2013年04月16日
梅仁丹ならぬ”梅津仁丹” ~仁丹町名表示板~
今回のテーマは、梅仁丹ならぬ「梅津仁丹」です。
先日、To Mokoさんより寄せられた情報を頼りに、梅津の探索に行ってきました。
そして、ありました! 梅津にも。

現役の仁丹町名表示板は、もう発見し尽したかと思っていた私たち誰もが未発見のもの、しかも梅津エリア自体が初見とあって、京都の仁丹町名表示板の設置範囲をさらに拡大して考えなければならない非常に意義のある大発見となりました。
To Mokoさんの御蔭です。本当にありがとうございました。
先日の日曜、阪急の松尾駅から桂川を渡って梅津へと入りました。

天気も良く散策&仁丹探索日和です。
目指すは梅宮大社の北側にある梅津林口町です。
先ずは散策モードで梅宮大社に立ち寄ります。

山門の上に並んでいるのはお酒の樽です。
対岸の松尾大社と同じく、お酒の神様としても近頃有名になってきています。
山門をくぐると、醸造元より奉納されたのであろう色とりどりの樽酒が積み上げられていました。
松尾大社は全国区の酒が並んでいますが、こちらは京都をはじめとする関西のものが中心のようです。

佐々木酒造さんの「聚楽第」も中央の右に見えます。
そして、社務所の前にはこんなポスターも。

さて、梅津大社界隈、以前から仁丹がありそうな匂いがプンプンしてました。
でも、何度か探索したものの、見つかりませんでした。
東側の鳥居前はこんな感じ、いかにもありそうなのですが・・・

でも、こんな木製看板はあるのです。

薬の木製看板オンパレードです。
薬局を営んでおられたお家なのかもしれませんね。
一番左のものは「明治期の新聞にみる仁丹広告(2)」で紹介された、犬がトレードマークの「晴快丸」の看板です。
ここに森下仁丹が混じっていても不思議ではないのですが・・・
さて、梅宮大社境内の南東に立ち、いよいよ仁丹探索モードに切り替えます。

「左 松尾神社 あらしやま」と刻まれた道標を右へ、つまり北へと「千代の古道」を入っていきます。
そして、梅津林口町に入ってすぐ、仁丹町名表示板に対面することができました。
あっさり見つけられたのは、それまでに、居ても立っても居られなかった滋さんや酒瓮斎さんから事前に情報をもらっていたからです。

上の写真の赤い矢印のところです。

2009年12月撮影のストリートビューでは町内会の掲示板に取り付けられているものの、掲示物などでほとんど隠れていた様子が写っています。
それが今回、目立つように設置し直されたというわけでしょう。
おそらくは設置家屋がなくなってしまい、以後この掲示板にやってきたのでしょうが、そのこと自体が町内のもの、町内として管理すべきものと言う気持ちが働いていることが読み取れます。
そしてそれは、今も変わらないわけです。
ちょうど滋さんが訪れた時は、ご近所の方が集まっておられたので、「大切にしてくださいね」とその貴重さを説き、ローラー作戦用のリーフレットを手渡すなどの保全活動もされました。
さて、ここからは研究モードです。
今回のこの「梅津林口町」の仁丹から何が読み取れるでしょうか。
行政区の表記は、他の右京区のものと同様、「右京区」でした。
右京区は今もあり、表記のうえではその貴重さは伝えにくいのですが、私たちは右京区が誕生したロクヨンイチすなわち昭和6年4月1日直後に設置されたと考えています。
ですから、80年も経っているはずなのです。
それでは、当時の梅宮大社界隈はどのような状況だったのでしょうか?
昭和10年修正測図の次の京都市都市計画地図で、当時の様子を推測することができます。

この地図の赤い星印が今回発見されたポイントです。
画面からはいささか見にくいでしょうが、ちょうど梅津林口町、徳丸町、前田町、フケノ川町が接する町界に当たる箇所なのです。
仁丹町名表示板は、ここからは〇〇町だよと町界に設置されることが多いのですが、ただ当時は設置されるべき家屋がほとんどなかったことが地図から読み取れます。
おそらくは、この星印の右側にあった家屋に設置されていたのではないでしょうか。
現在は比較的新しいアパートになっています。
もしかすると、1軒でも家があれば設置していったのでしょうか。
となると、梅宮大社の門前に位置する前田町にもあったでしょうし、さらには千代の古道を北へ進むとある嵯峨野高田町にだってきっとあったはずです。

上の写真はその高田町の集落です。
歴史は相当古いらしく、立派な重厚なお屋敷が集まっており、きっとあるはずだと今まで2度、3度探索していましたが成果は上げられませんでした。
でも、今回の梅津の発見で、かつてはあったはずだと確信を持つに至りました。
きっと、この公民館的な家屋に設置されていたのではと思えてなりません。


今までに右京区で確認できた仁丹町名表示板は次のとおりです。
太秦多藪町 1枚
嵯峨野神ノ木町 1枚
嵯峨野秋街道町 2枚
花園八ツ口町 1枚
このうち太秦と嵯峨野エリアの仁丹設置ポイントを、同じく昭和10年修正測図の京都市都市計画図に落とすと次のようになります。

今で言う大映通商店街では北側にしか家がなく、三条通にしてもまばらです。
神ノ木町に至っては町内に家が数棟しかないことが分かります。
以上のことから、ヨンヨンイチすなわち昭和4年4月1日以前の上京・下京2区時代に旧市街地の設置を精力的に終えた森下仁丹は、ロクヨンイチすなわち昭和6年4月1日に京都市へ編入された旧町村に対しても精力的に設置していったことが窺えます。
家がたくさん建っているかどうかではなく、たとえ1軒でも新たな町名であれば設置していったのではないのでしょうか。
町名表示板の設置は”広告益世”として説明されていますが、確かに町名の表示があったら良いに決まっていますが、広告ができるという立場からは隙あらばで設置していった、そんな意気込みが感じられます。
そう考えると、『家が1軒でもある町名には仁丹町名表示板が設置された』と言えるのかもしれませんし、逆に設置されたであろう町名を当時の都市計画地図からある程度読み取れるのかもしれません。
さらには、桂川を渡ったら、東山を超えたら、もう仁丹はないと考えていた”通説”のようなものも怪しげに思えてきました。松尾や桂、そして山科も同じロクヨンイチ組であり、桂川や東山を超えたら設置しなくてもよいなんていう理由はないでしょう。
まして、西京極、西院、吉祥院、深草などにも同様にあったと考えた方が自然なのかもしれません。
今まで見つかっていないから、単に設置されなかったと思い込んでいるだけなのかもしれませんね。これを証明するのは古写真を丹念に見るしかなさそうです。
今回の梅津林口町の発見は、そこまで考えさせてくれました。
先日、To Mokoさんより寄せられた情報を頼りに、梅津の探索に行ってきました。
そして、ありました! 梅津にも。

現役の仁丹町名表示板は、もう発見し尽したかと思っていた私たち誰もが未発見のもの、しかも梅津エリア自体が初見とあって、京都の仁丹町名表示板の設置範囲をさらに拡大して考えなければならない非常に意義のある大発見となりました。
To Mokoさんの御蔭です。本当にありがとうございました。
※ ※ ※
先日の日曜、阪急の松尾駅から桂川を渡って梅津へと入りました。

天気も良く散策&仁丹探索日和です。
目指すは梅宮大社の北側にある梅津林口町です。
先ずは散策モードで梅宮大社に立ち寄ります。

山門の上に並んでいるのはお酒の樽です。
対岸の松尾大社と同じく、お酒の神様としても近頃有名になってきています。
山門をくぐると、醸造元より奉納されたのであろう色とりどりの樽酒が積み上げられていました。
松尾大社は全国区の酒が並んでいますが、こちらは京都をはじめとする関西のものが中心のようです。

佐々木酒造さんの「聚楽第」も中央の右に見えます。
そして、社務所の前にはこんなポスターも。

※ ※ ※
さて、梅津大社界隈、以前から仁丹がありそうな匂いがプンプンしてました。
でも、何度か探索したものの、見つかりませんでした。
東側の鳥居前はこんな感じ、いかにもありそうなのですが・・・

でも、こんな木製看板はあるのです。

薬の木製看板オンパレードです。
薬局を営んでおられたお家なのかもしれませんね。
一番左のものは「明治期の新聞にみる仁丹広告(2)」で紹介された、犬がトレードマークの「晴快丸」の看板です。
ここに森下仁丹が混じっていても不思議ではないのですが・・・
※ ※ ※
さて、梅宮大社境内の南東に立ち、いよいよ仁丹探索モードに切り替えます。

「左 松尾神社 あらしやま」と刻まれた道標を右へ、つまり北へと「千代の古道」を入っていきます。
そして、梅津林口町に入ってすぐ、仁丹町名表示板に対面することができました。
あっさり見つけられたのは、それまでに、居ても立っても居られなかった滋さんや酒瓮斎さんから事前に情報をもらっていたからです。

上の写真の赤い矢印のところです。

2009年12月撮影のストリートビューでは町内会の掲示板に取り付けられているものの、掲示物などでほとんど隠れていた様子が写っています。
それが今回、目立つように設置し直されたというわけでしょう。
おそらくは設置家屋がなくなってしまい、以後この掲示板にやってきたのでしょうが、そのこと自体が町内のもの、町内として管理すべきものと言う気持ちが働いていることが読み取れます。
そしてそれは、今も変わらないわけです。
ちょうど滋さんが訪れた時は、ご近所の方が集まっておられたので、「大切にしてくださいね」とその貴重さを説き、ローラー作戦用のリーフレットを手渡すなどの保全活動もされました。
※ ※ ※
さて、ここからは研究モードです。
今回のこの「梅津林口町」の仁丹から何が読み取れるでしょうか。
行政区の表記は、他の右京区のものと同様、「右京区」でした。
右京区は今もあり、表記のうえではその貴重さは伝えにくいのですが、私たちは右京区が誕生したロクヨンイチすなわち昭和6年4月1日直後に設置されたと考えています。
ですから、80年も経っているはずなのです。
それでは、当時の梅宮大社界隈はどのような状況だったのでしょうか?
昭和10年修正測図の次の京都市都市計画地図で、当時の様子を推測することができます。

~昭和10年 京都市都市計画地図 「西梅津」より~
この地図の赤い星印が今回発見されたポイントです。
画面からはいささか見にくいでしょうが、ちょうど梅津林口町、徳丸町、前田町、フケノ川町が接する町界に当たる箇所なのです。
仁丹町名表示板は、ここからは〇〇町だよと町界に設置されることが多いのですが、ただ当時は設置されるべき家屋がほとんどなかったことが地図から読み取れます。
おそらくは、この星印の右側にあった家屋に設置されていたのではないでしょうか。
現在は比較的新しいアパートになっています。
もしかすると、1軒でも家があれば設置していったのでしょうか。
となると、梅宮大社の門前に位置する前田町にもあったでしょうし、さらには千代の古道を北へ進むとある嵯峨野高田町にだってきっとあったはずです。

上の写真はその高田町の集落です。
歴史は相当古いらしく、立派な重厚なお屋敷が集まっており、きっとあるはずだと今まで2度、3度探索していましたが成果は上げられませんでした。
でも、今回の梅津の発見で、かつてはあったはずだと確信を持つに至りました。
きっと、この公民館的な家屋に設置されていたのではと思えてなりません。


※ ※ ※
今までに右京区で確認できた仁丹町名表示板は次のとおりです。
太秦多藪町 1枚
嵯峨野神ノ木町 1枚
嵯峨野秋街道町 2枚
花園八ツ口町 1枚
このうち太秦と嵯峨野エリアの仁丹設置ポイントを、同じく昭和10年修正測図の京都市都市計画図に落とすと次のようになります。

~昭和10年 京都市都市計画地図 「花園」「嵯峨」より~
今で言う大映通商店街では北側にしか家がなく、三条通にしてもまばらです。
神ノ木町に至っては町内に家が数棟しかないことが分かります。
※ ※ ※
以上のことから、ヨンヨンイチすなわち昭和4年4月1日以前の上京・下京2区時代に旧市街地の設置を精力的に終えた森下仁丹は、ロクヨンイチすなわち昭和6年4月1日に京都市へ編入された旧町村に対しても精力的に設置していったことが窺えます。
家がたくさん建っているかどうかではなく、たとえ1軒でも新たな町名であれば設置していったのではないのでしょうか。
町名表示板の設置は”広告益世”として説明されていますが、確かに町名の表示があったら良いに決まっていますが、広告ができるという立場からは隙あらばで設置していった、そんな意気込みが感じられます。
そう考えると、『家が1軒でもある町名には仁丹町名表示板が設置された』と言えるのかもしれませんし、逆に設置されたであろう町名を当時の都市計画地図からある程度読み取れるのかもしれません。
さらには、桂川を渡ったら、東山を超えたら、もう仁丹はないと考えていた”通説”のようなものも怪しげに思えてきました。松尾や桂、そして山科も同じロクヨンイチ組であり、桂川や東山を超えたら設置しなくてもよいなんていう理由はないでしょう。
まして、西京極、西院、吉祥院、深草などにも同様にあったと考えた方が自然なのかもしれません。
今まで見つかっていないから、単に設置されなかったと思い込んでいるだけなのかもしれませんね。これを証明するのは古写真を丹念に見るしかなさそうです。
今回の梅津林口町の発見は、そこまで考えさせてくれました。
~京都仁丹樂會 shimo-chan~
Posted by 京都仁丹樂會 at 21:55│Comments(10)
│トピックニュース
この記事へのコメント
皆様、お久しぶりです。
To Mokoさん、初めまして。まっちゃです。
梅津地域に仁丹があったとは驚きました。
右京区の場合、既出の4枚だけしか残っていないという先入観がありましたので探索の範囲外でした。
しかし、今回の梅津林口町の発見でもう一度、探索の範囲を考えなければならない状況になってしまいました。
嵯峨野地域に3枚確認されていますので、1枚しか確認されていない太秦、花園、梅津の3地域でも他に残っているかもしれませんね。
ちなみに、私は梅津林口町の仁丹をまだ拝見出来ていませんので、時間がとれ次第拝見に行く予定です。
To Mokoさん、初めまして。まっちゃです。
梅津地域に仁丹があったとは驚きました。
右京区の場合、既出の4枚だけしか残っていないという先入観がありましたので探索の範囲外でした。
しかし、今回の梅津林口町の発見でもう一度、探索の範囲を考えなければならない状況になってしまいました。
嵯峨野地域に3枚確認されていますので、1枚しか確認されていない太秦、花園、梅津の3地域でも他に残っているかもしれませんね。
ちなみに、私は梅津林口町の仁丹をまだ拝見出来ていませんので、時間がとれ次第拝見に行く予定です。
Posted by まっちゃ at 2013年04月16日 22:26
すごい発見ですね。北区も北大路以北(上賀茂・小山・紫竹・紫野・大宮)の再探索が必要かもしれませんね。
Posted by 夏目ソージキ at 2013年04月20日 11:42
まっちゃさん、夏目ソージキさん、お久しぶりです。
そして、コメントありがとうございました。
今回の梅津の発見は何と言ってもTo Mokoさんのおかげなのですが、
今までのように単に未発見のをもう1枚見つけたというレベルのものではなく、
探索範囲をうんと広げないといけないということを知らしめる大きな1枚となりましたね。
もうこうなれば、上賀茂にも北白川にもきっとあったはずと確信してしまいます。
でも、現役のものを見つけるとなると徒労に終わるような気がします。
これは弱音ですね。
見つかるはずがないと思って探すのと、あるはずだと思って探すのとでは違うかもしれません。
そして、コメントありがとうございました。
今回の梅津の発見は何と言ってもTo Mokoさんのおかげなのですが、
今までのように単に未発見のをもう1枚見つけたというレベルのものではなく、
探索範囲をうんと広げないといけないということを知らしめる大きな1枚となりましたね。
もうこうなれば、上賀茂にも北白川にもきっとあったはずと確信してしまいます。
でも、現役のものを見つけるとなると徒労に終わるような気がします。
これは弱音ですね。
見つかるはずがないと思って探すのと、あるはずだと思って探すのとでは違うかもしれません。
Posted by shimo-chan at 2013年04月21日 09:22
shimo-chan様、一番下の写真を見て思いついたのですが、藤井大丸の看板って仁丹がありそうなところにやたら多いですね。
これはなんの根拠もない邪推になりますが、郵便番号制度発足時に、藤井大丸が仁丹看板の上に郵便番号付きの看板を取り付けた可能性はないでしょうか?(仁丹看板が取り外されたか、あるいは重ね打ちされたか?)
これはなんの根拠もない邪推になりますが、郵便番号制度発足時に、藤井大丸が仁丹看板の上に郵便番号付きの看板を取り付けた可能性はないでしょうか?(仁丹看板が取り外されたか、あるいは重ね打ちされたか?)
Posted by 夏目ソージキ at 2013年04月21日 10:54
夏目ソージキ様
>藤井大丸の看板って仁丹がありそうなところにやたら多いですね。
はい、そのとおりなのです。
町名表示板の必要なポイントというのは、昔も今も同じなのでしょうね。
私たちのメンバーの中には、仁丹町名表示板を知るために、藤井大丸を代表とする他の町名表示板のことも調べなくてはいけないと常々力説しておられる方もいます。
まさに様々な角度から見つめてみようと、新たな動きが生まれつつあります。
>藤井大丸の看板って仁丹がありそうなところにやたら多いですね。
はい、そのとおりなのです。
町名表示板の必要なポイントというのは、昔も今も同じなのでしょうね。
私たちのメンバーの中には、仁丹町名表示板を知るために、藤井大丸を代表とする他の町名表示板のことも調べなくてはいけないと常々力説しておられる方もいます。
まさに様々な角度から見つめてみようと、新たな動きが生まれつつあります。
Posted by shimo-chan at 2013年04月21日 21:40
Shimo-chanさんの仰ったように、あるはずがないと思って探すのと、あるはずだと思って探すのでは全然違います。
あるはずがないと思って探すと以外と見つかるもんですね。
反対にあるはずだと思って探すと見つかりません。
これって、私だけでしょうか?
あるはずがないと思って探すと以外と見つかるもんですね。
反対にあるはずだと思って探すと見つかりません。
これって、私だけでしょうか?
Posted by まっちゃ at 2013年04月21日 23:17
快晴丸で清快ですか?
Posted by じんじん at 2013年04月26日 21:27
>快晴丸で清快ですか?
じんじんさん、ご指摘ありがとうございます。
ミステイクでした。
「快晴丸」とあったのを「清快丸」と訂正させていただきました。
じんじんさん、ご指摘ありがとうございます。
ミステイクでした。
「快晴丸」とあったのを「清快丸」と訂正させていただきました。
Posted by shimo-chan at 2013年04月26日 22:47
皆様、お久しぶりです。
先日、ようやく「右京區 梅津林口町」の仁丹を拝見しに行きました。
その際、林口町周辺も探しましたが発見には至りませんでした。
この仁丹は梅津地域で奇跡的に生き残った仁丹なのでしょうね。
この仁丹の発見によって最西端の記録更新ですね。
一体、どこまで設置されていたんでしょうね?謎が深まるばかりです・・・。
先日、ようやく「右京區 梅津林口町」の仁丹を拝見しに行きました。
その際、林口町周辺も探しましたが発見には至りませんでした。
この仁丹は梅津地域で奇跡的に生き残った仁丹なのでしょうね。
この仁丹の発見によって最西端の記録更新ですね。
一体、どこまで設置されていたんでしょうね?謎が深まるばかりです・・・。
Posted by まっちゃ at 2013年05月09日 03:31
誠に残念です。
この梅津林口町の仁丹、姿を消していることを昨日確認しました。
盗難を恐れての埋蔵化ならばまだ救われるのですが。
この梅津林口町の仁丹、姿を消していることを昨日確認しました。
盗難を恐れての埋蔵化ならばまだ救われるのですが。
Posted by shimo-chan at 2015年03月01日 12:24