2021年02月28日
舞鶴からも出現!
昨年6月のことでした。
とある方から舞鶴にも仁丹町名表示板はあったのか?という質問というか情報が寄せられました。なんでも戦前の絵葉書に「もしかして仁丹?」と思しきものが写りこんでいるというのです。絵葉書のキャプションには“新舞鶴 三條通”とあるとのこと。
「そんなはずはない、仁丹はない」とすぐに回答しました。
なぜなら「新舞鶴」は町だったからです。
東舞鶴、西舞鶴、そして中舞鶴はよく耳にしますが、新舞鶴は知りませんでした。調べてみると、簡単に言えば東舞鶴の旧名というべきものでした。城下町である西舞鶴エリアはすでに栄えていましたが、明治になって舞鶴鎮守府ができ、そのために造られた市街地が今で言うところの東舞鶴エリアで、一時期ではあるものの「新舞鶴町」が存在していたのです。
いくら“全国津々浦々”と言っても町や村のレベルにまで設置していなかったであろうと決め込んでいました。それまで市レベルにしかその存在が確認されていなかったからです。
この“全国津々浦々”とは、1995年発行の森下仁丹100周年記念誌にある『当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり』に使われているフレーズです。
当ブログでは2015年3月から1年にわたり計9回、「全国津々浦々の考証」と題してこのフレーズについて検証してきました。結果、琺瑯製の仁丹町名表示板は京都市、伏見市、大阪市、奈良市、大津市、八尾市、そして木製では京都市、東京市、大津市に存在していたことを報告しました。当初今ひとつ疑問に思っていた“全国津々浦々”ですが、東京や大津から木製が発見されたことにより、まんざら誇張された表現ではないのかもと信ぴょう性を帯びてきたのです。
ただし、上記の都市はいずれも市です。
また、京都府紀伊郡伏見町が昭和4年に伏見市に昇格するやいなや、「伏見市」なる仁丹町名表示板が設置されたことも、やはり市レベルが条件なのだという思いを強くしました。
しかし、気になります。
絵葉書に残るぐらいならば地元へ行けば何か分かるのではないかと、すぐに舞鶴市郷土資料館へ赴きました。そして、絵葉書や古写真などを拝見するとともに学芸員の方にお聞きしたのですが、残念ながら、町名表示板としての仁丹の情報は皆無でした。
となればもはや当該の絵葉書を入手して確認するしかありません。
それがこれです。
背後が山なので、三条通と大門(おおもん)通との交差点から駅に向かって写しています。仁丹らしきモノ、どこにあるかおわかりでしょうか?
左手前の家屋の2階です。確かに京都の木製仁丹のようなモノが写っています。
その部分をスキャンすると次のようになりました。
現物の絵葉書ならば明確に判読できるものと期待していたのですが、表面の劣化もあってせいぜいこの程度の解像度です。商標の髭のお顔は不鮮明ですが、胴体部分の「仁丹」なる2文字はぎりぎり読み取れそうです。ならばその上のスペースは髭のお顔なのか? そう思って見るとそのようにも見えてきます。「大門通三條」は明らかです。そして、その下は「西入」と「東入」とが並列して書かれているように見えます。
そのようなことで、見れば見るほどに次のようなイメージが出来上がってくるのです。
赤い枠は京都に倣い、商標も京都の木製から貼り付けてみました。
当會のメンバーとも慎重に検討した結果、これはやはり木製の仁丹町名表示板であると認めざるを得ないとの結論に至りました。
絵葉書のキャプションは右下に「(新舞鶴名勝)三條通」、左下に「舞鶴要港司令部検閲済」「舞鶴要塞司令部検閲済」と2行で書かれています。また、絵葉書の裏面は次のようなものでした。
「絵葉書資料館」(https://www.ehagaki.org/)の絵葉書の年代推定方法によると、宛名と通信文のエリアが1/2に区切られ、「郵便はかき」(「郵便はがき」ではない)となっているタイプは大正7年~昭和7年の間とされています。
新舞鶴町の話しに戻ります。
「舞鶴市史 通史編 上」(舞鶴市史編さん委員会1993年)を参考にすると、当該の地域はそもそも京都府加佐郡倉梯(くらはし)村の浜地区という水田地帯だったところで、明治34年に舞鶴鎮守府が開庁、浜地区が大規模な埋め立てで市街地化され、明治37年には鉄道が福知山から延びてきて駅前通りである三条通が商業の中心地になったとあります。
現在、東舞鶴駅から北側、つまり舞鶴湾に向けては通りが京都のように整然と碁盤の目のように配置されています。そして、西から東に順に一条通から九条通が縦に配置されています。京都は横ですが舞鶴は縦なのです。また、横の通りは三笠通、初瀬通、武蔵通などと戦艦の名称になっていることは有名です。浜地区の地盤整備が完成した明治35年にこのように命名されたと先の資料にありました。
その後、市街地として発展した浜地区は、明治39年7月1日に「新舞鶴町」に、昭和13年8月1日に「東舞鶴市」にと昇格していきます。さらにその2年後には、西舞鶴エリアの「舞鶴市」と合併して大きくなった「舞鶴市」の一部となりました。したがって、「新舞鶴町」が存在した期間は明治39年7月1日~昭和13年7月31日までとなり、先ほどの絵葉書の年代推定期間はこの間にすっぽりと収まります。
また、国際日本文化研究センターの所蔵地図データベースにある「新舞鶴市街地圖」(大正11年)では当時の様子を知ることができます。絵葉書の仁丹町名表示板の横にある看板「軍港市街雑貨商の開祖 矢野商店」の店舗も地図で確認できます。家屋がまだまばらだった時代なので、なるほど“開祖”が頷けます。地図の裏面には新舞鶴町の起源も詳しく解説されています。
しかし、月日が経って戦争に突入、昭和20年4月には建物疎開がこの三条通に適用され、東側の家屋がすべて撤去の対象となってしまったのです。「舞鶴市史 通史編 下」には次のような疎開後の写真が掲載されています。
絵葉書と同じ撮影ポイントなのかどうかは分かりませんが、背景が山なのでアングルは同じです。そして東側に建ち並んでいた家屋が一斉に撤去されている無残な様子が写しこまれています。この時、仁丹町名表示板も矢野商店とともに姿を消したことになります。
さらに戦後は都市計画により、三条通がもっと拡幅されました。この時も東側が対象となり、建物疎開で家屋を失った方々は残りの土地まで取られてしまい、その悲痛な声が「舞鶴市史 通史編 下」に紹介されていました。現在、東舞鶴駅を降り立つと、正面に4車線の広い三条通がメインストリートとして延びていますが、このような経過があったというわけです。
ところで、新舞鶴町にも仁丹町名表示板が設置されていたという事実をどう捉えるべきでしょうか? 町レベルとしては初見です。
私たちは京都の辻々にある仁丹町名表示板に興味を持ち、ここまで調べてきました。京都市の場合はその住所表現の特異性から相当濃密度に設置されました。この密度でもって全国津々浦々なんて、とても無理だと思い込んでいました。
でも、町名表示板といっても広告です。何も京都のように律儀に徹底しなくても、広告として効果の高い箇所にのみぽつりぽつりと付けてもいいはずです。それならば全国津々浦々という表現もできたかもしれません。
しかも、木製であれば今なお現役で残っていることは難しいでしょう。仮に残っていても色褪せてただの木片にしか見えないでしょう。また、カメラが普及していない時代です。写真なら絵葉書はありますが、広告物取締法で屋外広告が許されない名勝が中心です。通常の街なかの光景が絵葉書になるなどまずないことでしょう。
つまり、仮に全国津々浦々という表現が許される程度の設置があったとしても、今の私たちが確認することは非常に困難であるということなのです。現物が残っていないから、写真がないから、と言って社史にある“全国津々浦々”を全否定することはできないことに気づきました。
以上のことから、私見ではありますが、新舞鶴町はたとえ町レベルであっても軍港として大いに栄えていたため、広告をする価値大いにありと考えたのではないでしょうか?
この絵葉書は通常の町並みのものではりますが、“司令部検閲済”とあるように機密のエリアではあるものの、新しく出現した市街地として名勝扱いにされたのでしょう。
さらに、京都と同じように通りが碁盤の目になっていることも注目です。京都での実績を持ち込んでということも、“大門通三條 東入 西入”なる表現から連想したりしています。
この界隈の住所は、舞鶴市浜〇〇番地が正式なようですが、店舗のアクセス方法としては京都風に通り名を使っているケースも散見されます。
最後に、舞鶴にあるのであれば、呉や佐世保にもあるのではないか?と誰しも考えるでしょう。舞鶴市郷土資料館でもそのように言われました。そこで、ついでがあったので、呉には訪れて挑戦してみましたが、収穫は残念ながらありませんでした。しかし、だからと言って存在しなかったことにはなりません。社史にあってまだ木製仁丹の存在が確認できていない大阪や名古屋を筆頭に、まだまだ全国津々浦々の時空間の旅が続きそうです。
とある方から舞鶴にも仁丹町名表示板はあったのか?という質問というか情報が寄せられました。なんでも戦前の絵葉書に「もしかして仁丹?」と思しきものが写りこんでいるというのです。絵葉書のキャプションには“新舞鶴 三條通”とあるとのこと。
「そんなはずはない、仁丹はない」とすぐに回答しました。
なぜなら「新舞鶴」は町だったからです。
東舞鶴、西舞鶴、そして中舞鶴はよく耳にしますが、新舞鶴は知りませんでした。調べてみると、簡単に言えば東舞鶴の旧名というべきものでした。城下町である西舞鶴エリアはすでに栄えていましたが、明治になって舞鶴鎮守府ができ、そのために造られた市街地が今で言うところの東舞鶴エリアで、一時期ではあるものの「新舞鶴町」が存在していたのです。
いくら“全国津々浦々”と言っても町や村のレベルにまで設置していなかったであろうと決め込んでいました。それまで市レベルにしかその存在が確認されていなかったからです。
この“全国津々浦々”とは、1995年発行の森下仁丹100周年記念誌にある『当初、大阪、東京、京都、名古屋といった都市からスタートした町名看板はやがて、日本全国津々浦々にまで広がり』に使われているフレーズです。
当ブログでは2015年3月から1年にわたり計9回、「全国津々浦々の考証」と題してこのフレーズについて検証してきました。結果、琺瑯製の仁丹町名表示板は京都市、伏見市、大阪市、奈良市、大津市、八尾市、そして木製では京都市、東京市、大津市に存在していたことを報告しました。当初今ひとつ疑問に思っていた“全国津々浦々”ですが、東京や大津から木製が発見されたことにより、まんざら誇張された表現ではないのかもと信ぴょう性を帯びてきたのです。
ただし、上記の都市はいずれも市です。
また、京都府紀伊郡伏見町が昭和4年に伏見市に昇格するやいなや、「伏見市」なる仁丹町名表示板が設置されたことも、やはり市レベルが条件なのだという思いを強くしました。
しかし、気になります。
絵葉書に残るぐらいならば地元へ行けば何か分かるのではないかと、すぐに舞鶴市郷土資料館へ赴きました。そして、絵葉書や古写真などを拝見するとともに学芸員の方にお聞きしたのですが、残念ながら、町名表示板としての仁丹の情報は皆無でした。
となればもはや当該の絵葉書を入手して確認するしかありません。
それがこれです。
背後が山なので、三条通と大門(おおもん)通との交差点から駅に向かって写しています。仁丹らしきモノ、どこにあるかおわかりでしょうか?
左手前の家屋の2階です。確かに京都の木製仁丹のようなモノが写っています。
その部分をスキャンすると次のようになりました。
現物の絵葉書ならば明確に判読できるものと期待していたのですが、表面の劣化もあってせいぜいこの程度の解像度です。商標の髭のお顔は不鮮明ですが、胴体部分の「仁丹」なる2文字はぎりぎり読み取れそうです。ならばその上のスペースは髭のお顔なのか? そう思って見るとそのようにも見えてきます。「大門通三條」は明らかです。そして、その下は「西入」と「東入」とが並列して書かれているように見えます。
そのようなことで、見れば見るほどに次のようなイメージが出来上がってくるのです。
赤い枠は京都に倣い、商標も京都の木製から貼り付けてみました。
当會のメンバーとも慎重に検討した結果、これはやはり木製の仁丹町名表示板であると認めざるを得ないとの結論に至りました。
絵葉書のキャプションは右下に「(新舞鶴名勝)三條通」、左下に「舞鶴要港司令部検閲済」「舞鶴要塞司令部検閲済」と2行で書かれています。また、絵葉書の裏面は次のようなものでした。
「絵葉書資料館」(https://www.ehagaki.org/)の絵葉書の年代推定方法によると、宛名と通信文のエリアが1/2に区切られ、「郵便はかき」(「郵便はがき」ではない)となっているタイプは大正7年~昭和7年の間とされています。
新舞鶴町の話しに戻ります。
「舞鶴市史 通史編 上」(舞鶴市史編さん委員会1993年)を参考にすると、当該の地域はそもそも京都府加佐郡倉梯(くらはし)村の浜地区という水田地帯だったところで、明治34年に舞鶴鎮守府が開庁、浜地区が大規模な埋め立てで市街地化され、明治37年には鉄道が福知山から延びてきて駅前通りである三条通が商業の中心地になったとあります。
現在、東舞鶴駅から北側、つまり舞鶴湾に向けては通りが京都のように整然と碁盤の目のように配置されています。そして、西から東に順に一条通から九条通が縦に配置されています。京都は横ですが舞鶴は縦なのです。また、横の通りは三笠通、初瀬通、武蔵通などと戦艦の名称になっていることは有名です。浜地区の地盤整備が完成した明治35年にこのように命名されたと先の資料にありました。
その後、市街地として発展した浜地区は、明治39年7月1日に「新舞鶴町」に、昭和13年8月1日に「東舞鶴市」にと昇格していきます。さらにその2年後には、西舞鶴エリアの「舞鶴市」と合併して大きくなった「舞鶴市」の一部となりました。したがって、「新舞鶴町」が存在した期間は明治39年7月1日~昭和13年7月31日までとなり、先ほどの絵葉書の年代推定期間はこの間にすっぽりと収まります。
また、国際日本文化研究センターの所蔵地図データベースにある「新舞鶴市街地圖」(大正11年)では当時の様子を知ることができます。絵葉書の仁丹町名表示板の横にある看板「軍港市街雑貨商の開祖 矢野商店」の店舗も地図で確認できます。家屋がまだまばらだった時代なので、なるほど“開祖”が頷けます。地図の裏面には新舞鶴町の起源も詳しく解説されています。
しかし、月日が経って戦争に突入、昭和20年4月には建物疎開がこの三条通に適用され、東側の家屋がすべて撤去の対象となってしまったのです。「舞鶴市史 通史編 下」には次のような疎開後の写真が掲載されています。
絵葉書と同じ撮影ポイントなのかどうかは分かりませんが、背景が山なのでアングルは同じです。そして東側に建ち並んでいた家屋が一斉に撤去されている無残な様子が写しこまれています。この時、仁丹町名表示板も矢野商店とともに姿を消したことになります。
さらに戦後は都市計画により、三条通がもっと拡幅されました。この時も東側が対象となり、建物疎開で家屋を失った方々は残りの土地まで取られてしまい、その悲痛な声が「舞鶴市史 通史編 下」に紹介されていました。現在、東舞鶴駅を降り立つと、正面に4車線の広い三条通がメインストリートとして延びていますが、このような経過があったというわけです。
ところで、新舞鶴町にも仁丹町名表示板が設置されていたという事実をどう捉えるべきでしょうか? 町レベルとしては初見です。
私たちは京都の辻々にある仁丹町名表示板に興味を持ち、ここまで調べてきました。京都市の場合はその住所表現の特異性から相当濃密度に設置されました。この密度でもって全国津々浦々なんて、とても無理だと思い込んでいました。
でも、町名表示板といっても広告です。何も京都のように律儀に徹底しなくても、広告として効果の高い箇所にのみぽつりぽつりと付けてもいいはずです。それならば全国津々浦々という表現もできたかもしれません。
しかも、木製であれば今なお現役で残っていることは難しいでしょう。仮に残っていても色褪せてただの木片にしか見えないでしょう。また、カメラが普及していない時代です。写真なら絵葉書はありますが、広告物取締法で屋外広告が許されない名勝が中心です。通常の街なかの光景が絵葉書になるなどまずないことでしょう。
つまり、仮に全国津々浦々という表現が許される程度の設置があったとしても、今の私たちが確認することは非常に困難であるということなのです。現物が残っていないから、写真がないから、と言って社史にある“全国津々浦々”を全否定することはできないことに気づきました。
以上のことから、私見ではありますが、新舞鶴町はたとえ町レベルであっても軍港として大いに栄えていたため、広告をする価値大いにありと考えたのではないでしょうか?
この絵葉書は通常の町並みのものではりますが、“司令部検閲済”とあるように機密のエリアではあるものの、新しく出現した市街地として名勝扱いにされたのでしょう。
さらに、京都と同じように通りが碁盤の目になっていることも注目です。京都での実績を持ち込んでということも、“大門通三條 東入 西入”なる表現から連想したりしています。
この界隈の住所は、舞鶴市浜〇〇番地が正式なようですが、店舗のアクセス方法としては京都風に通り名を使っているケースも散見されます。
最後に、舞鶴にあるのであれば、呉や佐世保にもあるのではないか?と誰しも考えるでしょう。舞鶴市郷土資料館でもそのように言われました。そこで、ついでがあったので、呉には訪れて挑戦してみましたが、収穫は残念ながらありませんでした。しかし、だからと言って存在しなかったことにはなりません。社史にあってまだ木製仁丹の存在が確認できていない大阪や名古屋を筆頭に、まだまだ全国津々浦々の時空間の旅が続きそうです。
~shimo-chan~
木製の設置経緯に迫る新聞記事発見!
匂天神町の”かぶせ仁丹”
出現する史料 ~他都市編~
仁丹町名表示板 京都だけなぜ? ~後編~
仁丹町名表示板 京都だけなぜ? ~前編~
全国津々浦々の考証(その9)
匂天神町の”かぶせ仁丹”
出現する史料 ~他都市編~
仁丹町名表示板 京都だけなぜ? ~後編~
仁丹町名表示板 京都だけなぜ? ~前編~
全国津々浦々の考証(その9)
Posted by 京都仁丹樂會 at 18:40│Comments(2)
│基礎研究
この記事へのコメント
まるで時代劇にでも出てきそうなシチュエーションですね。「かつらえいじ」
Posted by guild at 2021年02月28日 23:14
なるほど、まるでオープンセットのようですね。
Posted by 京都仁丹樂會 at 2021年03月01日 08:32