15:35Comments(0)設置時期

2021年10月21日

木製仁丹の設置開始時期について、再び

京都における木製仁丹の設置開始時期は大正元年頃であると、当ブログでは説明してきました。その根拠は、大正元年9月2日付けの京都日出新聞に掲載された次の「落としふみ」からです。



「落としふみ」とは今で言うところの読者投稿欄です。次のように述べられていたのです。

「仁丹」の広告兼用町名札は中々行届いて大層喜ばしい事であるがどうも私は「仁丹」の字が目障りになるも普通の広告方法に窮した結果こんな所にまで及ぼしたといふやうでもしこれに広告の意を現さず公共利便の為のみにせられたならば見る度にその札の奥にはそゞろ森下氏その人の人格がしのばれてそして又自と「仁丹」その物も思ひ出されて来て暗に可い広告になつたであろーに(蕗の葉)

「落としふみ」に仁丹町名表示板が登場するのは翌年にかけて数回ありましたが、これが最も古いものでした。したがって、少なくとも大正元年9月には木製仁丹は存在していたと言えるわけです。とは言っても設置が始まってしばらくの期間を置かないとこのような投稿欄に姿を現さないでしょうから、設置されたのはこれよりも遡るはずです。どこまで遡れるのかは、今のところ分かっていませんが。

そして、この度、ほんの少しですが遡りに進展がありました。大正元年8月28日の同じく「落としふみ」です。わずか5日だけの遡りです。この赤枠の部分です。マイクロフィルムからの活字の拾い読みで探すしかなく、とても根気のいる作業です。


京都日出新聞 大正元年8月28日




次のようなことが、書かれています。

近世広告に種々の工風を凝らし新案を競ふは大いに良し 然るに近頃四條通祇園町辺を通観するに該町各所に掲表する町名札を仁丹の広告に利用し該町名札の上部に仁丹の広告を顕はすものを掲表す如何に広告利用とは申しながら是等は最も感心せず抑も町名札は各戸の標札と均しく正確に掲表するに非らざれば該町の品格を堕し延し大都市の体面に関す関係者は大いに注意を要す(アホラシイ生)

つまり、“広告はアイデアを競いあうのは良いとして、近頃、四条通の祇園界隈で見かける仁丹の広告を上部に記した町名札は感心しない”などと批判しています。最後の「大都市の体面に関す関係者は大いに注意を要す」は“行政は取締をしっかりしろ”と言っているのでしょう。
明らかに木製仁丹のことを言っていると判断できます。商標が上にあるというのも特徴が一致します。


これで、大正元年9月2日の「落としふみ」よりもわずか5日しか遡っていませんが、“大正元年8月にはあった”と表現するならば1カ月の遡りに成功したことになります。

そして、木製仁丹の設置開始から「落としふみ」に掲載されるまでにはタイムラグがあったはずです。投稿という行動に駆り立てるほどの不満が蓄積する期間、新聞社に届いてから掲載されるまでの期間。また、その前にはさらに森下仁丹(当時は「森下博薬房」)による企画立案、そして屋外広告なので警察署への申請とその審査期間もあったはずです。

許可が得られた暁には、大量の町名表示板の製作期間というのも当然あったはずです。材料を調達し、木の板を白く塗り、赤い額縁を付け、商標を描き、住所を書くという作業期間です。

ここまで考えると、設置をしようと意思決定したのは「落しふみ」の何カ月も前でしょう。「落しふみ」の掲載日が8月なので、その前月の7月、さらにその前月の6月、いやもっと前かもしれません。

ここで、はたと気付きました。掲載された8月の前月である7月はもう「明治」だということです。明治時代の最終日は明治45年7月30日です。と同時に大正時代の始まりです。したがって、木製仁丹の設置は、まだ断言するには裏取りが必要ですが、明治時代に突入することも十分あり得るということです。そして、設置をしようとした動機の誕生は少なくとも明治期にあったのではないでしょうか。大正になってから思い付いたのでは、8月28日の「落しふみ」には到底間に合わないでしょう。

こうなると木製仁丹は大正の御大典が設置の動機になったのではないかという従前の考えを見直さなくてはなりません。明治44年の広告物取締法をクリアするための単なるアイデアだったのでしょうか?

でも、それだけで片付けたくはありません。その時期が京都のまちづくりの時期とも重なっているからです。三大事業によって、まさに京都の町並みが大きく変貌していく時期でした。この関連性が気になるところです。

三大事業とは、琵琶湖第二疎水の建設、上水道の整備、そして道路の拡築&市電敷設です。道路の拡築は住民の立ち退きを伴う道路拡幅工事であり、そしてそこに市電を通そうとしました。市電の開業日は明治45年6月11日で壬生車庫を起点として順次路線を南北と東方へと部分開業を繰り返すような形で延ばしていきます。四条通もこの事業の対象となり、祇園界隈の四条通に市電が走り出したのは大正元年12月25日、すなわち“明治45年12月25日”です。と言うことは、その 何カ月か前に道路は広くなって新しい町並みが出現していることになります。京都市の三大事業の記録写真集にちょうどその頃の写真が見つかりました。


京都市三大事業 京都市役所 明治45年5月31日発行

八坂神社の石段下から西を眺めた光景です。四条通の家屋が撤去され広々と拡築された様子がありありと分かります。撮影は明治45年5月10日とあり、まさしく今回取り上げた「落としふみ」の投稿者が見ていた光景なのではないでしょうか。残念ながら木製仁丹は写っていませんが。


森下仁丹の社史には「明治43年からは、大礼服マークの入った町名看板を次々に掲げ始めた。当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした」という、様々な媒体で繰り返し使われている有名な一節があります。琺瑯看板が普及する前のことなので木製のことを言っているのだと私たちは解釈しています。東京は公文書から大正7年12月から設置を開始したことが分かりました。大阪と名古屋は全く情報がありませんが、お膝元の大阪に真っ先に設置したのではと考えるのも自然かと思います。でも、屋外広告の規制が一番厳しかったであろう京都こそが町名表示板という手法で広告物取締法をクリアする必要があったのではないのか? 町名表示板の“スタート”は京都だったのでないのか? この“明治43年から”というのは京都のことではないのか? という見方もできます。そうであれば、今回、射程距離に入った明治45年からさらに2年遡る必要があります。裏付けられる確実な資料を求めるのはなかなか険しい道のりになりそうです。しかし、これまた、はたと気付くことは明治43年というのは広告物取締法が公布される1年前だとうことです。最後に大きな疑問が立ちはだかっているようです。


京都における仁丹町名表示板の設置時期については、当ブログでかつて詳細に検討してきました。しかし、その後も根気よく調査を続けており新たな事実も判明しています。それらを反映すると、従来の説明を一部軌道修正する必要が出てきました。今回、先ずは木製仁丹についてですが、琺瑯仁丹についても同様です。順次報告したいと思います。

~shimo-chan~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 09:42Comments(0)設置時期

2013年10月26日

木製仁丹設置時期の裏付け発見 2/2

前回の続きです。

木製仁丹の設置時期について、基礎講座に加え、前回ご紹介の『京都ダイレクトリー』に収録されている写真の画像から察するに、ピーク期を1,2年早めて、

  ① 始 期    明治43年かその直後
  ② ピーク期  大正3,4年頃まで
  ③ 終 期    大正7,8年

というところまで分かってきました。

さて、ここでもうひとつ、木製仁丹設置時期を裏付ける資料を発見しました。
当時の京都新聞(京都日出新聞)です。
京都で起きている町名表示板の設置ですから、御当地の新聞に載らないはずはないだろう!との期待的観測のもと、樂會で新聞記事を少しずつ読んでいく作業を始めました。

すると、やはり、設置時期をうかがわせる記事に出会うことができました。
これ ↓ がその新聞です。大正元年9月2日の京都日出新聞です。


~京都日出新聞 大正元年9月2日 4面より~


記事とは言っても、仁丹町名表示板に関わる直接的なものではなく、読者からの投稿欄である「落しふみ」というコーナーでした。ここに仁丹町名表示板に対する、京都市民の率直な意見が交わされていたのでありました。
赤い四角で囲った部分が、仁丹に関わる記事ですが、これでは読めないのでしょうから、以下、発見した投稿欄の記事を順番に御紹介します。


(1)大正元年9月2日 4面



●「仁丹」の広告兼用町名札は中々行届いて大層喜ばしい事であるがどうも私は「仁丹」の字が目障りになるも普通の広告方法に窮した結果こんな所にまで及ぼしたといふやうでもしこれに広告の意を現さず公共利便の為のみにせられたならば見る度にその札の奥にはそゞろ森下氏その人の人格がしのばれてそして又自と「仁丹」その物も思ひ出されて来て暗に可い広告になつたであろーに(蕗の葉)


(2)大正元年10月22日 5面



●此頃仁丹の広告を町名の上に書て町内の承諾も得ず前の札を剥取て張つたのは横暴だ然るに彼は警察が許したのだと云ふ人があるが正か其様な事は有まい(大正の浪人)


(3)大正元年11月4日 4面



●仁丹商標付の町名札は成程一挙両得的の好趣向だが何等の実用上功の無い町名其物を大書して何通何町何入の指示名を却つて小さく割書にしたのは字配の都合からかは知らぬが何だか間が抜けてゐるよ(穴さが士)


(4)大正元年11月5日 5面



●仁丹広告附の町名札に反感を持つ薬屋さん達は一ツ仁丹君の向ふを張つて各町々に広告用の街灯を点じては如何だ之れは装飾電灯よりも実用的で夜間通行者に何れだけ便利を与へるか知れないよ(世話焼爺)


(5)大正2年1月22日 4面



●(略)△仁丹の町名札を俗悪だとか何とか一概にケナシて仕舞ふた人も有つた様だが我輩は屡々利便を得た事少なからずだ王辰爾の知恵でヤツト読み得る様な古札は真ツ平だ(志賀の里人)


(6)大正2年3月13日 4面



●近頃でも無いが各辻々に仁丹の町名入り(所々間違つて居るが)広告が出来たのでどれだけ吾々の様な地理を知らない者が喜ぶか知れません尚此の頃喜ばしく思つたのは上京塔之段大正座があのいやな月夜でも暗らい〱相国寺の内に十本程街灯をたてゝくれたので夜る通行する人は非常によろこんで居ます同じ広告でも此の様なのは沢山の人がよろこんでいやみの無い広告法の様に思ひます(マイナス史)

※     ※     ※


大正元年の9月から翌3月あたりにかけ、投稿欄で再三、仁丹の町名表示板に関する投稿が見られたのです。

まず(1)です。大正元年の9月の投稿を見てみると、「中々行届いて大層喜ばしい事である」との文面があります。この時点で、市内には既に相当数の町名表示板が設置されていたことをうかがわせます。(6)の大正2年3月の投稿でも、「近頃でも無いが各辻々に仁丹の町名入り広告が出来たので…」との記載から、それ以前に相当数の設置があったことがうかがえます。


そのうえで、この木製仁丹の設置に対して、賛否両論があることがうかがえるのです。

例えば(2)です。大正元年10月の投稿では、既にあった町名表示の上に、承諾もえないまま木製仁丹を貼りつけた、と抗議しています。しかもこれを警察が許した云々…ということから、設置に当り警察の認可が必要であった可能性を示唆しています。
(5)のように利便を得たもので、やっと読むことのできる古札はまっぴら、と書いているものから見ても、木製仁丹以前から、京都の辻々もしくは各町内に、なんらかの表示板は設置されていたようです。

他方、木製仁丹に好意的な反応も見られます。
(1)のように大層喜ばしい、だとか、(4)のように、反感を持つのは仁丹とライバル関係にある薬屋だとか、(6)のように、どれだけ地理を知らない者が喜ぶか知れない、というような評価です。

興味深かったのが、木製仁丹の表記法に対する注文です。
(3)の投書では、「町名其物を大書して何通何町何入の指示名を却つて小さく割書にしたのは字配の都合からかは知らぬが何だか間が抜けてゐるよ」との指摘があります。確かに、現存している木製仁丹を見てみると、その後に設置された琺瑯仁丹とは表記法に明らかな違いがあるのです。




『基礎講座 3.表記方法 ②標準仕様』『基礎講座 3.表記方法 ⑥木製仕様』でも説明しましたが、琺瑯仁丹は通り名が大きいフォント、その下に町名が小さいフォントで記載されているのに対し、木製仁丹は通り名が小さいフォントで2行、その下に町名が大きいフォント1行で記載されている場合が多く見られます。ほぼ同じ位置に設置されている(いた)上の木製と琺瑯の対比画像でも、このことは指摘できます(残念ながら木製は既に消滅)。

おそらく、このことを(3)の投書は指しているものだと思われます。これら京都市民からの指摘を受け、琺瑯仁丹に貼り替える際には表記方法の改善が行われたのかもしれません。

※     ※     ※


以上、賛否両論、様々な意見が交わされました。それだけ木製仁丹が目立ち始めてきたということでしょう。
この頃、すでに木製仁丹の設置ピーク期を迎えていたとまで言えないのかもしれませんが、少なくとも始期は大正元年と言えるまでに絞り込めました。もう少しで明治に突入ですが、果たしてそこまでの資料が出現するかどうかですね。

また、大正3~4年とするピーク期についても、もう1,2年早めてもよいのかもしれません。

ということで、始期、ピーク期、終期の最新考察は次のようになりました。

  ① 始 期    明治43年かその直後  少なくとも大正元年は確実
  ② ピーク期  大正2,3年頃まで
  ③ 終 期    大正7,8年

~おわり~

京都仁丹樂會 idecchi & shimo-chan

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 21:58Comments(1)設置時期

2013年10月14日

木製仁丹設置時期の裏付け発見 1/2

木製仁丹の設置時期については、基礎講座で次のように推察しました。

   ① 始   期  明治43年かその直後
   ② ピーク期  大正一桁の前半(大正4,5年頃まで)
   ③ 終   期  大正7,8年

それぞれの根拠ですが、①始期については森下仁丹100年史、②ピーク期については京都府立総合資料館「京の記憶ライブラリ」で公開されている「石井行昌撮影写真資料」に写し込まれた木製仁丹と市電開通年月日などから、③終期は大正7年の市域拡大エリアの木製仁丹発見からです。さらなる詳細については、次の記事をご参照ください。

    基礎講座六 「設置時期」 ⑤木製の始期
    基礎講座六 「設置時期」 ⑦木製のピーク

さて、本題です。
これらの推測を裏付ける資料が、このほど2件立て続けに発見されました。
ひとつはピーク期を裏付けるもの、そしてもうひとつは始期に関わるものです。

※     ※     ※


先ずはピーク期を裏付ける資料をご紹介しましょう。

みなさんは「京都ダイレクトリー」なる書籍をご存知でしょうか?
私たちは誰も知らなかったのですが、この夏、京都歴史資料館の資料室で見慣れないこの書籍を手にしました。どのような性質のものかと言うと、その前書きを今風の表現で要約すると次のようになろうかと思います。

京都は千有余年の都であり、日本の文化、芸術、技術などの根源は京都にある。だから日本の文明を究めようとするには、先ず京都を知らなければならない。しかしながら、京都について記したものは数は多いものの、名勝案内だけのものや商工名鑑だけのものなど、いずれも一局面のみしか紹介しておらず、包括的に京都全体を記録したものがなく遺憾であった。大礼も行われ、京都の地位はますます向上している。そこで、名付けて「京都ダイレクトリー」を編集し、地理歴史を始めとし、政治、宗教、教育、実業その他全般、さらには古来の沿革から現状、市街および勝地案内、商工業者名鑑、各種統計などをまとめ、京都を知るとともに日本の文明の源泉を窺う資料とした。
大正4年11月


と言うことで、大正4年とありますので、ここで言う大礼とは大正の御大典のことですね。
奥付は次のようになっています。

   大正4年11月25日印刷
   大正4年12月4日発行
   発行元 京都市西三本木中切通下ル真町 京都ダイレクトリー発行所

750ページにも及ぶ超大作で、私たちの興味のあるところでは、上京区、下京区の通り名や町名の説明をはじめとして河川や橋梁、交通機関に至るまで解説されており、まさに大正4年当時の京都のまちの姿をすべて記録した“京都百科”、あるいは当時の京都を知るための“バイブル”と言えそうです。
各種業界の商店や製作所などを紹介した要覧は、凡例に”大正3年末或いは大正4年7月現在”とあるのでこの期間に取材したものと考えられます。

※     ※     ※


この要覧の中の商店の写真に木製仁丹が何枚か写っているのです。
画像が鮮明ではないのですが、明らかに木製仁丹であると言える写真に次のようなものがありました。


↑ 左端中央に木製仁丹



↑ 右端中央に木製仁丹


解説によれば上の写真は「松原通室町西入中野之町」、下の写真は「松原通烏丸東入俊成町」のはずであり、確かに原版ではそのように読み取れそうです。仁丹の商標は上にあり、通り名を小さく2行書き、そして最後に町名を大きくという木製仁丹のルールどおりの表記です。
これらの他にも、おそらくは木製仁丹だろうと思えるものも数枚あったのですが、原版ですらその程度ですので割愛します。


京都府立総合資料館「京の記憶ライブラリ」の写真は撮影年月日が明確ではなかったのですが、今回は“大正3年末或いは大正4年7月現在”であろうこと、少なくとも出版された大正4年11月以前の撮影であることは間違いありません。

したがって、木製仁丹設置のピーク期を大正一桁の前半としたのを、これを大正3,4年よりも以前であろうと、わずかではありますが、その前倒しと明確化ができたのではないでしょうか?

   ② ピーク期  大正一桁の前半(大正4,5年頃まで)
                    ↓
   ② ピーク期  大正3,4年頃まで


※「京都ダイレクトリー」は国会図書館の近代デジタルライブラリーでも見ることができます。

~つづく~
京都仁丹樂會 shimo-chan

  


Posted by 京都仁丹樂會 at 07:36Comments(0)設置時期

2012年06月23日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」 ⑬まとめ



~ 設置時期のまとめ ~


以上、基礎講座六は、設置時期にテーマを絞って考えてみました。分かっている事実のみを淡々と、というのが基礎講座シリーズのスタンスではありましたが、このテーマだけはどうしても推察が多分に入ってしまいました。そういう意味では「基礎研究」と言うべきかもしれません。

さて、設置時期を順にまとめると次のようになります。

【木製の始期】 明治43年かその直後
                         ⇒ ⑤木製仁丹の始期参照
【木製のピーク】 大正一桁の前半
                         ⇒ ⑦木製仁丹のピーク参照
【木製の終期】 大正7、8年頃
                         ⇒ ⑦木製仁丹のピーク参照
【琺瑯製の始期】 大正末期(遅くとも大正14)
                         ⇒ ⑨琺瑯仁丹の始期参照
【琺瑯製のピーク】 昭和 3年まで
                         ⇒ ⑧琺瑯仁丹と昭和の御大典参照
【伏見市の時期】 昭和 4年頃
                         ⇒ ⑩京都の次は伏見参照
【右京・左京の追加】 昭和 6年頃
                         ⇒ ⑪京都への設置再び参照
【琺瑯製の終期】 昭和10年頃
                         ⇒ ⑫琺瑯仁丹の終期参照

ただし、現時点で得られるヒントを組み立てることによって得られた推察であり、今後のフィールドワークや各種文献・資料調査などにより、これらの境界がよりシャープになるかもしれませんし、見直しの結果連動してシフトするかもしれません。みなさんも何か新たな情報がございましたらぜひお寄せください。

ところで、昭和10年ぐらいには設置を終了したとして、以降はどのようになったのでしょうか。第2次世界大戦に突入、次第に鉄材不足に陥り、仁丹だけではありませんが琺瑯看板自体が製作できなくなって戦前期の終焉を迎えました。ここで、森下仁丹80年史に興味深い記述がありました。
社員が鉄材の代わりに竹を割って使うことを提案したところ、森下博は
『竹というものはすぐ腐り、長持ちしない。そんなもので仁丹の広告をするという考えには賛成でけん。仁丹は後退せんのや、前進あるのみや』
                              ~森下仁丹80年史より~
と3時間も説教したそうです。木製の町名表示板を設置し終えたにも係らず、そう期間を空けずに琺瑯製で設置し直したと考えられるのですが、いつまでも美しく輝いて退化しない琺瑯製町名表示板に、この森下博の熱い思いが重なって見えるようです。

*   *   *

さらに時がうんと流れて平成。琺瑯製仁丹町名表示板が京都に復活しました。これについては設置時期が明確に分かっており、平成23年2月10日13時30分なのでありました。



~おわり~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 17:35Comments(0)設置時期

2012年06月16日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」⑫琺瑯仁丹の終期



~ 琺瑯仁丹の終期は昭和10年か? ~


京都市における琺瑯製仁丹町名表示板の設置は、ヨンヨンイチ(昭和4年4月1日)までにピークを迎え、ロクヨンイチ(昭和6年4月1日)で周辺部の追加を行って、これで設置は基本的にはすべて終了したと考えられます。だから終期は昭和6年もしくは7年かと言いたくなるのですが、そうではなかろうという非常に興味深い表示板を2点ご紹介します。

先ずは、 東山区 一橋宮ノ内町 です。



ヨンヨンイチでは京都市のエリアはそのままに、分区という形で中京・左京・東山の各区が誕生しました。東山区の場合は旧下京区域からの分区でしたので、すでに「下京区」の行政区名で設置済みでした。

しかし、一橋宮ノ内町は 『 東 山 区 』 で表示されているのです。

最初は、「②注目の上京下京時代」でご紹介しました「堺町通竹屋町上ル橘町」の中京区と同じく巧みに改変されたものだろうと思ったのですが、接近してじっくりと観察してもそのような痕跡は一切なく、最初から「東山区」と書かれているのです。



調べてみると、一橋宮ノ内町は元々は「下京区柳原宮ノ内町」だったのが、昭和8年5月1日に「一橋宮ノ内町」へと町名変更されていました。隣の野本町も同様の経過で町名変更がされており、この宮ノ内町と同じく東山区表示の琺瑯仁丹が存在していたことも確認できています。

従来、行政区名や町名が変わっても森下仁丹としては対処してこなかったところを見ると、これらは町内からの要望があってのことではなかろうかと想像します。
となると、設置時期も町名変更早々であるとするのが自然でしょうから、昭和8年設置ではと推定できます。

ところで、この2町については「下京区柳原宮ノ内町」や「下京区柳原野本町」と表記された琺瑯仁丹が当然ながら存在していたのではないかと考えられるのですが、果たして真相はいかに?ですね。

* * * * * * * * * * * * * * * * * *

次に、もうひとつ、琺瑯仁丹の設置終期を考えるうえで貴重な個体があります。同時に非常に難解な表示板でもあるのですが。これです。




上賀茂 南野々神町 俗稱 北山町一丁目  です。

何とも不可解な表示板ではありませんか。
行政区名は上京区かと思いきや“上賀茂”となっています。おまけに”俗称 北山町一丁目”?

この表示板はすでに消滅してしまいましたが、設置されていたのは北山通の府立資料館とノートルダムの間の南側でした。現在で言えば左京区下鴨南野々神町です。

左京区下鴨南野々神町は、昭和24年2月末日までは上京区上賀茂南野々神町でした。さらに遡れば上賀茂村となります。上賀茂村はエリアを2つに分けて、大正7年4月1日と昭和6年4月1日にそれぞれ京都市上京区へ編入されており、南野々神町は前者の大正7年組でした。

では、当時の地図を順次見ていきましょう。
これらの地図は京都市の都市計画地図ですから、タイムラグが少なく当時の状況をほぼ正確に反映していたと考えて間違いないでしょう。

先ずは大正11年測図です。
印が、まさにこの表示板が設置されていたポイントとなるのですが、大正11年当時はまだ田畑ばかりであり、京都市と言えどもとても市街地ではなかったことが分かります。左に植物園があり、北山通はまだ開通していません。そして右下には明治23年開通の琵琶湖疏水分線が見られます。


都市計画京都地方委員会 大正11年測図 「上賀茂」 より抜粋


次は昭和4年修正測図です。
突如として整然な道路網を配したエリアが出現しました。周囲は従前のまま変化がありませんので、この区域のみ区画整理が施工されたことが分かります。北山通は予定地が点線で示されているのみでまだ存在せず、また仁丹を設置しようにも家が建っていません。また、現在の町名と同じ名称の地名が見られますが、その町界は従前のままであり、整然な道路網に合致させるような町界の整理はまだ行われていません。


都市計画京都地方委員会 昭和4年修正測図 「上賀茂」 より抜粋


現在、このエリアの真ん中に位置する萩ヶ垣内町の萩児童公園内に次のような石碑があります。洛北土地区画整理竣工記念碑です。



裏面には漢字でぎっしりと事の成り行きが記されており、これと昭和10年発行「京都土地区画整理事業概要」の内容とをまとめると、洛北土地区画整理組合は昭和2年11月に設立、事業の範囲は東は泉川、西は鞍馬街道(下鴨中通)、南は疏水分線、北は松ヶ崎街道の76,000坪余りであり、昭和3年6月着工、昭和5年4月竣工、そして残務整理の後昭和9年4月3日に竣工祝賀式を迎えて記念に石碑を建立した、となります。また、昭和9年には北大路通に市電が開通し、上下水道やガスなどインフラ整備も完了していたようです。

そして、次の地図は昭和10年修正測図です。


京都市土木局都市計画課修正 昭和10年修正測図 「上賀茂」 より抜粋

家も立ち並び、この頃ともなれば仁丹の設置も可能だったであろうと推察できます。したがって、問題の「上賀茂 南野々神町 俗稱 北山町一丁目」の表示板の設置時期は、どうやら昭和10年頃かそれ以降というひとつの手掛かりが得られました。

また、北山通は全通していないものの本格的に姿を見せ始め、区画整理は昭和4年の地図と比べると南下し、”文化村”と称されたエリアとも連続性を持つようになっています。

下鴨神社から北大路にかけてのエリアは先に「郊外」として発展し、多くの学者や芸術家が好んで居住したことから”学者村”とか”文化村”などと呼ばれたそうです。町家が並ぶような旧市街と明らかに一線を画した街並みと雰囲気が形成され、そのような態様がそのまま北部へと膨らむことが想定されたのでしょう、先の「京都土地区画整理事業概要」では、洛北土地区画整理事業の項で、京都市における区画整理区域では随一の高級住宅街として発展していくだろうと、その期待が込められています。

そのとおり、確かに現地は高級住宅街に発展しました。ほとんどの家屋はすでに建て替えられていますが、それでも昭和ひと桁の匂いが色濃く残る外構などから当時の地域の様子が伝わってきます。ただ、仁丹が設置されていたとはとても思える雰囲気ではないのですが。

さて、再び、「俗稱 北山町一丁目」なる表現のことです。
俗称と言うからには、公称ではなかったことを意味するわけですが、以上のような背景を考えると、今までの京都ではない新京都という自負も込めて、ちょっと洒落た呼称を地元が望んだのでしょうか? あるいは開発業者が先導したネーミングだったのでしょうか? 想像は色々と浮びます。真相解明のため、思いつく様々な文献や資料をあさってみましたが、もう一歩ということろで今のところ手が届いていません。

  * * * * *

しかしながら、求めている答を示唆するような資料には2つ出会うことができました。

そのひとつは、昭和6年11月発行の「京都の都市計画に就いて」です。
これは区画整理施工後の地域について、改めて町名や町界を見直そうと当時の各界第一人者を集めた「町界町名地番設定調査委員会」の議論をまとめたものです。今で言う審議会の答申のようなものなのでしょう。確かに整然とした街並みが出現しても町界がぐちゃぐちゃでは区画整理が完成したとは言えません。新名称の選定には伝統を保持しつつ新京都に相応しいものであり、町界や住所表示は新たな道路網を生かすことが当然ながらスタンスとなっていました。
その中に、次のような非常に興味深い下りがあったのです。

三、町界町名地番の標示

町界及各辻角に町界町名地番の標示をなす

(理由)
旧市街に於いても既に各町の要所々々に仁丹製薬会社の町名標示板を用ひつつあるも、本案の如く新市街がブロックの中心線より町界を定むる場合に於いては斯くの如き標示方法は特に必要なりとす

これは北大路通の北、鴨川の西エリアに関する項での記述ではあったのですが、仁丹町名表示板が公的な文書に登場していたということもさることながら、同時に仁丹町名表示板がすでに市民権を得ていたこと、調査委員会が町名の表示方法として選択肢のひとつであるかのように例示していたということは非常に重要なポイントとなります。つまり、宣伝活動として森下仁丹側から積極的に設置したというよりも、地元からからのオファーもあり得たとも考えられるのではないでしょうか。

そして、もうひとつの資料は、京都府立資料館の「京の記憶ライブラリ」にて公開されている「京都市明細図」です。
これは大日本聯合火災保険協会京都地方会が昭和2年に作成した住宅地図のようなもので、その後の変化を加えながら昭和25年頃までの状況が記録されています。一昨年に公開され、五条通や堀川通の建物疎開前の状況が分かるというので新聞やテレビなどでも話題になり、記憶に新しいところです。

この一連の資料群の中の「京都市明細図NE25」では下鴨北園町の様子が記録されているのですが、東西の通りが北部より順に北園町一丁目、二丁目と続き六丁目まで名称が付けられているのです。ちなみに、この二丁目が今で言う北泉通です。

となれば、北山通を北山町一丁目として、東西の通りを南へ順に北山町二丁目、北山町三丁目と呼ばれていたということが十分に考えられます。

それを確認するには京都市明細図NE25のもう1枚北側の明細図を見たら分かるのでしょうが、これがあいにく欠落しているのであります。Webで公開がされていないだけで実は存在しているのかもと問い合わせたのですが、やはりないとの返事でした。もう一歩ということろまで迫ったのですが残念です。
どうやら上賀茂や松ヶ崎とのラインが北限のようですね。

実は、先の「京都の都市計画に就いて」では、町割は新たな街路で作られるいくつかのブロックで構成し、その中央を通る道路に「公称名」を与え、その1本北の通りは例えば○○北通、南は○○南通りなどといった「通称名」を使用させ、しかも通り名と町名を同じにするべし、などとの提案もしているのです。そして、新町名が続々と登場するだろうとも言っています。

これは旧市街における通り名を組み合わせた上に町名を付けるという表示方法は非常に煩雑で非効率的であるが、特定しやすいというメリットもあると認め、新市街ではそれらの良いとこ取りを行おうとしていたようです。ただ、これは昭和6年の時点でのことですから、その後どのように推移したかは研究不足で分かりません。紫竹界隈ではなるほどと思える節もあるのですが、やはり地域によって様々な事情があったのではないでしょうか。

ということで、断片的な資料からあまり想像を膨らませては確度が下がるのですが、もしかしたら洛北土地区画整理エリアのうち、南部は北園町で、北部は数個の小字を”北山町”に統合しようという動きがあったのでは?と連想してしまいます。結果は、北山通以南では町名の統廃合をせず、町界をすっきりと街路に合うように見直しただけとなったようですが。

  * * * * *

以上、まだまだ解明不足ではあるのですが、この「上賀茂南野々神町 俗稱北山町一丁目」なる個体は、様々な課題を与えてくれました。現在のところ最後の琺瑯仁丹の設置になるのではないかと考えられます。そして、それは昭和10年頃であろうと。
また、”俗稱北山町一丁目”については今一歩というところで未解決のままですが、地元からの要望に応じたものであろうと現在のところ考えられます。
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 18:30Comments(4)設置時期

2012年05月27日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」⑪京都への設置再び



~ロクヨンイチの追加設置~


琺瑯仁丹で表記されている行政区名には上京区と下京区の他にも、「左京区」と「右京区」があります。その数は、私たちが確認した中ではわずか1.6%にしかすぎませんが。
また、厳密に言えば実は東山区もあるのですが、この話は次回にさせていただきます。

「左京区」と最初から表記されているものは、現在・過去において確認できたものは次の16枚でした。
松ヶ崎・・・6枚 , 上高野・・・4枚 , 一乗寺・・・2枚 , 修学院・・・2枚 , 山端・・・2枚

「右京区」と最初から表記されているものは、同じく次の5枚でした。
花園・・・1枚 , 太秦・・・1枚 ,  嵯峨野・・・3枚



つまりいずれもが昭和6年4月1日に京都市に編入された愛宕(おたぎ)郡修学院村、松ヶ崎村、葛野(かどの)郡花園村、太秦村などのエリアです。

これは、ヨンヨンイチすなわち昭和4年4月1日までに当時の京都市域に完璧に設置を終えていたところに、ロクヨンイチすなわち昭和6年4月1日の市域拡大に対応して、追加設置したものと考えられます。

このロクヨンイチで編入された周辺部の自治体にはこれらの他にも、上賀茂村、大宮村、鷹峰村、西院村、梅ケ畑村、嵯峨町、梅津村、京極村、松尾村、桂村、川岡村、吉祥院村、上鳥羽村、竹田村、深草町、堀内村、下鳥羽村、横大路村、納所村、向島村、山科町、醍醐村など数多くあるのですが、しかしながら現時点では設置が確認されていません。

嵯峨町は旧太秦村大字嵯峨野ではなく、こちらは天龍寺から釈迦堂などにかけてのエリアです。すぐ西の嵐電沿線の嵯峨野界隈で複数枚確認されているのですから、当時から観光地であることも考えれば設置されて当然でしょう。深草村にしてみても京都と伏見を結ぶ本町通り(伏見街道)沿いであり、さらに第十六師団もあったことからこれまた設置されていたとしても何ら不思議ではありません。また山科町も東海道沿いにと思います。それでも、やはり見つかっていません。考えれば考えるほど、様々な想像が湧いてきます。

  ・数は少ないものの律儀にすべてに設置されたが消滅している。
  ・桂川や京都盆地や広大な田畑などによる街の不連続性が原因している。
  ・飛び地を作らずに中心部から順次拡大設置していく途上で終焉を迎えた。
  ・広告益世なる判断基準の結果から、周辺部は設置されなかった。
  ・拡大していく「大京都市」に付いていけなくなった。

ロクヨンイチで大京都市の面積は一気に広がりましたが、設置対象となる家屋は少なかったはずです。森下仁丹のエネルギーを考えれば大京都市エリア全体に設置もできたであろうと想像するのですが、ここはやはり広告益世の判断結果が出ているのではという印象を強く持ちます。さて、真相はいかに?

いずれにせよ、ロクヨンイチで京都市に編入された地域のうちの一部で追加設置がなされたことは間違いなく、それはそう時間をおかず、昭和6年中にすみやかになされたと考えてはいかがでしょうか。

  【右京区・左京区表示の追加設置】 昭和6年中に?
     (答は昭和6年4月1日以降にあり。おそらくは誕生早々に。)
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 10:53Comments(2)設置時期

2012年05月21日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」⑩京都の次は伏見



~ 伏見市の設置は昭和4年か? ~


ヨンヨンイチ、すなわち昭和4年4月1日までには京都への設置を一段落した琺瑯製仁丹町名表示板は、次に伏見へ移ったと考えられます。

「基礎講座 2.伏見市の場合」でご紹介したように、現在の伏見区中心地には「伏見市」と表記された仁丹がまだ10枚強現役で頑張っています。伏見市が存在したのはほんの短期間、「昭和4年5月1日~昭和6年3月31日」のわずか1年と11ヶ月のことです。したがって、この間に設置されたことには疑問をはさむ余地がありません。

しかし、もともと京都市との合併が予定されているのに、わざわざ伏見市の名前で設置されるとは不思議ですよねぇ?

でも、紀伊郡伏見町と京都市との合併問題が取り沙汰されるようになってからは、対等な合併を目論み、その一環として市へ昇格した背景を考えれば、伏見市が誕生した早々にこれ見よがしに華々しく設置されたと考えるのが自然ではないでしょうか。

ということで、昭和4年5月1日~昭和6年3月31日の期間のうちでもできるだけ早い時期と推定し、昭和4年には設置されたと考えてはいかがでしょうか。古写真や資料などによる今後の裏付けが待たれます。



【伏見市の設置時期】 昭和4年5月以降早々に
              答は昭和4年5月1日~昭和6年3月31日の間にあり。
              伏見市誕生の背景やエリアから考え早々に。
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 21:33Comments(0)設置時期

2012年05月20日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」 ⑨琺瑯仁丹の始期



~大正時代にすでに設置されていた~


昭和4年までに何千、もしかしたら万に達するかもしれない数が設置されたであろう京都の琺瑯製仁丹町名表示板。この大きなエネルギーと昭和の御大典とを結び付けて考えたくなるものですが、琺瑯仁丹の設置は実は昭和の御大典を動機としたものではなく、大正時代にまで遡ることが確認されました。

2010年10月21日に「京都ずんずん」でも紹介しましたが、京都府立総合資料館に『写真集 京の町並み ~田中泰彦編・京を語る会~』なる資料が所蔵されています。これは京都の草分け的な民族学者田中緑紅が撮影した写真をまとめたもので、その中に清水産寧坂の様子を記録したものがありました。撮影は大正14年2月18日とあります。次の写真です。


いかがでしょう。私たちが瞬時に反応してしまう白い長細い物体が写っているではありませんか。近づいてよく見てみると紛れもない琺瑯製仁丹町名表示板です。
町名は「清水二町目」と読み取れます。そして、小さな文字が数個続き最後にあの商標が確認できるのです。

「基礎講座 3.表記方法 ④併記仕様」でご紹介しました
   【併記仕様】 行政区名+町名+通り名1+通り名2+方向+商標
のパターンのようです。

残念ながら、小さな文字までは判読できないのですが、おそらくは
   「下京區 清水二町目 産寧坂通松原上ル」
であったであろうと思われます。

さて、この大正14年撮影とされる写真に、はたして琺瑯仁丹が写り込む可能性はあるのでしょうか?念のため検証してみました。

琺瑯仁丹に使われている「仁丹」なるデフォルメされた文字は、先の基礎講座六「設置時期」⑥木製仁丹の終期で紹介した大正11年撮影の広告塔が示すとおり、早くとも大正11年以降ならばその出現は可能でした。

一方、技術面実用面からはどうでしょう。
日本琺瑯工業連合会発行「日本琺瑯工業史」によると、琺瑯看板としては大阪では研究の末に大正5年に製造開始され、その後は技術進歩とコストダウンが図られて大正14年には数か所の工場が存在したとされていますので、こちらも大正後期からならば十分に可能であったと言えそうです。しかも森下仁丹のお膝元である大阪本社のすぐ近くにも工場が複数存在していたことが分かりました。

ということで、何ら矛盾はないことが確認できました。またさらに、田中緑紅は古写真の資料化にも力を注いでいたとのことですから、撮影年を記録するという重要性を十分に理解していたであろうし、信ぴょう性は高いと思います。

以上のことから、琺瑯仁丹の始期はマックスで大正11年頃から昭和4年4月1日までの間に存在すると考えられるものの、現時点で発見できている資料からすると、その始期は少なくとも大正14年2月となります。
そして、動機が昭和の御大典ではなかったものの、どうせなら御大典の昭和3年11月、いやもう少し突っ込んで博覧会の始まる昭和3年9月までにはひととおり設置を終えていたと推測するのが自然ではないでしょうか。

【琺瑯製の設置始期】   遅くとも大正14年2月
【琺瑯製の設置ピーク】  遅くとも昭和3年9月までか?

写真を根拠とするときは、常に撮影年月日が間違いないのかという問題が付きまといます。始期の補強および明確化もしくは更新のため、今後もさらなる資料や古写真を探求しなければなりません。


※2012.7.22誤記訂正  【琺瑯製の設置ピーク】 遅くとも昭和3年6月までか? → 9月に 
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 11:00Comments(0)設置時期

2012年05月19日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」⑧琺瑯仁丹と御大典



~ 昭和の御大典との関連は? ~


ヨンヨンイチ、すなわち昭和4年4月1日までに旧上京・下京エリアの全域に隈なく設置されたと考えられる琺瑯仁丹。それでは、一体どれほどの数が設置されたのでしょうか?試みに考えてみました。

戦争による建物疎開や戦後の大規模開発により、現在と昭和初期とでは随分と様子も違っているでしょうが、現在の行政区の中では上京区が最も当時の姿に近いのではないでしょうか。その上京区を例にあげると、町名が約580町あります。そのうち現在過去において琺瑯仁丹の設置が確認できたのは、そのうちの約45%にあたる260町です。しかもひとつの町名に対して1枚の表示板とは限りません。2枚、3枚と複数枚設置されたケースも数多くあります。
ちなみに、2枚設置は60町、3枚設置は20町、4枚設置は7町、5枚設置は3町、そして下丸屋町は6枚設置、仁和学区の北町は7枚設置でした。残りのおよそ160余りの町は1枚しか確認できていませんが、複数枚設置されていたとしても何ら不思議なことではありません。そして、リストを整理していくと、すべての町に設置されたであろうと確信が強まるばかりです。

それは他の区も同様だったはずです。旧上京・下京エリアにあった町名の数はおよそ2,000です。複数枚の設置を考えたら、2,000の2倍3倍といった枚数の表示板が設置されていたのかもしれません。幻の“八枚ヶ辻”なる都市伝説!?も考えれば、もっと行くかもしれませんね。



これは森下仁丹が京都に対してとてつもないエネルギーを投入したことを示しているのではないでしょうか。広告益世の思想で設置された仁丹町名表示板ですから、京都は広告をする上でも価値があり、公共の役に立つということでも大きな意味があったということになります。
では、当時の京都の位置づけとはいったいどのようなものだったのでしょうか?

ちょうどその頃の京都はと言えば、三大事業や土地区画整理事業の進捗によりまちの骨格が完成に近づき、観光客の誘致にも大いに力を注いでいました。そして何と言っても昭和の御大典とその記念事業としての博覧会を抜きには考えられません。

御大典は昭和3年11月10日、京都御所にて執り行われた昭和天皇の即位の礼です。日本全国から関係者のみならず、非常に多くの国民も京都を目指したことが記録されています。当時の京都日出新聞を紐解くと、その何日も前からカウントダウンするかのうように、皇室、政府、海外からの来賓の動きはもちろんのこと、京都の町の様子や市民の様子などを様々な角度から詳細に伝えています。

~前日である昭和3年11月9日の京都日出新聞夕刊第一面~

記念事業の博覧会は京都市が主催し、岡崎公園の東会場、上京区の主税町界隈の西会場、国立博物館の南会場などをパビリオンとして9月20日から約3か月間開催されました。来場者は339万人を上回ったとされています。右京中央図書館に所蔵されている昭和3年6月発行の『御大典と京見物』なる書籍は、地方からの来訪者に対して博覧会会場への交通を懇切丁寧に説明し、ついでに京見物もしてくださいといったスタンスで執筆されています。まさしく当時のニーズに沿ったガイドブックだったのであろうと思われますし、また今読む者を当時の京都にワープさせてくれます。

また、京都を目指したのは人だけではありませんでした。新京阪鉄道(現在の阪急京都線)や奈良電気鉄道(現在の近鉄京都線)も御大典に間に合わせるべく突貫工事を行ってどうにかこうにか開業したのでした。

以上、例を挙げればきりがありませんが、都(みやこ)が東京に移って60年も経つというのに、当時の京都はまだまだ物や人を集める大きな力を持っていたことが分かります。

当時の国民の精神面については、それを窺える非常に興味深い記録を見つけました。民族学者宮本常一の『私の日本地図14 京都』の中の「関東人の京参り」という次のような一文です。

昭和21年であったと思うが、東海道線湯河原駅の近くに鍛冶屋という所在があり、そこへいったことがある。ムラの70歳から上の老人たち7、8人に集まってもらって話を聞いたのだが、その折、どこまで旅をしたかについてきいてみると、「京は京参りといって必ず参ったものだ」という。たいていは伊勢参りを掛けた旅であった。さて東京は、ときいてみると、「ハァ江戸かね、江戸は見物じゃ。江戸へはまだ行ったことがないね」という老人がほとんどであった。この言葉におどろいてしまった。江戸が東京になって80年もたっているのに、感覚的にはまだ江戸としてうけとめている。そしてその江戸には、いったことがないという。それで私はこの話を何回も方々で話してみた。関東平野に住むものでも、これに近い感覚も持っていた百姓の老人は少なくなかった。つまり日本の一般民衆は意外なほど京都を聖なる地として強く印象していたのである
~宮本常一『私の日本地図14 京都』 関東人の京参り より~

いかがでしょう。京都から湯河原を見たらもうほとんど東京といった感覚ですが、当の湯河原から見たらまだまだ心の中の中心は京都だったのですね。また、御大典当日の京都の様子を伝える昭和3年11月11日の京都日出新聞では、一般民衆の次のような行動も紹介しています。

鉄道市電でも 一斉万歳を叫ぶ
赤誠と喜悦を胸に籠め
轟く皇礼砲を合図に

10日午後3時!京都駅では…(省略)…待合室で列車を待ち合わせていた紳士も田舎びたお上りさんも老いも若きも男も女も皆同時刻前となるや胸にあふれた赤誠と喜悦がそうさせたのであろう、誰の指図も受けず三々五々駅前広場に集まり一団となって遥か御所を拝みながら声高らかに天皇陛下万歳を斉唱した。…(省略)…一方市電車内では同時刻に出雲橋畔の号砲合図に車掌の発声で乗客全部が起立万歳を斉唱し今日の佳き日を寿ほいだ
~京都日出新聞 昭和3年11月11日 より 旧字体は現行のものに変更~

このような当時の国民感情、西日本は広島県出身の森下博にしてみても、森下仁丹の社員にしてみても、同じであったことでしょう。

「仁丹町名表示板」と「御大典」、昭和4年4月1日直前に京都に注がれたこの2つの大きなエネルギーを結び付けて、琺瑯製は御大典に間に合わせるべく昭和元年から3年11月までの間に一気に設置された、と考えたくなるものです。御大典と博覧会のために多くの人が京都を訪れることになり、京都独特の住所表現を分かりやすく伝える、まさしく広告益世です。本来は行政が行うべきインフラ整備のひとつかもしれませんが、森下仁丹が買って出た、もしくは良い表現ではありませんが行政が利用した一面もあるのかもしれません。私たちも当初、そのように考えていました。

が、しかし、詳しくは次回にご紹介しますが、新たな資料の出現により琺瑯仁丹の設置が大正時代まで遡ることが判明したのです。御大典の話をここまで引っ張っておきながら恐縮ですが、琺瑯仁丹の設置は御大典が直接の契機となったのではなく、それよりももっと以前から行われていたのです。もちろん、あくまでもそれは琺瑯製設置の始期であって、昭和に入ってから御大典を意識して爆発的に増えた、という見方もできるかもしれません。引き続き新たな資料を探し求め、より精度を高めたいと思います。

最後に、御大典当日の京都日出新聞朝刊に掲載された森下仁丹の広告です。なんと、見開き2ページという力の入れようです。右の細かい文字は皇族の系譜を表したものです。


~京都日出新聞 昭和3年11月10日 より~
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 22:01Comments(5)設置時期

2012年05月12日

仁丹町名表示板 基礎講座六 「設置時期」 ⑦木製のピーク


~ 大正ひと桁前半では? ~


木製仁丹の設置時期を考える上で、非常に興味深い写真を見つけました。

先ずは「石井行昌撮影写真資料147」です。
これは石井行昌氏が明治20年代から大正10年頃までに撮影された京都における様々なシーンの写真資料群であり、現在は京都府立総合資料館に寄託され、「京の記憶ライブラリ」として公開されているものです。
その中の1枚である№147「市電」がこれからご紹介する写真です。利用と掲載の許可を正式に得ました。


『石井行昌撮影写真資料147 市電』  原資料:京都府立総合資料館寄託
※ 赤の矢印は当方で付けたものです


写真は“烏丸通今出川下る”から交差点を北に向かって撮ったものです。
右の石垣が御所で、市電が左側(西)からやってきて手前(南)へと進み、出町方面や北大路方面へはまだ敷設されていないどころか、烏丸通の拡築がまだ北側では実施されていません。

そして、赤い矢印の部分をご覧ください。ここに木製仁丹が3枚も写し込まれているのです。
拡大すると左から順にこうです。


現物でないと確認し辛いのですが、それでも左端は明らかに仁丹であることがお分かりいただけると思います。「今出川通烏丸西入 今出川町」です。

さらに右2枚は「玄武町」です。
通り名は読み取り難いのですが、おそらく「今出川通烏丸東入」とあるのでしょう。

市電の敷設状況から撮影時期を絞り込めそうです。烏丸今出川から各方面への敷設時期を調べてみました。
   ① 西方面 大正 元年12月25日  今出川大宮まで開通
   ② 南方面 大正 2年 5月26日  烏丸丸太町まで開通
   ③ 東方面 大正 6年10月31日  今出川寺町まで開通
   ④ 北方面 大正12年10月21日  烏丸車庫まで開通

写真は①と②の開通後であり、③の開通前の状況ですから、したがって、マックスで撮影期間は大正2年5月26日~大正6年10月31日までの間と限定されます。
ただ、おそらく同じ日に撮影されたのであろうと思われる他の烏丸今出川の複数のカットからは、今出川通や烏丸通の拡築部分の地面がなんだかまだ十分に落ち着いていないように見えることから、撮影日はマックスの期間のうち結構早い時期かなという印象を持ちます。

そして、ここに木製仁丹が至近距離に3枚も写っているのです。

このことは、前回の基礎講座で紹介した「森下仁丹80年史」の記述から印象付けられる設置のスピード感を確信できるものであり、大正ひと桁前半にはすでに木製仁丹の設置をひととおり終えていたのではなかろうかということを裏付けるひとつの資料となります。



以上のことから、木製仁丹の設置時期については次のようにまとめられそうです。

 始 期 ・・・ 明治43年直後
 ピーク ・・・ 大正ひと桁の前半
 終 期 ・・・ 大正7,8年


今後の新たな資料の出現で、よりシャープになるかもしれませんし、逆に変更を余儀なくされるかもしれませんが、とりあえず現時点では以上のように想定できます。

(2014.3.12 一部修正)
  


Posted by 京都仁丹樂會 at 18:42Comments(1)設置時期